雪の中

 此処はどこだろう?

 私は考える。考えて、あ、今物凄くチョコレートが食べたいなぁ、なんて思考に至った私の口端からは涎が垂れてきた。

 そう言えば……誰かとパフェを食べる約束をしていた気がするけれど、それは一体誰だったっけ?

 とても大事な約束で、とても幸せな約束だった気がするのだけれども。

 ――分からない。この真っ暗な暗闇の中では、何も見えないから。

 私はどうしてこんなところに居るんだっけ?

 なんだかすべてがどうでも良くなってきたなぁ。

 そんなことを考えていたら、突然しんしんと雪が降る音が聞こえてきた。


『……っう、うぅ……』


 誰かが泣いている声が聞こえてくる。

 泣いている声の発生源を見ようと顔を動かせば、そのヒトを見付けた。

 そこだけ異様に明るくて、なのに何処か物悲しくて。

 私は近付いて「どうして泣いてるんです?」と問う。

 何故だかそう言わなくてはいけない気がしたから。

 そのヒトは顔を上げる。綺麗な女のヒトだった。

 コートを身に纏った、長い黒髪の女のヒトは私に向かって話し掛けます。


『あなた、わたしが視えるの?』


「はぁ、視えますけど」


この言い方だと、このヒトが『普通の人』には視えないナニかであり、此処に連れて来た張本人かと納得する。


『あなたも……見える?』


「何に見えると言うのですか?」


 こういうモノの問い掛けには軽率に頷いてはいけない。

 私は慎重に女のヒトを見て、首を傾げてみせた。

 女のヒトは哀し気に眉を寄せて、口を開いた。


『……わたしのこと、可哀想に……見える?』


「可哀想? 何故ですか?」


『だってわたし、あの人に貰った指輪を無くしてしまった。だからあの人は私を見限って、他の女の元に行ってしまった……』


「それはそれは、災難でしたね」


 正直、私にとってはどうでも良い話極まりない。

 けれども此処には何もないから。彼女の話を聞くしかない。

 グスグスと泣く彼女に、私は制服のブレザーの内ポケットに入っていたハンカチを取り出した。

正確には取り出そうとした。取り出せなかったのは、頭がぐわんと唐突に揺れたからだ。


「な、に……?」


『嗚呼、来てしまったのね。坊や……』


「坊、や?」


 そのフレーズに何だか覚えがあった。

 何だったかなぁ。もう少しで思い出せそうなのだけれども。


「……、ま……っ」


「……誰ですか?」


 目の前に現れたのは、茶髪の青年。綺麗な瞳だ。真っ直ぐ前を見続ける、夢を追う人の……綺麗な……ああ、私。


――この綺麗な瞳を、知っている?


「み、ま……かみ、ま……! ……神山!」


 少年と青年の狭間に居るような彼が何かを喋る度に頭の中の靄のようなものが晴れて行く。

 そうして最後の一言を、私の名前を呼ばれた瞬間、パァンと視界が徐々に開けて行く感覚がした。


「……せんぱい?」


 恐る恐るそう呟いた。

 その人は今にも泣きそうな顔をしながら近付いてくる。


「神山! 良かった! 良かった! 無事で良かった……!」


 先輩は泣き出しそうな情けない顔で、そのまま私を抱き締めた。

 ……抱き締めた? え、なんで?

 先輩のあたたかい体温を制服越しに感じて、私は戸惑うしか出来ない。

 こんなことするキャラでしたっけ?


