2016年8月16日(火)

「ここがてるでひめの井戸」


 男の子の誰かの声がする。これは誰?


「てるでひめって・・・?」


「おひめさま」


「それはわかるんだけど・・・」


「おぐりはんがんに助けられる人」


 またわからない名前が出てきた。


 おひめさまが助けられる人だってことは私にもわかるんだけど・・・



 ああ、これは夢だ。あの時の夢。本当に懐かしい・・・



「おぐりはんがんが、悪い人をバッタバッタと倒して、てるでひめを救うんだ」


「ふーん、じゃあ、この井戸は?」


「うーん、何だろ、多分、井戸からでてきたおぐりはんがんが、てるでひめを救うんだ」



 ・・・何だか笑えてくる。こうやって思い出してみると、内容が全然違う。結構いい加減だ。そう言えばこんなこともあったな・・・


 そして、男の子は木の枝を得意げに掲げてこう言ったのだった。


「だから、君がピンチになったら僕が井戸から出てきて救ってあげるよ」と、


「え~?いいよ。そんなの・・・」と私は答える。


 だって、井戸から出てくるのはこわいものだってみんな言ってた気がする・・・



 これは夢だ。そう、幸せだった頃の記憶の断片。


 私にとっては宝物のような思い出のひとかけら・・・


 だけどもう・・・




「あ・・・がとう」


 また、誰かの声がする。これは誰の声?


「あ・・・がとう。纏君。・・・れてきて・・・て」


 暖かい声。とても懐かしい気がする。心が少しあったかくなる。これは誰?


「有難う。纏君。僕をここまで連れてきてくれて」


 途端に目が覚めた。


 今のは何?何かが聞こえた気がする。


 あれは夢?それにしては何か妙な感じがしたような・・・


 周りを見渡すと、昨日の記憶が蘇ってくる。


 ああそうか・・・あのまま寝ちゃったんだな。私・・・


 時計を見ると午前6時ちょうど。


 流石に、これには我ながら感心する。


 気持ちはどうあれ、身体はいつものリズムを覚えているらしい。


 私は、重い腰を上げると、部屋を出て洗面所に向かった。


 鏡に映る顔は今日もひどい。だけど気分はもっと最悪だ。でも私の日常は続いていく。しっかりしなきゃ。


 顔を洗い、大きく深呼吸をすると、私は階段を降り、台所へと向かった。


 リビングに入ると、なんとたかし兄さんが起きていてソファーに座ってテレビを見ていた。


 珍しいな。どうしたんだろう?


 その様子を見ながら、横を抜けて台所に行こうとしたとき、「纏」と呼び止められた。


「なに?兄さん」


「あー、その・・・なんだ・・・」


 目をそらしながら、少し照れたように兄さんが言う。


「纏、今日なんだが・・・ドライブにでも行かないか?」


「ドライブ?」


「ああ、どこへでも連れて行ってやるぞ。どこがいい?」


 どこでもか・・・それなら


「月とか?」


「そいつは勘弁してくれ」


 兄さんが笑う。


 ドライブか・・・それもいいな。家に居るとまた顔を合わせてしまうかもしれない。気分転換にはちょうどいい。


「決まりだな」


「うん」


 ありがとう兄さん。少し気分が楽になったよ。


 それからすぐに伯父さんが起きてきたので、私はいつものように朝食の準備を始めた。


 こうやって少しずついつもの調子を取り戻していく。


 今はこれでいい。これで・・・


 朝食を終え、伯父さんが仕事に行くのを見送った後、私は部屋に戻って、出かける準備をし始めた。


「先に外で待ってるぞ」


 とたかし兄さんは言って、玄関から出て行った。


 久しぶりのドライブだ。どこへ行こう。どこがいいかな?出来るだけ遠くへ、彼の居ない場所へ・・・


 今日は昨日と違って、よく晴れた一日だ。きっと楽しいだろう。


 きっと・・・


 あれ?おかしいな。前が見えない。すごく楽しい一日になる筈なのに・・・


 こんなのおかしいよ・・・


 こんなはずじゃ・・・


 涙が・・・止まらなかった。






「健一君。答えは出たのかい?」


 みんなと一緒に朝食をとっているとき、次郎さんが話しかけてきた。


「うん。出た」


 と僕は答える。


「じゃあ、ちゃんと食べて行きなさいよ。こういうのは最初が肝心なんだから」


 と妙子さんが言うと、


「何のことですか?」


 と碧さんが首を傾げる。


「健一の、一世一代の大勝負よ」


「そうですか」


 そう言って、碧さんは両手を合わせて、


「それは願掛けをしないといけませんね」


 結局、昨日はほとんど眠れなかった。


 いくら考えてもわからない。だからもういい。当たって砕けろだ。


 朝食を終えてすぐに玄関を飛び出すと、僕は向かった。彼女のもとへ


「健一兄ちゃん。ファイト!」


 背後から、学君の声が掛かる。


 門を出ると、たかしさんが車を洗っているのを見かけた。僕の姿を見ると微かに笑い、


「よぉ、健一君。おはよう」


 と言って、開け放たれた玄関の扉の方を親指で指し示した。


「お姫様なら今、部屋にいるぜ。悪い魔法使いにさらわれる前に助けてやってくれ」


 その言葉を聞き終わらないうちに、僕は玄関に駆け込み、そして階段を駆け上がる。


 そして彼女の部屋の前まで来ると、大きく息を吸い込み叫んだ。


「纏さん!」


 部屋の中から気配が伝わってくる。彼女は今、そこに居る。


「纏さん。聞いてほしいんだ。僕は君を傷つけてしまった。何故だからはわからない。昨日ずっと考えたけどどうしてもわからない」


 応えは返ってこない。構わずに僕は続けた。


「だけど、僕はまた君と話がしたい。知りたいんだ。君の事を、聞いてほしいんだ。僕の事を・・・だから」


 口が乾く。だけどもう止まらない。


「だから、今日一日僕とデートしてください!」


 扉の前で思いっきり頭を下げる。誰も見ていないかもしれないけど構わない。


「勝手な言い分かも知れない。だけど僕はまた君と話がしたいんだ。今日一日何でも言うことを聞くよ。何だっていい。無理なことを言ってくれてもいい」


 そして、僕は叫ぶ。思いのたけを


「好きなんだ!君の事が!」


 言ってしまった。だけど後悔はない。


 これで駄目ならもう諦める。僕にはもう何もない。


 それから暫く待っても何の反応もなかったので、僕が諦めかけたとき、


「本当?」


 と、微かに声が聞こえてきた。扉越しに彼女の存在を感じる。


「本当に何でも聞いてくれる?」


 扉を一枚隔てて彼女がそこに居る。それだけで嬉しくなる。


「ああ、聞くよ!何を言ってくれてもいい」


「私、わがままだよ。それでも・・・いい?」


「ああ、構わない。何でも聞く!」


 そして、また暫くの沈黙の後、


「わかった」


 と彼女は答えた。


「下で待ってて。準備してから行くから」




 それから僕が階段の下で待っていると、暫くして彼女が降りてきた。


「おまたせ」


 その姿に僕は驚いた。


 真っ白なワンピースに、白い麦わら帽子。


 8年前に出会ったままの彼女がそこに居た。


「どう?似合うかな?」


 はにかんだ様に彼女が言う。


「うん。すごく似合うよ!」


 僕がそう答えると、「ありがとう」と嬉しそうに笑った。泣いていたのか少しだけ目尻が腫れている。


 僕たちが玄関から出ていくと、途端に歓声が上がった。


「やったね兄ちゃん!」と親指を上に突き出す学君の後ろでみんながこちらを見ている。


 少し恥ずかしい。


 ヤレヤレと肩をすくめる妙子さんの横をすり抜けて愛ちゃんが、「おねーちゃーん」と走って来て、纏さんに抱きついた。


 次郎さんが慌てて愛ちゃんを回収しに来る。


「こらこら愛。今日はお姉ちゃんは忙しいんだ。また今度にしなさい」


 そう言うと、不満そうな愛ちゃんを抱きかかえて帰っていく。去り際に僕に片目をつむって祝福してくれた。


「行こう」


 僕は彼女の手を取り・・・


「行くってどこへ?」


 と、彼女が立ち止まった。ああそうか、気ばかりがはやって、何も説明していなかった。


 僕は昨日次郎さんから手渡された地図をポケットから取り出した。


 目指すは、この前行ったIT施設近くにあるアミューズメント施設だ。映画やカラオケなど、様々な娯楽がそろっている。


 それが昨日の夜、Oguri1号が導き出した結論だった。


 確かにあそこなら一日遊べるだろうと次郎さんは言った。妙子さんには別のプランがあったようだけど、子供には早いと却下された。


 ただ問題は・・・


「結構遠いね」


 とスマホを見ながら纏さんが言う。


 そうなんだよな。歩いていくには遠いし、色々と乗り継いでいけばたどり着けるけど、それでも結構時間がかかる。


 次郎さんはこれから出勤だし、となると・・・


 ふたりの視線がほぼ同時に、さっきまで車を洗っていた人の方に向いた。


「お、おいおい、お前ら、振った相手にエスコートを頼むつもりか?」


 苦笑しつつ、たかしさんが言う。


「何なら、今から乗り換えてもいいんだぜ。今なら月にでも連れて行ってやれるかもな」


 キュっと、纏さんの手が僕の腕に絡みついた。


 それが彼女の意思表示だった。そのままジッと僕の目を見る。


「いや・・・月はちょっと・・・」


 僕がそう言うと、暫くキョトンとした目で僕を見た後、彼女はお腹を抱えて笑い出した。


「いいよ。いつか連れてってくれれば」


 はい。善処します・・・


「だが、そうだな。敵に塩を送ってやるくらいは出来るかもしれん」


 と、たかしさんは何かを思いついたように言った。


「たしか、おふくろが使っていたやつが倉庫にまだあったはずだが・・・」


 と言って、家の裏にある倉庫の方に歩いていき、そして持ってきたのは古い自転車だった。


「よし。状態は良好だ。あとは空気さえ入れてやれば何とかなる」


 そう言って、空気入れを持ってきて、自転車に空気を入れ始めた。


「だけど、二人乗りは違反じゃ・・・」


 僕がそう言うと、纏さんもうんうんと頷く。


「馬鹿かお前らは」


 と、たかしさんが笑う。


「そんなもん。見つからなければいいんだよ」




 県道沿いを自転車で走る。


 僕の後ろには彼女が居る。8年前と同じ姿で・・・


「次の交差点を右」


 彼女の指示に従って、僕は道を曲がる。


 あの後、地図を見ながら行き方を調べ始めた僕に、呆れたように彼女が指し示した方法は、スマホのナビを使う方法だった。


 そこには目的地までの行き方が全て示されていた。音声で案内もしてくれるらしい。


 ものすごく便利だ。便利すぎる。


「健一君は携帯持たないの?」


 と彼女が聞いてきた。それに対して僕は答える。


「うん。それがね。お前にはまだ早いと言って父さんが許してくれなかったんだ。子供のうちは相手の目を見て、ちゃんと話せってさ・・・自分は色々使いこなしているのにずるいよね」


