2016年8月12日(金)

 明けて8月12日の朝、納骨式のうこつしきとどこおりなく行われた。


 祖父の実家からほど近いお寺に旧井家うすいけ先祖代々せんぞだいだいのお墓がある。


 一昨年に、次郎さんや父さんの提案でお墓を新しくしたばかりで、周りのお墓に比べると新しくは見えるものの、実際はかなり古くからここにあるという話だ。


 だけど、まさか提案した本人もこんなにも早く自分がここに入るとは思っていなかったのだろうけど・・・


 実は父さんの遺骨いこつをどこに埋めるのかについてはずっと保留ほりゅうのままだった。


 この件に関して母さんはじいちゃんと一度大げんかをしている。


 父さんの葬儀そうぎが終わった日、爺ちゃんが母さんに告げたひと言が発端だった。


「あんたはまだ若い。死んでしまった人間にずっと尽くすことはないんじゃよ」


 それがどういう意味なのかは、僕でも理解できた。


 だけど、あの時は、僕も母さんも気持ちの整理がついていなくて、母さんは意地になって東京に新しくお墓を作ると言っていたし、僕もそれが当然だと思っていた。


 その後、何度も何度もばあちゃんから電話があり、母さんとばあちゃんは東京でも何回か会っていたのも知っている。


 その際、実際にどういう話があったのかまでは僕にはわからない。


 ただ、結果として、こうやって父さんの遺骨は旧井家代々の墓に収まることになった。母さんもそれで納得しているみたいだし、それでいいのだと思う。


 それについてどうこう言う資格は・・・僕にはない。


「あなた・・・やっと戻ってきましたよ」


 読経どきょうの後の焼香しょうこうに続いて、母さんが遺骨の入った骨壷こつつぼをお墓の下に入れる。


 再び読経が始まり、そして、終わる。


 時間にして1時間にも満たない短い儀式を経て、あまりにもあっけなく父さんの遺骨はご先祖様のもとに返っていった。


「なんかさ・・・本当にいなくなっちゃったんだよね」


 お坊さんが立ち去ったあと、妙子さんがほうけたように呟いた。


「まだ信じられないよ」との彼女の言葉がその心の内を物語っていた。


 僕の脳裏に、父さんのひつぎにしがみついて、「いちにぃ!いちにぃ!」と泣き叫んでいたあの時の妙子さんの姿が浮かぶ。


 父さんの葬式の時、彼女はずっとそうやって泣いていた。


「お前は本当にお兄ちゃん子だったからなぁ・・・」と、次郎さんは言い、どこか遠くを見つめていた。


 目を閉じればまだいつでも思い出すことが出来る人懐ひとなこいあの声やあの姿。


 これもいつかは風化して、なくなってしまうものなのだろうか?


 親戚の誰からも愛されていた父さん。だからこそ、その喪失そうしつは計り知れない。



 そう。これが僕の罪。


 僕さえ、あんな約束をしなければ・・・




「健一兄ちゃ~ん、ほら見てセミセミ」


 そんな大人たちの思いなどとは関係なく、お寺の境内けいだいを走り回る子供たち。


 とは言え、元気なのはまなぶくんだけで、まなちゃんはというと学くんの捕まえたセミを見ておっかなびっくり。涙目なみだめになっている。


「こら、学くん。愛ちゃんをいじめるんじゃないぞ」


「いじめてなんてないよ。それより、向こうにも手が届くところにたくさんセミがいるよ」


 学くんは無邪気むじゃきに笑うと、「こっちこっち」と僕を誘う。


「じゃあどっちが大きいのを捕まえるか競争だ」


 僕は父さんが口にしそうなセリフを口に出してみる。


 これは、去年まで父さんが真っ先に引き受けていた役割だ。


 だから今年は僕がその役割を果たす必要がある。





「相変わらず子供の面倒見がいいね。健一は」


 子供達と遊ぶ健一の姿を見ながら嘆息する妹の言葉に、旧井次郎うすいじろうは軽い違和感を感じていた。


「そうかな・・・」


「ん?どうしたのジロちゃん?」


「いや、去年までは兄貴も一緒に遊んでいたなと思って・・・」


「ああそうだったわね」と妙子は笑って肩をすくめてみせた。


「『おーい、健一。お前もこい』とか言いながら、強引に誘った挙句、結局最後は健一に任せっきりにして、自分は爺さんと碁なんか打ってたり、無責任この上ないって感じだったわ」


 冗談めかして言ってみたものの、うかない表情を浮かべる次郎の様子を見て、さすがに不振に思ったようだ。


「何よ?何が言いたいの?」


「いや、お前、葬式の時ひたすら泣きじゃくってただろう?最後まで泣いてたもんな」


「あ、あの時は悪かったわよ・・・」


 赤面して顔をらす妹の姿に、次郎は苦笑を禁じえない。こういうところがこいつの愛すべき一面だ。


「違う。別に責めてるんじゃない。だから気づいてないんじゃいかなって思っただけだ。健一君。葬式の時、涙すら流さなかったぞ」


「え?」


 妙子の視線が、子供達とじゃれ合う健一を捉える。そこに特に変わった様子はない。例年通りの光景だ。


 だが、だからこそ次郎は違和感を覚えざるを得ないのだ。子供には子供相応の在り方がある。


 それを大人になったと割り切ってしまっていいのかはわからない。自分もまだあの年の子供を持ったことがないので軽々しく口にすることは出来ないのだが・・・


「秋子さんから聞いたんだ。健一君。野球やめちゃったんだとさ。あんなに好きだったのにな・・・彼女、心配してたぞ。健一には感謝しているけど、もっと自分の為に時間を使って欲しい。わがままを言って欲しいって。実はな、これも秋子さんの口から聞いたんだが、兄貴が事故を起こした当日・・・」


 次郎は耳打ちをするように言葉を寄せる。見る見るうちに妙子の顔がこわばっていくのがわかった。


 愛の泣き声が聞こえる。


 そちらに視線を移すと、ついに泣き出してしまった愛を健一が必死になだめている姿が目に入った。


「・・・わかった。ちょっと気をつけておく」


 そう言って、しばらく健一の様子を観察していた妙子が、ふと何かを思い出したらしく、やれやれと肩をすくめた。


「ま、私もとても人の心配をしている場合じゃないんだけどね」


「昨日愚痴ってた件か?」


「そうそう。あのおばはん、いくら言っても聞かないのよ。あれもいい、これもいいって・・・あんたの体型じゃそれは似合わないってやんわりと教えてあげてるのにちっとも分かってくれなくて。ま、割り切りも大切だとは思うけど。だけどね・・・」


