硫酸おやじ

枕目

硫酸おやじ

 はじめて化粧をしたぐらいのころから、安崎唯の視界の端には、しばしば中年がいた。

 いた。と言っても、物理的に存在するわけではない。たぶんない。視界の端の、はっきりと像を結ばない領域に、中年が立っているのが見えるというだけだ。

 その中年はいつも同じではなかった。頭がはげているときもそうでないときもあったし、おかめのような顔をしているときもあればトーテムポールの三段目のような顔をしているときもあった。ただいずれも全裸で、腐ったさぼてんのようなぶよぶよの肉体をしていた。

 中年は視界の端であれば上下左右どこにでも現れた。そして彼らのふるまいはしばしば背景と同化していた。彼らは電信柱に抱きついていたり、草むらに埋まっていたり、月の光に透けていたり、道ゆく老婆の紫色の髪をただしげしげと見つめていたりした。

 異常であった。

 むろん異常であった。幻覚であった。唯も自らの視界に映るそれらの存在が異常であることはすぐに思い至った。

 医者に行こうと思いたち、眼科に行った。眼科医は彼女の症状を聞いて、すぐに精神科への紹介状を書いた。帰った彼女はだんだん怖くなってきて、紹介状を机の引きだしにしまい、精神科へは行かなかった。

 その後、彼女は図書館で精神病の本を山ほど借りてきた。自己診断をこころみたのである。本を読んでいる間も視界の端に全裸中年男性がうつり、本をのぞき込んできた。

 彼女は山ほど本を読んだ。本の中には沢山の精神病の症例が描かれていて、彼女はそのひとつひとつと自分の症状を照らし合わせた。それらに記載されていた無数の精神症状の中にも、彼女の症状に合うものは存在しなかった。しかし、消去法的に考えて破瓜型の統合失調症がもっとも合うように思われた。

 「父さん」

 唯は意を決して、父にそのことについて話すことにした。べつだん、父親を信頼していたわけではない。ただ母親には絶対に話したくなかった。

 「ねえ、お父さん……」

 「おい! そこ危ねえぞ! 硫酸が置いてある!」

 「私さあ」

 精神病なのかも、と言葉を続けようとして、唯は口ごもった。

 「危ねえっつってんだろ! 硫酸だぞ硫酸!」

 安崎唯の父、安崎隆三は板金工であった。いちおう社長でもあった。二階が住居になった小さな工場を経営しており、主に地元の自動車会社の下請け工場から仕事を受けていた。いわゆる二次請け三次請けの仕事であったが、系列の末端として仕事は途切れずに済んでいた。

 「硫酸の容器蹴飛ばしたらどうすんだおめえー!」

 隆三は油で汚れた手で唯の耳を引っぱった。

 「あだだだだ」

 隆三の板金作業場には、酸洗いのための硫酸が置かれていた。そしてその容器の置き場は、二階の生活エリアから作業場への入り口の傍らにあった。人の出入りがある場所で、あまり危険物を置くにふさわしい場所ではないにもかかわらず。ここが硫酸置き場だった。

 そして隆三は硫酸の容器が倒れる事をいつも心配していた。家族や従業員が容器のそばに立っていたりすると激怒した。

 置き場を変えれば良いようなものだが、家族や従業員がいくら言っても、隆三はこの硫酸置き場を変えようとはしなかった。隆三にはそういうところがあった。独特のこだわりがあり、あまり周囲の物品の変化を好まなかった。箸や茶碗が変わると不機嫌になり、古い靴を底が破れても履きつづけていた。

 「用なら後にしろ! 硫酸が置いてあるから!」

 「あだだだ」

 耳を引っぱられているあいだも、視界の端には全裸中年男性が存在し続けていた。

 「硫酸だぞ! 硫酸!」

 「もういいよ! 二度と父さんには話さない!」


 彼女の通っていたのは地元の私立高校だった。電車とバスを乗り継がなければ行けない場所にあって、生徒の質はお世辞にも高いとは言えない学校だった。学園の経営者は教育資源のほとんどをスポーツに向けていた。勉強はまるでダメだが、特定のスポーツの大会ではいつもその高校名が出てくる、そんなタイプの高校だった。そして唯は、そこの女子バスケットボール部の主将であった。

