2016年8月15日(月)

「次の形は何に見える?」


 スピーカー越しに聞こえる男の人の声に私は意識を集中して答える。


「青色の三角形に、丸い小さな円が3つ、大きいものから順に赤、黄、緑」


「その次は?」


 これは難しい。結構時間がかかる。


「形ではなく、これは文字?だけど微妙におかしい。黄色いのが緑と言う文字。赤いのが黄。それから・・・」


 暫くそう言ったやり取りが続き、終了後、私の身体からいくつかの計測機器けいそくききが外される。


「お疲れ様、まといちゃん」


 そう言って、白衣を着た研究者は私にペットボトルに入ったお茶を渡してくれた。私はそれを受け取ると椅子のそばにそっと置いた。あまり受け取る気にはなれない。


「どうだ?」


 僅かに高揚こうようしたように父が言う。何故こんなことになってしまったのか・・・


「すごいね。この状況下でこの的中率は偶然とは思えない。だけど・・・」


 研究者が口ごもるのは致し方ない。彼らがつけた計測機器が示すのはまさに不可思議ふかしぎな現象だ。それはあたかも感知不能な未知の領域から突如現れたものにしか見えない。


 外界とほぼ完全に遮断しゃだんされた場所にだしぬけに現れる得体のしれないダイレクト入力。それはもはや超越感覚ちょうえつかんかくとすら言えない魔法の類だ。


「まぁそれはおいおい解ってくることだろう。世の中に未知なものはまだまだ沢山あるのだからな」


「お父さん、私、これ以上は・・・」


「ああ解っているよ。見世物みせものなんかにするためじゃない。個人名はすべて伏せる。少しだけデータがとりたいだけなんだよ」


 解っていない。確かに「知りたい」とは言ったけど、それは言葉のあやというもので・・・


 ただ、こういう父の顔を見るのは久しぶりだ。


 学者と言うものは、未知のものには心を動かされるものなのだろう。


 もっと早く打ち明けていれば良かったのかもしれない。そうすれば・・・


 ・・・少し胸騒ぎがしたけど、私はそれを無視した。


 人と言うものは、自分に都合の悪いことは避けて考えるようにできているのだと思う。


 せっかく訪れた穏やかな時間。私はそれを壊したくはなかったのだ。


 この時の私は知らなかった。


 この後に訪れるあの悲惨ひさん結末けつまつのことを・・・




 夜半過ぎからシトシトと降り始めた雨は、朝になってもやむことなく、世の営みにいくばくかの影響をもたらす。


 夏の暑さにさらされた木々にはひと時の恵みを、そしてお盆休みを満喫する人間にはわずかな行動の束縛そくばくを、


 連日のように続いた厳しい日差しの合間に訪れた久方の潤いに、カエルの鳴き声が田畑をいろどり、中山道を雨模様あめもように染め上げていく。


 この営みは変わらない。今も、昔も・・・


 ただし、午前6時に起床した私が行うのは、天候とは関わりのないルーチンワークだ。


 もはや体に浸み込んだと言ってもいいこの行為が屋台骨やたいぼねとなり、今の私の日常を支えている。


 階段を降りてリビングに足を踏み入れると、伯父さんが既に起きていて新聞を読んでいた。


 新聞越しに私の様子をチラリと伺う優しい眼差し。


 いつもより早い。多分、伯父さんなりに心配してくれているのだろう。


「気分はいいようだね。纏」


「ええ、昨日はご心配をおかけしました」


「たかしはまだ寝ているのかい?」


「ええ、確実に・・・」


 仕方ないな。後で起こしに行ってこよう。


 朝食の支度をしながら私は窓から外に目を向ける。今日は一日中雨だ。


 特に何もなければ一日中、部屋で本でも読んでいるところだけど・・・


 ついつい、お隣の家のある方向に目が行ってしまう。


 健一君が帰るまであと3日。


 最終日は恐らく帰る為に費やされる時間が大半だろうから、実質2日とちょっと


 お盆休みも終わる。そうすると彼の騒々しい親戚たちもそれぞれの日常に帰っていくだろう。


 この微睡まどろみのような時間もあと僅か・・・


 色んな事があった。


 これだけ笑ったのはいつ以来だろう。


 お盆休みと言う非日常ひにちじょうの中で、突如として私のこの歩みの中に割り込んできた楽しい住民たち。


 それが終わればまた散り散りになり、それぞれの道を歩いていく。


 今日はあいにくの雨だ。行動範囲も限られる。


 ただ、それでも・・・


 まだ何かを期待してしまうのは、私の身勝手な願望なのだろうか・・・






 雨だ。さてどうしよう。


 外の様子を伺いながら、僕は今日一日やるべきことを考えていた。


 8月15日。世間一般では、お盆休みに当たるこの日は月曜日の為、次郎さんはこの家から直接出勤。妙子さんも眠そうに欠伸あくびしながらも早々に仕事に向かった。


 一般企業はお盆休みだけど、あの二人には関係ないらしい。


 碧さんは学君たちと旧井家で滞在中。その傍らには、いつ産気づいてもいいようにばあちゃんが付き添っている。


 僕の視線の先には、畳の上で寝転がってゲーム機で遊ぶ学君の姿がある。


 その向こうに居る愛ちゃんはというと、今日もOguri1号と一緒だ。さっきまで、おままごとをやっていた。


 雨だ。


 今日はこの二人と外で遊ぶことはできない。


「兄ちゃんさ~、子供をダシに纏姉ちゃんと仲直りしようとか考えてない?」


 ぎく!何だこの子は、エスパーか何かの類か?


「ひとに頼ってばかりだと、ロクなオトナにならないって父ちゃんが言ってたぜ」


 何だか少しだけムカついたので、ゲーム機を取り上げると、学君はゲーム機に向かって飛び跳ねながら、「ギャクタイギャクタイ」と繰り返す。


 全く、この子は何処でそんな言葉を・・・


 ふと、柚原さんの家の方に目をやった僕は、生垣いきがきの合間をって、柚原さんの家の前を行ったり来たりする赤色の傘の存在が目についた。


 何だか動きが怪しい。


 そちらの方に目を奪われた隙に僕からゲーム機を奪い取った学君が再びゲームを始めるのを尻目に、僕は傘をさして玄関から出ると、柚原さんの家の方に向かった。





 門から出ると、ちょうど、赤い傘をさした不審人物が、柚原家の呼び鈴を押しているところだった。


「はーい」と纏さんの声がする。


 その声を聞くなり、その訪問者は、脱兎だっとのごとくその場から逃げ出した。


 いわゆるピンポンダッシュという奴だ。


 暫くすると、玄関の扉がガチャリと開き、纏さんが姿を現すものの、誰も居ないことを確認すると、怪訝けげんな顔で再び扉を閉めて姿を消す。


 ついつられて僕まで隠れてしまった。


 赤い傘をさした不審人物ふしんじんぶつの顔には見覚えがあった。何してるんだ彼女は?