 電話口での対応を見かけたが、普段からは考えられないような猫なで声で応対しているのが妙に笑えた。こいつもこいつなりに苦労してるんだろう。


「おかげで今日もこれから会って仕事よ。昼過ぎには戻ってこれるだろうけど、いい加減にして欲しいわ・・・って、そう言えばジロちゃん。あんたはどうなのよ?あんた公務員でしょ?今日は平日よ?」


「あいにく、こちらには有給なんてもんがあってね。妻が近日中に出産予定だし、兄貴の納骨があるからってことでわりと有給は取りやすかった」


 はぁ・・・と妙子の口からため息が漏れた。


「公務員は気楽なもんね」


「何言ってるんだ公務員は公務員で悩みはあるんだぞ。お前も自分で選んだ道なんだから、愚痴は身内の中だけにしておけ」


「わかったわよ。愚痴聞いてくれてありがと。んじゃ私、これから戻って仕事するわ」


「あとよろしく」と立ち去っていく妹の姿を見送ると、次郎は再び子供たちの方に目を移した。


 今度は、健一が愛の為に花を摘んでいる姿が映る。流石にこれ以上健一だけに任せて知らぬ顔をしているのは親として失格だろう。


 次郎は健一たちの方に歩を進めた。





 お寺から戻ってくると、まといさんが柚原さんの家の玄関から出てドアに鍵をかけている姿が目に留まった。


 時刻は午前11時頃。まだ午後と言うには早すぎる時間だ。


「あれ?纏さん。今からどこかに出かけるの?」


「あ、健一君。うん、ちょっとね。すぐに戻ってくるから・・・」


 纏さんは手に持った風呂敷包ふろしきづつみを掲げてみせる。


「伯父さん。お弁当忘れて行っちゃったから、今から届けるところ」


 そう言って彼女は西の方を指さした。その先には広大な田んぼが広がっており、田んぼの向こうにはやや大きめの建物が見える。


 西美濃歴史民俗資料館にしみのれきしみんぞくしりょうかん美濃国分寺みのこくぶんじに隣接する史跡博物館だ。柚原さんは今、そこで館長をしているのだと彼女は言った。


「おねーちゃん」


 纏さんの姿を見つけた愛ちゃんが僕の横をすり抜けて彼女のもとに走っていく。そしてまた、ピトリと彼女に抱きついた。


「これどうしたらいいの?」と、困った顔で纏さんが僕を見るけど、僕だってどうしていいのかわからない。何故か愛ちゃんは、纏さんをとても気に入っているみたいだ。


「こらこら愛。お姉ちゃんが困ってるだろ」


 と次郎さんが歩いてきて、愛ちゃんを抱き上げた。


「そう言えば、健一君たちは今日、午後から出かけるんだったね。どこに行くんだい?」


 次郎さんの問いかけに、纏さんは市内にあるIT施設の名前を告げた。ロボットを起動させてくれそうな人は、そこにあるベンチャー施設に入居しているとのことだ。


 次郎さんは、「ああ、あそこか」と納得したように頷き、それならばと提案をしてきた。


「僕はこれから、子供達と一緒にショーを見に出かけるんだけど、ついでで良かったら送って行ってあげるよ」


「これからですか?」


「うん。ここからあそこに行くのはやや不便だろう?その前に歴史民俗資料館にも寄ってあげるから大丈夫」


 纏さんはしばらく考えたあと、


「ちょっと待っていてください」と言って、再び家の中に入っていった。


 しばらくして戻ってくると、その手には小さなバスケットが増えていた。多分、自分の分のお弁当なのだろう。


「お願いします」


 こうして僕たちは、予定より早く、まずは歴史民俗資料館に向かうこととなった。





 西美濃歴史民俗資料館は美濃国分寺に隣接する建物だ。建物の南にある旧美濃国分寺跡きゅうみのこくぶんじあとや、近くにある古墳などの出土品を収めるほか、西濃地方の人々の暮らしを支えた農具や工具などの昔の生活用具、更には青墓地区あおはかちくに伝わる伝承にまつわるもの等を展示している。


 駐車場に車を停めると、僕たちは降車し、資料館に向かう。駐車場には他の車は停まっていなかった。今は夏休みだというのに、人影は見当たらない。


 それが資料館の現状を物語っているようにも見えた。


 中に入ると、早速柚原さんが出迎えてくれた。


「伯父さん。はいお弁当。もう忘れちゃダメだよ」


「ああ有難う。今日は健一くんも来ているんだね」


 資料館の入場料は、18歳未満は無料とのことだ。せっかくだから見ていくといいと柚原さんは言い、僕たちは暫く資料館の中を回ることになった。


 中には古墳から発掘された土器や、昔の生活雑貨などが展示されていた。でも柚原さんには悪いけど、実はあまり興味が沸かない。これらの品々は今の僕の生活から余りにもかけ離れていて、何だか遠い世界のもののようにすら思えるのだ。


「そう言えば、柚原さん。小栗判官おぐりはんがん照手姫てるでひめの伝説に関するものはないんですか?」


 ふと、僕はOguri1号の事を思い出して、それを聞いてみたくなった。


「小栗判官かい?奥に絵巻物えまきものがあるくらいで、ここにはあまり資料がないけど・・・」


 そう言えば、青墓の文化遺産の紹介用のリーフレットを昔貰ったことがある。と柚原さんは言い、事務所の方に足を運んだ。


「そうそう。これこれ」


 と、柚原さんはリーフレットを持ってきて僕に見せてくれた。


 そこにはこう書かれていた。





 小栗判官照手姫物語おぐりはんがんてるでひめものがたり


 説教せっきょう『をぐり』ゆかりの里・青墓


 中世以降に伝承され、説経節せっきょうぶし浄瑠璃じょうるり歌舞伎かぶきなどで脚色きゃくしょくされてきた逸話いつわに「小栗判官と照手姫」という物語があります。


 小栗は、京都二条大納言兼家きょうとにじょうだいなごんかねいえの息子で、知勇優ちゆうすぐれた武者むしゃですが、妻を取りかえること72人。あげくは、美女に変身した京都深泥池きょうとみぞろがいけ大蛇だいじゃと結ばれてしまいます。父兼家の怒りに触れて、小栗は常陸国ひたちのくにに追放されてしまいます。その後、小栗は、武蔵むさし相模さがみ郡代ぐんだい横山大膳よこやまだいぜんの娘照手姫てるでひめの美しさにひかれ、恋文で姫の心を動かし、強引に婿入りしてしまいます。怒りたった大膳は、毒酒どくしゅを盛り小栗主従を皆殺しにし、わが子照手をも相模川さがみがわに流します。一命を取り留めた照手は、人買いの手から手へと売られ、美濃国青墓の「よろづ屋」に買い取られ、名前も常陸小萩ひたちこはぎと改めさせられます。しかし、小栗の貞節ていせつを守って遊女ゆうじょになることを拒み、過酷な水仕事に励みます。