 そんなわけで、学校において彼女の立場はかなり尊重されていて、先生たちにも名が知られていた。だから彼女は、学校の保険医に自分の症状らしきものを訴えるのには格別の勇気がいった。何日も迷ってようやく、彼女は保険医に自分の問題を打ち明けた。

 保健室でサボっている他の生徒を気にしながら、小声で問題を説明すると、女医はさも思慮深そうにうなずいて、にっこり笑った。

 「欲求不満からくる幻覚かもしれない」

 そんなフロイトまがいの浅はかな説を、彼女はさも熟慮の果てのように言ったのだった。

 「思春期にはよくあることです。だれにでもあることです。だいじょうぶだいじょうぶ。はずかしいことでは、ありませんよ」

 「んなわけがあるかああああああ!」

 唯の右ストレートが保険医の胸を直撃した。

 「適当こくなバッバアアアアアアアアアア!」

 彼女は椅子を蹴飛ばし、ガーゼを床にぶちまけ、棚にあった消毒液のびんを床に叩きつけた。保健室で暴れた。保険医はヒステリックに泣き叫び、こぼれた消毒液が床を流れ、サボっていた生徒たちは喝采をあげた。視界の端で、全裸の中年が床を這い回って消毒液をペロペロなめていた。彼女はその中年の尻を蹴り上げたが、じっさいそれは幻覚だったので、彼女は転び、したたか後頭部を打って気絶した。

 この事件がきっかけで、唯は停学になった。おかげで大学へスポーツ推薦で入る足がかりを彼女は失った。


 「大学なんか行かんでもええわ」

 そう父は言った。

 「あんなもんなんの役にもたたんげ」

 そう母は言った。

 大学への足がかりがなくなったことを告げたときの両親の反応は、それがすべてだった。

 唯が大学へ行くことを、彼女の両親はまったく期待していなかった。どちらかというとその可能性を父は嫌がっていたように思えた。さすがに板金工になれとは言わなかったものの、自分が結婚して夫が板金工になって父の後を継ぐ、そういうシナリオが父の頭にあるようだった。というか、父はそのシナリオをなかば決定した路線のように思っているふしすらあった。

 「大学なんか行くな」

 父はそう言って、パチンコに出かけていった。

 「あと硫酸には触るなよ」

 「わかってるよ」

 「硫酸は、危ないからな。硫酸は……」

 いったい父の脳内で硫酸はどれほどの位置を占めているのだろうか、と唯は思った。これほど硫酸のことについて思いをはせている人間を、唯は父のほかに思いつかなかった。いったい父の過去に何があったのだろうか、親友が硫酸をかぶって死にでもしたのだろうか、と唯は父を見送りながら思うのだった。父が出ていったのと入れ替わりに、中年男性がぬるりとドアから入ってきたが、もちろん幻覚だった。

 あるいは、と唯は考える。父の硫酸への執着は、わたしの幻覚と何か関係があるのかもしれない。そういう種類の、何か、脳の回路にかかわる遺伝のようなものが、父から自分へと受け継がれているのではあるまいかと思うのだった。


 停学期間が初まってから、彼女は処女を失った。それは、ただ自分の幻覚が性的欲求不満から来るものだという仮説を検証するための行為だった。歯を食いしばって耐えているあいだ、視界の上の方で中年男性が平泳ぎしていた。中年の体型と泳ぎのフォームはまるで本物の蛙を思わせたが、それはいっこうに前には進んでいかなかった。

 そして、当然のように、幻覚は消えなかった。あいかわらず中年男性は見え続けたし、日常は何も変わりばえしなかった。変わったことと言えば、相手の男からしばしば面倒なメールが来るようになっただけだった。何か損をしたように唯は感じた。




 「ふーん」

 淀川奈々絵は唯の話を聞いて、二回首をかしげた。

 「で、いまも見えてるわけ? 全裸の男が?」

 奈々絵は唯と同じ学校の生徒で、不登校だった。奈々絵の方が一つ年上だったが、彼女は留年していたので同じ学年なのだった。

 「そうだよ」

 彼女と唯が出会ったのは、町の図書館だった。停学しているあいだ、唯は毎日のように図書館に入り浸って、精神疾患の本を読みふけっていた。唯が頻繁にその種の書籍を取り寄せて読むものだから、その図書館には自治体じゅうのその手の本が集まりかけたほどだった。