「何してるの君?」


 路地裏に隠れるようにして、柚原家の方を伺うその不審人物に、僕が声をかけると、彼女は驚いたようにこちらを見て、


「あ!あんた。彼氏!」


 そう言ったのは、あの国枝聡子くにえださとこという女の子だった。


 昨日はこの子のせいで散々だった。これ以上、もう引っ搔き回してもらいたくはない。


「君ね・・・昨日の今日でよくこんな・・・」


「ちょ、ちょっと待って。こっちこっち」


 僕が言い終わらないうちに、彼女はグイと僕の手を引いて、路地裏へと誘導する。


 そして暫くの間、柚原さんの家から誰も出てこないことを確認した後、ふぅと一つ息を吐き、いったん息を整えてから、内緒話をするように声をひそめた。


「わかってます。わかってますから、ですけど、あたしの話もちょっと聞いてください」


 仕方ない。実際僕も彼女に話を聞きたくないわけではないし・・・


 とは言え、纏さんに彼女と居るところを見られるのも得策ではない気がする。


 どこで話を聞こうかと考えていると、彼女の方から提案してきた。


「あ、じゃあ、この先に、あたしがよく行く喫茶店があるので、そこで・・・」


 というわけで、150メートルほど歩いた先にある喫茶店に彼女と一緒に行くことになった。


 誰も見てないよな。学君とか、Oguri1号とかに見られたらまたややこしいことになりそうだけど・・・




 そこは、比較的大きな喫茶店だった。


 木造二階建ての家を改築して作ったような素朴な造りをしていて、一見すると喫茶店には見えない。喫茶店を営む以外に、自家製パンや、クッキーなども販売しているようだ。


 内装も小洒落ていて、明るい色調の壁に、木製のテーブル。ところどころに趣味のいいインテリアが程よく配置されている。


 何より驚いたのは、モーニングのボリュームだ。色んなものがついてくる。この値段でこんなにも色々なものをつけて大丈夫なのだろうか?


 東京では考えられないことだけど、どうもこちらでは割と普通のことらしい。


 僕も彼女もアイスコーヒーを一つずつ頼んだ。朝食は食べてきたのでモーニングは要らない。


 飲み物と同じ値段で付けられるという話だったから、少しだけ心が動いたけどやめておいた。


 第一こんなにも食べられない。


 注文を終え、一息ついて、さて本題に入ろうとしたとき、突然彼女が立ち上がり、僕に向かってテーブルに頭がつくくらい大きく頭を下げて言った。


単刀直入たんとうちょくにゅうに言います。彼女との間を取り持ってください!」


 直球だ。


 しかも声が大きい。隣に座っていたカップルが驚いてこちらを見ている。


「わ、わかったから、座って」


 僕が言うと、「ほんとに?」と目を輝かせて、腰を下ろした。


 ハラハラする。何だかかなり危なっかしい子だな。


「あ、でも、あたし、そういう意味で言ったんじゃないですからね。彼女の事をとったりはしないので安心してください」


 そう言うとストローでアイスコーヒーを飲み始めた。おまけにかなりマイペースだ。


 何だか完全に毒気を抜かれてしまった。何から話したものか・・・


「君、一体、彼女に何をしたの?」


 とりあえず、まずはそこから始めることにした。


「それがわっかんないんですよね~」


 と彼女は嘆息する。


「あたしとしてもそんなに怒らせるような事を言った覚えないんですよ。ただ、篠原さんって不思議な人だよねって言っただけで・・・ホラ、彼女ミステリアスじゃないですか?」


 ミステリアスねぇ・・・うーん。わからなくもないけど・・・


「中二の春に突然現れた転校生!しかもとびきりの美少女って、それだけで心の琴線に触れるものがあるんですけど、あたし見ちゃったんですよ」


「見たって何を?」


「あれは、彼女が転校してきて3日目くらいだったかな。たまたま登校途中に彼女を見かけて、あ、噂の転校生だって思ったんですよ。そしたら彼女、急に傘をさし始めて、何でこんな晴れた日にわざわざ傘を・・・って思った瞬間、急に雨が降り始めたんですよ」


 雨か・・・そう言えば、たかしさんに会いに行ったときにも同じようなことがあったな。あの時はそれほど気にも留めなかったけど・・・


「勿論、それだけじゃないですよ。それから彼女の事が気になって、あたし、チェックしていたんです。彼女が傘を持ってくる日と持ってこない日。すると何と確率100%!彼女が傘を持ってくるときは登下校時に必ず雨が降って、持ってこないときは降らない。天気予報より遥かに正確なんですよ!すごくないですか!?」


 確かにそれは不思議かも・・・そう言えば、Oguri1号もそんなことを言ってたな。「不思議な子だ」って・・・


「あたし、怪談とか、伝承とか、超能力とか、そういう類のものが大好きなんです。それで、ちょっと嬉しくなって、夏休みに入る前に彼女に、そのことで話しかけてみたんです。そしたら彼女、すっごい剣幕けんまくで怒り出しちゃって・・・そんなのあなたの単なる妄想だって・・・」


 なるほど、そこからあの一件につながるのか・・・でもちょっとわからない。どうしてそんなにも怒ったんだろう。特に気に留めるようなことではない気がするんだけど・・・


「それにね。あたしが彼女とお友達になりたいのは、何もそれだけじゃないんです」


 国枝さんは続ける。


「何ていうかなぁ、彼女殊更ことさら人と関わらないようにしているから目立たないんですが、見ていると色々と気づくことがあるんですよ」


 人知れず、危ない場所に転がったボールや石を拾ってみたり、男子が暴れてずれた机をそれとなく直してみたり、落ちていたペンや消しゴムを拾って、その人の机に置いてみたりと、学校での色々な纏さんの様子が彼女の口から語られていく。


 危険でないように、相手が快適に過ごせるように、困らないように・・・


 そう言えば、たかしさんの所に行くときも、僕の分のおにぎりを用意してくれたんだっけ・・・


「それ見てたら、ああこの人は本当は優しい人なんだなぁと思って、どんどん興味が沸いてきちゃったんですよ。あたし、こんなだからあんまり友達作らないんですけど、彼女とは友達になりたいと思いました」


 そこでがっくりと彼女は肩を落とす。


「でもこれで2回連続失敗。それで昨日、館長さんに言ったら、いつでも会いに来てあげて欲しいと言われて早速来てみたのはいいのですが・・・」


 どうしていいのかわからずウロウロしていたと・・・


「何か、あたしが直接関わると彼女、おかしくなっちゃうみたいでしょ?だから、そこは彼氏の力でマイルドに・・・」


「お願いします!」と再び国枝さんが頭を下げる。


 何だか本当に悪い子じゃないみたいだな。でもそういう事なら纏さんも断ったりはしないと思う。


「わかった善処するよ」


「ほんとですか!いやぁやっぱり彼氏に頼んでみるもんですね」


「まぁ、彼氏じゃないんだけどね・・・」


 さっきから、彼氏彼氏と連発されて実は少し恥ずかしい。


「それは嘘ですね」


「え?」


 ストローでコーヒーをすすりつつ彼女が答える。


「あたし、このところずっと彼女を見てきたから知ってるんですが、彼女、学校では殆ど笑わないんですよ。ずっと寂し気な顔をしてて、つまらなそうで・・・でも昨日遠目でチラッと見たんですが、彼女、あなたの隣ですっごく笑っていましたよね?あたし、彼女のあんな顔、見たことありません。だから思ったわけです。ああ、この子も恋人の前ではあんなにいい顔で笑うんだなって・・・心のよりどころがあるのってこういう事なんだなって。そう考えると少しだけ安心しました。彼女、何だか一人で歩いているような気がしたんで・・・」


「あたし、こう見えても人を見る目だけは自信あるんですよ」と照れたように笑う彼女を見ると、もう最初抱いていた警戒感などなくなってしまった。


 本当に友達になりたいだけなんだな。いい子だし、出来れば叶えてあげたい。きっと彼女も喜ぶだろう。


 まぁ、でも彼氏じゃないんだけどね・・・


 それから、僕は国枝さんと別れると、ふたたび旧井うすいの家に戻り、少しだけ考えにふけった。


 色んな人から色んな彼女の姿を聞く。多分、一生のうちで、これだけ一人の女の子の事を考えたことはない。


 その中でもひときわ目立つキーワードは「不思議な子」だ。


 不思議、不思議ねぇ・・・


 ん?ちょっと待てよ。確かに居た気がする。ずっと前に父さんとここを訪れたときに、色んな手品を披露ひろうしてくれた女の子が・・・


 白いワンピースに、白い麦わら帽子


「たねもしかけもありません」


 飛び切りの笑顔で、得意そうに手品を披露するその女の子。父さんも随分驚いた顔で、感心したようにその手品を見ていた。


 あの子はひょっとして・・・


 その子の顔が、昨日の纏さんの笑顔と重なる。


 思い出した!なんで忘れていたんだろう。最初会った時、全く印象が違ったから一致しなかったけど、そうか。あの時の子だったんだ!