「ふーん」と彼女は言い、キュッと僕のお腹に手を回してきた。ドキリと胸が高鳴る。


「やっぱり素敵な人だね。健一君のお父さんは・・・」




 暫く自転車を走らせていると、「よし」と彼女が言った。


「大体の道順は覚えたよ。健一君、いったん止まって」


 彼女の言葉の通りに、僕はいったん自転車を止める。


 そして、彼女は自転車を降り、スーッと息を吸い込むと、風を感じるように大きく手を広げた。


「見つからない道・・・見つからない道・・・」


 暫くして、また「よし」と言うと、再び僕の方を振り返り、得意そうにVサインを作った。


「今日の私は絶好調」


 そこから先は、スマホに頼らず彼女の指示に従って自転車を走らせる。


「次の道を右、信号まではいかない。狭いからわかりにくいけど、そこを進んだ先に・・・」


 指示がかなり具体的だ。いったい彼女には何が見えているんだろう。


 だけど何だか吹っ切れたみたいだ。


 背中に感じる彼女の鼓動からは、穏やかな気持ちが伝わってくる。


 それからまた暫く自転車を走らせて、街中に入ったころ、


 僕たちは自転車を降り、自転車を引いて歩いていた。


「見つかっちゃたね」


 と、僕が言うと、


「おかしいなぁ・・・絶対いけると思ったのに」


 残念そうに彼女が答える。


 あの後、大きめの交差点を渡った時に、道行くおじさんに注意されてしまったのだ。そこから先は歩いている。


 ただ、もうずいぶん目的地には近づいた。あとは徒歩でもそれほど時間をかけずに行けるだろう。


「何事も100パーセントはないってことだね」


 と彼女は笑った。本当に昨日とはずいぶん雰囲気が違う。張り詰めていたものが緩んで彼女本来の姿が顔を表したような感じだ。


「ふーん、色々なものがある施設なんだね」


 と、スマホを見ながら彼女が言う。


「あ、温泉施設なんかもあるんだ。今度また来てみようかな」


 それにしても本当に便利なものだな。感心してしまう。みんなが欲しがるのも無理はない。


 僕がそう言うと、


「そうだね。私の場合、色々と調べ物に使っているから。どうしても本だけだと新しいものに触れることができないし、英語のサイトや論文なんかも見ないといけないから・・・」


 ああそうか、彼女の場合そう言う用途もあるのか。多分、使い方が普通の子とは違うんだな。手馴れているのはそのためだ。


「でもね。私、思うんだ。それだけだと全然ダメだって。こうやって自分の足で歩いて、自分の目で見てしか得られないものも沢山あるんだなって。ほら健一君の親戚のみんなって、こういうのからきしダメでしょ?」


「うん。全くダメ」


 そこは強調してもし足りないくらい。


「だけど、みんなあんなに生き生きしていて、楽しそうで。そういうの私になかったんだなってつくづく思った。本当にバカだったな私・・・」


「これも健一君のおかげだよ」と彼女は笑う。


 そこまで言われるとちょっと照れるけど、彼女の嬉しそうな顔を見ていると本当に誘ってみてよかったと思う。


 そうこうしている内に、僕たちはたどり着いた。目的の場所へ・・・




 そこは思った以上に大きな施設だった。


 広い駐車場には、所狭しと車が並び、目的のアミューズメント施設に隣接する形で大き目のショッピングセンターや、家具店などがあり、駐車場をぐるりと囲んでいる。


 アミューズメント施設の隣には彼女の言う通り温泉施設もあり、そこだけで一日時間が潰せるようなラインナップになっている。Oguri1号がここを選んだのも頷ける。


 さて、たどり着いたのはいいけど、まずは何から始めたらいいものか。


 計画性がないと言われればそれまでだけど、昨日の夜はどうやって彼女に許してもらえるかを考えるだけで頭がいっぱいでそこまでは考えられなかった。


 アミューズメント施設に入り、まずは無難に映画かなとか思っていると、彼女が僕の手を引き、こう言ってきた。


「健一君。私、あれやってみたい」


 彼女が指し示す先にあったのは、たくさんのクレーンゲームが配置されている区画だった。


 意外だった。あまりああいったものには興味なさそうに見えたけど、


「どうやってやるの?」


 彼女がクレーンゲームの中にあるぬいぐるみを見ながらそう言った。


「やったことないの?」


「うん。見たことはあるんだけど・・・」


 とりあえず僕はお手本を見せてあげることにした。と言っても、僕だって殆どやったことない。やり方だけは知っている。


 お金を入れて、操作すると、クレーンが動き出す。ボタンを押すとアームが降りていき、ぬいぐるみを掴む。だけどすぐにそれは落下してしまった。


「こうやって、ちょっとアームが回転するから、それを考慮に入れてうまくつかんで、ここまで持っていければぬいぐるみがもらえるんだ。今のはだめだったけど・・・」


「ふーん」


 僕がそう言うと、彼女は真剣な顔でクレーンゲームの中のぬいぐるみを見始めた。


「回転角度がこれくらい。アームの長さがこれくらいだとすると、これがちょうど入る所にあるものを考える。重心を考えるとこれもダメ。これもダメ、あとは・・・」


 何だかブツブツ言っている。


 しばらくして、「やってみる」と彼女が言ったので、僕はお金を入れた。


 アームが動き出す。彼女が狙ったのは大きめのぬいぐるみだ。あんなもの取れるんだろうか・・・


 アームが降下する。そしてぬいぐるみを捉えると、ガッチリつかんで離さない。そのまま獲得口まで持ってきてしまった。


「やった!」


 嘘みたいだ。いきなり取れてしまった。


「一応、言っておくけど、今のはインチキでも何でもないからね。ちゃんと計算してやったんだから」


 それからも何回か彼女はクレーンゲームに挑戦し、かなりの確率でぬいぐるみを獲得していった。


 沢山取れたぬいぐるみが入った大きな袋を満足そうに抱えて彼女が歩く。


「あ、今、意外だなって思ったでしょ?」


 と、僕の心を見透かしたように彼女が言った。


「別に、私、こういうのが嫌いなわけじゃないんだよ。ただ、今の生活に必要がないと思ってただけで・・・でもちょっと考え直した。やっぱり生活には潤いが必要だよね」


 本当に雰囲気が変わった。今の彼女はとても自然体だ。でもこっちの方がいい。今までの彼女も好きだったけど、より好きになっていく。


 さて、今度はどうするかと考えていた時、再び彼女は言った。


「健一君。今度は私、あれやってみたい」


 彼女が指し示す先にあるのは、


 ・・・ボーリング?





「なるほど、2回投げてどれだけ倒すかを競うんだね。全部倒すと、次のゲームにボーナスが持ち越されて、満点は300点か・・・」


 他の人のやっているのを見ながら彼女が納得したようにそう呟く。


 ボーリングも初めてみたいだな・・・


 さて、まずは僕からだ。


 よし!と勢いを込めて、第一投を投げ、僕が倒したのは7本だった。


 まぁ、まずまずかな。僕も言うほどうまくないけど・・・


 そして彼女の番になった。


 すると再び彼女は目を閉じて何事かを呟き始める。


「ボールの重さとピンの跳ね具合を見ると、多分ピンの重さがこのくらい・・・あとはボールの重さと、当たった時のピンの動きを考えると、最適な軌道は・・・」


 え?まさかこれも?


