寝坊したので食パンくわえて全力ダッシュ

加代

寝坊したら食パンくわえて行ってきますは常識だよね

 平砂学生宿舎一号棟の四階。機械的に割り振られたであろうこの部屋は最上階で、宿舎の目の前に植えられた木に視界を遮られることもないし、虫だって出にくい。湿気がたまりやすいのも確か下の階なので、住みやすい方なのだろう。狭いのはどの部屋も同じだ。五角形じゃないだけマシ。まああれは基本的に二年生以上の男子が住む場所で「スラム」なんて呼ばれているくらいだし、あたしが足を踏み入れることはないだろう。


 ちなみに男子学生の名誉のために言っておくと、治安が悪いからスラムなのではなく、住む場所として最悪だからスラムらしい。聞いた話だと一階は「グランドスラム」と呼ばれていて、ルーズリーフを机に放置すると一時間と経たずにふにゃふにゃになってしまうらしい。湿気のせいで。


 しかしまあつくばは寒い。なんて寒さ。雪でも降るんじゃなかろうか。「筑波颪」ってのが吹いているからだと先輩が話していた。東北出身の友人はけろっとしているけれど、九州出身のあたしにはあまりに寒くて、宿舎の布団だけでは耐えられず、ついつい駅前のイオンに毛布を買いに行ってしまった。今あたしはもふもふの毛布にくるまれている。ああ、幸せ。あったかいってこんなに幸せなんだ。頭から毛布をかぶって、あたしは惰眠を貪った。まだ六時だもん、平気平気。今日の講義は三限からだし、歩いても講義棟までは二十分とかからない。なんせ宿舎は大学の敷地内にあるのだから。


 うとうとしていると、他の部屋の目覚まし時計が大合唱を始めた。レオパレスもびっくりの壁の薄さ。隣人の目覚まし時計だけでなく、その隣や向かいのものも聞こえてくる。これならみんな起きられるんじゃないの、ってくらいにうるさい。聞こえてくるのは「お嬢様、朝でございますよ」みたいな声優さんのボイスだったり銅鑼やティンパニーの音だったりで多種多様。音痴な小学生の合唱のように、雑多な音が壁をぶち抜いて耳に届く。ああ、うるさい。あたしは毛布と布団の端を中に引きこんで丸くなった。


 目覚ましや話し声や足音がだんだん遠ざかって、ようやく平穏が戻ってきた。自室でさえも安らげないなんて、居住地として絶対何かが間違ってると思う。電話なんか筒抜けだし、下手したら相手の声も聞こえてしまう。男連れ込んだら足音だったりやたら低い声だったり、そういうのですぐにわかる。


 ちなみに家族以外の異性の連れ込みは厳禁。そのために部屋番号と暗証番号、静脈認証のオートロックなんか使ってる。まあガバガバなんだけど。部屋番号も暗証番号も抜け道があるし、静脈認証だって指なら何でもいいのだ。


 バタバタと走るスニーカーの足音が聞こえる。小声で「やばいやばいやばい」と言っている。おそらく一限があるのだろう。ついてないね、初日から。あたしは金曜日なら一限があるけど、今日は木曜日。三限からだ。そう思いながら目覚ましを見た。


『4/12 Fri 8:52』


 思考停止。金曜日? 嘘でしょ金曜日?


 現実逃避したくなるところだけれど、いったん整理しよう。あたしの感覚では木曜日。でも電波時計は金曜日だと言っている。したがって今日は金曜日。一限がある。一限は8:40開始。開始後三十分くらいなら入室できるんだっけ? 遅刻なんて絶対にしないと思ってたからその辺の話は真面目に聞いていなかった。


 この記憶が合っているとしたら、九時過ぎまでならなんとかなる。自転車をすっ飛ばせば十分とかからず講義棟だ。


 あたしは身支度もそこそこに、食パンをくわえて宿舎を後にした。


 歩行者よりも自転車の方が多いのに「ペデストリアンデッキ」と称される道を颯爽とママチャリで駆ける。一部学生の間では「ペキントリアン」と呼ばれているらしい。一番ひどいのは月曜一限で、一年生が全学類全員必修の授業がそこかしこであるので自転車が殺到するらしいけれど、あたしはまだ見たことがない。


 全速力で大学会館前の坂を下りる。すると、思いもよらないところから、別の自転車が飛び出してきた。


 ガシャガシャガシャと大きな音がして衝突、その衝撃で吹っ飛ばされ、くわえていた食パンは宙を舞った。そしてあたしは大学会館前、レンガ色をしたタイルの上にべたりと叩きつけられた。


 おぼつかない頭で先程学生が飛び出してきた先、大学会館前郵便局の隣を見ると、確かに道があった。


 そうか、天久保三丁目のアパートに住む人は、そこから通学することもあるのか。


「すみません、大丈夫ですか?」


 天からイケメンボイスが降ってきた気がするけど、顔を上げる気力はもう残っていなくて、タイルにぺたんと頬をつけたまま、すうっと意識を失った。

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