 それから、僕はすぐに家を出ると、柚原さんの家の呼び鈴を鳴らした。


「はーい」と、再び纏さんの声が聞こえる。勿論、僕はピンポンダッシュなんかしない。


 玄関の扉がガチャリと開き、纏さんが姿を現す。


「あ、健一君。おはよう」


 良かった。普通だ。昨日あんなことがあったから少し心配したけど・・・


「おはよう。気分はいいみたいだね」


「うん。昨日はゴメンね。驚いたでしょ?」


 申し訳なさそうに彼女が目を落とす。


「ああいいよ。誰でもそういう時はあるもんだし・・・」


 何よりこうやって普通に会話できることが嬉しい。彼女も割と機嫌がいいようだ。国枝さんの言葉を思い出すとなんだか少しだけ己惚れてしまいそうになる。


「ところで今日はどんなご用?」


「あ、うん。実はさっきそこで国枝さんと・・・」


「国枝さん?」


 あ、いきなりこの話題はすこしマズいな。方向性を変えよう。


「違った。そうそう。実は思い出したんだよ!」


「思い出した・・・って何を?」


「8年前の事だよ!ホラ、色んな手品を見せてくれたよね。さっきやっと思い出せたんだよ!」


 その言葉を聞いた時の彼女の顔を何と表現していいのだろうか。


 まるで期待していたメインディッシュの中に自分の苦手な素材が入っていたかのように、次第に顔を曇らせ表情を沈ませていく。


「そうか。思い出したんだね・・・」


 あまり嬉しそうに見えない。何故だろう。てっきり「やっと思い出したの?」とか揶揄やゆされるかと思ったんだけど・・・


「それだけ?」


「え?それだけ・・・っていうと?」


「私はてっきり・・・ううん。なんでもない」


 そう言って彼女が首を横に振る。何故かとても残念そうだ。


「それで、それを思い出した健一君は私に何を言いたいの?」


「何をって・・・」


 あまり考えてなかった。


「あ、そうだね。あの手品、また見せてくれたら嬉しいな・・・とか」


 暫くの沈黙。


 彼女は何かを考えているようだった。さっきとは違い冷ややかな視線が僕に向けられる。


 やがて彼女は大きなため息をつくと、「いいよ。見せてあげるからついてきて」と言って階段を昇って行った。


 何だろう。何となくだけど・・・怒ってる?


 階段を上り、僕を自分の部屋に招き入れると、すぐに纏さんは机の方に歩いていき、引き出しからトランプを取り出すとそれを僕に手渡した。


「健一君。神経衰弱しんけいすいじゃくは知ってる?」


 知っている。同じ数値のトランプを引き当てる奴だ。記憶力が試されるタイプのゲームになる。


「まず、健一君が切って並べてみて」


 言われた通り、全てのトランプを並べると、纏さんは「健一君からどうぞ」と言った。


 僕は最初の二つをめくる。


 勿論失敗。最初の方は記憶力と言うより運のゲームだ。


「じゃあ、私がやるね」


 と纏さんがトランプをめくっていく。


 ひとつめ、ふたつめと・・・


 そして、僕の番は回ってこなかった。


 驚く僕を前に涼し気な顔で纏さんが言う。


「でも、これだとトランプ自体に仕掛けがある可能性があるね。実際、トランプの柄に目立たないように少しずつ違いを付けるインチキもあるから、じゃあこうしようか」


 纏さんが示した方法は、纏さんが向こうを向いて、その間に僕がトランプを並べるというものだ。


 4列13行にトランプを並べて、纏さんは向こうを向いたまま、どの列のどの行をめくるということを指示するので、それを僕がめくっていく。これならば柄を見ることもなければ手探りで何かを感じることもできない。


 言われた通りにやってみる。


 そして、その方法でも纏さんは全てのトランプを的中して見せた。


「でも、これでもトランプに仕掛けがある可能性はあるかも知れない。なので今度は、紙でやってみよう」


 そう言って纏さんは引き出しから今度はノートを一冊取り出し、その中から一枚のページを抜き取った。それを無造作むぞうさにいくつかに破いて見せる。


「数値ばかりだと面白くないから、今度は記号当てでもいいよ。適当に作った記号同士でペアを作る形で・・・」


 それからもいくつか纏さんの提案の元、様々なゲームが行われたけど、その全てを彼女は的中させて見せた。


 言葉が出ない。全く原理が解らない。テレビで見たマジシャンも顔負けだ。プロになれるんじゃないだろうか?


「凄い。どうやってやってるのこれ?」


「ないよ」


「え?」


「種も仕掛けもありません」


 淡々と彼女が言った言葉の意味を僕は理解できなかった。一体どういうことなのだろう。


「ただ、私には解るだけ。そこに何の仕掛けもなければ、理屈もない。今、健一君が見たのはそういう類のものだよ」


 再び彼女の言葉の意味を頭で考えてみる。


 え?それって・・・まさか・・・


「すごい!すごいよ。それって超能力ってやつだよね!?」


 興奮気味にそう言う僕とは対照的に、纏さんの様子はあくまで冷ややかだ。


「健一君ならそう言うと思った」


 ため息をひとつつきながら、彼女は言う。


「こんなの何の役にも立たないよ。邪魔なだけ・・・」


「え?だって、便利じゃないか?」


「便利?例えば?」


 例えば、か・・・そうだな。


「ホラ、天気の事が解るなら、いつ傘を持って行けばいいかが解るよね?」


「天気?私、天気当てるなんてやってないけど・・・」


 いぶかし気な表情で彼女が言う。しまった藪蛇やぶへびだ。


「そう言えば、健一君。国枝さんがどうとか言ってたね。彼女に何かを聞いたの?」


 じっと彼女が疑いの目で僕を見る。これは困った。


「答えて。健一君。あの子から何を聞いたの?」




「信じられない。あの子、健一君まで巻き込むなんて・・・」


 憤りを隠しきれないと言った顔で纏さんが首を振る。


 僕が国枝さんとのことを話した後で、彼女が発した第一声がそれだった。


「ふーん、それで健一君はさっきまであの子と喫茶店でお話してたんだ?」


「う、うん。そうだけど・・・」


 それは成り行き上仕方なかっただけで・・・


「彼女は纏さんと友達になりたかっただけだよ」


「友達!?どうして私があんな子と!?」


 何故か、彼女の事になると纏さんは急にこうなる。確かにこれだと直接は無理かもしれない。


「まぁ、確かに変な子ではあるんだけど、基本的に悪い子じゃないと思う。話すと結構楽しいと思うよ」


「だったら、こんなところに居ないで、健一君があの子と遊べばいいじゃない!」


 そう言って、怒ったように纏さんは顔をそむけた。


 どうしてそうなるんだ?そんなこと考えもしなかった。どういうわけか今日の彼女は、随分とおかんむりだ。


「大体、どうして彼女にバレたらいけないんだよ?そこを話してくれないと僕には全然わからないよ」


「健一君には関係ない!」


「・・・関係ないってことないだろ?そりゃ、僕は頼りないかもしれないけどさ、これでも心配しているんだよ。纏さんの事」


「私、健一君に心配されるような事してない!」


 まるで売り言葉に買い言葉だ。どうしてこの件になると急に意固地になるんだろう。普段はあんなに大人びているのに、今の彼女はまるで小さな子供みたいだ。


「とにかく、話してくれないと解らないよ。一体、彼女にバレたら何がいけないわけ?」


 僕がそう言うと、しばらくの間、彼女は苛立ち気に何かを考える素振りを見せた後、またひとつ大きなため息をつくと、机の方に歩いていき、さっきとは違う鍵のかかった引き出しの中から、1冊のボロボロになったノートをとりだして僕の前にそっと置いた。


