2016年8月14日(日)

 その日は朝からはっきりしない天気だった。


 昨日まで燦燦さんさんと照り付けていた強い日差しは薄い雲に隠れ、過ごしやすさと引き換えに、今にも雨が降り出しそうな鈍色にびいろの空があたり一面を覆っていた。


 父、旧井一郎うすいいちろうの初盆の法要ほうようはそんな空のもと行われた。


 生前の父は東京に出たとはいえ、とにかく交友が多く、様々な人が旧井家を訪れる。


 そして皆口々に故人を惜しむ言葉を交わし、父の遺影いえいの前で生前の在りし日の姿に思いをせつつその死をいたむ・・・


 はずだったのだが・・・全く、そうはならなかった。


 問題は、その訪問客を家族と共に迎えるのが、亡くなった本人の声で話すロボットであり、


「今日はありがとう」などと、フレンドリーに言われたらどうなるかだ。


 ついでにそのロボットから、


「今日の気分はどうですか?」などと話しかけられたらどんな顔をするかを考えてみてほしい。


 その答えが今そこにある。


 旧井家は古い家で、ふすまを開け放てば縁側えんがわから仏間ぶつままでつながる広い部屋が出来上がる。


 その部屋の中に所狭しと並べられた座布団にはたくさんの人が座り、仏壇に飾られた故人の遺影と向き合っている。


 ・・・筈なのだが、先ほどから背中にたくさんの視線を感じるのは気のせいではないだろう。


 僕の隣の座布団ざぶとんにはOguri1号がちんまりと座り、仏壇ぶつだんに向かって手を合わせている。


 何だかシュールな光景だ。


 そのせいか、もう、お経が始まっているにもかかわらず、ザワつくような声が辺りから聞こえてくる。


 じいちゃんはさっきから凄い顔でこちらを見てるし、横目でこれを仕掛けた本人を見ると、声を殺して笑っているのが見えた。


 あの人はつくづくこういうのが好きだよね。


 お坊さんも何だかやりにくそうだ。時折、咳ばらいをして事態を打開しようとしているのだけど、残念ながらうまくいっていない。


 チラリと後ろを見ると、纏さんが柚原さんの隣で、姿勢正しく座っているのが見えた。


 涼しい顔をしているように見えるけど、小刻みに肩が揺れているのは、多分必死で笑いをこらえているのだと思う。


 喪服ではなく、黒色のセーラー服に身を包んだ彼女の姿は、何だかいつもと違って見えた。


 前代未聞と言ってもいい、父さんの初盆の法要はこうして始まった。




 その後も終始和やかな雰囲気のまま法要は続き、やがて会食の時間になった。


 沢山あった座布団は下げられ、代わりに沢山の長テーブルが入ってくる。


 色んなの人の手によりテーブルが次々と並べられていき、読経が行われていた大きな部屋はあっという間に食事会の会場へと変化していった。


「纏ちゃんこっちこっち」


 と妙子さんが手招きし、纏さんは柚原さんとともに僕の隣に座ることになった。


 改めて彼女の姿を見る。


 制服姿の彼女は、いつもとはまた違った雰囲気を漂わせている。りんとしたたたずまいの中に、どこか馴染みのある同級生の香りのようなものがする。


 そして何よりとても可愛い。隣に座るだけで本当にドキドキしてしまう。


 暫くざわざわとした雰囲気の中、訪れた人たちは、めいめい用意された席に着席していき、


 皆が席に着いたところで、改めて、喪主である母さんのスピーチが始まった。


「皆さん。本日はお忙しい中、亡き主人の初盆の法要にご参列頂きありがとうございました」


 母さんはそこまで言うと、すぐそばに居たOguri1号を持ちあげて、


「とは言え、私のつたないスピーチを聞くより、せっかく本人が居るのですから、本人から挨拶をさせたいと思います」


 ドッっと会場が盛り上がる。実はああ見えて母さん、割とノリのいいひとなんだよな。


 母さんが、Oguri1号を下すと、少し間を置いて、今度はOguri1号によるスピーチが始まる。


「え~、生前の僕がどんな人間だったかなど、今更こんなところで語ることではないと思うけど」


「そりゃそうだ」などと、再び笑い声が上がる。


「ここに集まっていただいた皆は、僕が生前、色々とお世話になった人たちばかりだ。とても感謝している」


 そして、Oguri1号は、一人一人の名を呼びながら、「ありがとう」と丁寧に感謝の言葉を並べていく。


「ありがとう」「ありがとう」と・・・


 呼ばれた人は、静かに頭を垂れ、それを迎える。それは少しだけしんみりとなる瞬間だ。


 恐らくその人の脳裏には生前の父さんの姿が浮かんでいるのだろう。


 しかし、昨日、綿密に練習していたとはいえ、大した脚本だよ。


 あの人、ひょっとしてそっちの才能もあるんじゃないだろうか?