 息をのむ僕の前で、彼女はボールを構えると、そのままヨロヨロと歩いていき、投げる・・・と言うより、殆どポテっと落とすような感じでボールを投げ入れた。


 力なく転がったボールは、レーンの半分までも届かずにガーターレーンに吸い込まれ、そのままゆっくりと転がっていく。


「あれ~?」


 意図とは違ったボールの動きに彼女が不満そうな声を上げる。


 まぁ、ソウデスヨネ・・・


 その後、何度も投げたけど、彼女のボールは殆ど最後まで届かずにガーターレーンを転がり続けた。


 見かねた僕が、2ゲーム目に、子供用のガーター保護レーンを設置することを提案したけど、彼女は意地でもそれを受けずに投げ続け・・・


「はぁ、何だかちょっとショック・・・」


 ため息とともにがっくりと肩を落とす彼女を横目で見ながら僕はスコアシートに目を落とした。


 僕の方も2回とも100に届かないスコアだったけど、彼女のは・・・


「あ、今、ちょっと私のこと馬鹿にしたでしょ?」


「え?いや、そんなことは・・・」


「ほんとに?」


 そう言って、疑うような目を僕に向ける。ただ、流石に2桁いかないのは初めて見たかもしれない。


「私、本気でやってこんなに点数取れなかったの初めてかも・・・最低でも半分くらいはとりたかったな」


 半分って・・・150も出せる女子中学生はそうそういないと思う。


「よし!ちゃんと練習しよう。今度は絶対負けないからね。健一君」


 と言って右手をグッと握る。かなりの負けず嫌いだ。


 あやとりに夢中だった時の彼女を思い出した。今度会う時にはひょっとして僕、勝てないかも・・・


 それからも、一緒に写真を撮ったり、モグラたたきをしてみたりと、彼女が選んだのはいたって普通のことばかりだった。


「何でも言うことを聞く」と言った手前、結構、構えていたんだけど正直肩透かしを食らった思いだ。


 ただそれでも彼女はとても楽しそうだった。それだけで十分だ。


 そして、昼食で彼女が選んだのもまた、安上がりにショッピングセンター1階のフードコートでの、ファーストフードだった。


 出てきたハンバーガーを手に、彼女が興味津々と言った様子でそれを見てから軽く口に含む。


「あ、結構おいしいかも。これ」


「これも食べたの初めて?」


「うん。お父さんがあんまりこういうの好きじゃなかったから・・・」


 ふぅと、小さなため息が彼女の口元から洩れた。


「ホント、何してたんだろ私。こんなに何にも知らないのに、一人で悩んで、一人で考えて・・・ホント、バカみたい」


 独り言のようにそう呟く彼女の瞳は、言葉とは裏腹にとても穏やかで、どこか満ち足りたような色をしていた。


「ありがとう健一君」


「ありがとうって何が?」


「ううん。何でもない」


 彼女は、そう言って小さく首を振る。ふとその目が僕の頬のあたりで止まった。昨日、彼女に引っぱたかれた所はまだ少し腫れている。


「昨日はゴメン、痛かったよね?」


「ああ、まぁ・・・」


 実は色々考えすぎて痛みの事なんか忘れていた。


 頬を触りながら僕があいまいにそう答えると、彼女は昨日のことを思い出したのか、少しすねたように目をそむけた。


「でも健一君も悪いんだよ。あんな時に、国枝さんがどうとか、兄さんがどうとか言うから・・・もっとストレートに言ってくれれば私もあんな風には・・・」


「ストレートって何を?」


「知らない」


 プイッと、顔をそむける。だけどそれも一瞬の事で、すぐに呆れたように息を吐くと、そっと胸に手を当てて言った。


「まぁ、でもそういうところが好きなんだけどね・・・」


 え?今、何かシレッと凄い言葉を聞いた気がするんだけど・・・


「纏さん、今なんて・・・」


 僕が、言葉の意味を問いただそうとした時、「あっ!」と急に彼女は立ち上がり、驚いたような声を上げた。


「いけない!産まれる!」





「兄さん、今どこ?え?関ケ原!?なんでそんなところに!?」


 スマホで電話をしながら、切羽詰まったような顔で纏さんが言う。


 纏さんが言うには、今、碧さんの陣痛が始まっていて、すぐそばに大人が誰もいないみたいだ。


 爺ちゃんは、近所の寄り合いに出かけてしまっているし、ばあちゃんは、回覧板を届けた先で近所の人と談笑中。学君はゲームに夢中で気づいていない。


 愛ちゃんだけが、碧さんの近くに居るけど、事の重大さに気づいていないようだ。


 本当に、そんなことが起こっているとしたら大変なことだ。でもどうすれば・・・


「健一君。次郎さんの職場は知ってる?」


「え?名前だけなら・・・」


「教えて!」


 僕がそれを教えると、彼女はすぐにスマホで電話番号を探し当てた。それを鞄の中に持っていたメモ用紙にメモると、僕に手渡す。


「時間がかかると思うから、健一君は公衆電話で連絡をとって!あとは・・・」


 彼女は目を閉じて、軽く息を吐く。ここに来るときに見せてくれたように何かを感じているのかもしれない。


「ダメ!遠すぎてイメージが安定しない。こうなったら・・・」


 再び彼女は目を閉じて、今度は祈るように両手を組み合わせた。


「お願い。愛ちゃん。気付いて!」


 一体、何が起こっているんだろう。彼女は何を見ているんだろう。


「そう。それ!いい子。その中に診察券があるから、そう。あとママの携帯電話がわかる?そう。それをこれからおばあちゃんの所に持って行って、お姉ちゃんの言う通りに操作して」


 そこまで言うと、僕の方に向き直って、


「健一君も早く!」


 彼女に促されて、僕は慌てて公衆電話を探しに向かった。


 公衆電話は、食品売り場の近くにあった。多分、今は殆ど使われていないんじゃないだろうか。


 僕はその前まで行くと、10円玉をいくつか入れて、彼女のメモの通りにボタンをプッシュする。すぐに役所に電話がかかった。


 それからいくつか取り次いでもらい、時間はかかったけど何とか次郎さんを呼び出すことに成功した。


「健一君。どうしたんだい急に?今日は纏ちゃんとデートじゃなかったのかい?」


「うん。それがね・・・」


 僕が事情を話すと、最初次郎さんは怪訝な様子だったけど、暫く話すうちに何とかわかってくれた。勿論本当のことは言えない。言っても信じてもらえないだろう。


 僕が受話器を下すと、程なくして纏さんが駆けてきた。


「こっちはうまくいった。そっちは?」


「うん。何とか・・・」


「そう。じゃあ、私たちも行くよ」


 彼女が僕の手を取って走り出す。


「行くってどこへ?」


 彼女は振り返り、


「西美濃総合病院」


 そう言った。





 西美濃総合病院は、岐阜県下随一の診療科を構える総合病院だ。


 岐阜県西濃地区における地域のがん診療連携拠点として、国道沿いに設置され、患者中心の医療、良質な医療の提供を基本理念として、西濃地区の中核病院としての役割をになっている。