 一方、地獄に落ちた小栗は、閻魔大王えんまだいおうのはからいで餓鬼阿弥がきあみというみにくい姿でこの世に戻され、その身を藤沢の遊行上人ゆぎょうしょうにんに託されます。「熊野湯くまのゆみねの湯に入れば元の姿に戻ることができる」という胸札むねふだを見た遊行上人は、餓鬼阿弥姿の小栗を土車つちぐるまに乗せ、「この車を引けば供養くようになる」と書き添えました。やがて、人々に引かれて青墓の「よろづ屋」の前に到着します。

 小萩(照手)は、小栗とは知らず、亡き夫の供養と思い5日のいとまをもらい、巫女姿みこすがたとなって大津おおつ関寺せきでらまで土車を引きます。その後も土車は多くの人々の手で引かれ、熊野の湯で元の小栗によみがえります。京都で両親と対面し、天皇から美濃国みののくになどをたまわります。やがて青墓に入った小栗は、照手姫と喜びの再会を果たします。


 この物語は説経節の中でも最大のもので、青墓が重要な舞台として登場します。現在の青墓の地には、照手姫水汲み井戸や照手姫の墓が伝えられています。





「なんかあんまりいい人に見えないですね。小栗判官って・・・」


 僕が素直な感想を述べると、「そうかい?」と柚原さんは柔らかい声で笑った。


 確か僕が父や祖父から聞いた『小栗判官と照手姫』では、小栗判官は英雄のような感じだったと思う。


「伝承の伝わり方は色々あるからね。でも大体の話では、小栗は一度死んで蘇った英雄という感じで描かれていることが多いのも確かだよ。あとは、餓鬼阿弥がきあみとなり、人びとの手を経て甦るという点も大体一致しているかな」


「餓鬼阿弥って何ですか?」


らい、つまり今で言うハンセン病のことだと言われているけど実際はどうなんだろうね。この姿になった小栗判官は、何故かしゃべることも動くこともできなかったので、人々に土車を引かれながらでしか、熊野にたどり着くことができなかったんだよ」


「あ・・・」


 それを聞いていた纏さんが何かに気づいたように声を上げた。


「あのマニュアルの中に「Gakiami Mode」って記述があった筈。何のことかわからなかったけど、確か初期化前の状態をそう言っていたんだと思う。今の状態がまさにそれ」


 確かに、動くことも喋ることもしない。まさに餓鬼阿弥だ。


 それは一郎くんらしいねと柚原さんが笑う。


 その時、次郎さんが館内に入ってきて「もうそろそろ行かないかい?」と声をかけてきた。


 予定していた時間から少し遅れているらしい。流石に長居をしすぎたみたいだ。


 資料館から出ようとした僕は、そこで、資料館の通路に沢山の雑誌が飾られているのを見かけた。


 貼り紙がされ、そこにはこう書かれている。



 まぼろしの「美濃民俗雑誌みのみんぞくざっし

 入手できる最後の機会です



「これなんですか?」


「ああ、これかい?」


 それは、昔、発行されていた雑誌のようだった。誰も後を継ぐ者がいないため、既に廃刊となり、最後に無料で配っているのだと言う。


 何だか悲しい話だ。


「仕方ないよ」


 と、背後で纏さんの声が聞こえた。彼女は雑誌をひとつ手に取り、ペラペラとページをめくっていく。


「誰にも必要とされなくなったものが忘れ去られていくのは当然のことだと思う」


 そう言って、雑誌を元に戻すと静かに資料館を出ていった。


 僕は慌ててその後ろを追いかけた。





 歴史民俗資料館を出て、車を走らせること約30分。


 次郎さんの車は目的地であるIT施設の前に到着した。


 道中、纏さんはスマートフォンを使って、何度か相手と連絡を取ろうとしていたけど、全く通じないようだった。


「まだ寝てるのかな?」


 と彼女は言うけど、時刻はもうすぐ12時。普通は起きている時間だ。


 軽くお腹も減ってきた。そう言えば、昼食のことを考えていなかったけどどうしよう。


 その建物は変わった形のツインタワーだった。大垣市の建物の中では割と目立つ大きなビルで「あそこだよ」と彼女が指し示す建物の姿を随分遠くからも目で確認することが出来た。もうだいぶ前からある建物で、IT施設としては有名な場所らしいのだけど、勿論、普段東京に住んでいる僕にとってはまったく馴染みのない場所だ。


 僕たちは、そこで次郎さんと別れ、次郎さんは、子供たちと一緒に近くのショッピングモールで行われているショーを見に向かった。


 去っていく車のリアウインドウから、名残惜しそうに僕らを見つめる愛ちゃんの姿が遠ざかっていく。


 愛ちゃんは、ずっと纏さんの膝の上に座っていた。何故こんなにも彼女のことを気に入ったのかはわからないけど、纏さんは纏さんで、特に嫌がる様子もなく、時折っときおり愛ちゃんの頭をそっとでていた。


「さてと・・・」


 早速Oguri1号を持って建物の中に入ろうとした僕の服を纏さんがつかんだ。


「そっちじゃないよ。あっち」


 そう言って、彼女の指さす先にあるのは、広い駐車場を挟んで向こう側に建つガラス張りの建物だ。


 ベンチャー企業が入居する場所はそこにあるらしい。目的の人物はそこにいるとのことだ。


 歩き始めようとした僕を、再び「待って」と纏さんが呼び止める。


 するとポツポツと、先程まで晴れていた空から雨が降り始めた。


「あれ?今日雨降るって言ってたかな」


「多分、5、6分で止むと思うよ」


 彼女の言うとおり程なくして雨は止み、今度こそ僕たちはベンチャー施設に向かって歩き始めた。


「よくわかったね」との僕の言葉に、


「何となく」


 と素っ気なく答えて彼女は歩いていく。


 建物に入ってすぐ1階にロボットの姿を見かけて、僕は一瞬足を止めた。だけど彼女は別段気に留めることもなくエレベータに向かう。


 僕はあわててその後をついていった。それは東京でよく見かけるタイプのロボットと同じものだった。ロボットは、もう東京だけでなく、地方にも出回ってきているようだ。


 エレベーターで3階に上がると、そのまま廊下を歩いていき、ある部屋の前で足を止めた。


 コンコンと扉をノックする。


 返事がない。


 再びコンコンとノックをするものの、やはり不発。


 仕方なく、もう一度スマホで連絡をとろうと試みるもまた不発。


 静かだった彼女の瞳に、かすかかな炎がき上がるのを見た気がした。


 ドンドンと、かなり強く扉を叩く。


「ちょっと、たかし兄さん。いい加減かげんきてよ」


 暫くすると、ガチャリと扉が開き、ボサボサの頭の男の人が扉から顔を出した。


「んー?纏か・・・どうした?」


「どうしたじゃないでしょ。昨日言ったじゃない。ロボットを持っていくって」


 あーと、寝ぼけた顔で答える。本当に大丈夫だろうかこの人?