 ノートには、カッターナイフやハサミで刻んだ跡がところどころに見られ、さらには表紙から中身に至るまで、ありとあらゆる罵詈雑言が書かれていた。


「インチキ」「詐欺師」「死ね」「消えろ」


 中にはとても口に出せないような酷い内容も書かれている。表紙にはところどころ切れ目が入って判別が難しいけど、「篠原纏」の文字らしきものがあった。恐らく彼女のものだ。


 その中でもひときわ目立つ大きな文字が目に入った。そこには大きな文字でこう書かれていた。


「バケモノ」と・・・


「ひどいでしょ?」と自嘲気味に彼女が呟く。


「でもこれが現実」


 それから彼女の語った内容は、凄惨なものだった。


 靴箱に汚物を入れられる。


 トイレに閉じ込められて水をかけられる。


 体操服に切れ目を入れられて使えないようにさせられる。


 他にも、小さなものから、SNSによる人格攻撃に至るまで、ありとあらゆる嫌がらせを受けたという話だ。


 恐らくそれは僕が体験した事のないようなものなのだろう。


 ただ、淡々と話す彼女の姿からは悲壮感ひそうかんのようなものは感じられなかった。


 客観的に物事を話す彼女の姿はどこか冷めていて、遠い昔の話の様だ。


 だから、気づかなかったんだ。彼女の奥底に眠るもっと大きな問題に・・・


 その正体を僕は知っていたはずなのに・・・


「わかった?だから誰にも知られるわけにはいかないの。伯父さんにも、兄さんにも・・・」


「柚原さんやたかしさんにも話してないの?」


「話せるわけないじゃない。こんなこと・・・」


 身震いするように彼女が自分の肩を抱く。


 だけど、それだと彼女はずっと誰にも話さずに生きていくんだろうか?


 ・・・ずっと?


「彼女、何だか一人で歩いているような気がしたんで・・・」


 国枝さんの言葉が脳裏に浮かぶ。それはとても悲しい事のように思えた。何だろう?少し胸が痛い。


「国枝さんは大丈夫だと思うよ。彼女はきっと纏さんの力になってくれると思う」


「また国枝さん?彼女の話はもう聞きたくないわ」


 取り付く島もないとはこのことだ。国枝さんには悪いけど、ひとまず置いておくしかない。


「国枝さんはともかく、僕は柚原さんとかたかしさんには話してみるべきだと思う。だって家族じゃないか」


「家族」という言葉に、彼女は微かに反応した。ただ、それも一瞬の事で、すぐにプイと顔をそむけて、こう言い捨てる。


「そんなことあなたに指図されるような筋合いはないわ。赤の他人のあなたに私の何がわかるというの?」


「そ、それはそうだけど・・・」


 赤の他人という言葉には少し傷ついた。


「どうせすぐ帰るだけの、あなたにはわからないのよ。無責任に綺麗ごとだけ言って帰ればいいだけだから」


 これにはさすがにカチンときた。


「じゃあどうして僕に話したんだよ!?」


 思わず声を荒げてしまった。彼女は感電したかのようにビクッと体を震わせると、暫く呆けたように僕を見つめた。


「そ・・・それは健一君が見せてくれって言ったから・・・」


 そう言って僅かに目を泳がせる。心なしか、その言葉には、それまでのような歯切れがない。


「そりゃそうだけどさ。さっきから何だよ。赤の他人だとか、無責任だとか、僕にどうしろって言うんだ?そんな風に言うなら、話せばいいじゃないか、柚原さんにも、たかしさんに・・・も?」


 ・・・待てよ?言ってから気付いた。じゃあ何で、彼女は僕に話してくれたんだ?こんな大事なことを・・・あのふたりにも話してないのに?


 え?それってやっぱり・・・


「ひょっとして、聞いてほしかったの。僕に?」


「違う」


「でも話してくれた」


 彼女は何も答えない。ただ目を逸らすだけだ。


 だけどきっとそうだ。何だか嬉しくなってきた。これってすごい事じゃないか?


 どうしても国枝さんに言われたことが頭にチラついて離れない。


 ちょっとだけ己惚れたくもなる。それって、彼女も僕の事を?ホントに!?


 でもどうすればいいんだ?たかしさんには力になってやってくれって言われたけど・・・


「と、とにかくさ。僕でよかったらさ、力になるよ。あんまり意固地にならずにさ。国枝さんとも話してみればいいじゃないか。彼女もきっと力になってくれる」


 そうだよ。あんなに友達になりたがってたんだから、彼女が纏さんを裏切るようなことをするはずがない。


「信じてあげればいいじゃないか。そうすればきっとうまくいくよ。柚原さんやたかしさんだって同じだよ。変に意固地にならずに信じて話せば、絶対に君の力になってくれる。僕だって・・・」


 パン!と乾いた音と共に、頬に痛みが走った。


 何が起こったのかを僕が把握するのは、ヒリヒリと張られた頬の痛みを感じてからだ。


「・・・信じればいい?」


 彼女は怒っていた。肩を震わせ、目に一杯涙をためながら、凄い顔で僕を睨んでいる。


「ふざけないで!あなたに何がわかると言うの!?私がこれまで何も考えないで暮らしてきたとでも言うの!?」


 挑むような目で僕を見ると、彼女は、そう言って手近にあったノートを僕に投げつけた。ノートは僕に当たってパサリと床に落ちる。


 あまり効果がないと見るや、今度は彼女は机の方に歩いていき、机の上にあった鉛筆立てをひっつかんで僕に投げつけた。慌ててよけると鉛筆立ては、壁に当たって中身をぶちまけた。


「勿論、何度も話してしまいたいと思ったよ!」


 今度は本が飛んできた。これも何とかよける。


「兄さんにも!伯父さんにも!」


 彼女が言葉を発する度に、本や、定規が飛んでくる。


「ま、纏さん・・・落ち着いて」


 彼女がハサミを掴んだところで、流石に怖くなって、僕がその手を取ってその行為をやめさせると、彼女は何かを訴えるように僕を見上げた。その瞳から大量の涙が零れ落ちていく。


「本当に・・・何度も思ったんだよ?何度も、何度も・・・ふたりとも優しくて、それが私には苦しくて・・・」


 それだけ言うと、彼女は力なくその場で崩れ落ちた。そのまま震えるように肩を抱く。


「だけど、出来ない。出来ないんだよ・・・私には、もう・・・」


 苦しそうにそう呟く彼女の頬を伝ってポタポタと涙が床に落ちていく。


「嫌なの・・・私、もう・・・」


 声を震わせながらそれだけ言うと、彼女は子供のように声を上げて泣き始めた。


 わけがわからない。僕はどうしていいか解らず、その場で立ち尽くすだけだった。


 一体何が彼女を・・・


「纏さん?」


 恐る恐る、僕が手を差し伸べようとすると、彼女は再びパシンとその手を振り払った。


「帰って」


 と、彼女は突然立ち上がり、僕の身体を押し始めた。そのまま押し出すようにして、僕を部屋の外へと追い出す。


「帰って!二度と私の前に姿を現さないで!」


 バタンと扉がしまり、ガチャリと鍵を閉める音が聞こえてきた。


 後にはすすり泣くような彼女の声だけが聞こえてくる。


 何でだろう?どうしてこうなってしまったんだろう?


