江戸時代に3Dで制作された曼荼羅

駅員3

笠付円盤型石仏

 立山で一週間ほど野営した後、人里に降りてくると、ジープを駆って乗鞍へと向かった。当初は山越えの林道を走るつもりだったが、大雨洪水警報が出ていて時折篠突く雨が降っていたので、林道を走っての山越えは自重した。富山市内まで降りてくると、幹線道路から外れて田んぼの真ん中の道を走っていると、突然目に飛び込んできたものは・・・「はぁ、なんだこれ!!!!????」


 すかさず後続車のいないことを確認すると車を路肩に止めた。過ぎ去った景色を振り返ると・・・・「な、な、なんとこんなもの見たこと無い!!」


 思わずカメラを握り締めると車を降りて、駆け寄った。空はどんより曇り空であるが、幸い雨は止んでいた。

 緑青々と稲が茂る田んぼを背後に背負い、道端に縦横1m四方、高さ60cmほどの石製の台座がある。その台座の下部には四角で雲のレリーフがあしらわれ、その上に直径が80cm、厚さ20cm程度の大きな円盤が縦に直立している。表側は丸くくり抜かれ観音菩薩像が彫られていて、円盤の縁の部分には梵字が刻まれている。裏に回ると達筆な草書体で数行の文字が刻まれていた。

 そして、何よりも奇抜な印象を与えているのが、垂直に立った円盤状の石の上に傘をさすように長さ1mはある大きな平たい石が載っているのである。笠の部分が乗っているだけなのか、はたまた漆喰などで固定されているのかは、目視した限りでは判らなかった。あるいは石の接合部を凸と凹に彫ってかみ合わせている可能性も否定できない。

 裏側に刻まれた文字は読んでいる時間が無く、写真に撮って後から読めばいいと思ったのだが、帰宅後写真を確認すると残念ながら判読できなかった。


 車に戻って発進させると、数百メートルも走らないうちに、再び先ほどの不思議な石仏と双子のような石仏が前方右手に見えてきた。やはりこれは車を止めざるを得ない。

 最初に発見した笠付の石仏と、その先で次に発見した笠付の石仏を比較してみると、下部の雲のレリーフが描かれている部分の形が多少違うものの、大きさといい菩薩の表情といい、瓜二つである。

 東京に戻って早速調べてみると、これらの仏像は江戸時代末期の馬瀬口村(富山市近郊)に暮らした石工 中川甚右衛門の作であることが判明した。

 最初に見かけたものが、1847年(弘化4年)に作られた如意輪観音像で、後から見かけたものが、1848年(嘉永元年)に作られた不空羂索観音像である。

 この独特な形をした石仏を、石仏研究家の歳滝本靖士氏は『笠付円盤型』と名づけた。甚右衛門の製作した仏像は1700年代後半のものから残っているが、笠付円盤型の石仏は、1823年(文政6年)に製作されたものが現存するものの中で最古である。その石仏は、富山市内にある文殊寺に現存するという。


 笠付円盤型石仏は、川の自然石を割って、片方をほぼ自然の状態で笠にして、もう片方を円形に掘り出し、中心に石仏を彫り込んで造られたといわれている。

 いずれの石仏にも、円形部分の正面の縁には凡字が彫られている。これは光明真言曼荼羅を、今風に言うならば「3Dで表現した」ものだ。

 中心部に彫られた仏像は、このほか地蔵菩薩、馬頭観音菩薩などがあり、地蔵には「地蔵真言」の凡字が、馬頭観音には「馬頭観音真言」の凡字が彫られているという。


 甚右衛門は、自分の作品の多くに名前を残していて、富山市内を中心に笠付円盤型石仏の他、通常の舟形光背の仏像や宝篋印塔、庚申塔など数十体は現存しているようである。いずれ機会を見つけて一つひとつ訪ね歩いてみたい。


 最初の笠付円盤型石仏は、その場所に一体のみ安置されていたが、二度目に見かけた笠付円盤型石仏のある場所には、他にも興味深い石仏が数体安置されていた。

 中心にある幅一間ほどの小ぶりな社を挟んで左側に笠付円盤型石仏があり、右側には石仏が4体、石製の祠が1体、石標が1体並んでいる。そしてさらにその右に高さ1mほどの朱塗りの木製の小さな社がある。

 中心の社を覗くと、左右両側にそれぞれ2体の石仏を従えた阿弥陀如来が金色に輝いていた。飾られた花はドライフラワーになってしまっているが、周辺含めて手入れが行き届き、しっかり維持管理されているようである。何故このような立派な阿弥陀如来がお寺さんではなく、このような街角の社に祭られているのかは疑問である。


 中心の社のすぐ右にある石仏は、高さ1mほどの卵型の石塊の中心部を円形にくりぬき、僧侶の坐像が彫りぬかれている。顔の部分が違う材料で作られているようであり、首に接いだ跡があることから、一度風化で頭が落ちてしまったものを修復したのかもしれない。


 その右2体は、舟形光背の立像に石製の円柱の厨子が被せられている。円柱の厨子の表面の風化は著しいものの、中の石仏はそれほどでもないのは、風雪から厨子に守られてきたからだろうか。


 一番右手にある仏像と石標は、真新しい御影石の石板で厨子が組まれている。仏像は、これも卵型の石に中心部を丸くくりぬき、青面金剛が彫られている。青面金剛は『邪鬼』を踏みつける形で表現されることが多いが、ここでも2人の邪鬼が青面金剛に踏みつけられている。この青面金剛は、インド仏教に由来する物ではなく、中国発生の道教の考えを受けて日本で生まれた明王である。


 さらに一番右端にある朱塗りの社を覗くと、扉には鉄格子がはめられ、その中には2体の石仏が祀られている。なんと一体は顔と身体に金箔が貼られている。


 これらの仏像は、明らかに笠付円盤型石仏とは時代も作風が異なるため、別の石工の手によるものだろう。

  笠付円盤型石仏といい、石製の石柱状の厨子といい、岩に仏像を守るかのように彫り込まれたものといい、ここ雪深い富山の厳しい冬から、仏像の風化を防ぐために造られたものだろうか。

 ・・・多くの謎を抱えたまま、一路乗鞍へと車を発進させた。

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江戸時代に3Dで制作された曼荼羅 駅員3 @kotarobs

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