 場所は、先ほどいたアミューズメント施設から歩いて約20分くらいの距離にある。


 僕たちは、自転車は使わず、早足でその病院に向かった。


 そして、僕たちが病院に着くのと、ほぼ同時にタクシーが到着し、その中から、ばぁちゃんに碧さん、そして学君と愛ちゃんが出てくる。


 碧さんはかなり苦しそうだ。ばあちゃんに肩を貸される形でタクシーから降りてきたところ、慌てて何人かの病院の人がサポートしに来た。


 病院の人に、碧さんを任せると、ばあちゃんは、


「纏ちゃん。ごめんねぇ。私が不甲斐ないばかりに、変な心配かけちまったね」


 と言って、なおも心配そうに碧さんの方を見つめる纏さんの頭にポンと手を置いた。


「でも大丈夫だよ。こんなの慣れっこさ。碧さんはああ見えて、とても強いんだ」


 そして、再び碧さんに付き添うようにその場を後にした。


 と同時に、「おねーちゃん」と愛ちゃんが、纏さんに抱き着いてくる。


「まなねぇ、うまくできたかな?」


「うん。偉いよ愛ちゃん。とっても上手だった。よく出来たね」


 纏さんが、愛ちゃんの頭を撫でると、愛ちゃんは幸せそうに笑う。


 この二人の間でどんなやり取りがなされたかはわからないけど、愛ちゃんは大活躍だったみたいだ。


 それからまた程なくして、今度は次郎さんが病院に到着した。


 そして、僕たちの姿に気づくと、こちらに寄って来て「碧は?」と聞いてきた。


 僕たちが状況を説明すると、暫く何かを聞きたそうにしていたけど、すぐに受付の方に歩いて行って手続き始めた。


 そして、僕たちは次郎さんの家族と共に、病院の奥に通された。


 碧さんがいる場所へ





 待合室で座って待っている間、次郎さんが話しかけてきた。


「さて、どういうことなのかちょっと話を聞かせてほしいんだが・・・」


 今、碧さんは陣痛室に居る。まだ出産までには時間がかかるそうだ。


「別に責めているわけじゃない。むしろ感謝しているよ。だけど不思議なんだ。確か君たちは一緒に出掛けていたはずだよね?どうやって碧のことを知ったんだい?」


 そうは言っても、どう話していいのかわからない。


 素直に言っても信じてもらえないだろうし、第一彼女がそれを望まない。


 僕があれこれと何か良い言い訳を考えていると、彼女がぎゅっと僕の手を握ってきた。


 その目が僕を見ている。彼女は何かを決心したようだった。


「いいよ。健一君。私が話すから」


 そう言って、彼女は、事の顛末を話し始めた。


 全て、包み隠さず・・・


「そうか・・・」


 次郎さんは、纏さんの言葉を驚いた顔で聞いていたけど、纏さんが話し終わると、嘆息し、何かを思うように暫く沈黙した。


 ぎゅっと、僕の手を握る彼女の手から、緊張が伝わってくる。


 何が彼女をそうさせるかはわからないけど、彼女にとってそれを話すことはとても辛い事なのは間違いない。


 それに対して、次郎さんは彼女の頭に手を乗せて、優しく撫でながらこう答えた。


「ありがとう。本当に感謝してる。君が居なかったらどうなっていたのかを考えると、背筋が寒くなるよ。本当にありがとう」


 そしてこう付け加えた。


「君のその力は、ひょっとして俺たちが忘れてしまった大切な何かなのかもしれないね」と、


 その言葉に、驚いたように彼女が次郎さんの方を見た。


「どうしたんだい?」


「いえ、その言葉、8年前に、健一君のお父さんからも聞かされました」


「そうなのかい?」


「ええ、ほぼ一字一句、そのまま・・・」


 当時を懐かしむように、彼女は目を閉じ、口元に微かな笑みを浮かべる。


「健一君たちに会った最初の日、本当は私、健一君のお父さんに聞きたかったんです。まだ、今でもそう思っているのかって・・・でも、今、その答えが出た気がします」


 ふーッと肩の力が抜けたように大きく伸びをすると、その手をゆっくりと下し、そして天井を見上げながら、彼女が言った。


「本当に、バカだったんだな。私・・・」と、


 それからまた暫く時間が経過した後、ついに次郎さんが呼ばれた。


 出産が始まったようだ。





 出産には、次郎さんとばあちゃんが立ち会うことになった。


 愛ちゃんと学君は、僕たちと一緒に待合室で待機。


 学君は、暇そうに足をブラブラさせているけど、流石にゲームをすることはなかった。単に、持ってきていないだけなのかもしれないけど・・・


 愛ちゃんは、纏さんの膝の上に座って、一人上機嫌だ。「まなねぇ、おねぇちゃんになるんだよ」とか言いながら時折鼻歌を唄っている。


 恐らく、一番余裕があるのはこの子なのかもしれない。


 纏さんはと言うと、そんな愛ちゃんを見ながら、さっきから「大丈夫。大丈夫」と言っているけど、殆ど自分に言い聞かせているだけのような感じだ。


 そして、次郎さんとばあちゃんが待合室から居なくなってから、約1時間が経過した。


 中の状況がわからないだけに、この時間はかなり長く感じる。


 すごいデートになっちゃったなと僕が思った時、微かに扉の向こうから、赤ん坊の泣き声のようなものが聞こえてきた。


 纏さんが僕の方を見る。だけど僕にはそれがそうなのかなんてわからない。首を横に振るだけだ。


 そしてまた暫くして、扉が開き、ばあちゃんが姿を現した。


 ばあちゃんは、僕たちの方をゆっくり見回すと、


「生まれたよ。元気な女の子だ」


 と言った。


 その言葉を聞いた途端、纏さんはパァっと顔を明るくして、愛ちゃんに抱き着いた。


「よかったね。よかったね。愛ちゃん」


「おねぇちゃん。いたい。いたいよ・・・」


 彼女の目には涙が浮かんでいる。だけど、その涙は昨日のものとは違って、とても暖かいものに違いない。


 国枝さんの言ったように、本当に、心の優しい子なんだな。纏さんは・・・


 それからまた暫くして、次郎さんが姿を現して、全員に入ってくるように促した。


 流石に僕たちは遠慮しようとしたのだけれど、


「何やってるんだい。あんたらもだよ」


 とばあちゃんに背中を押されて、一緒に入ることになった。


 分娩室の中では、碧さんがベッドに寝かされていて、その隣の新生児用のベッドには生まれたばかりの赤ちゃんが眠っていた。


「かわいー」と早速愛ちゃんがそっちの方に小走りで寄っていく。


「わたしがおねぇちゃんだよ」


 碧さんは僕たちが入ってきたことに気づくと、纏さんの方を見て小さく微笑んだ。


「次郎さんから聞いたわ。ありがとう纏ちゃん。またあなたに助けられてしまったわね」


 その言葉を聞いた纏さんは、静かに目を閉じ、何かを思い描くように暫く沈黙する。


 やがて何かに思い当たったかのように真っすぐに碧さんの方を見ると、こう答えた。


「それは違いますよ。碧さん」


「え?」


「私一人では何も出来ませんでした」


 そう言いながら僕の方を見る。


「健一君」


 次に愛ちゃんの方に目を向ける。


「愛ちゃん」


 更には、次郎さんとばあちゃんの方を見ながら、「次郎さん、おばあさん」と名前を呼んでいく。


「みんなの協力があったからこそ出来たんです。私一人では何も出来ませんでした。だからその言葉は私だけでなくみんなに言ってあげてください」


「そうね・・・ありがとう。みんな、本当に助かりました。愛も、ちゃんとお姉ちゃん出来たわね。ありがとう」


 それを聞いた愛ちゃんが「えへん」と胸を張る。


 学君が、「俺は?」と言うと、纏さんは少し意地悪く笑いながら、その額を人差し指でチョンと小突いた。


「君はゲームしてただけでしょ?ダメだよ。ちゃんと周りを見ないと」


「ちぇー」と不貞腐れたような様子の学君に「うそうそ、ちゃんと荷物運びのお手伝いをしてくれたんだよね」とフォローも忘れない。


「それに、この数日、私は皆さんから色んなものを貰いました。だから私は今、ここに居るんです。なのでお互い様です。本当にありがとうございました」


 そう言って軽く一礼すると、こう付け加えた。


「そして、これからもよろしくお願いします」


「ええ、これからもお願いね。纏ちゃん。愛や・・・」


 碧さんの視線が、新しく生まれた生命の方を向く。


「この子とも・・・」


 纏さんもまた、赤ちゃんの方を見た。


「のぞみよ・・・」


 碧さんがその子の名前を言う。


「希望の希と書いてのぞみ・・・」


「そうですか・・・」


 纏さんは、静かにそちらの方に寄っていくと、傍らで赤ちゃんをのぞき込む愛ちゃんの頭をそっと撫でながら、囁くように呟いた。


「ようこそ。希ちゃん。これから、お姉ちゃんとも一杯遊ぼうね」


 優しい。とても優しい笑顔だった。


「何だか吹っ切れたようだな。彼女」と次郎さんが僕の耳元で囁くように言う。


「健一君にはもったいないくらいだ」


 え?そりゃないよ。次郎さん。


 そして、彼女との慌ただしい初デートはいったん幕を閉じた。






 それから、僕たちは次郎さんの車で旧井家に帰ることになった。次郎さんは今日は泊まり込みで碧さんに付き添うつもりらしいけど、そのために一端戻って色々と準備をしなければならないということだ。


 旧井家に戻った僕たちは、関ケ原から戻ってきたたかしさんに自転車の回収を頼んだ。事情を聞いたたかしさんは、それを承諾し、纏さんから自転車の位置を聞くと車でアミューズメント施設に向かった。


「楽しかったか?纏」


「うん。すごく楽しかった」


 出がけに纏さんとそんな会話を交わしていた。


 そして、僕たちは今、旧井家の庭の中心にある松のそばに二人座っている。時刻はもうすぐ午後5時。随分と日も傾いてしまった。


 彼女との時間もあと僅か・・・胸に少しだけ寂しさのようなものが到来する。


「健一君、私ね・・・」


 と彼女が言う。


「昔、どうやったら太陽に手が届くのかなんて、そんなことばかり考えていたんだ」


 そう言って、傾きつつある太陽の方に手をのばした。


「変でしょ?」


「そんなことないよ」


 僕がそう言うと、彼女は少しだけ微笑んで、再び太陽の方に目を向けた。


「太陽までの距離は約1億4960万km。直径は約139万2700km。光の速さで約8分19秒。ここから見えるのは約8分前の世界の光・・・」


 うん。そんなものが、すぐにスラスラ出てくるのは確かにちょっと変かも知れない。そう思っていると、


「あ、今、やっぱり変だって思ったでしょ?」


 と、見透かされてしまい、僕は慌てて誤魔化すしかなかった。


「どうやって測るのさ、そんなの・・・」


「うーん、色んな方法があるけど・・・」


「聞かせて」


 僕がそう言うと、彼女は暫くの間目を瞑り、何かを色々と考えているようだったけど、やがて楽しそうに話し始めた。


「最初はやっぱり三角関数」


 と両手の指で、太陽に向かって小さな三角形を作った。


「あ、それ、知ってるかも。五円玉とか使うやつでしょ?」


「うん。それ」


 それから彼女が語った内容はとても壮大な内容だった。


 古代において、エラトステネスと言う人が考案した影を使って地球の大きさを測る方法から、その地球の大きさを利用して、月食時の地球の影から月の大きさを測る方法。


 そして五円玉のような小さなものを使って、月の大きさから三角関数を使って月との距離を測る方法。


 月との距離がわかれば、それを使って、半月のときの月、地球、太陽の位置関係から、やはり三角関数を使って太陽までの距離を図る方法。


 ひとと宇宙の歴史が彼女の口から語られていく。


 一つのものの大きさがわかれば、それを使ってまた大きなものの大きさを計っていく。


 古代から、そうやって人は色々なものを使って、より遠くのもの、より大きなものを求めてきた。


「でも、これだと、もっと遠いものの距離は測れない。何故なら遠くなればなるほど角度は小さくなって見えなくなっていくから・・・」


 そして彼女の意識は太陽を越えてもっと先に飛んでいく。


 次は光源を探すのだと彼女は言った。


「最初に使われたのは、ケファイド変光星と言って一定周期で変光する星の光。変光周期と実際の明るさには相関関係が見つかったから、目に見える見かけ上の光度と実際の光度からふたつの星の距離がわかるの。光度は距離の二乗に従って小さくなっていくから計算で求めることが出来る」


 更にそれより遠くになってくるともっと大きな光が必要になる。その為に使われたのがIa型超新星という太陽の質量の1.4倍よりも重い白色矮星が引き起こす熱核爆発だ。


 太陽数十億個分にもおよぶとても大きな光。これも特徴がある為、光源として最適だという。


「まさに宇宙の灯台だね」と彼女は言う。


「だけど、これにもまた限界があるの。最初の星が作られたのが宇宙が始まってから約5億年後のことだから、それ以上向こうには手がかりが何もない。だからもっと先を見る為には別のものが必要となってくる。それが・・・」


「宇宙マイクロ波背景放射」と嬉しそうに彼女は言った。


「それは宇宙が出来てから38万年後に放たれた原初の光。そこに刻まれた原初の音のカタチから色んな事がわかってくる。138億年前に作られた魚拓みたいなものかな」


「音?」


「うん。音というのはものの例えみたいなものだけどね。バリオン音響振動と言って、宇宙ができてから38万年後の、宇宙の晴れ上がりの前まではとても高温で、光もそこから出られなかったんだけど、光はそこから出ようとあちこちでぶつかっては音を立てるの。そして温度が下がって光が出られるようになると、放たれた光の中に、その音の残滓みたいなものが刻み込まれている。そこから色んなものがわかってくるの」