 本当に全くわからない。


 暫くその場に居たものの、何も出来ない事を悟ると僕は階段を降り、玄関に向かった。


 その途中でたかしさんと鉢合わせた。今帰ってきたみたいだった。


「よう、健一君。いらっしゃい。纏は・・・」


「すみません。力になることは出来ませんでした」


 たかしさんが言い終わらないうちに、僕はそれだけ言い残すと、足早に玄関から外に出た。


 来た時より雨足が強くなっている。


 僕は、空を見上げた。


 土砂降りになりつつあった。






「纏。健一君帰ったみたいだぞ」


 扉の外からたかし兄さんの声がする。


 私が何も答えないでいると、やがて兄さんの気配が遠ざかっていくのを感じた。


 もういい。今は誰とも話したくない。


 ベッドに寝っ転がって横を見ると、床に転がったボロボロのノートが目に留まった。


 私は再び身を起こすと、それを手に取ってページをめくってみた。


 酷い言葉だ。だけど何も感じない。


 実際のところ、こんなものは今となっては些末さまつなものにしか見えない。これはいましめの為に持ってきたようなものだ。


 もっと酷いものは「見えない」場所で行われた。


 発端となった人間にも心当たりがあった。


 小さい頃、よく遊んだ彼女は、強気で、明るく、みんなの人気者だった。先生の受けもよく、いわゆる「リーダー」としての素質を備えていたように見えた。


 幼い頃、私の手を引いて連れまわしてくれた彼女のことが私も好きだった。


 ただ、母が亡くなった影響は大きく、私の生活は激変せざるを得なくなる。


 母が担っていた部分のいくつかは私が担う必要が出てきた。


 父は家政婦を雇うと言ってくれたが、私はそれを拒んだ。


 嫌だったのだ。母が居た筈の場所に別の人間が居座るのが・・・


 そう。これは私のわがままだ。


 その為、誘いを断ることも多くなり、次第に彼女との交流も薄れていく。


 気が付いたら私は彼女のグループから外れていた。


 当たり前の成り行きだった。




 私は、そのノートを元あった引き出しに仕舞うと、鍵をかけた。


 そして今度は床に転がった一冊の本を手に取り、ページをめくる。


 難解な数式や文字が目の前を通り過ぎていく。


 こうしていると当時のことを思い出す。


 自然と、家に閉じこもることの多くなった当時の私の楽しみは、夜、父の書斎から持ってきた本を読むことだった。


 昔から、父の聞かせてくれる話は私をとても心躍る世界へと導いてくれた。


 宇宙のはじまり。それを測るための宇宙の物差し。解明されていない不可視の物質やエネルギー。それを探査するための様々な試み。この世の中に存在する4つの力。そして大統一の夢・・・


 父はとても博識で、私の質問には何でも答えてくれた。


 いつも。母の隣で・・・


 母の居なくなった後の父との会話は、朝、私が前日の夜に読んだ本の中で生じた疑問点を父に投げかけることで始まる。


 それに対して、父は素直に答えず、楽しそうに色々な謎かけをして去っていく。


 私はその解答を夜遅く帰ってくるかも知れない父の為にメモに残して眠る。


 この繰り返しだ。


 幸い、本だけでなく、ネットの環境も充実していたため、難解な質問に対しても、考えるだけのヒントは色んな所に転がっていた。


 私にとって、それは、母が居たあの頃の、幸せだったあの頃の断片を集める為の作業だったのかもしれない。


 それに殆ど家に居ない父だったが、私がテストでよい点を取るととても褒めてくれた。


 それだけがその頃の私と父との唯一の接点だったような気がする。


 ただ・・・


「あんたのそれはインチキじゃない!」


 彼女にはそれが気に入らなかったらしい。


「してないよ。そんなこと」


「嘘つけ、このバケモノ!」


 その日から、ことあるごとに、彼女は私の事を「バケモノ」と呼んだ。


 私は私で、それに反発し、次第に彼女との仲は険悪なものになっていった。


 嫌がらせも受けた。


 とは言え、小学校まではそれほど大きな問題にならなかった。せいぜい足を引っかけられたり、上履きを隠されたくらいだ。


 それが変わったのは中学に入ってからだ。


 中学に入ると、彼女と私は、別々のクラスになり、その関係は疎遠そえんになる。昔とは別の交友関係ができ、私は新しい一歩を踏み出し始めた。


 その為、私にとって彼女との関係は過去のものになっていった。


 新しい学校に、新しい友人たち。


 そして、新しく入学した中学校の最初の試験で私は校内で一番になった。


 父がとても褒めてくれて嬉しかったのを覚えている。


 その次の日のことだった。


 朝、意気揚々いきようようと登校してきた私は教室がザワザワしていたのに気づき、皆の視線の先に目を向ける。


 黒板には、様々な私の悪口と共に、大きな文字でこう書かれていた


「バケモノ」と・・・


 その日から、私に対して様々な嫌がらせが始まった。




 私は本を閉じ、それを元居た場所に戻すと、今度は床に転がった本や、鉛筆立て、定規などを片づけ始めた。


 鉛筆立ては壊れてしまっていた。当たったところの壁には傷が付いている。


 物を壊してしまった上に、部屋にも傷をつけてしまった。伯父には本当に申し訳ない事をした。どうやって説明しよう。


 駄目だな私は、頭に血が上ると、いつもこうなってしまう。


 全てのものを片付け終えると、私はそのままベッドまで歩いていき、ポスンとそこに腰かけ、再び当時のことを思い出してみる。




 そこから先の日々は実はあまり思い出したくない。


 毎日のように繰り返される有形無形ゆうけいむけいの嫌がらせに次第に私の心は疲弊ひへいしていく。


 中でも厄介だったのは、毎日のように、私のスマホに飛んでくる心ないメッセージだった。


 学校での出来事は学校の中だけに留まるが、それは昼夜問わず私の心をむしばんでいく。


 特に、私が「母を呪い殺した」という書き込みを見た日は、悔しくて眠れなかった。


 本当に厄介だった。


 それは、表面上は平穏を装う形で進行していく。


 一見平和に見える教室の裏で行われているのは激しい情報戦だ。


 そこでは「言葉」という名の悪意をえさに作られた様々なカタチの「篠原纏しのはらまとい」という人格が、電子ネットワーク上に、拡散していき、徐々に現実の周囲の反応へとフィードバックされていく。