 自宅では機械の音が耳ざわりで読書もできないという理由から、唯は閲覧室に入り浸りだった。家族から離れたいという理由も少しはあったかも知れなかった。

 そして淀川奈々絵もそこにいた。彼女もいつも閲覧室にいた。唯と奈々江はたびたび目が合い、しだいに目の合う回数が増えた。二人が言葉をはじめて交わしたのは、停学期間が終わりかけ、そのまま通しで夏休みに入ろうとしていたころだ、唯が「オリジナル・サイコ」を読んでいたときだった。

 「殺人鬼とか、好きなの?」

 奈々絵の第一声はそれだった。唯が顔をあげると、彼女は少し、しまった、といった感じの顔をして目を逸らした。

 淀川奈々絵は小柄で、モナリザを思わせるのっぺりした丸顔をしていた。ふちのうすい眼鏡をかけて、黒いくせのある髪を腰の近くまで伸ばしていた。

 「いや……というか、ちょっと調べ物を」

 唯がまともに返答したので、彼女は少し安心したようだった。

 「そ、そうなんだ。調べ物なのね。高校生?」

 そのとき、天井から中年男性が落ちてきた。もちろん幻覚である。彼は床をナメクジのように這い、本棚のすき間に入りこもうとした。

 「あ……ああ、うん。一応。停学中だけど」

 唯は床を見ながらそう答えた。

 ぎこちなく会話がつづいた。唯も奈々絵もあまり口が上手い方ではなかった。ぽつぽつと言葉を交わすうちに、唯には彼女が同じ高校の学生であることがわかった。こうして二人は知り合い、図書館で会うたびにぎこちなく言葉を交わした。ふたりがくつろいで話せるようになるまでには、およそ半月が必要だった。唯が彼女に症状を打ち明けてみようと思うまでにはさらに半月が必要だった。

 「幻覚かあ……」

 唯の話をひととおり聞いて、奈々絵はうなった。

 「……すごく珍しいタイプの幻覚だと思うわ」

 「私もそう思う」

 そう言って、唯は少し安心した。少なくともあのフロイト派の保険医よりは、まともに話を聞いてくれそうな相手を見つけたと思ったからだった。

 「幻覚の中でも、目に見えるタイプの幻覚はあまり多くないらしい。それに、病気だとしたら、ふつうは他にも症状が出るはず」

 「見えるのは全裸の中年だけ?」

 「そうだね」

 「全裸の中年になにかトラウマとかあるの?」

 「ないと思うけど」

 「他におかしなところはないの?」

 「……ないと思う」

 「……妖精か、霊とかかな」

 「妖精」

 「実は本当に、この世界にはそういう空気みたいな中年がたくさんいて、普通の人が見えないってだけなのかも。あなたが正しくて、他がまちがってるのかも」

 彼女はわりあい真剣な顔で言ったので、唯は少し引く。

 そのとき、視界の端から小柄な中年が走り寄ってきて、奈々絵のとなりの椅子にちょこんと座り、奈々絵の髪をもてあそびはじめた。もちろん幻覚である。

 唯は椅子を蹴飛ばした。もちろん実際には中年などいないから、パイプ椅子は大きな音を立てて吹っ飛んだ。中年はかき消えた。

 「ご、ごめん」

 奈々絵は怯えた表情で謝った。

 「い、いや、違うんだ。中年が」

 中年がいたんだ。と唯は説明した。図書館の利用者たちが怪訝な顔でこちらを見ていた。唯はばつの悪い思いをしながら椅子を片付けた。

 「妖精はもっと丁重に扱った方がいいのよ」

 そんなことを奈々絵は言った。丁重に扱うといったってどうすればいいのか唯にはわからない。

 「それって、榊でも立てればいいわけ?」

 「サカキってなに?」

 「葉っぱだよ。葉っぱ。つやつやの。花屋に売ってるだろ。じいさんばあさんがよく買ってくやつだよ」

 そんな調子だったので、けっきょく、奈々絵に相談しても、幻覚の正体はまるでわからなかった。二人は、そのまま図書館が閉館になるまで一緒にいた。

 「明日も来る?」

 「うん……」


 「遅いぞ!」

 暗くなってから家に帰ると、父が怒鳴った。

 「遅い!」

 すでに仕事を終えていた父は、いつも通りノリの佃煮をごはんにかけて頬張っていた。怒鳴った調子に、飯粒がひとつ飛んだ。

 「遅い! 遅い!」

 それだけいうと、父は気が済んだらしく黙り、麦茶をすすった。隆三の夕飯は、ほとんどの場合ノリの佃煮と飯と味噌汁で済まされる。一年のうちだいたい三百五十日ぐらいはノリの佃煮を食べている。べつだん好きなわけではない、単に毎日食べているから毎日食べているだけであった。そういう男であった。