「まぁ、入れ」


 と、男の人は言い、僕は纏さんとともに、その部屋に入った。


 途端とたんに、よどんだ空気が肌にまとわりつく。


 部屋の中は散らかり放題だった。空になったカップ麺や、ペットボトル、宅配ピザの箱等が所狭しと床に転がっている。


「あー、もう・・・」


 と、呆れたような声が纏さんの口から漏れた。


「先週私が片付けにきたばかりじゃない。どうしてこうなるの?」


「うっせーな。こっちは寝る間も惜しんで仕事してるんだ。ちょっとばかりは大目に見ろよ」


「そんなこと言って、どうせまたゲームばかりやってたんでしょ」


 まるで兄妹みたいだなと僕は思った。「たかし兄さん」って言ってたから、ひょっとすると本当の兄妹なのかもしれない。


「ちょっと待ってて」


 と纏さんは言い、部屋に転がったゴミを集め始める。そして集めたゴミを袋に詰めると部屋から出て行った。多分、捨てに行ったのだろう。


 僕は、先程よりは幾分片付いた部屋の中にその男の人と二人で取り残される形となった。


 ボリボリと頭をきながら、その人は言った。


「んで、君だれ?」と


 返答に困っていると、程なくして纏さんが帰ってきて、今度は掃除機そうじきをかけ始める。暫く間掃除タイムが続いた後、ようやく僕たちは本題を切り出すことが出来た。




「なるほどねぇ」と、今度はボリボリ首筋を掻きながらロボットを見る。大丈夫だろうかこの人。ちゃんとお風呂入ってるかな?


 この人の名は「柚原ゆはらたかし」というらしい。柚原さんのお子さんで、纏さんとは従兄いとこの関係にあたるとのことだった。


 そう言えば以前、柚原さんには子供がいるって聞いたことがある。会ったことはなかったけど、この人がそうか。


「見たことのない型だがやってみるか。で、どこまでわかってるんだ纏?」


「うん。これがマニュアル。DHCPは使えるから、LANにつなげるだけで遠隔操作えんかくそうさができるよ。管理者用のパスワードはこれ。直接キーボードやディスプレイをつなぎたいなら、後ろにあるカバーをドライバーで外す必要があるみたい」


「うぇ、これ全部英語か。お前よくこんなの読めたな」


「それが聞いたことないOSなの。どうもpythonが必要みたいなんだけど、そもそもpythonが入ってないからそこから始めなきゃならないみたい。私、パッケージマネージャ以外でインストールしたことないから・・・あとね・・・」


 などと、僕にはわからない会話が続いていく。遠い世界の会話だ。


「よし。わかったから後は任せとけ」


 数分後、たかしさんがそう言うと、纏さんはたかしさんから離れ、僕の隣に座った。


「どう?できそう?」


「わからない。市販しはんされているものじゃないみたいって言ってたから。でも多分、大丈夫だと思う」


 そう言って、作業するたかしさんを見つめる彼女の瞳からは深い信頼が伝わってくる。


「しかし、よくわかるねあんなの。僕、何言ってるか全然わからなかったよ」


「わからないよ。だから、たかし兄さんに頼んでるんじゃない」


 何を言ってるの?とでも言いたげな様子で彼女が僕を見る。


「いや、そうじゃなくてさ。そもそも僕には会話の内容すらわからなかったし」


「それは当たり前だよ」


「え?」


「だって、やったことないでしょ?何でもそう。最初は全然わからない。わからないことだらけだよ。でも一歩一歩、少しずつ進んでいけば案外わかってくるものだと思う」


「そういうものじゃない?」と僕を見る彼女の瞳。ああそうかと思った。


 似てるんだ。父さんに。


 あのどこまでも先を夢見て、子供のように純粋にものごとを語っていた時の父さんの姿。その姿が彼女と重なる。


 何だろう。この想いは・・・彼女のことをもっと知りたい。


 と、その時、お腹がぐーっと鳴った。忘れかけていた空腹感くうふくかんが急にき上がって来るのを感じる。


 纏さんは持ってきたバスケットを開けると、その中からおにぎりを二つ取り出した。


「いいの?」


「いいよ。そういうつもりで持ってきたんだから。私もそろそろお腹すいたし。いっしょに食べよう」


 暫く無言のままふたりでおにぎりを食べる。


 チラリと隣に座る纏さんを見る。


 不思議な子だ。近寄りがたい雰囲気ふんいきの中に、どこか優しさのようなものも感じる。それは時折垣間ときおりかいませる態度や仕草しぐさの中に自然と浮き上がってくるもの。これが人となりというものなのかも知れない。


 8年前か・・・やっぱり思い出せない。


 過去に一度会っている。柚原さんはそう言っていた。


 もう一度ゆっくり考えてみよう。なにかヒントになるものがあるといいけど、こんな綺麗な子忘れるはずが・・・


 あれ?


 その時、一瞬僕の脳裏にあるイメージが浮かんだ。フワリと風に舞う白い物体。あれは・・・


「よし!」


 と、たかしさんの声がして、そこでイメージは中断された。


「起動するぞ」


 ノートPCを片手に僕たちの方に寄ってきたたかしさんは、そのまま僕たちの間に座って得意げに笑う。何だか結構楽しそうだ。


 たかしさんの手が動き、ノートPCの中に映された黒い画面に文字を打ち込んでいく。


 python terude.py initialize


 処理が始まり、黒い画面の中に、すごい勢いで英語の文字が流れていく。


 暫くすると、文字の流れはとまり、英語で質問が表示される。


 Which model do you choose?


 1) Megumi Kobayashi

 2) Tohru Itoh

 3) Ichiro Usui

 ・

 ・


「父さんの名前だ!」


 その中に父の名前を見つけた僕は思わずそう叫んでしまった。


「え?そうなの?どれ?」


「3番!」


「そうか・・・じゃあ、3番と・・・」


 たかしさんが3番を選択すると、また画面に別の文字が表示される。



 Downloading model for Ichiro Usui...



 再び画面上に目まぐるしい量の英語の文字の羅列られつが表示されては流れ去っていく。


 そして時間にして30分くらい経った後のことだろうか。


 Complete!