 いわれのない中傷や悪意の視線にさらされることもしばしばあった。


 この「見えない」ものに対応するすべを学校は持たない。


 表面上に現れないものに対する対応は限られている。また、仮に現れたとしてもあまり意味をなさない。


 首謀者は決して表に姿を現さない。ただ餌を撒いて、高みの見物をしているだけだ。


「ねぇ、あなた、未来が見えるんでしょ?だったら・・・」


 この種の人間はまだマシな方だ。無視していればそれでいい。まともに向き合うだけ損をする。


 中には変な要求をしてくる人間もいたが、大概の場合は無視していれば過ぎ去って行く。


 身の危険を感じることもしばしばあったが、何とかやり過ごした。


 だけど、それよりもっと深刻な問題は別にあった。


 それは私だけの問題にとどまらないからだ。


 味方が全く居なかったわけではない。入学と同時に仲良くなったその子は、私の為に色々動いてくれようとしてくれていた。


 優しい子だった。


 たけど、ある日、登校してきた彼女は、私が話しかけると、酷く怯えた目で私を見て、そして「ごめんなさい」と言い残して去っていった。


 何が行われたかは明白だった。


 本当に申し訳ない事をした。


 それからも、ひとり、ひとり、と私の周りから友人が居なくなっていく。


 次第に私は孤立し、それに反比例するように嫌がらせの数は増えていく。


 耐えきれなくなった私は、ある日、彼女の教室に行き、彼女に詰め寄った。


「どうしてこんなことをするの!?私があなたに何をしたって言うの!?」


 それに対して、大勢の取り巻きに囲まれながら、彼女は私に対して、あざけるようにこう言った。


「言いがかりはやめて。何の証拠があってそんなことを言うの?」と、


「卑怯者!」と叫ぶ私を彼女の取り巻きが乱暴に教室の外に連れ出していく。


 そして、廊下に転がされた私に対して、彼女が近寄ってきて言った。


「あなたの存在自体が気に入らないのよ。このバケモノ」と・・・


 ピシャリと教室の扉が閉まる。


 悔しくて涙が出た。


 訳が分からない。どうしてこんな理不尽なことが許されるのだろう。


 一生のうちでこれだけひとりの人間を「憎い」と思ったことはなかった。


 それからも連日のように嫌がらせは続いたが、私の心は相当図太く出来ているらしく、学校を休むことはなかった。


 卑劣な行為に屈してやるつもりはなかった。


 何よりも大ごとにして、父に知られるのが嫌だったこともある。


 そんな中、2回目の試験が行われた。


 2回目の試験は、1回目よりも監視が厳しくなっていた。不正を働いた者が居るという噂が広がっていたからだ。


 はっきり言ってナンセンスだ。


 私の力はこんなことにはほとんど役に立たない。


 明日の天気のように虫の知らせのごとく感じることもあるが、ほとんどの場合、相当の集中力を要する。


 中でも「文字」は最悪だ。物のカタチというものは、ある意味、外界から切り出された一種のパターンのようなものだ。


 それを認識するのは、例えるなら、暗闇の中で小さな光を当てながら、1辺1辺を慎重にカッターナイフで切り出していく作業に近い。


 それも距離が遠ざかれば遠ざかるほど曖昧になっていく。


 そんなことを一文字一文字やっていたら、それだけで疲れてしまう。


 トランプのように予め決められた文字の中から候補を選んだり、単純な図形を選ぶのは比較的楽な作業だが、文章を解読するのはかなり骨が折れる。


 そんなことより、ものの道理を理解して、問題を解いていくことの方がはるかに楽だった。


 だから、彼女の疑いに対する私の回答は明確にNOだ。意味のない事だからだ。


 ただ、それを言っても彼女が納得するかどうかは別の話だが・・・


 そして、厳格な監視の中で行われた試験でも、私は再び一番になった。


 ここまで来ると殆ど意地だ。負けてやるつもりはなかった。


 何かがおかしいと思いながらも、私にはそれしか方法が思いつかなかった。


 今考えると、もう少しうまく立ち回ることが出来たのではないかと思う。だけど、当時の私にはそこまでの余裕はなかった。


 必死だったのだ。色んな事に・・・


 取り戻したかったのだ。幸せだったあの頃を・・・


 結局、どうしようもなく不器用なのだ。私も、父に似て・・・




 そして、再び激化していく嫌がらせの数々・・・


 その中で、私が一番恐れていたことが起こった。


 父に見つかってしまったのだ。


「どういうことだ?纏」


 その日、珍しく早く帰宅した父は、鍵をかけ忘れた私の部屋に入り、そして見つけてしまったのだ。


 カッターで切り裂かれた体操服やボロボロになったノートを・・・


 私から事の顛末を聞かされた父は激しく憤り、その場で学校に電話をした。


 意外だった。てっきり何かを言われると思っていたからだ。


 そして激しい口論の末、忌々しげに電話を切った父は、私に対して優しく微笑み、こう言ったのだった。


「明日から学校には行かなくてもいい。これからは私が教える。なるべく一緒に居よう」と


 涙が出てきた。


 苦しかったのだ。ずっと・・・


 私は泣いた。父の腕の中で・・・


 それは心にたまったものが洗い流されていく瞬間だった。


 ひとしきり泣いて落ち着きを取り戻した私に父は聞いてきた。


「どうしてこんな事になってしまったんだ」と、


 私は正直に話すことにした。


 それは「お父さんにも言ってはいけません」と母に言われていたあの事だった。


 最初、半信半疑で私の行いを見ていた父も、私がそれを披露するにつれ、感嘆のため息を漏らすようになっていった。


 少しだけ誇らしい気になった。


 その夜、私は久しぶりに父と一緒のベッドで寝た。


 本当に幸せな気分だった。暖かい父の胸に頬を当てるだけで小さい頃の想いが蘇ってくるような気がした。


「なぁ纏」


 と父は言った。


「なに?お父さん」


「おまえのあの力、どういうものか知りたいとは思わないか?」


「うーん、知りたいとは思うけど・・・」


「今はどっちでもいい」そう言って私はより一層父の広い胸に顔をうずめた。


「ねぇ、お父さん」


「なんだ?」


「大好き」


 父の手が私の頭を優しくなでる。涙が出るくらい嬉しかった。




 次の日から私は一日の大半の時間を父の研究室で過ごすことになった。


 父が大学に無理を言ってそうしてくれたのだ。


 研究室にある本はとても面白い本ばかりだった。父の書斎にあったものより豊富で、より専門的な本に囲まれて私の心は踊った。


 中でも「超ひも理論」についての本にはとても心惹かれた。


 物質の基本単位を「点」ではなく、「振動するひも」として捉えるその理論は、私にはとても難しかったけど、素敵な香りがした。


 この世は様々な「ひも」のようなものが共鳴し合って出来ている。


 色んな形の紐が、それぞれ響き合って様々な関係を築いていく。それはとても素敵で心躍る光景だった。


 時々、父の研究室の学生が来て、私と話をしては驚いて帰っていった。


「さすがは、篠原先生の娘さんだ」と言われ、誇らしい気持ちになった。


 そして、それから何日も過ぎたある日のこと


 父がひとりの研究者を連れて私の所にやってきた。


 その人は、「超越感覚ちょうえつかんかく」というものを研究している人だと父は言った。


 人間の脳は、表面上に現れたものより遥かに多くの情報を受け取っている。中には超能力と見紛うようなものも存在する。


 例えば、盲目の人が無意識の内に見えていないはずの障害物を避けるという「盲視もうし」、


 例えば、蝙蝠こうもりの様に跳ね返ってきた音波を感知して位置を確認する「反響定位はんきょうていい」など、人間に通常備わっている感覚とは違った形で現れる一種の超感覚。