 唯は少しむっとしたが、何も言わなかった。二杯目の麦茶を飲み干すと、父は怒り終わった。隆三の怒りかたは非常に単調である。べつに彼は、父として唯を心配していたから怒ったとか、そういうことではないのである。たんに自分の思っていた時間に唯が戻らなかったという、その予定外が気に食わないのであった。

 「今後はこの時間に帰るから」

 唯は宣言した。

 「そうか。わかった」

 父は納得した。

 「なんでよ」

 母は唯の茶碗に飯を山盛りにしながら言った。唯はスポーツをやめたからそんなに腹は減っていなかったが、まあ食べることにした。

 「彼氏でもできたの?」

 「うるせえこのクソ豚女」

 「まー!」

 母は言い返す言葉がないと、とりあえずそう言うのだった。

 「聞いた? お父さん! 唯のやつ今なんて言った?」

 「俺はパズルやるから」

 父は面倒そうに席を立ち、趣味のジグソーパズルをやりに行った。父の趣味はジグソーパズルである。夕方の決まった時間、淡々と、まるで何かの修行のようにジグソーパズルをやる。彼は恐ろしいスピードでパズルを組み立てる特異な才能があった。もしジグソーパズルの大会があれば間違いなく勝ち抜くと思われた。彼はパズルの絵柄にはまったく関心がないらしく、たいてい富士山か電車であった。家の倉庫にはパネル張りした富士山が何十枚もある。

 「パズル? まー! 娘の反抗期に!」

 母はそう言ったが、父を止めはしなかった。

 「わたしも部屋に行く」

 唯も食卓を離れた。母と一対一は息が詰まる。

 「おい、硫酸気をつけろよ!」

 父が階段の上から叫んだ。

 この男にとって硫酸は一体何なのか。何かわざわいの象徴のようなものなのだろうか。そう考え、唯は自分の幻覚もこの男の血によるものだと確信するのだった。

 「おい、聞いてるのか! 硫酸」

 「わかってるって、硫酸だろ」

 「そうだ。硫酸だ。硫酸に気をつけろ」


 「誰にも、なにか象徴的なものがあるんだと思うな」

 翌日、冗談まじりに家のことを話すと、奈々絵はそう言った。

 「なにそれ?」

 「自分にしか意味のわからない言葉とか。自分にしか見えないものとか、自分にだけ特別な意味のある数字とか、そういうもの」

 奈々絵はそう言いながら「オリジナル・サイコ」のページをめくった。

 「エドゲイン、やばい」

 「やばいよね」

 向かいの席では、上品そうな老婆が編み物の本を読んでいた。全裸の男が老婆の頭にしがみついていた。もちろん幻覚である。じっと見ていると、老婆はこちらを睨んできた。ものすごい形相で睨んできた。

 老婆は異様なほど恐ろしい表情をしていた。尋常な睨み方ではない。ほとんど般若であった。たしかに見た。たしかに先に見たのはこちらだが。そのぐらいでここまで睨み返すことはないだろう。ヤンキーか貴様は。と唯は思った。