 画面にそう表示された後、背後でウィーンと何かが動く音が聞こえた。


 振り返ると、Oguri1号が勝手に立ち上がり、首を振って周りを見回す姿が見えた。すごい。本当に動いている。


 やがて、Oguri1号はこちらに気づいたかのように歩み寄ってくると、右手を上にあげ、


「やぁ健一。こんにちは。今日の気分はどうかな?」


 最初の言葉を発した。


 それはつい4か月前まで毎日のように聞いていたなつかしい・・・そう。とても懐かしいあの声だった。


「・・・父さん?」


「マジかよ?」と背後で息をのむ様子が伝わってくる。


 本当。うそみたいだ。


 父さんの声で話すロボットがそこにいた。






位置情報確認いちじょうほうかくにん。ここは岐阜県大垣市にあるIT施設の中のベンチャー棟」


 Oguri1号は父さんの声でそう言う。


「時刻は2016年8月12日13時28分。という事は、実家に帰省中ということか健一?」


「あ、うん。今年はちょっと早めに来たんだ」


 ウィーン、ウィーンという駆動音くどうおんとともに、少しだけ父さんのような仕草(?)で手足を動かしながらOguri1号が話しかけてくる。


「今のは、現在の状況から推論すいろんを働かせたのか?マジで?どうやって?」


 ブツブツとつぶやくたかしさんの顔からは、先程までのおどけた様子は消え、真剣な顔でOguri1号を見て、何かを考えているようだった。


「ところで君は誰だ?」


 と、次にOguri1号は纏さんの前に進み出た。


「あ、えっと・・・篠原纏しのはらまといです」


「篠原纏君?」


「ええと・・・そう。柚原徹ゆはらとおるの姪にあたります」


 流石に呆気あっけにとられたのか彼女の言葉にも歯切れがない。


 Oguri1号は纏さんを見たまましばらく停止した。見ようによっては何かを考えているようにも見える。


「すごい」


 その姿を感心したように見おろす彼女の顔は、心なしかなんだかちょっとだけ楽しそうに見えた。


 やっぱりロボットは男のロマンなんてのは嘘だろう。


「今のロボットって、こんな風に会話ができるものなの?」


「いや・・・流石にここまでは・・・」


「可能なのか?」と自問しながら、再び眉間みけんにしわを寄せて考えるたかしさんを尻目しりめに、どうやらOguri1号は正解を見つけたようだった。


「そうか、あの纏君か。大きくなったね。今は14歳になるのか」


「すごい!よく覚えていますね。お会いしたのは1回だけなのに」


「もちろんだ。8年前だったかな?健一と一緒に遊んでくれたよね?」


 そう言ってロボットが僕の方に首を動かす。つられて視線を僕に向けた彼女と目が合い僕は慌てて視線をそらした。


 ・・・ごめんなさい。覚えていないのは僕だけのようです。


 次にOguri1号は、たかしさんの方に歩いていく。


「君は誰だ?」


「あ、俺?俺は・・・」


 その後、何度か状況確認じょうきょうかくにんの会話が続き、そのたびに驚くほど的確に、Oguri1号は父さんの記憶やふるまいを再現していった。


 それは父さんの声。


 それは父さんの仕草。


 人工知能というフレーズが世間をにぎわすようになってずいぶん経つけど、もうこんなことまで出来るようになっているんだ。


 その後、ひとしきりの会話を楽しんだ後、僕たちは、起動したOguri1号とともにたかしさんの車で実家に帰ることとなる。


 そして、当たり前と言えば当たり前だけど。


 帰還したOguri1号の姿は皆を驚かせた。


 玄関で、


 茶の間で、


 台所で、


 床の間で、


 Oguri1号は親戚たちと次々に会話を交わし、その都度、驚きと笑いの声が上がる。


 そして、みんな口々にこう言うのだった。


「まるで一郎さんのようだ」と


 何だか信じられない。こんなことがあっていいんだろうか。


 本当に父さんが帰ってきたんだ。






「今日は奮発ふんぱつして美味しいお肉をたくさん買ってきました」


 その夜、親戚一同に、柚原さん、纏さん、そしてたかしさんを加えて、再び夕食会が催された。


「主にジロちゃんのお金でね!」


 既に出来上がってしまった感じの妙子さんの言葉の通り、今日は養老ようろうのとある有名精肉店で仕入れてきた美味しいお肉を使ったすき焼きパーティだ。


 纏さんは、昨日と同じように柚原さんの隣に座り、昨日と同じように食を進めているけど、昨日と違うのは入れ替わり立ち代り色んな人が彼女の元に足を運び、彼女と話をしていることだ。


 だけど、それは何も彼女の周りだけではなく、昨日まで流れていたぎこちない雰囲気は何処かに去り、自然と話の輪が広がっていく。


「なんかすごい人気だな。彼女」


「そうだね」


 最初はとっつきにくそうな子だと思っていたけど、今日一日彼女と一緒に居て、そんな思いはもう消えてしまった。


 本当に凄い子だと思う。次郎さんが言った言葉が何だか自分のことのように嬉しい。


 ついつい目が彼女の姿を追ってしまう。


「頑張れよ健一くん」


「え?何を?」


「いや、こっちの話。しかしつくづく兄貴らしいな。まさかこんなサプライズを用意しているなんて、してやられたというか何というか・・・」


 次郎さんの視線の先には、じぃちゃんと一緒に碁を打つ小さなロボットの姿がある。流石に自分で碁石を持つことは困難なようで、Oguri1号がばあちゃんに次の手を伝えて、ばあちゃんが石を置く。そうやって碁を打っているみたいだ。


 じいちゃんはさっきから厳しい表情のままずっと考え込んでいる。そう言えば、ロボットが碁の名人に勝ったっていう話を何処かで聞いたけど、ひょっとしてあれ反則なんじゃないだろうか?


「親父、兄貴が死んでからというもの、すっかりんじまってたからなぁ。ああいう親父の顔を見るのは久しぶりだ」


「そうですね。お父さん。ずっと縁側えんがわに座って一人で碁を打ってるんですよ。わたし見てられなくて・・・」


 そう語るみどりさんの目にはうっすらと涙が浮かんでいた。近くに住む次郎さんたち夫婦は、よくじいちゃん達の様子を見にきていてくれたのだろう。


「さてと、わたしもちょっと行ってきますね」


 重い体をよっこいしょと持ち上げて、碧さんが立ち上がった。


「何処へ行くんだ碧?」


「わたしだって、噂のスーパーガールとお話したいわ。お腹の子にもご利益がありそうだものね」


 そう言って大きなおなかに手を添えると、碧さんは彼女の方にゆっくりと歩いて行った。


 噂のスーパーガールはと言うと、今は酔っ払いに絡まれて困惑気味こんわくぎみの表情を浮かべているところだった。





「隣、いいかしら?」


 そう言って、私に近寄ってきたのは、妊娠中の女の人だった。確か、次郎さんという人の奥さんだったと思う。大きなお腹を抱えながら、よっこいしょと私の隣に腰を下ろす。


「お、来たね。碧さん」


「来ましたよ。可愛い子を独占したいのは妙子さんだけじゃないですからね」


 碧さんと言われた女性と妙子さんは私を挟むようにして会話を交わす。


 せまい。


 さっきまで私の隣にいたたかし兄さんは、さっさと退散して部屋の片隅の方で一人でビールを飲んでいる。私と視線が合うと手をひらひらさせながら、「がんばれよ」とでも言いたげに笑った。


