二年生初秋:甘い香

「なぁ父さん」


 突然伯母が亡くなった日。

 葬式の準備やらをしている最中、それは薫った。


「どうした涼也。疲れたか?」

「いや、そうじゃなくて……伯母さん、何か甘い香りがしないか?」


 通夜やら葬儀やらの準備で忙しく動き回っている父を捕まえて、気になったことを話せば、父は少し考えるような素振りを見せた。


「確かに……甘い香りがするな」

「だよなぁ。化粧の匂いか、でもこんなに甘い香りなんてするっけ……」

「親戚の子供が菓子でも食べた匂いだろ。それより涼也。お前これから働いて貰う予定だから少し休んでても良いぞ」

「いや、こんなに忙しかったら落ち着かないよ」


 「そりゃそうか」と父は苦く笑い、また忙しなく電話やら段取りやらの話し合いに行ってしまった。

 俺は手持ちぶさたに横たわる伯母を見やる。

 綺麗な死に顔だ。

 大きな病気もしなかった伯母の急死には驚いたが、こんなにも穏やかな顔をしているならば、きっと天国に行くのだろう。

 知り合いの神社の娘曰く、「天国なんて神道からしたら幻想ですけどねー」だそうだが。

 願うだけなら良いだろう。


「伯母さん。お疲れさま」


**


 夜になり、通夜が終わる。

 俺は線香を立てて蝋燭の減り具合を見ていた。

 一晩中線香を絶やすことのない通夜の席では酒を飲んだり、話に夢中になったりする親戚が揃っている。

 その席にまだ学生の自分が居るのは場違いかも知れないが、伯母には小さな頃から面倒を見て貰っていた。

 そのせめてもの恩返しになればと思い、通夜の寝ずの番を請け負ったのだ。

 伯母からは相変わらず甘い香りが漂っている。

 化粧のせいだとは思えない程に強く香るその匂いは、噎せ返るように部屋の中を漂っている気さえした。


(やっぱ……可笑しいよな……)


 こんな時に頼りになる知り合いは……居る。が、時間は深夜二時。

 知り合いからは何かあったらいつでも連絡を寄越せと言われているが、どうしたものか。

 考えている間にも、甘い香りは更に強くなっていく気がした。

 俺はこれは化粧のせいでも菓子のせいでもないと確信して、たまらずスマホから「か行」を探し出すと電話を掛けた。

 数コールの後に「何かありましたかー?」と寝惚けたような声が鼓膜を揺らした。


「悪いな、こんな時間に……」

『良いですよー。先輩がこんな時間に電話を掛けてくるってことは、何かあったんですよねー?』

「あ、ああ。何かっていうか……俺の気のせいかも知れないんだが……」

『はいはい。夜は短いんですから、さっさと話してくださーい』


 少しだけいつもより棘が含まれているような気がするのは、安眠を妨害したからだろうか?

 まあ、それは今度会った時に謝ればいいかと一旦置いておいて。

 俺は疑問に思ったことを神山に話した。


『……先輩』

「なんだ?」


 話を聞き終わった神山は、声を潜めて俺を呼ぶ。


『ちょっと私が行くまで、絶対に火を絶やさないでおいてくださいね』

「私が行くまで、って……こんな時間に来る気か!?」

『ことは一刻を争います』


 いつになく固い神山の声音に、ごくり、と唾を飲み込んだ。

 鼻に香る甘い香りが、伯母を包むように殊更強くなった。


 神山は本当にすぐに来た。

 電話を切ってから10分も経たなかったのではないだろうか?

 どうやって来たんだと、巫女装束で身を包んだ神山に聞いたら「企業秘密です」と微笑まれた。


「涼也、その子誰だ?」


 神山を伯母の家にあげると、神山は嫌そうに顔を歪めた。

 けれど赤ら顔の父が顔を出すと、真顔になって、「涼也さんの後輩の神山と申します。この度は御愁傷様でした」と囁くような声で言う。

 どうも、と訝しげに神山を見やる父。


「あー、えっと。伯母さんの知り合いだったんだよ! どうしても葬式には出られないから通夜に出て顔を見たいって言って」


 神山は怪しくないと父にアピールすれば、酔って思考能力が落ちている父は、そうか、そうか、と笑って、まあ、ゆっくりしていってと談笑中の輪に戻っていった。


「父さんが酔ってて良かったよ」

「そうですねぇ」


 さて、と神山を伯母の居る部屋へと案内する。

 先程よりも更に、更に、強くなった匂いは、もはや害にしか感じない。

 神山は静かに懐から香炉を取り出すと、更に静かな声で言った。


「この甘い匂いが無くなるまで、これを焚きます。先輩はあまり近付かないように」

「それは…?」

「私の友人が調合した、この甘い香を放っている現況を祓うモノです」


 ささ、先輩は憑かれやすいんですからあちらの輪に。

 ああ、これも口に含んでください。

 そう言って渡された水筒の水?に口をつけた。

 あまりに苦くてすぐさま吐き出しそうになったのを、堪えてくださいという神山の声で必死に堪え、飲み込んだ。

 すると、先程まで異臭にすら感じていた甘い匂いが、軽くなった気がする。


「これ、なんだ…?」

「御神酒です」

「御神酒って、酒じゃねぇか。俺、未成年なんだけど…」

「非常事態にごちゃごちゃ言わないでくださいー」


 神山は香炉を伯母の顔近く、枕元に置くと、懐から札を取り出し部屋の四隅に貼った。


「これで、消える以外の道はありませんよ」


 誰かに話し掛けるように言ったその言葉に首を傾げつつ、もう出来ることはありませんからー、と神山が部屋を出る。

 俺も釣られるように部屋を出た。


 そのあとは香炉の中身が消えるまで、時々神山が蝋燭に火を付けに行く以外は、俺が伯母の居る部屋に入ることはなかった。


**


「結局、あの甘い匂いはなくなったけど、なんだったんだ?」


 後日、葬儀も何もかもが終わって、挨拶ついでに神山神社の掃除を手伝っている時に、ずっと疑問に思っていたことを聞いてみた。


「ああ」


 神山は箒を持つ手を止めずに笑う。


「化粧もしていない。にも関わらず甘い香りを纏うご遺体には、居るんですよ」

「居る?」

「はい。ナニか。そこに居てはいけないナニかが」


 うっそりと微笑んだ神山にぞくりと背筋が寒くなる。


「じゃああのとき…」

「確かに、居ました。と、言っても。あの方を深く深く愛した、ヒトではないナニかだったので、先輩には害はなかったかも知れませんが……」


 あの場に異性が一人で居たら、何をされていたか分からなかったですね。


「……神山に連絡入れて良かったわ……」


 箒の柄の上に両手を置いて、その上に凭れるように頬を付けながらそう言ったら、そうですよー、感謝してくださいね! お礼はチョコレートで良いですよ! と手を振られた。

 いや、だからお前、どんだけチョコレート好きなんだよ……。

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