 それを研究している人だという話だった。


「研究者」としての父が姿を現した瞬間だった・・・





 夕方になった。


 何だか今日は時間の流れがとても早い。


 だけど何もやる気が起きない。もうどうでもいい・・・


 ただ、人間とは不思議なもので、こんな気分でもお腹はすく。


 グーッとお腹が鳴って初めて気づく。そう言えば、お昼、食べてなかったなと、


 部屋を出たところで、トイレから出てきた伯父さんと鉢合わせた。


 伯父さんは、私の様子に驚いていたようだったけど、特に何も言わなかった。


 今日の夕食の準備は必要ないと言ってくれたけど、私はそれを断り、夕食の準備をした。


 夕食の間、伯父さんも、兄さんも特に変わった様子はなかった。


 多分、私に気を遣っての事だ。


 ダメだな私は・・・いつも心配ばかりかけてしまう。


 そのまま無言で夕食を終えて、私は部屋に戻った。


 今日も夕食会はなし。そして、もう二度とないだろう。


 だけど、今はどうでもいい。


 ベッドに寝転がった私の意識は、あの頃へ飛ぶ。


 父の研究室に居たあの頃へ・・・




 それから、幾度となく実験は繰り返されたけど、芳しい成果は出なかった。


 荒唐無稽のように見えるこのような行為も、研究の場ではそれほど珍しい事ではない。


 一般的には世迷いごとのように聞こえるフレーズも、研究の場では真面目な議論になることもある。


 タイムマシーン、パラレルワールド、テレポーテーション


 SFの世界の話のように聞こえるが、これらは全て真面目な研究の場で理論的に語られている現象だ。


 だから私のこの力も、理論的に検証可能と考えるのもおかしくはないのかも知れない。


 父の研究室での生活は快適だった。


 時折、そうやって実験の場にかり出される以外は基本的に穏やかな日々が続いていく。


 研究室の中で父は私によく特別講義を行ってくれた。一般的に見て私は優等生のようで、たまに学生が来て講義に混ざることはあったが、よく舌を巻いて去っていった。


 まぁお世辞もあっただろうけど・・・


 爪の垢を煎じて飲ませてやりたいなどと父は冗談めかして言ったものだ。


 穏やかな日々、父と居られる時間。それは私にとっては何ごとにも代えがたい貴重な時間だった。


 そして、季節は移ろい、父の研究室の窓から見える光景も変わっていく。


 木々が色づき、頬を撫でる風の吐息に、冷たい季節の香りが混ざり始めたころ、


 それは起こった。


「中止?」


 それは、私に対する実験を中止するという通告だった。


「何故だ?」


「上の方からの命令でね。これ以上、荒唐無稽な実験に付き合う時間はないということだ」


 無理のない話だった。私の力はあまりにも非科学的で説明がつかないものだ。最初は興味本位で始めたものだとしても、繰り返し何も得られないとなると話は違ってくる。


 実のところ、私は少しだけホッとしていた。知りたいと思わないわけではなかったが、だからと言って、こんなことを望んだわけでもない。


 私はただ父と居られる時間が欲しかっただけなのだ。なのに・・・


 私の思惑とは反対に父は強硬に継続を主張した。


 何故、父がそうしたのかは今も解らない。好意的に解釈するならば、私をこの苦しみから解き放ってくれようとしていたのかもしれない。


「だったらその連中に見せてやればいい」


 と父は言った。いやな予感しかしなかった。


 私の力は定期的に強まったり弱まったりすることがしばしばある、やがてそれは収縮していき、最後には無くなるというのが母の説明だったが、その時は丁度弱まる時期に当たった。


 そして、そんな中、実験は行われ・・・


 ・・・そして失敗した。




 あざけるように去っていく研究者たちに、茫然とする父の姿


 私はどうやって声をかけていいのかわからなかった。


「お父さん私・・・」


 と差し伸ばした私の手を父は乱暴に払いのけた。


「わざとなのか!」


 と、父は言った。そこにはいつものあの優しい笑顔はなく・・・


「私は確かにいい父親ではなかったかもしれない。だが、出来る限りの事はしたつもりだ。だからと言ってこんな・・・」


 そこまで言ってから、父はハッと我に返ったように姿勢を正すと、


「すまん。纏。先に帰っていてくれ」


 そう言って去っていった。


 そして、その日以降、父は家に帰ってこなかった。




 私は肝心なところでいつも選択を間違える。


 そしていつもそれは破滅的な結果をもたらす。


 こんなもの無くなってしまえばいいといつも思っていた。


 だけど、いつまでたってもそれは私に付きまとう。


 いつまで私はこんなことを続けなければならないのだろうか・・・





 夜になった。


 本当に今日は時間の流れが早い。ボーっとするだけで過ぎ去って行く。


 昨日までとは別世界のようだ。それは遠い昔の事のように思える。


 この時間になると、少し頭が冷えてきて、朝起きたことを考えられるようになってきた。


 私は右手に目を落とすと、手のひらをじっと見つめた。彼の頬を張った時の感覚が蘇ってくる。


 やってしまった。


 頭に血が上ると何をしているのかわからなくなるのは悪い癖だ。


 ため息が出る。本当に悪いことをした。


 健一君、もう、嫌になっちゃっただろうな。きっと・・・


 私はここ数日の浮ついた状態のことを考えてみる。


 どうしてこんな風になってしまったのか・・・


 思い浮かぶのは図書館からの帰り道、彼に会った日の事だ。


 あの日、美濃赤坂の駅からの帰る途中、聞き覚えのある声が耳に飛び込んできたので、私は、つい神社まで寄り道をしてしまったのだ。


 そこでは、健一君が、子供たちふたりと一緒に楽しそうに遊んでいた。


 優しい人なんだなと思った。子供のように無邪気に遊ぶその顔がとても眩しくて見ているだけで穏やかな気持ちになった。


 そして彼と目が合いそうになった時、胸の奥にフワッと淡い光が灯るのを感じて、思わず木の陰に隠れてしまったのだ。


 そのまま木の陰からじっとその様子を伺っていた。その間も、ドキドキが止まらなかった。


 それから暫くして、かくれんぼが始まった。


「もーいーよ」の声と共に学君がこっちに寄ってくる。


 違うよ学君。健一君はあっち、こっちじゃないよと心の中で叫んだけど、すぐに学君に見つかってしまった。


「あ!纏おねえちゃん」


 そして、健一君にも、愛ちゃんにも見つかってしまい、私は隠れていたことを誤魔化すように、出来るだけ平静を装ってこう言ったのだった。


「ごめん。邪魔しちゃったかな?」と、


 それから、暫くの間4人で遊んだ。


 あんな風に無邪気に遊んだのは久しぶりだった。


 楽しかった。幼い頃の想いが蘇ってくるような気がした。彼の顔を見るたびにドキドキが止まらない。


 帰り道もドキドキが収まらず、健一君とは少しだけ距離をとって歩いた。


 旧井家の前で妙子さんの姿を見たとき、思わずそっちに走って行ってしまったのは、そのドキドキから逃れるためだ。


 妙子さんとあやとりをしている時も、ついつい健一君の方に目が行ってしまい、妙子さんに「集中!」と怒られた。


 彼は気づいていなかったみたいだけど・・・


 そして昨日も今日も色んな事が私の中で起こった。


 胸に手を当てると様々な想いが心の中に到来しては消えていく。


 ドキドキしたり、ワクワクしたり、モヤモヤしたり、イライラしたり、嬉しくなったり、悲しくなったりと、心穏やかではないけれど、それはとても貴重で、淡い宝物のような時間。