 宇宙の年齢、インフレーションの証拠、通常の物質と見えない物質や見えないエネルギーの構成比・・・


 ここまで来ると僕には何のことかさっぱりわからない。


 彼女は、手近にあった木の枝を手に取って、図と、何か数式のようなものを地面に書き始めた。だけど、僕にはそれを解読するだけの知識はない。


 遠いな・・・と思った。


 彼女の澄んだ目は何処までも遠くを見つめ、今にも飛んで行ってしまいそうだ。


 遠くへ、もっと遠くへ・・・


「ねぇ、けんいちくん。どうやったらおひさまにてがとどくのかな?」


 8年前、幼い手をいっぱいに伸ばして太陽を掴もうとしていた彼女。それは今も変わらない。


 光り輝く僕の太陽


 僕はずっと、その手を離さないで歩いて行けるんだろうか・・・


「それからね・・・」


 耳を撫でる彼女の言葉が心地よい。そう言えば昨日は殆ど眠っていなかった。少しうとうとしてきた。


「健一君?」


 彼女の声が聞こえる。でも殆ど聞き取れない。


「寝ちゃったの?しょうがないなぁ・・・」


 呆れたような彼女の声。彼女が近寄ってくる気配がする。だけど眠い。


「ありがとう。健一君、私を連れ出してくれて・・・」


 耳元に彼女の気配を感じる。


 そっと頬に何かが触れた気がした。






 次に目が覚めたとき、日はさらに傾き、西の空に沈もうとしていた。


 慌てて身を起こすと、


「あ、起きた」


 とすぐ傍に座っていた纏さんが嬉しそうに笑った。


「ごめん!僕寝てた?」


「うん」


 しまった。時間を無駄にしてしまった。ただでさえ時間が少ないのに・・・


「みんなは?」


「まだ、家の中。たかし兄さんもさっき帰ってきたよ。Oguri1号の最後のメンテナンスだって。明日持って帰るんでしょ?」


「うん。そのつもりだけど、しまったなぁ、ホントにゴメン。もっと君と、色んな事、話したかったのに・・・」


「いいよ」と彼女は笑った。


「見ていて全然飽きなかった。健一君の寝顔」


「え?」


 何だかそんなことを言われると照れるな・・・


「じゃあ、行こ。みんなのところへ」


 そう言って、玄関の方に向かおうとする彼女を僕は慌てて呼び止めた。そう言えばすっかり忘れるところだった。


「なに?」


 僕は、財布の中から一枚のメモを取り出して彼女に渡した。


「何?兄さんの電話番号?」


 違った、そっちじゃない。こっちだ。


 僕は、慌ててもう一枚の方のメモを彼女に渡した。


「誰の電話番号?」


「国枝さんの・・・彼女に頼まれてたんだ。もしよかったらここにかけて欲しいって」


 何となく、今の纏さんなら大丈夫じゃないかなと思ったんだけど・・・


 彼女は僕とそのメモを交互に見た後、「健一君らしい・・・」と小さく微笑み、こう続けた。


「いいよ。連絡とってみる。健一君がそう言うなら、多分いい子なんだと思う。ありがとう」


 良かった。きっとうまくいくよ。


「じゃあ、行こ。早く」


 そう言って彼女が僕の手を取る。本当に前向きになった気がする。僕も少し彼女を見習おうかな。


 まずはやめてしまった野球を再開しよう。父さんも戻ってきたことだし、まだまだ色んな楽しいことがある。彼女とは離れてしまうけど、すぐにまた会える。


 だから今をもっと楽しもう。


 そう思って、玄関に向かいかけたとき、門の外でタクシーが止まり、その中から人がふたり降りてきた。


 男の人と女の人だ。僕はその姿に見覚えがあった。


 ふたりは、門をくぐると、僕たちに気づいて近寄ってきた。


「旧井さんのお宅はこちらで良さそうだね。健一君だったかな。葬式の時以来だ。覚えているかな?」


 それは、父の葬式に参列してくれた、あの会社の上司と、同僚と言う女性だった。







 タクシーから降りてきて健一君と話していたのは、知らない男の人と女の人だった。


 話している健一君からは、時折緊張のようなものが伝わってくる。


 何だろう?胸騒ぎがする。何か悪いことが起きなければいいけど・・・


 そのまま私たちは、その二人と共に、旧井家の玄関に入った。


 玄関から中に入った私たちを、さっそく、兄さんとOguri1号が出迎えてくれた。


「よう。ふたりとも、もういいのか?せっかく二人きりにしてやったんだから、もっと楽しんでいればよかったんだが・・・」


 と、そこで私たちの後ろに居る2人に気づいた。


「そちらは?」


 それに対して、男の人が答えるより先にOguri1号が声を上げた。


「恵君に部長じゃないか?どうしたんだ?こんな時間に」


「あ、凄い!本当に動いてる。Gakiami Modeで送っちゃったことに気づいたときはどうしようかと思ったけど、詳しい人居たんですね」


「小林君」


 女の人が嬉しそうにOguri1号と話すのを部長と呼ばれた人が窘める。


「はい。すみません・・・」と女の人は申し訳なさそうにシュンと身を縮めた。


 その様子を見ていた次郎さんが「どうしたんだ?」とこちらに近寄ってきた。


 部長と呼ばれた人が改めて頭を下げると、女の人もそれに続いて頭を下げた。


「こんな時間に申し訳ありません。実はそこにあるOguri1号についてお話したいことがあって参りました」





「どうぞ」


「ああ、すみません・・・」


 健一君のお母さんが、お茶の入った湯呑を客間のテーブルの上に置くと、男の人は軽く一礼をしてそれを受けた。女の人はその隣でうつむいたまま黙っている。


 みんなその様子を遠巻きに見守っている。健一君はと言うと、さっきから私の後ろでうつむいて黙ったままだ。


 重苦しい雰囲気に心が沈む。


 健一君のお母さんは、そのままテーブルを挟んで部長と呼ばれた男の人の前に座ると、会話を促した。


「それでお話と言うのは?」


「ええ、Oguri1号なのですが、実は手違いがありまして、弊社の方からご自宅に郵送されてしまったのです。すぐにそれに気付いて、そちらに伺わせて頂いたですが、既に旅立たれた後だったようで・・・その後、GPSの信号を辿って、こちらにあることを確認させていただきました」


 そこまで言うと、ひとつ息を吐く。嫌だな。この先の言葉はあまり聞きたくない。


 男の人は、言いにくそうにしながら、ひとつ息を整えると、こう続けた。


「申し訳ないのですが、Oguri1号はこのまま回収させていただきたいのです」


「回収・・・ですか?」


「はい。皆様にご迷惑をおかけしたことは大変申し訳なく思っています。ですが、弊社と致しましてもあれは大きな資産です。機密情報でもありますのでこのままここに置いておくわけには・・・」


 そこで暫く会話が途切れた。シンと静まり返った部屋に時折風鈴の音だけが聞こえてくる。


 話はわかる。だけど、みんなその真意をはかりかねているような感じだった。


「わかりました。ですけど、今度はいつ、Oguri1号に会えるのでしょうか?息子があれを気に入っていますので・・・」


「それは・・・」


 言いよどむ男の人の隣で、それまで黙って話を聞いていた女の人が突然立ち上がった。


「部長!やっぱり私、納得できません。だって先輩が一生懸命やってきたことなんですよ!先輩の家族には、その想いを受け取る権利があるはずです!」


 今にも、男の人につかみかかりそうな勢いでそう捲し立てた。それに対して男の人は、極めて冷静に応じる。


「小林君、君がやったことは明確な社内規定違反だ。それは何度も話したはずだろう?」


「だって、こんなのあんまりです。せっかく先輩がここまで頑張って進めてきたのに・・・それなのに・・・」


「あんまりです・・・」もう一度そう言うと、女の人はポロポロと涙をこぼし始めた。


 再び、重苦しい雰囲気が辺りを支配する。


「何があったんですか?よければ聞かせてください」


 健一君のお母さんがそう言うと、部長さんは静かに話し始めた。事の経緯を。




「人間のように振舞うことが出来るロボットを作る」


 それが健一君のお父さんが関わっていたプロジェクトの目標だった。


 人間のように会話し、人間のように喜び、人間のように悲しむ。


 そんな夢物語のようなものを目標にして、そのプロジェクトは始まった。


 もう随分前の事だ。


 世の中にはそう言う夢物語のようなものにお金を出す人も多数いる。そんな人に支えられて、そのプロジェクトには人が集まってきた。


 その中には、部長さんや、健一君のお父さん、小林恵と呼ばれた彼女の姿もあった。


 だけど、昨今、人工知能自体の有用性が大きく報じられるにしたがって、プロジェクトそのものの存在意義が問われるようになってきた。


 プロジェクトから生み出された様々な知見はとても役に立ったものの、一体、「人間のように振舞うロボット」そのものに何の価値があるのかと。


 連日のように会議は紛糾し、その中でひとりひとりと人が離れていく。何故ならば、人工知能にはもっと有用で、もっと便利な使い方が生み出されつつあったからだ。


 優れた人材ほど、他のプロジェクトに引き抜かれ、元あったプロジェクトは解散の危機に晒された。


 そして、そんな中起こったのは、今やプロジェクトの中心人物となった健一君のお父さんの事故死だった。


 そうなると、もはや存続させる意味はなくなっていく。


 意味のないものにお金を使う理由はない。企業であるならばそれは当然の選択だ。


 そして、会社が下した結論は非情なものだった。


「人工知能はこれからも人をより便利に、より幸せにしていくだろう。だが、人工知能自体がその幸せを感じる必要はない」


 そして、プロジェクトは解散した。


 当たり前の成り行きだった。





「Oguri1号はどうなるんですか?」


 と健一君のお母さんが聞くと、部長はまたひとつ息を吐き、


「恐らく解体され、機能そのものは様々な用途に使われていくでしょう。その意味では全く意味のなかったものではなかったと言えるのですが・・・」


「そんな・・・」


 健一君のお母さんが声を詰まらせる。


「どうにかならないんですか?お金なら少しくらいは用意できますが・・・」


 男の人はふー、とひとつ息を吐き、


「申し訳ありませんが、あれの研究開発には既に数十億円の資金が投入されています。それに機密事項でもありますので私の一存だけではどうにも・・・」


 ガン!と大きな音が後ろから聞こえてきた。


 妙子さんが柱を蹴飛ばした音の様だった。


「勝手にすればいい!お金、お金って、いったい人の気持ちを何だと思ってるの!?」


 そのまま肩を怒らせてその場を立ち去って行ってしまった。


 そして、それに続くように小林恵と呼ばれた女の人もまた、立ち上がって部屋を出て行く。


「小林君!」


 と呼び止めようとした部長さんは、すぐにその手をおろし、大きなため息をついた。


 どうにかしたいのは、恐らくこの人も同じだ。


 でもどうにもならない・・・


 ただ問題は・・・


 私は、私の後ろでずっと俯きながらその会話を聞いていた健一君の方を見た。


 どうしよう。私はどうすれば・・・


 彼にとってOguri1号は・・・


「そう言えばたかし君、昨日君に推薦された小説を読ませてもらったよ。言われた通り、感想を述べたいんだが・・・」


 と突然、Oguri1号がそんなことを言い出した。空気が読めないことこの上ない。


「おいおい、今はそんなことを言ってる場合じゃ・・・」


「いや・・・」


 部長さんが言った。


「続けたまえ。少し状況が見たい」


 たかし兄さんは、ふぅと息を吐くと、「じゃ、遠慮なく」と続けた。


「それでどう思った?」


「ああ、設定自体はとてもよく出来ている。今いるこことは全く別の世界の事なのだが、実際の史実をモチーフに様々な設定を付け加えてリアルに仕上がっている。問題は・・・」


 と、とても熱心にその作品についてOguri1号が話し始める。別の世界、架空の人物、にも関わらず、世界史になぞらえたような細かい設定と人物描写。それは聞いているものに読みたくなるような感覚を覚えさせるかもしれない。