 ずるい。Oguri1号を起動させたのは、たかし兄さんなんだから、もっとこの人たちの相手をしてほしい。


 それにしても不思議だ。


 何故私はまたここにいるのだろう。そして、何故私はロボットを起動しようとしたのだろう。


 別に私がここにいる理由はない。ロボットを見るまでは本当にそう思っていたはずだ。だから昨日は早めに退散するつもりでいた。


 だけどあのロボットを見た時、私はそれにきつけられた。私はそれを起動しなければならない。そう感じてしまったのだ。それが何故なのかは私にもわからない。


 この感覚はいつものあれに似ている。こんなものはない方がいいのに・・・


「ありがとうね。纏ちゃん」


「え?」


「わたし、こんなに素敵なプレゼントを貰ったのは久しぶりよ」


 彼女の口から出たのは、身に覚えのない感謝の言葉だ。一体何のことなのだろう?


「正直に言うとね。わたし、今年はここに来るのをやめようかと思ってたのよ。だって、この子も産まれるし、一郎さんの亡くなった年だし、どうなるのかなって・・・でも来て本当に良かった」


「あなたのおかげよ」と碧さんは笑う。


「そんな・・・私、何もしてません」


 そこまで感謝されると逆に心苦しい。だって私は特に誰かのためになろうとか思ってやったわけではない。よくわからない心の衝動しょうどうに従ったに過ぎないのだ。


 それに、私は結局あれを起動できなかった。私はただ、たかし兄さんに取り次いだだけに過ぎない。


「そうかしら?」と碧さんは言う。


「昨日まではね。多分、みんな、一郎さんのことを忘れようって考えてたの。だって、それを思い出すのはとても悲しいことだから。でも今日は違う。みんな一郎さんのことを思ってる。忘れる必要はないんだって。それはロボットを動かしたとか、そういうことじゃなくて、あなたがわたしたちに届けてくれたものなのよ」


 そう・・・なのだろうか?私にはわからない。


「不思議ね・・・あなたを見てると一郎さんを思い出すわ。雰囲気も、顔も全然違うけど何故かそう思えるの」


 それから碧さんは話し始める。健一君のお父さんとの思い出を。


 初めて次郎さんと一緒に旧井家うすいけを訪れた時の事。


 結婚式のこと。


 そして初めての出産のときのこと。


 それを我が事のように喜び、祝福しゅくふくしてくれた温かいまなざしのこと。


 様々な思い出が彼女の口からつむぎだされる。


 不思議だ。目を閉じると自然と心に浮かんでくる。今、その人はここにはいない。だけどわかる。昨日まで欠落していたものが満たされていく。それはとても暖かな場所。誰もが笑っていられる心の・・・


「何だかうらやましいです」


 自然とその言葉が口をついて出た。


 何故なら、私にはそういう素敵な場所はもうなくなってしまったから・・・


「なに言ってるの?」


 突然、缶ビール片手に隣で話を聞いていた妙子さんが会話に割り込んできた。


「うちの夕食会に出たんだからあなたはもう家族同然。誰にも文句は言わせないわ」


 それはとても強い言葉だった。


「私、あなた好きよ。まぁ正直最初はちょっと気難きむずかしい子なのかなとは思ったけど、本当に素直で可愛くて、うちの子にしちゃいたいくらいよ」


「それは狡いわ妙子さん。わたしだって狙ってるんですから」


「いいじゃん。ひとりぐらい独身女どくしんおんなにゆずってよ~」と悪戯いたずらっ子のように笑う。


 これは何なのだろう?互いに笑いながら会話を交わすこの人たちとは昨日までは会った事すらなかった。だけど、さも当然のように私を家族同然と言う。


「だからさ、悩みがあるんならいつでもおいで。お姉さんがきいたげる」


 本当に不思議な人たち。でも・・・


「そうそう。笑ったほうがいいよ。あなた可愛いんだから」


 悪い気はしない。自然と顔がほころんでいくのがわかる。


「ねー、おねぇちゃん。とって」


 と、その時、私のそばに、あの小さな女の子が寄ってきた。


 両手にひもをひっかけて私の方に差し出してくる。


「とって」


 ひもをとれと言うことなのだろうか?私がひもをとろうとすると、「ちがう」と言って手をひっこめた。何なのだろう?


「とって」


「あの・・・とれって何を?」


「なるほど、流石の天才少女もこういうのにはうといんだね」


 これは「あやとり」って言うものなのよと、妙子さんは言い、女の子の手の中にあったひもに指をかけるとくるりとそれを巻き取った。ひもは今度は別の形となって、彼女の手の中に収まっている。


「昔はね。あんまり娯楽ごらくなかったからこういうもんで遊んでたのよ」


 くるくると彼女の手が動くたび、ひもは次々と形を変え、綺麗な幾何学模様きかがくもようを形どっていく。凄い。魔法みたい。


「相変わらず妙子さんは手先が器用ね」


「昔、いちにぃに習ったもんだけどね。今じゃ私のほうがはるかに上手よ」


「まなもやる」


 愛ちゃんが再び妙子さんからひもを取り返す。そして


「とって」


 と、また小さな両手を私に差し出してきた。


 私は先ほど見た手の動きを再現する。確か・・・


 クシャりとひもはひしゃげてしまった。失敗。


「いい?よーくみててね。ちょっとゆっくりやってみるから」


 今度はゆっくりと妙子さんが手を動かす。私はそれを観察する。どうやってやっているのだろう。


「はい。もう一回やってみて」


 妙子さんが両手を開いて先ほどと同じ形を作る。私は再び手の動きを再現しようと試みる。確か・・・


 出来た!