 この状態を仮に「恋」と言うのならば、私はそれを甘んじて受け入れようと思う。


 そう、確かに私は恋をしたんだと思う。例え、それが幻のようなものだったとしてもだ。


 だけどそれはもう、意味のない事


 それももうオシマイ。


 ありがとう健一君。とても楽しかったよ。





 そして再び私は振り返る。あの日の事を・・・


 それからまた暫く一人、家で過ごす日々が続いた。


 大学に行ってもよかったのだけれど、とてもそんな気にはなれなかった。


 だからと言って、学校に行く気にもなれない。


 一人きりで過ごす日々はとても長く感じた。


 誰も居ない食卓で一人、ご飯を食べる。


 そう言った日々が続いていく。


 そんな折の事だ。


 家に電話がかかってきたのは・・・


 ひどい胸騒ぎがしてならなかった。




 電話は警察からだった。


 私はその話を聞くなり、すぐに警察に向かった。


 電車を降り、走って警察に駆けつける。


 そこにあったのは、がっくりと項垂れる父の姿だった。


「お父さん・・・どうして?」


 私の姿を見た父はすぐに目を落とし、呟くように言った。


「すまん。纏」と・・・


 警察のひとの言うには、父は下校途中の女子生徒に暴力をふるったということだった。


 その女子生徒が誰なのかは言われずともわかった。


 父がどうやって、彼女の事を突き止めたかはわからないが、ここ数日父が、姿を現さなかったのはそういう事なのだろう。


 話を聞くと、父は、その女子生徒の前で、頭を下げ、何かを頼んだらしい。


 その後、急に激高して殴りかかったとのことだった。


 その場面は容易に想像がつく。


 恐らく父は、私に嫌がらせをしないように頼んだのだろう。それに対して彼女がとった態度は・・・


「すまん」


 繰り返しそう言う父の姿が私にはとても小さく見えた。


 急速に心が冷えていくのを感じた。




 そして、それからまた数日が過ぎたある日のこと


 呼び鈴を鳴らす音に私が扉を開けるとそこには、一人の老紳士が立っていた。


「纏ちゃん。久しぶりだね。覚えているかな?」


 それは小さいときに訪れた先で出会ったあの老人だった。確か私の伯父さんだったと思う。


 その時、私は悟った。父の選択を・・・


 そして・・・


 私はその選択を受け入れた。


 もう、私にはそれしか選択肢が残されていなかった。




 静かだ。


 先ほどまで降っていた雨はどうやら止んだらしい。カエルの鳴く声だけが聞こえてくる。


 時刻を見るともう夜の11時を回っていた。


 結局、


 母が亡くなってからというもの、私はその死に対する負い目を感じて出来るだけ父に負担がかからないように振舞ってきた。


 そして、父はそんな私にずっと負い目を感じていたようだった。生活を支えながらも、いつも一人にして、私に負担をかけてしまうことへの責任を感じていたのだと思う。


 ひょっとすると、それはお互いを想ってのことなのかも知れない。だけど・・・


 窓を開けると心地よい風が頬を撫でる。


 星が見える。明日はきっと晴れるだろう。


 私の見るこの空の下の何処かにきっと父が居る。


 随分と遠く離れてしまったけど、今も父は同じ空を見ていてくれるのだろうか?


 ・・・そう。だけど、とっくの昔に、「家族」ではなくなってしまっていたのだ。父も、私も・・・


 母と言う、大きな引力をなくした世界で、散り散りとなった家族の距離は急速に遠ざかり、見えなくなっていく。


 ド・ジッターの宇宙のように・・・


 全て私の馬鹿な選択の招いた結果だった。




 ベッドに腰を下ろすと私は明日からの事を考える。


 こちらに越してきてからしばらくの間は心が不安定な状況が続いたため、学校に通い始めたのは暖かい春になってからの事だった。


 そして今の私はとても安定している。


 のどかな場所に、穏やかな時間。


 そこから始まるのは、また変わらない日常だ。


 夢のような時間はもう過ぎ去ってしまった。


 一日早かったけど仕方がない。後は元の道を歩いていくだけだ。


 母は正しかった。


 それは誰にも話してはいけないもの。


 だから話せない。伯父さんにも、兄さんにも・・・


 もう、何を信じていいのかすらわからない。


 だから私は一人で歩いていく。この道を・・・


 一人で・・・


「じゃあどうして僕に話したんだよ!?」


 何故、私は彼に話してしまったんだろう。あんなことを


 誰にも話さないと誓ったはずなのに・・・何故?


 理屈に合わないこの選択






 ・・・何故?






そんなのはわかっている。


楽しかったのだ。彼と話すことが、


嬉しかったのだ。彼と居ることが、


だから私は必死でそれを手繰り寄せようとした。



「どうせすぐ帰るだけの、あなたにはわからないのよ。無責任に綺麗ごとだけ言って帰ればいいだけだから」



八つ当たりのようにこぼした言葉は、私の身勝手な願望の裏返しだ。


どうにもならない。そんなことはわかっていた。だけど理性ではどうにもならなかった。だって・・・


だって、あんなにも全てが輝いて見えていたのに!




・・・なのに消えてしまう。


 手をのばしたその先に彼は居ない。泡沫のように消えてなくなってしまう・・・





 いやだ。





 長い間、閉じ込めていた心にぽっかりと空いた穴の中から色々なものが零れ落ちては悲鳴を上げる。


 もういやだ。こんなの・・・私、耐えられない。


 何故、私は彼と再び出会ったのだろう。こんなつらい思いをするのなら出会わなければよかった。


 何故、私はあのロボットを動かそうなどと考えてしまったんだろう。こんなに苦しいなら何もしなければよかった。


 痛い。すごく痛いよ!


 心が・・・心が張り裂けてしまいそうだ!


 助けて!


 誰か助けてほしい!





 そして、その日、私は日記を書かなかった。






 あの後、旧井家に戻った僕は一日中考えていた。


 何故、彼女はあんなふうに僕を拒絶したのだろうか?


 納得がいかない。どうしてもわからない。


 何がいけなかったんだろうか?


 だから、夜、次郎さんと妙子さんが帰ってきたときに、タイミングを見計らって二人に相談をした。


「喧嘩してしまったんだ。彼女と」と・・


「原因は?」


「わからない」


 詳細は伏せなければならなかった。彼女がああ言った以上、おいそれと人に話すことは出来ない。


「だから、どうやって女の子と仲直りしたらいいか教えてほしい」


 僕がそう言った時、二人は顔を見合わせ、少しだけ笑った。


 そして、妙子さんが何かを言いかけたのを制して、次郎さんが言った。


「そうか、なら話は早い。それに対して解答を持っているのは俺たちではなく、君自身だ。君自身がどうしたいかを考えればいい」


「僕が?」


「そうだ。考えればいい。俺たちはサポートすることは出来るが、最終的に必要なのは君自身の意思だ。一生懸命考えて答えを出せ。俺たちに言えるのはそれだけだ」


 ・・・そして再び僕は考える。彼女の事を・・・


 8年前に会った時の彼女は、とても活発で笑顔の素敵な女の子だった。


「ねぇ、けんいちくん。どうやったらおひさまにてがとどくのかな?」


 そう言って、幼い手をいっぱいに伸ばして太陽を掴もうとしていた彼女の事を少しだけ覚えている。


 だけど、時折垣間見せる彼女の姿は暗く沈み、まるで別人のようだ。


 そして、今朝見た彼女もまた・・・一体何が?


 やっぱりわからない。だからダメだ。こんなことを考えていても何も起きない。


 だから、考える。僕は何がしたい。彼女に何を伝えたい。


 何を・・・


 そして長い夜は過ぎていく。


 ゆっくりと・・・


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