『坊や、来ちゃったのね……』


「ああ、お前のお陰でな」


『ふ、ふふ……坊やが、わたしを憐れまなければ……この娘、死ななくて済んだのに、ね?』


「殺させねぇし、死なせねぇよ」


 俺は、とそこで先輩は私を見て涙で滲んだ澄んだ瞳を私に向けながら、ニカリと笑った。

 あのびびりでどうしようもない程に情けなくて、そんなところが可愛い先輩が。幽霊に対面しながらにこやかに笑っている。

 一瞬、本物なのか分からなくなった。もしかしたら偽物で、騙されているのかもしれないと。

 けれども、気配で分かる。

 ああ、この人は――私の大好きな先輩なのだと。


『死ぬ、わよ。坊やがわたしのこと哀れんだせいで……ふふふ……』


「死なせねぇって言ってるだろ」


 何故なら俺は、


「神山が、好きだから」


 だから死なせない。殺させない。こんなところで独りぼっちにもさせない。


「へ?」


 私を抱き締めたままそう言い放った先輩に、私は思わず変な顔をして、変な声を出してしまった。

 私は今、この空間によって起きた幻聴か何かを聞いたのだろうか?

 夢にしてはあまりにも都合が良すぎるし、現実にしてはあまりに嘘くさい。

 この人は本当に先輩なのか、と失礼極まりないことを思ってしまう。


『坊や……その娘が……大事なの……?』


「そりゃあな。仮にも好きな女なんで」


「先輩、先輩」


「ん? なんだ、神山」


 嫌に柔らかい声と顔を向けられた。本当に私のことが好きみたいな顔と声音だ。頬が熱くなる。

 これが先輩の嘘でも、ただの私の妄想でも幻聴でも良い。

 ただこの時が、止まればいいのにと思って、あ、と思い出す。


「先輩、それは良いとして。此処から出ないと私は先輩とあんなことやこんなことが出来ません」


「お前はこんなところでも通常運転だなぁ……」


「まあ、困ったことに突然の事態には慣れていますので……」


 なはは、なんて笑いながら頭を掻く。


「それで、先輩。どうやって此処から出るつもりですか?」


「分からん」


「はい?」


 きょとん、と目を丸くした。先輩は此処から出られる方法を知っているから来たのではないのだろうか。

いや、いや。そもそも先輩はどうやって此処に来たのだろうか。

 そんな疑問に答えるように先輩は口を開いた。


「大和様が俺を此処に連れて来てくれた」


「……あの方が……」


「そうだよ。『力を貸してやる』そう言ったあの神様とやらに触れられた瞬間、此処に居た」


「……打開策がまったくないじゃないですかぁ!」


「そう言われてもなぁ……」


 言い合いをしていれば、冷たい気配を感じた。

 ビクッと肩が震える。本能が此処に居ては危険だと警告を伝えて来る。頭の中で警鐘が鳴る。


「はあ、まったく。久し振りに先輩を見た気分だと言うのに、貴女は私の邪魔をするのですか?」


「そりゃ久し振りだろうな。お前は一カ月も昏睡状態なんだから」


「え、やだ。一カ月分もチョコレート食べ逃してるんですか?」


「そこかよ!」


 漫才のような言い合いをしながらも、私は警戒をする。


『仲良いのね……折角、坊やを不幸にしてあげるって言ったのに』


 女のヒトはそこで切り、にんまりと笑って言った。


『折角、呪いをかけてあげたのに』


 真っ黒いまなこ。暗闇のようなソレは何も映してはいない。何も。己の本来の目的さえも。


「呪いをかけられても、何度も何度も、私が助けます。私が先輩を守ります」


「俺は守られるだけの男に、もうなるつもりはねぇよ」


 拗ねたような口調の先輩に、私は微かに笑って。

 前を見据えて、女を見た。


『不幸にするの……みんな、みんな……。不幸にするの……』


「貴女は、指輪を失くしたから好きな方が離れて行ったと言いましたね」


 でも、違うのですよ。貴女は捨てられてなんていないんです。


「貴女は指輪を貰ったその日に、亡くなっているのです。だから指輪はその指には嵌まっていない」


『……え……』


 驚いたような声を出す、その女のヒトは動揺したように顔を手のひらで覆う。


「思い出してください。貴女に何があったか」


『わたし……わたし、は……』


 ゆらゆらと身体を揺らす女のヒトは、嗚呼、と声を発する。


『思い、出した……』


「貴女は事故に合い、そうしてそのまま……」


『捨てられたのでは……他の女の元に行ったのは……私が、居なくなったから……?』


「そうだ、と言い切るのは貴女には酷でしょう。けれどそれでも、貴女は事故に合い何処かに指輪を落としてしまった。それ故に愛した男性との関係を失ってしまった。――それが真実です」