 ひもは私の手の中ですこしだけいびつな模様となって広がった。


「うまいじゃない。やっぱり筋がいいわね」


「ほんと。上手よ纏ちゃん」


 こんな風に褒められたのは久しぶりだ。


 それは、本当に他愛もないことなのかもしれない。


 だけど、何故かとても嬉しかった。


 本当に嬉しかった。







「あいつ。笑ってるな」


 トイレから帰ってきたとき、部屋のすみっこで座っていたたかしさんがそんなことを言うのを耳にした。


 その視線の先には、妙子さんや碧さんと一緒にあやとりで遊んでいる纏さんの姿。


 笑っている。本当だ。彼女が笑っている。それは僕が想像していたよりもずっと素敵な笑顔だった。


 何だかこちらまで顔が綻んでくる。


「なぁ・・・えっと、健一君だったかな?」


「はい」


「あれは本当に君のお父さんが作ったものなのか?」


 そう言って、たかしさんはOguri1号の方に目を向ける。Oguri1号はまだ爺ちゃんと碁を打っている。相変わらず爺ちゃんの顔が厳しいところを見ると形勢は変わっていないようだ。できればちょっと手加減してあげてほしい。


「わかりません。でも多分そうなんじゃないかなって思います」


 僕は、Oguri1号が父さんの会社から父さん宛ての郵便として送られてきたことと、ロボットの名前の由来が亡くなった父を思わせるようなものだということをかいつまんで話した。


「・・・送られてきた?会社から?」


「はい。不思議ですよね。でも、これも何だか父さんが仕組んだことのように思えます」


 そういうの好きでしたからと僕が言うと、たかしさんは怪訝けげんな表情をする。


「どうしたんですか?」


「いや、多分君にはわからないかもしれないけど、あれはAGI。汎用型人工知能はんようがたじんこうちのうという種類に属するものだ。人間のように振る舞い、人間のように様々な外部刺激がいぶしげきに応じて適切と思われる反応をする。ごく当たり前のように見えるが、それはとても難しい。囲碁やチェスなどの限定されたルール内での判断や、画像認識がぞうにんしき音声認識おんせいにんしきのように限られた範囲内での判断を扱うものとは違い、何が起こるかわからない環境の中で常に適切と思われる行動を求められる。そんなものを作るのは不可能だ。まだまだ夢の話だ。少なくとも俺はそう思っていた。あれを見るまではな・・・」


「でも、ロボットって最近割と見ますよね?ホラ、たかしさんの職場の1階にもありましたよ?あれもそうなんじゃないですか?」


 ああ、あれかとたかしさんは笑う。


「あれはまだまだ人工知能っていうレベルのものじゃないよ。基本的に決められたパターンに対して決められた反応をする。俺もいくつかアプリの開発にたずさわったことがあるが、同じように見えて本質的に異なるものだ。パターンを増やすことは可能だが、ロボットが自分で判断して何かをしているわけでもない。パターンを増やしていけばいいかというとそうでもない。途端にフレーム問題ってやつに引っかかっちまう」


 人型をしていることと、人間のように振る舞うことの間には深い溝があるとたかしさんは言った。難しいことはわからないけど、それは何となくわかる気がした。


「しかし、何でそんなとんでもない代物が会社から個人宛に送られてくるんだ?OSからプロセッサまでそれ専用に作られてるんだぜ?どう見ても社外秘レベルだろう?」


「健一」


 と、その時、その「とんでもない代物」が僕の方に歩いてきた。どうも囲碁はOguri1号の圧勝だったらしい。爺ちゃんが悔しそうな顔で肩を震わせて、ばあちゃんになぐさめられている。


「何?父さん」


「電源とネットワークを用意してほしい。先ほどから動きを制限しているが、そろそろバッテリー残量が心もとない」


「ああ、電源ならその辺りにあるけど、ネットワークはここにはちょっと・・・」


「それは困る」


 とOguri1号は答える。


「なんで?」


「僕は眠らなければならない」






「じゃ、行ってきます」


 着替きがえ一式を持つと、僕は玄関を出て隣の家に向かう。


「柚原さんに失礼のないようにね」


 と母さんの言葉が背後から聞こえてくる。すぐに目的地に到着し、呼び鈴を鳴らすと柚原さんが出迎えてくれた。


「おじゃまします」


 柚原家にお邪魔するのは今回2度目。最初はOguri1号を起動しようと纏さんの部屋に行ったときだ。あれから色んなことがあって、遠い昔のことのように思えるけど、実際にはまだ1日くらいしか経っていない。


 あの後、子供たちが寝たことで、夕食会はすぐにお開きになり、Oguri1号はたかしさんと暫くやり取りした後、柚原家で「眠る」ことになった。何だか「学習」がどうとか言ってたけど、僕にはわからない内容だった。


 もう一度、父さんとふたりで話したい。そう思っていた僕はその時、よっぽど残念そうな顔をしていたのかもしれない。見かねた柚原さんが「うちに泊まるといい」と言ってくれたのだった。


「たかし。お前も今日は泊まるだろう?お前の使っていた部屋が空いているから、そこに健一君を泊めてあげなさい」


 その一言で、僕はOguri1号と共に柚原家に泊まることになった。


 纏さんはちょっと驚いたような顔をしていたけど、特に反対することもなく「伯父さんがいいと言うのなら」と受け入れてくれた。


「ここが俺の部屋。待ってろ。今布団を持ってくるから」


「あ、手伝います」


 たかしさんの部屋は2階の纏さんの部屋の隣にあった。同じつくりをしているみたいだけど、中には空っぽの本棚だけで、あとはほとんど何もない。部屋の隅に段ボールがいくつか置かれており、その隣でOguri1号が静かに眠りについていた。


 もう動かない。昨日と同じようにブランと手足を投げ出して座っている。本当に眠っているみたいだ。


 仏壇ぶつだんのある部屋の押し入れから布団を取ってくると、1階から階段を上ってきた纏さんと鉢合わせた。


 フワリといい匂いが漂ってくる。


 お風呂上がりでパジャマ姿の彼女からは、日中感じることのなかった別の魅力を感じる。


 その・・・どうしても女の子を意識してしまう。


「健一くん。たかし兄さん。お風呂沸いているから入っていいよ」


「おう。サンキュ、後から入らせてもらうぜ」


「・・・順番は健一君が最初、たかし兄さんは全員が入った後ね」


「何だよ。なんでそんなことまで指示されなきゃならんのだ?」


「そんなの当り前じゃない」


 ふいと顔をそむける。その視線が僕のそれと合った。


 僕の視線がパジャマ姿に注がれていることに気付いた彼女は、ススと少しだけ胸元を隠すような仕草を見せた。


 あ、いや・・・そんなつもりじゃ・・・


「まぁ、立ち話もなんだから部屋に寄って行けよ」


 そんな様子に気付いてかそうでないのか、たかしさんがそう言い、僕たちはたかしさんの部屋に入った。


 動かないOguri1号の前で僕たちは床に布団を敷いていく。普段誰も使わないと言うわりに部屋はあまりほこりっぽくはない。掃除が行き届いているみたいだ。


 チラリと纏さんを見る。


 多分、彼女がやってるんじゃないだろうか。


 彼女の目は、今、動かないOguri1号に注がれている。


「あれは、何をやってるの?」


 と、彼女の口から出た言葉に、たかしさんが「ああ、あれか」と答える。そして、暫く考えるようなそぶりを見せた後、


「そうだな。強いて言うなら夢を見てるってことになるんだろうな」


 そんなことを言った。「人間と同じだ」と・・・


「夢?」


「ああ、人が眠りにつくのは日中溜め込んだ情報を整理するためでもあるんだぜ」


 生物学的に外敵がいてきに対して危険な状態をさらすことになる「眠り」が必要なのは、それが脳の活動を維持するために必要だからだとたかしさんは言う。


「今、こいつの頭の中には日中溜め込んだ全ての情報がゴミのようなものまで含めて雑多に転がっている。それらの処理に追われヘトヘト状態なのさ。それらを処理し、意味のあるものにまとめる為には、一度外界から入ってくる情報の流れを遮断しゃだんし、整理しなければならない。それが『眠り』だ」