 批評家としてはとても優秀だ。確かに読んでみたくなる。だけど・・・


「なるほど」とたかし兄さんは嘆息した。


「確かに読みこんではいる。評価も正確だ。だけどひとつ聞いていいか?」


「ああ、なんでも聞いてくれ」


「あんたは、その小説は好きか?嫌いか?どっちだ?」


 長い沈黙が訪れた。


 それは人間であるならば、簡単な答えだ。好きならば好きと答えればいい。嫌いなら嫌いだ。


 そう。人間であるならばだ・・・


 だけどその答えはいつまで経っても出てこなかった。


「好きだと思うよ」


 と、突然私の後ろに居た健一君がそう呟いた。


「父さん、そういう夢のある話、すごく好きだったから」


「おおそうか」とOguri1号が納得したように声を上げる。


 そして言った。


「勿論、好きだ」と・・・


 また暫く沈黙が訪れた。


 各々どう感じたかはわからない。だけど、わかってしまったのだ。今の会話の意味を・・・


 それの意味するところは・・・


「ゴメン、僕、少し風に当たってくるよ」


 そう言って、健一君はその場を後にした。


 私はそれに対して、どう声をかけていいのかわからなかった。どうすれば・・・


「健一は・・・」と健一君のお母さんから言葉が漏れた。


「ここに来て、あのロボットを動かしてからの健一は本当に生き生きしていました。本当に久しぶりだったんです。あんなに生き生きとした目をするあの子を見るのは・・・それまでのあの子は、ずっと自分のことを閉じ込めていたみたいでした。だから・・・」


 ポロポロと涙を流しながら健一君のお母さんは言った。


「だから、お願いです。あの子から二度も父親を取り上げないでください」


 胸が痛む。その感覚を私は知っている。


 そう。何度も思った。あの時、ちゃんとお母さんに話せていればどうなったのか。


 そうすれば、こんなつらい思いをしなくても済んだ。ずっと幸せでいられたのではないかと・・・


 もし、あの日をやり直すことが出来るならと・・・


 だけどそれは叶わない夢だ。


 何度そう思おうと、現実は酷薄で決して私の思い通りにはならない。


 だからこそわかる。


 恐らく、Oguri1号を通じてお父さんが生き返った事は、彼にとってはきっと夢のような出来事だったに違いない。


 それはほんのひと時の夢だったのかもしれないけど、そこには彼が望んだ世界が広がっていた筈だ。


 だけど、夢はいつかは終わる。でもその先に何があるのだろう?


 私に「好きだ」と言った彼はそこに居るのだろうか?


 また、私にそう言ってくれるのだろうか?




 ・・・させない。




 そんなことは絶対にさせない!そんなのは嫌だ!


 そう、これは私のわがままだ。


 だけど、今わかった。何故、ここに私が居るのか、今、私は何をしたいのか。そして、この4カ月の間に私が感じていたこの感覚が何だったのか。


 その為にはやるべきことがまだある。


 だから・・・


 私は、まず、あの小林恵と呼ばれた女の人が行った方に向かった。




 その女の人は、暗い部屋でうずくまって膝を抱えて座っていた。


 ボロボロと涙を流してうずくまるその姿は、まるで大人には見えない。子供の様だ。


「お姉さん、大丈夫?」


 私がそう言うと、恵さんは僅かに顔を上げて私を見た後、


「大丈夫じゃないです」


 そう言ってまた顔をうずめてしまった。


 何だか本当に子供みたいな人だ。


 私はその隣に座ってそっとその頭を撫でてみた。すると再び顔を起こし、


「うう・・・子どもに慰められてしまいました。でも何だか先輩に撫でられているようで少し気持ちいいです」


 と少しだけ身をゆだねてきた。なんだか妹みたいだ。ちょっとだけ愛ちゃんに似ているかな。


 暫くそうしていると、ようやく落ち着いたのか、恵さんは、そっと私から身を離した。


「有難うございます。少しだけ落ち着きました。ええと・・・」


「纏です。篠原纏」


「纏ちゃん。ありがとう。私戻りますね」


 私は、そう言って立ち上がろうとした恵さんの手をとってその場に留めた。


「少し、私のお願いを聞いてほしいんですけど、いいですか?」


「お願いですか?ええ、私に出来る事ならば・・・」


「聞かせて欲しいんです。健一君のお父さんのこと・・・」


「先輩のことですか?」


「はい」


 私の言葉に恵さんは少し怪訝な顔をしたけど、すぐに何かを思うように目を閉じ、口元に小さな笑みを浮かべながらこう答えた。


「不思議ですね。あなたを見ていると、何だかそうしなければならない気がします。いいですよ。お聞かせします。先輩の事を・・・」


 そう言って、恵さんが話し始めたのは、まずは会社の面接の時の事だった。面接官のひとりに健一君のお父さんが居たということらしい。


「私ね。実はゲームのキャラに憧れてこの世界に入ったんですよ」


「ゲームのキャラ・・・ですか?」


「そう!すっごく可愛いメイドロボットなんですよ!」


「そ、そうなんですか・・・」


 何だかちょっと話の方向がおかしくなってきた。大丈夫だろうか?


 それから恵さんが話し始めたのは、昔のゲームの事だった。何でも昔のゲームに女の子との形をしたメイドロボットなるものが出てきて、人間との色んな感動のストーリーを綴っていくとのことらしい。


「ひとと交わりながら、一生懸命生きていく彼女を見たとき、私、将来絶対こういう子を作ってあげたいと思いました!」


 時折興奮気味に色んなシーンを語る恵さんの姿は子供そのものだ。だけどあいにく私にはそのゲームのことがわからないので曖昧に頷くことしかできない。


 ちなみに、ちょっと心が引いた・・・


「それで、そのことを面接のときに話したんです」


「ゲームの事をですか?」


 驚きの発言だ。ある意味凄い人かもしれない。


「はい。そしたら他の面接官の方は呆れたような顔をしていたんですが、先輩だけは真剣に聞いてくれました。夢のある話だねと・・・」


 ああ何となくわかる。そんな気がする。私は、一度だけしか会っていないけど、色んな人から聞いた話から総合するに、健一君のお父さんならそう言うだろう。


 そして無事採用され、所属が決まった。その直属の上司が健一君のお父さんだったということだ。


 多分、採用を決めたのもそうだったんじゃないだろうか。そして責任をもって彼女を引き受ける形になったという事なのだろう。


 何と言うか、ちょっとアクの強い彼女を・・・


「先輩には色々なことを教えて頂きました。勿論、技術的なこともそうなんですが、他にも色々と・・・」


 当時を思い出すように目を閉じて楽しそうに語る恵さんの言葉から、色んな想いが流れてくる。それはとても充実した時間。辛いこともあったけど、それを忘れるほどに、幸せな時が流れていく。


「本当に幸せでした。だから私はこの仕事を続けてこられたんだと思います。なのに・・・」


 恵さんの顔が曇る。嫌なことを思い出したかのように苛立ち気味に肩を震わせると言葉を続けた。


「あいつら卑怯なんです。私と同じように先輩に色々とお世話になったはずなのに、まるで手のひらを返したかのように、やれ妄想だとか、やれお金の無駄遣いだとか、あんなに一緒に頑張ってきたのに・・・私、それが悔しくて悔しくて・・・」


 肩を怒らせながらそう呟く恵さんの瞳から悔し涙がこぼれていく。


 気持ちが伝わってくる。彼女の純粋な気持ちが・・・そうか、多分だけど・・・


「好きだったんですね。健一君のお父さんのこと・・・」


 私がそう言うと、ハッと、我に返ったように恵さんが私を見た。それから、暫くして切なそうに視線を落とすと、小さな声で呟いた。


「私、バカですよね。どうにもならないってわかっていても、どうしてもその気持ちを止められなかった。だけど先輩と一緒に仕事が出来て本当に幸せだったんです。だからあんなことをしてしまいました。いけない事だとわかっていても、どうしても先輩の心を届けたかったんです」


 伝わってくる想いはとても純粋で綺麗だ。心に響くそれはとても心地よい調べ・・・


 トクトクと波打つように感じるのは切なくも純粋な心の結晶。感じるだけで心が穏やかになってくる。


 すごい。こんな風に人を好きになることも出来るんだ。


「確かにバカですよね・・・」


「うう、子どもにまで馬鹿にされてしまいました。ちょっとショックです」


「でも・・・私、嫌いじゃないですよ。バカな人」


 有難う恵さん。これでもうわかった。全ての想いは受け取った。


 だから届ける。今度は私の番だ。


 そう。幼い頃からずっと閉じ込めてきた私の心を解き放ってくれたのは彼だ。


 例え、それが偽りのものだったとしても、確かにそれは私を満たしてくれた。


 だから会わなければならない。本当の彼に・・


 そして届けなければならない。この想いを・・・





 それから私は、彼を探した。


 そしてすぐに見つかった。


 健一君は縁側に座って、じっと月を見ていた。


 今日の月は満月に近い。鮮やかな月の光に照らされた彼の姿は、いつもより儚げに見える。


 私が近寄ってきたことに気づくと、健一君は、「ああ纏さん」と穏やかに微笑んだ。


 その様子は至って普通だ。普段の彼と変わらない。でも・・・


 私は、そのまま彼の隣に座り、同じように月を見つめた。


 月に照らされた彼の横顔は驚くほど穏やかだ。だけど何だろう。さっきまで松のそばに二人座っていた時とは違って、距離を感じる。お互いの距離自体は何も変わらないのに・・・


 ダメだな私は・・・いざ、こうなってみると言葉が出てこない。あんなに心に決めたのに、私はまだ臆病なままだ・・・


 暫く無言の時が流れる。


 私は意を決して言葉を紡いだ。


「健一君。Oguri1号の事は・・・」


「わかってたんだ」


 私が言い終わらないうちに、健一君はその言葉を遮った。


「わかってた?」


「そう。わかってたんだ。父さんがもう居ないってことなんてとっくにね。だけど父さんの声を聞いた時、ひょっとしたらって思ってしまった。本当に父さんが帰ってきたように思えた。だからこの1週間は本当に楽しかった」