 「と、どっか、お茶でもいこうか」

 唯は奈々絵のすそを引っぱる。

 「まだ早くない?」

 奈々絵は本から顔をあげて、老婆の視線に気がついた。

 「い、行こうか」

 近所の喫茶店に行って、コーラを頼んだ。奈々絵はコーヒーフロートを頼んだ。コーヒーを一口飲んで、奈々絵は笑う。

 「ババアの視線、やばかった」

 「やばかったね」

 「あれは殺す気だったよ」

 「エド・ゲインの話題がまずかったのかな」

 「関係者かも」

 唯も笑った。

 「なにがあったの?」

 「いや……中年がいたから見てたんだ。幻覚の」

 「ああ、あの妖精」

 「妖精じゃないと思うけど」

 ほとぼりが冷めたかな、と思ったところで二人が図書館に戻ると、建物の前に救急車とパトカーが止まっていた。司書が老婆に刺されたのだという。二人は顔を見合わせた。





 図書館に入れる状況ではなかったので、唯と奈々絵は近くの公園に行った。ベンチに座って、することもなく、向かいの枯れかけたあじさいの茂みを眺める。

 「夕方まで帰れないんだ」

 「なんで?」

 「きのう、帰る時間を遅くするって宣言しちゃったからさ」

 「ふーん」

 「早く帰ると、親父が『早い!』ってキレるからな」

 「なにそれ」

 奈々絵は笑った。「早いならいいじゃん」

 「自分が思った時間に帰らないとキレるんだよ。うちの親父は。半分マシーンだからさ。たとえば……」

 唯は子供のころ、父に牛乳パズルをプレゼントしたことがあった。牛乳パズルとは、絵柄がまったくない、ただ白いだけのジグソーパズルである。絵の手がかりがないので難易度はとても高い。しかも面白みがない。

 その牛乳パズルを、父は難なくクリアした。絵も何もないパズルを、形だけみてほいほいとクリアしていったのだ。そのときの父はまるで機械のようだった。唯はなんだか見てはいけないものを見た気がして、それきりパズルについては考えないことにした。

 唯の話を聞いて、奈々絵は楽しそうに笑った。

 「いいお父さんじゃないの」

 「そうかなあ」

 唯は上を見あげる。ポプラの木の樹冠に、中年が座ってこちらをじっと見ていた。前に視線を戻すと、あじさいの茂みの中に隠れるようにして、中年が横たわっている。もちろん幻覚である。

 「わたしも帰りたくない」

 奈々絵は唯のそばに座り直す。

 「奈々絵のお父さんはどんなん?」

 「べつに……」

 彼女は言葉を濁した。

 「そう」

 「……わたしは、本当は本なんかそんなに好きじゃないんだよ」

 奈々絵はあじさいの茂みに視線を向けた。彼女には中年は見えていない。たぶん。

 「ただ家に帰りたくなかっただけ」

 「それで毎日図書館に?」

 「クーラーがきいてたからだよ」

 「ふーん」

 「それだけだからね」

 奈々絵は唯の肩にもたれかかる。暑い。



 「硫酸に触るなと言ってるだろう!」

 「まー! 触ってないでしょ!」

 家に帰ると、両親が激しく言い争っていた。

 「触りそうな感じだっただろ!」

 「まー! 前から言おうと思ってたけど、アンタはここがおかしいのよここが!」

 母は白髪まじりの頭を指先でつついた。

 「もういいからアンタ引退しなさいよ!」

 「俺が引退してどうするんだ!」

 「この子が跡取りでも連れてこれば良いんじゃないの」

 母は言った。その冗談めかした口調が唯の逆鱗にふれた。

 「は? そんなこと勝手に決めるな!」

 「子供が口を出すな! あと硫酸に触るな」

 唯は言葉につまり、拳を握りしめた。背骨を通って血がぐんぐん頭に上がってくるのがわかった。

 そのとき唯の視界のなかに、無数の中年男性が現れた。そのなかのある者は脂に汚れた加工機械に抱きつき、ある者は山積みになった完成品の金具に飛びこもうとしていた。もちろん幻覚である。

 「っざけんじゃねえ!」

 唯はそばにあった硫酸のビンをつかんだ。

 「うわー! 硫酸がああああ!」

 父は凍りついたような表情をした。長い間想い描いていた悪夢が現実になった、そんな表情だった。彼は唇をブルブルふるわせていた。

 「や、やめろ。唯、落ち着け……硫酸は」

 唯は思った。もう一度硫酸って言ったら、こいつを床に叩きつけてやる。と。

 「硫酸は危ないんだぞ!」

 「うおおおおおお!」

 唯は硫酸を頭上にふりかぶった。

 「わたしはなー! わたしは……」

 そのとき、何者かが唯の肩をつついた。

 振り返ると、中年がいた。全裸だ。幻覚ではない。

 「まー、誰なの。アンタ!」母が叫ぶ。

 中年はそっと唯に向かって手を差し出した。その中年は、唯がずっと幻覚に見ていた中年、あるいはそのうちの一人であることが、唯には自然にわかった。唯は黙って中年に硫酸のビンをわたした。

 「あ、あんた!」

 中年はビンの蓋をあけ、牛乳でも飲むように、一気に硫酸を飲み干した。

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