「ハードディスクの容量が一杯と言うこと?」


「ちょい違うが、まぁ似たようなもんだ。ホラ、よくテストの前に一夜漬いちやづけをするだろう?あれは実はよくない。取り入れたなままの煩雑はんざつな情報を維持するのに脳がひたすら働いて休ませてももらえない状態だ。おまけに一度眠って整理する作業を行っていないため、情報と情報の連結がうまくいっていない。無駄なことにエネルギーを使い過ぎて余計に負荷がかかる。そして脳は活動を維持するために休息を欲する。部分的に眠ることすらある。その結果、集中力を無くし、後には何も残らない。いいことなんて全くない。強いて言うなら目先の点数だけはちょっとだけ上がるかもな」


「僕、一夜漬けやったことないです」


「私も」


 お前ら優等生だなと、たかしさんは笑う。


「眠っている間、脳は、取り入れた情報のつながりを試す。例えば『篠原纏』って誰だろう?『同級生』だったかな?それとも『会社の同僚』だったかな?それとも・・・」


 チラリとたかしさんは僕を見た。


「『僕の彼女』だったかなとかな」


 意地の悪い顔でそんなことを言う。からかわれている。そう思ったけど、彼女の方は意に介することなく、集中してたかしさんの説明を聞いているみたいだ。


「とにかく、眠っている間、脳は色々な可能性を試し、意味のない結合を弱めながら、全体的にエネルギーロスの少ない効率の良い状態を形作っていく。その形成過程けいせいかていで見るのが『夢』なんだって説もある。夢で見た高校の授業の中に会社の同僚が出てきたりするのはそういうことなんだってな」


「Oguri1号が今行っているのはそういうこと?」


「多分な。マニュアルにLearning Modeって書いてあったろ?それが今の状態だ。ロボットが『眠る』なんて口走ったのは、開発者の遊び心なんだろう」


「ネットワークにつながなければならないのは?」


 との纏さんの言葉に、「そうだな」と、たかしさんはまた考える素振そぶりを見せた。


「おそらく、汎用型人工知能であるこいつの場合は、人格モデルを形成する元となる情報も莫大だ。それはこいつに内蔵するハードディスクだけではまかないきれない。多分、それはどこかのクラウド上に存在し、外部記憶のような働きをしている。こいつはそこに、今日一日で取り入れた情報をアップロードしてから、新たに加わった情報を加味した上で、人格モデルを形成しなおしているんだろう。午後9時に眠りにつくのは、その処理にそれだけ時間がかかるからなんだろうな」


 後半部分は僕にはほとんどわからなかった。


「しかしまいったな」とたかしさんは言った。


「何が?」


「いや、ここまで自律的じりつてきに物事を解釈し、自己形成じこけいせいを行うロボットなんてもっと未来の話だと思っていた。実際、俺が受けたロボットアプリの仕事は開発者が意図通いとどおりに動かすものばかりだ。だけどこいつは違う。俺は起動を助けただけで、あとは全て自律的に行動し、勝手に成長していく。自分で自分をプログラミングしているようなもんだ。シンギュラリティって言ってな。日本語訳で「技術特異点ぎじゅつとくいてん」と言うんだが、優れたコンピューターが自分より優れたコンピューターを生み出すようになると、それが積み重なっていき、ついには人間を超えちまうんじゃないかって話がある。2045年あたりに訪れるって話だが、こりゃ、もっと早いんじゃないかって思うよ」


 さて、話し込み過ぎた。とたかしさんは言った。確かに、時刻はもう午後11時半を回っている。


「お前らも早く寝ろよ。夜更よふかしは意味がないってことがよくわかったろ。よく学び、よく寝る。これが脳にとって最大の栄養だ」


 それともお兄ちゃんと一緒に寝たいのか?とからかわれた纏さんは、「そんなわけないでしょ」と顔を背け、部屋を出ていった。


 そのあと、僕はお風呂に入った後、たかしさんの部屋ですぐに布団に入った。


 僕の目には、眠ったように動かないロボットの姿が映る。


 本当に楽しい一日だった。


 思ってもみなかった父さんとの再会。それは光り輝く真夏の夢のごとく僕の心を満たしていく。


「おやすみ父さん」


 そして僕は眠りにつく。


 いい夢を見れたらいいなと思いながら・・・


 だけど、夢はいつかは終わる。


 そのことを僕が知るのはもっと後のことで、とにかくこの時の僕は、その夢がずっと続くものだと思っていた。


 ずっと・・・





 部屋に戻って、机に向かうと、私は引き出しから日記にっきを取り出した。


 夜、今日一日起こったことを日記に留めておくのが私の日課にっかだ。


 今日は本当に色々なことが起こった。


 こんな気持ちで日記をつけるのは久しぶりの事だ。


 さて何から書き始めようか。


 まずはロボットの事からだろう。


 次は・・・


 日記を書き終えた後で、私は改めて、今日起こったことを反芻はんすうしてみた。


 本当に楽しかった。


 夕食時の楽しいひと時を思い出すと自然と顔が綻んでくる。


「あなたも家族同然よ」


 その言葉が胸に広がっていくにつれ、じんわりと胸の奥が暖かくなってくるのを感じる。


「家族」



 それは私がいつの間にか失ってしまったものに他ならない。



 お父さんは今どうしているだろうか?ちゃんとご飯食べているだろうか?


 ポスンとベッドに寝っ転がり、東京でひとりらす父の事を思う。最近は電話さえしていない。


 だけどやむを得ない事情があったとはいえ、それは父が自ら私に提案したことであり、そして私は自らその提案を受け入れた。


 だから今、私はここにいる。それだけのことだ。


 ・・・ああダメだ。せっかくの楽しい一日だったのに、こんなことを考えていたらまた暗い気持ちになる。


 もう寝よう。たかし兄さんの言う通り夜更かしはいけない。意味がない。


 ふと、床を見ると、床の上にひもが転がっているのが見えた。妙子さんにもらったものだ。ベッド上に置いておいたのが落ちてしまったみたいだ。


 ひもを拾い上げると再び旧井家での楽しいひと時が脳裏のうりによみがえってきた。


 時刻は午後12時を回ったところ。いつもはもう寝ている時間だが、少しだけならいいだろう。


 少しだけなら・・・


 私は再び机に向かうと、机の上のノートPCを立ち上げ、検索窓に文字を打ち込んだ。


「あやとり」と・・・

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る