 そして、何かを諦めたような顔で小さく微笑むと、健一君は私の方を向いてこう言った。


「ありがとう。君のおかげだ」と、


 嫌だ。そんなありがとうは要らない。私が欲しいのはそんな言葉じゃない。


 胸が苦しい。泣いてしまいそうだ。


「もとに戻っただけなんだよ。あとは同じ。だからもういいんだ。もう・・・」


 穏やかな微笑み。だけどそれは決して彼の言葉ではない。そこにあるのは抜け殻だけだ。だから告げなければならない。他でもない。私がだ。


「違うよ」


「違う?」


「そう違う。それだけは絶対間違っている。うまく言えないけど、健一君のその選択だけは絶対間違っていると言える。絶対に」


 だって、私がそうだったから・・・


「違うって何がだよ?意味が解らないよ。何も違わない。父さんはもういない。だからそれでいいんだ。僕にはそれに対して何かを言う資格はない」


「資格?資格って何?そんなのあるに決まってるでしょ?だって家族なんだから、それ以上のどんな資格があるって言うの?」


 私のその言葉に対して、彼はムッと口を閉じ、苦々し気に私の方を見ると、そのまま沈黙した。


 家族


 その言葉を聞いて彼がどう思ったのかはわからない。だけど、彼がいつも口にしていたその言葉が逆に彼を苦しめているのは確かなのだろう。


「何で怒らないの?みんな怒ってる。私だっていやだ。あんなに苦労して動かして、動いた時、あんなに喜んで、なのにどうしてこんなに簡単に諦められるの?おかしいよ絶対」


「だって、仕方ないじゃないか。元々会社のものなんだし、それにあれは父さんじゃない。父さんの声をしたロボットだ」


「だから諦めるの?」


「そうだよ!それの何が悪いんだ!?」


 そう言って、苛立ったように私から目を逸らした。


「だって、仕方ないじゃないか・・・」と、


「健一君。私の目を見て。そして話して。何があったの?今のあなたは明らかにおかしい。今の健一君はなんか・・・いやだ」


 そして聞かせて欲しい。本心を・・・でないと届かない。何も・・・


 彼は暫くの間、不満そうに私の方を見つめたものの、やがて悲しそうに目を落とすと呟くようにこう言った。


「殺してしまったんだ。僕が・・・」と・・・


 それから彼が語った内容は、とても辛いものだった。


 それは野球の試合の当日のこと。当時、いつも遅くまで帰ってこなかったお父さんに対して、彼はその日の野球の試合だけは観戦しにくるように頼んだ。


 何故ならば、それはレギュラーに選出されて初めての試合だったからだ。


 多分、それは普段あまりわがままを言わない健一君にしてみれば珍しい事だったのだと思う。


 お父さんは、必ず行くと約束し、そして当日になった。


 だけれども、いつまで経ってもお父さんは現れない。


 そして、最終回の攻撃を残すのみになった時、監督に事故の事を聞かされた。


 お父さんは現れなかった。もう・・・二度と・・・


「父さんは、急いでいたみたいなんだ。会議が長引いて、もう間に合わないことはわかっていたけど、それでも何とか早く試合を見に来ようと、たまたま見つけたタクシーに駆け寄ろうとして・・・」


 そしてひかれた。殆ど即死だった・・・


 苦しい気持ちが伝わってくる。色んな事を思い出す。それはかつて私が辿ってきた道だ。


 でも、だからこそわかる。その道の先には何もない。ただのひとりよがりの空虚な世界が広がっているだけだ。


「Oguri1号のことは残念だと思う。せっかく父さんが作ったものだからもっと動いていて欲しいとは思ったけど、だからと言って僕には何も言う資格はない。それにあれは父さんじゃないからね。本当の父さんは何処にもいない。もう何処にも・・・」


 苦しい。だけどわかった。だからもう迷わない。


 恐らく、こういう時、普通の人なら、慰めの言葉をかけるべきなのだろうと思う。だけど今はそうすべきではない。


 そう。これは私のわがままだ。


 昨日まで、私が感じていた私の彼に対する想いは、ひょっとしたら、かりそめの麻疹のような想いだったのかもしれない。それは例えるならば憧れに近い。


 だけど今は違う。


 だから言う。


 だって、私は本当に、心から・・・




 彼の事が好きだから。




「ひどいお父さんだね」


 私の言葉に、彼は電撃のように反応した。信じられないものを見るかのような目で私を見る。


「今なんて?」


「ひどいお父さんだって言ったの。だって野球にも見に来なくて、死んだ後も、こんなに健一君を苦しませて、もう居ないのにみんなに迷惑をかけている。これを酷いって言わないで何て言うの?」


「そんな言い方ないだろ!父さんだってそうしたかったわけじゃない。だって僕さえあんな約束しなければきっとみんなと一緒に居られたんだ。それを僕が壊してしまった」


「そんなの知らない!だって現にこんなにみんなや健一君を苦しませている。これを自分勝手って言わないでどういうの!?」


 胸が痛い。本当はこんなことを言いたくはない。辛かったねって抱きしめてあげたい。だけどダメだ。そんなことをしたら彼はもう戻ってこない。


 涙が出てきた。でも私にはこれしか方法が思いつかない。これしか・・・


「君がそんなことを言うとは思わなかった。もっと優しい子だと思ってたのに」


「そんなの知らない!私は私。勝手だよ。健一君も、健一君のお父さんも」


 私が黙らないのにイラついたのか、彼が私の肩を握って、力づくで押さえつけようとする。


「謝れ!僕はともかく父さんはそんな人じゃない!」


「嫌だ。謝らない!絶対に間違っている!」


「謝れ!」


 大きく突き飛ばされて、私は畳の上を転がった。


 痛い!だけどこんなのどうってことない。こんなのあの時は日常茶飯事だった。こんなものより痛いのは彼自身だ。


 健一君が近寄って来て、私に向かって大きく手を振りかぶった。


 怖い!でも・・・


「ちょっと、健一、あんた何してるの!?」


 その時、横から制止の声が掛かった。妙子さんが物音を聞きつけてやってきたようだ。


「あんた、纏ちゃんに何を・・・」


「来ないでください!」


 私の声に、妙子さんがピタリと立ち止まる。そして信じられないようなものを見るかのような目を私に向けてくる。


「纏ちゃん?あなた何を・・・」


 ありがとうございます。でも、まだダメなんです。今はまだ・・・


 騒ぎを聞きつけて色んな人が寄ってくる音がする。もうダメだ。私はすぐに立ち上がると健一君の方に向き直った。


「叩けばいい!それであなたの気が済むなら、私にぶつければいい!」


 そう。これは私の、私と彼の戦いだ。だから今は、他の人は要らない。


「君に・・・」


 健一君は、そのまま振り上げた手を下すと、その手をじっと見つめた。


「君に何がわかるって言うんだ。僕の事も、父さんの事も・・・僕がどんな想いだったのかなんて・・・」


「わかるよ!」


 私は叫んだ。


「わかる・・・わかるんだよ健一君」


 そう。わかる。それが4カ月前から私がずっと感じていたものの正体だ。このところ私をずっと満たしていたものの正体。あの不思議な感覚の正体は・・・


「健一君。約束したよね?今日一日は私の言う事を何でも聞いてくれるって、あれはまだ有効なはずだよ」


「それは・・・」


 健一君が目を逸らす。だけどそんなことはさせない。私は彼の手を取ると、真正面から彼を見つめた。


「だったらお願い。健一君」


 そう。これは私の最後のわがままだ。


「私を信じて」


 そのまま健一君の手を取りながら、意識を集中する。


 視界が上っていく。私が感じるのは4カ月前のあの日の事・・・そこからすべては始まった。


「おねーちゃん、すごい。ひかってる」


 愛ちゃんの声が聞こえる。


 そして、想いは重なる。健一君と、そしてその人の想いへと・・・




 そこは暗い。とても暗い場所だった。


 何も見えない。何も感じない。だけどかすかに聞こえてくる。すすり泣くような声が・・・


「あなた!どうして?どうしてこんなことに・・・あああ・・・」


 泣いている。僕の大切な人が泣いている。動かなくなってしまった僕を前に大声を上げて・・・


 その傍らでは茫然とその姿を見ている子供が居る。大切な、大切な僕の家族・・・


 いやだ。


 まだ僕はこんなところでは終われない。


 だって、誓ったじゃないか。幸せにするって。


 だから、もっとずっと一緒に歩いていかなければならないんだ。彼らと・・・


 もっとずっと見ていたいんだ。色んなものを、彼らと一緒に・・・


 だけど、消えてしまう。僕の存在が。いやだ。こんなのはいやだ。


 だから探した。僕の断片を。


 全てが世界に吸収されて無くなってしまう前に・・・


 全てが暗闇に閉ざされてしまう前に・・・


 そして見つけた。


 それは8年前に出会ったあの不思議な少女だった。


「なに?何の声?」


 彼女だけは僕の声が微かに聞こえるようだった。彼女の心はとても疲れていて、ひどく傷ついているようだったけど、とても大きく、そしてとても暖かで、彼女と触れるだけで僕の存在は安定した。


 だから僕は囁き続けた。彼女の耳元で。


 僕はここに居るよ。僕に気付いてと・・・


「明日は、雨か・・・何だろう。最近妙に感覚が研ぎ澄まされている気がする・・・こんなの何の意味もないのに・・・」


 そこから僕の存在は常に彼女とともにあった。


 彼女が住んでいたのは僕ととてもなじみ深い場所だった。


 豊かな自然に囲まれた土地に、穏やかな時間。


 彼女はそこで穏やかに暮らすことを望んでいた。


 そう。表面上はだ・・・


 そこから暫く、穏やかだけど、何処か空虚な時間が流れていく・・・


 そして僕は彼女を通じて再び出会う。僕の大切な人たちに。


「マニュアル。あるんですか?」


 そう。これは僕のわがままだ。僕自身の想いを彼女に投影してしまった。


 だけどもう、僕にはそれしか道が残されていなかった。


 でも、彼女は集めてくれた。僕の断片を、少しずつ・・・


 半分は僕の意思、そしてもう半分は彼女自身の、恐らく彼女自身も知らない自分の意思で・・・


「有難う。纏君。僕をここまで連れてきてくれて」


 本当にありがとう。胸が一杯だ。君のその優しさと、君自身も知らないその輝きに導かれて僕はここまで来れた。


 だけど、もう一度だけ。もう一度だけでいい。


 僕に力を貸してくれないか?




 視線が重なる。それは、とても強い想い。


 私は感じる。彼の存在を・・・


 色んな想いがここにはあふれている。それらをひとつずつ絡みとっていく。


 慎重に、ゆっくりと、あやとりの糸を操るように・・・


 共鳴するそれらは、ひとつひとつが大切な想いの断片だ。それをひとつずつ纏めていく。


 出来る。今ならきっと。


 その為に、私は今、ここに居る!