『あ、あ、……あああああ!』


 頭を抱えながら絶叫する女のヒトは、蹲りながら泣いていた。


「なぁ、」


 先輩が女のヒトに声をかける。


「貴女が良ければ、俺が一生を賭けてその指輪を探してやる」


「先輩!」


 幽霊相手になんて約束を。しかもチートレベルに霊力の強い私を先輩曰く昏睡状態に陥らせられるくらいの強い、恐らく祟り神に対して。「一生賭けて」だなんて、簡単にして良い約束ではない。


『坊や……』


「坊やって年じゃねぇんだけど……、そうだな。俺の一生賭けて探しきれなくても、俺の子供が、孫が、きっと探してくれる」


だから、と先輩は続けて言う。


「俺達を此処から出してくれないか?」


『……ほんとうに……?』


「ああ、本当だ」


『……嘘を吐いたなら、坊やだけでなくこの娘の命はないと、そう言っても?』


「死ぬのは怖いな。でも、男に二言はない」


 凛と背を伸ばす先輩に私は溜め息を吐く。


「……先輩って、つくづく馬鹿ですよね……」


「なんで!?」


『本当に、そう、ね……』


 ふふ、と笑った女のヒトの瞳はもう暗闇を映してはいなかった。

 まるで先輩の言葉で憑き物が落ちたような、優しい瞳をしていた。

 けれども、一度祟り神になった存在は彼方の世界、俗に言う天国には行けないだろう。

 それを先輩が知ったらどう思うだろうか。

 この女のヒトの為に尽力するのだろうか。


(きっとするんでしょうねぇ。それが無駄なことと知りながら)


「まったく」


私も難儀な人を好きになったものです。


「先輩の提案に乗ってあげます。その代わり、貴女は先輩を守護する者になってください」


「あ? なんでだよ」


「先輩には守護霊が居ないからですけど?」


「初耳!」


「初めて言いましたからぁ」


 先輩がこの女のヒトに呪われ、その弾みで元々居たであろう守護霊が消されてしまった。それに加えて霊感チートな私なんかに関わってしまったのが運の尽き。

 先輩は超憑かれやすさMAXの人間になってしまったのだ。


 そう説明すれば先輩はぽかんとした顔をした後に「まじか……」とだけ呟いた。

 それに「まじです」とだけ返して、私は女のヒトに語りかける。


「この条件が呑めない様ならば、私は強制的に此処から出ます」


「いや、お前出られたんかい!」


「出られますよー? 私をなんだと思ってすんですかー?」


「無敵で最強な俺の好きな女だよこんちくしょう!」


「わあ、その返事は無事に出られたらしますね!」


 それで? と私は問う。


「貴女はどうしますか?」


『寒いのも、哀しいのも、きっと坊やの傍に居れば安らぐのでしょうね……』


「先輩は面白い方ですからねぇ」


『……分かったわ……。私が坊やを守ってあげる。その代わり……』


「指輪を見付ける、だろ?」


『ええ……』


 ――お願いね……。


 その声を最後に、私達の足元に光の道が導くように現れた。


「行くぞ、神山」


 手を握られて、その手が微かに震えていることに気付いて。

 ああ、先輩。頑張ってくれていたんだなぁ。

 いとおしいなぁ。そんな感情が湧いてきては、溢れてやまない。

 しかし無くなることもないのだろう。

 私はきっと一生、死んだその先だって先輩を好きなのだから。


「先輩」


「ん?」


「助けに来てくれて、ありがとうございました」


「……どういたしまして」


 そう言った瞬間、視界が光で包まれて。

 そうして世界は暗闇から、見知った白い天井を映すことになった。

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