 そして・・・


 ロボットが動き出す。


 静かに・・・ゆっくりと・・・


「わ!びっくりした」


 恵君が驚いたように僕を見ている。


「な、何で動いてるの?だって、ちゃんと電源切ったのに!?」


「何をしているんだ小林君。もう、これ以上彼らを悲しませるようなことは私が許さない」


「え?でも、だって、部長。これ、違いますよ。だって、何のデータも表示されていない。Oguri1号・・・完全に機能を停止しています」


「何だって?じゃあ何故?」


 この二人には、随分とお世話になった。最後までプロジェクトを完遂できなくて申し訳ない。だけど本当にありがとう。


「恵君。恐らくアプローチ自体は間違っていない。ただ、データ中心のあり方にはもう少し熟考が必要だ。世界はそんなに単純には出来ていない」


「は、はい!わかりました!・・・って、ええ?」


 恵君。君ならやれる。僕が出来なかったことを、僕以上の情熱を持って進めることが出来るのは君しかいない。


「先輩・・・?」


 そして僕は向かう。彼のもとへ。そして伝えなければならない。彼に・・・




 私は、握っていた彼の手をそっと放すと、ひとつ息を吐いた。


 本当に無茶なことをした。こんなに限界まで力を振り絞ったことは今までにない。


「今のは?」


 健一君が不思議そうに自分の手と私を交互に見比べる。


 ありがとう。健一君。私を信じてくれて。あなたが心を開いてくれたからこそ私は出来た。


 それに、多分、ここだから出来たのだろう。照手姫の想いの残るこの土地だからこそ・・・


 そう。照手姫は決して、守られているだけの人じゃない。何故ならば、自ら進んで土車を引いて、結果小栗判官は蘇った。


 様々な人の手、様々な想いを紡ぐ、その担い手として彼女自身もまた自らそれを行ったのだ。


 ここはその彼女の想いが残る土地。その土地で私は、様々な想いに触れてきた。


 だからこそ出来た。そう。これはまさに奇跡だ。


 私は、そっと身を引く。そしてそこにはロボットが立っていた。


 静かにロボットが歩を進めていく。健一君の方へ・・・


「何だよ。今更そんなものを見せて僕にどうしろって言うんだよ?」


 健一君が身を引く。私は再び彼の手に自分の手を重ねた。


「違うよ健一君。よく見て。もうわかっているよね?」


 目ではなく、心で感じて欲しい。そこに何が見えるのかを・・・


「・・・父さん?」


 健一君の口から言葉が漏れる。


 そしてその言葉に呼応するかのようにロボットが反応した。


「ああ、そうだ。お前の父さんだ。久しぶりだな。健一・・・」


 そしてまた暫く時が流れる。ゆっくりと、想いをかみしめるかのように・・・


「ダメだな。色々と伝えたいことがあったんだが、いざこうなってみると何を言っていいのかわからなくなる。とりあえず、まずはすまなかった。野球、見に行けなくて、本当に申し訳ない」


「何だよそれ?そんなの今更言うことかよ?」


 少しだけ笑いながら、涙声で健一君が言う。


「そ、それはそうなんだが・・・まぁ一応けじめとしてはな。約束は約束だったし・・・」


「何だよそれ?おかしいよ。僕がどんな想いで待ってたかなんてわかんないだろ?それをけじめだとか、約束だとか・・・」


 ポロポロと大粒の涙が健一君の頬を伝って流れていく。こらえきれなくなったのか健一君はOguri1号に抱き着いた。


「会いたかった!会って謝りたかった!どうして、どうしてって、何度も、何度も!」


 息せききったように言葉が流れ落ちていく。健一君は泣いていた。大声を上げて、子供のように・・・


 困ったようなロボットの仕草が、どことなくぎこちない。その手を健一君の頭に添えて、そっと撫でるような動作をする。


「あなた・・・」


 健一君のお母さんが近寄ってきた。その瞳は既に涙でぬれている。


「ああ、秋子さん。すまない。必ず幸せにするって誓ったのに、本当に君には迷惑をかけてばかりだ・・・」


「なに言っているんですか?あなたが私に迷惑をかけるのは今に始まったことではないでしょ?」


「ああ、そう言われてしまうと何だか、弱いな・・・」


 それはとても普通の会話だった。そう。感動の対面を予想していた私としても拍子抜けしてしまうほどに・・・


 だけどそれは自然で、この1週間で私が感じてきたそのままのカタチがそこにある。


 ひとしきり泣いた後、健一君はOguri1号からそっと身を離し、そして私の方を見た。


 そして、すぐに恥ずかしそうに目を逸らしてしまった。


 何だか少しおかしい。口元が緩んでくる。


 私はその手をしっかりと握りしめた。しっかりと離さないように・・・


 それから健一君のお父さんは、そこにいるひとりひとりと丁寧に会話を交わしていった。



「次郎。おめでとう、またひとり家族が増えたな。希ちゃんだったかな。碧さんにもおめでとうと言っておいてくれ」


「ああ、言っておく。兄貴もまたいつか見に来てやってくれ」


「そうだな。またいつか・・・」



「妙子、お前ももう少し落ち着かないと、嫁の貰い手がなくなるぞ」


「余計なお世話よ。いちにぃも、あんまりフラフラしてると、秋子さんに愛想付かされるわよ」


「はは、これは一本取られたな」



「じいさん、元気そうで何よりだ。もうちょっと碁の鍛錬を積まないと、あっちに来た時に勝負にならないぞ」


「余計なお世話だ。まだまだお前の世話になるつもりはない。首を長くして待っておれ」


「ああ、お手柔らかにな・・・」



「母さん・・・」


「私は、いいんだよ。他に声をかけてやっておくれ」


「そうか・・・ありがとう」



「愛ちゃん。本当に大きくなったね。本当に立派になった」


「えへん。まなにはね、さいしょからわかってたよ。おじさんのこと。だっていいにおいがしたもん」


「そうだね。ありがとう。僕に気付いてくれて」



「学君、ゲームばかりしてたらダメだぞ。もっと色んなものを見て、感じるといい」


「ちぇ~、おじさんまでそんなこと言うのかよ」


「はは・・・でもまぁ大丈夫かな。愛ちゃんといつまでも仲良くな・・・」



「たかしくん・・・」


「え?俺?俺も?」


「夢をあきらめるのはまだ早い。自分をもっと信じるべきだ。君の力を必要としている人たちはまだまだいる。だから広い世界に目を向けろ。君なら出来る」


「・・・まぁ、善処しますよ」



「部長、すみません。最後まで迷惑ばかりかけてしまって・・・」


「ああ、問題ない。私も君と一緒に仕事が出来て本当に良かった。なに、悪いようにはしない。最後まで私もあがいて見せるよ。君と作ってきた道だ。あとは私に任せてゆっくりするといい」


「はい。ありがとうございます」



「恵君」


「は、はい!」


「本当にすまなかった。最後まで面倒を見てやれなくて、だけど君なら大丈夫だ。自信を持って進むといい。君のその情熱はきっとまわりを動かすことができる」


「わかりました!先輩と一緒に作って来た道です。私も頑張ります!まだまだやれることは一杯あるんですから!」


「それに、本当に強力な助っ人はひょっとしたら、すぐ身近に居るかもしれないよ・・・」


 そう言って、ロボットは私の方を見た。そしてゆっくりと近寄ってくる。


「纏君」


「はい」


「ありがとう。僕を導いてくれて。君のおかげでここまでこれた。そして本当にすまなかった。結果的に僕のわがままに最後まで付き合わせてしまって・・・」


「本当にそう思っています?」


「どうかな・・・僕にもよくわからない」


 胸中を様々な想いが駆け巡る。それはこの4カ月・・・そしてこの1週間、常に私と共あった。


 雨の日も、風の日も、悲しいときも、嬉しいときも、ずっと・・・


 そのひとつひとつの想いをひとことで表す言葉を私は持たない。だけど・・・


「それに、それはやっぱりお互い様です。私も色んなものを貰いました。碧さんにも言いましたが、その想いは今も変わりません。ありがとうございます。私を探してくれて。そして、私を見つけてくれて・・・」


 だけど受け取ったものはとても大きい。それは確かだ。


「そうか・・・」


 そう言ってロボットは暫く沈黙した。何かを思うかのように・・・


 私は、ロボットを腕の中に抱きしめると、その額にそっとキスをした。冷たい感覚と共に溢れてくるのは暖かくも懐かしい不思議な感覚だ。


 それは確かにさっきまで私と共にあった。そして今、私の目の前にある。


「ひとつ聞いていいですか?」


「なんだ?」


「あの時、私が階段から落ちるのを助けてくれたのはあなたですよね?こう、フワッと浮くような感じがして、私の身体は急に減速しました。本当に助かりました。あのまま落ちていたらどうなっていたのか・・・」


 ロボットは首を横に振る。


「それは僕じゃないよ。そんなことをしたら途端に僕の意識は霧散してしまう。それはもっと君の身近にいて、もっと強力に君を想う何かだ。心当たりは?」


「もっと、強力な何か・・・」


 フワリと、それを感じた。それは懐かしい匂い。その感覚を私は知っている。


「あ・・・」


 そうか・・・ずっと一緒に居てくれたんだね。殻に閉じこもっていた時はわからなかった。心を閉ざし、一人だけで歩もうとしていた私には・・・


 だけど今ならわかる。色んな人の想いを知った今なら・・・


 ・・・ありがとう、お母さん。ずっと大好きだよ。




「時間だ・・・」


 静かにロボットが呟いた。


 そう。もう保てない。私を離れ、ロボットの中に落ち着いたそれは、とても不安定で少しずつカタチを失っていく。


 最後に健一君のお父さんは、健一君に近寄っていき、その手を取った。


「健一、この世界は素晴らしい。色んなものを見ることだ。そして色んな人に会うといい。そうすれば様々な道が開けてくる。ただな、その中でも本当に素敵なことがひとつだけある」


 そう言って、私の方を見ると言葉を続けた。


「だけどその答えはもう見つけてしまったかもしれないけどな・・・」と、


 その姿が徐々にぼやけていく。


 本当にありがとうございます。私と一緒に居てくれて。私はあなたから色んなものを教わりました。それは言葉では言い尽くせないくらい。


 だから私は歩んでいきます。この道を・・・


 一人だけではなく、彼や、そしてみんなと共に・・・


「さよならだ。いつかまた会おう」


 その言葉と共に、健一君が再び泣き崩れる。


 私は、今度こそ、その身体を抱きしめた。暖かなぬくもりが伝わってくる。


 お帰りなさい健一くん。


 それは、とても優しくて、とても暖かで、


 そして私の大好きな男の子・・・


 そして、魂は返る。その在るべき場所へ・・・


 8月16日の送り盆の夜


 静かに、それは返っていった。遥か彼方の何処か知らない場所へ・・・


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