 そんなことを考えている間も、父さんの言葉は続いていく。


「柚原さん。ありがとう。色々とお世話になりました」


「ああ、私もだよ。楽しい思いをさせてもらった」


 お、柚原さんの番だ。だとすると次は・・・


「纏君」


「はい」


「ありがとう。これからも健一と仲良くしてやってくれ」


 それはありふれた言葉だったのかもしれないけど、父さんらしいひとことだった。


 彼女の瞳の中には今、一体どんな父さんの姿が映っているのだろう。


 そう思って彼女の姿を見たとき、僕は気づいた。


 何だか纏さんの様子が変だ。Oguri1号を見たまま、茫然自失ぼうぜんじしつといった様子で固まってしまっている。


「纏さん?」


 その瞳からツーと、一筋の涙が零れ落ちていく。


「あ、ごめん。なんか私、変だね。ちょっとジーンと来ちゃったみたい」


 ややあって、彼女は我に返ったように慌てて涙を拭うと、軽く一礼し、静かに姿勢を正した。


「あー泣かしちまったな。一郎君」などと揶揄やゆする言葉がかかる。


 何だろう。彼女の瞳はどこか別のものを映しているような気がした。どこか別の何かを・・・


 やがて、Oguri1号による父さんのスピーチは終わり、


「さぁ、皆さん。今日は存分に楽しんでいってほしい」


 締めの言葉とともに食事会が始まった。待ってましたと、一気に会場が盛り上がる。


 いたるところで「一郎君に乾杯!」といった声が上がり、皆、笑顔で言葉を交わしている。


 最後まで破天荒はてんこうだったけど、父さんらしいと言えば父さんらしい法要だったと思う。






「さて、私はここでおいとまするよ」


 食事会が始まってすぐ、柚原さんがそう言って席を立った。


「どこかへ行かれるんですか?」


「ああ、資料館は今日も休みではないからね。無理を言って出席させてもらっているんだよ。今日は午後から見学の子が来る予定もあるからね」


 なるほど、さっきから、しきりに腕時計をみて時間を気にしていたのはそういう理由だったんだ。


「纏はもう少し、健一君たちと楽しんでいきなさい」


 そう言い残して柚原さんは去っていった。


「柚原さん、忙しそうだね」


「忙しいかどうかはわからないけど、一応館長だからね」


 ああいう施設は日曜日や休日の方が来る人が多くなるからと纏さんは言った。


 なるほど確かにそれはそうかもしれない。


「ただ私も何回か行ってるけど、実際のところ休日でも平日でもあんまり人の数は変わらないよ」


「何回も行ってるんだ」


「伯父さん、たまにお弁当忘れていくから、それを届けにね」


「ふーん」


 そう言えば、この前、たかしさんに会いに行った日もそんなことがあったな。


 意外だ。結構しっかりしているように見えたけど、柚原さん割とうっかり者なんだな。


 僕がそう言うと、纏さんは静かに目を閉じ、何かを思い浮かべるような素振りを見せた後、


「うーん。伯父さんのあれは、ちょっとそういうのとは違うかも・・・」


 そう言いかけて、「あれ?」と何かに気づいたように彼女は足元に目を落とした。


「どうしたの?」


「伯父さん、携帯忘れてる」


 彼女が言うように、柚原さんが座っていたあたりに旧式の携帯電話が置いてあった。


「なんだ。やっぱりうっかり者なんじゃん」


「うん。そうかも」


 と困ったように纏さんは笑い、小さく肩をすくめてみせた。


「でもどうしようこれ?」


「今からだと追いかけても間に合わないかも」と、携帯を拾い上げた彼女が、どうするかを考え始めたとき、


「纏ちゃーん」


 と突然、彼女を後ろからガバリと抱き留めるようにして、騒がしい人がやってきた。この会の仕掛け人の登場だ。


「どう?楽しんでる?」


「あ、はい。楽しいです。すごく」


 戸惑いがちに答える彼女の言葉に「でしょでしょ?」と得意げに笑うその姿は子供そのものだ。この人はいつまで経っても変わらないな。


「その制服、学校の?すごくかわいいわね」


「いえ、前の学校のです。黒いのこれしかなかったから・・・」


「そうなの?でも素材がいいから、何でも似合うわね。ね?健一」


 ホレホレあんたもほめてあげなさいよ。と促されて僕が「うん。似合ってるよ」と言うと、彼女はわずかに目を伏せ、「ありがとう」と小さく呟いた。


 ただ、何だかあまり嬉しそうに見えないのは気のせいだろうか?


「それより健一」


 と、今度は僕の方に矛先を変え、クイッと軽く首を横に振る。


 俗に言う「面を貸せ」って意味だと思う。何だか悪い予感しかしないけど、拒否するともっと悪いことが起こる気がするから渋々従うしかなかった。


「ごめんね纏ちゃん。ちょっと健一借りるね」


 と言って、そのまま、僕を人目のつかないところに誘導する。


 何だろう。不良に連れ出される時の気持ちってこんな風なんだろうか?ますます悪い予感しかしなくなってきた。


「聞いたわよ~健一」


 と、そこで足を止め、妙子さんが嬉しそうに言った。


「あんた。纏ちゃんが好きって言ったんだってね」


「ちょっと、それ何処で聞いたのさ?」


 よりにもよって一番知られたくない人に知られてしまった。


 さては学君か。と思ったけどそうではなかったらしい。妙子さんは会場の方を指さし、


「さっきからOguri1号が盛大にバラしてるわよ。あのかわいい子は何処の子だ?と言われて、健一が好きな子だって・・・」


 会場では、纏さんの所に色んな人がやってきて彼女に質問している姿が垣間見えた。


 父さん、いったい何やってるのさ!?


 ダメだ止めないと。と会場の方に戻ろうとした僕を、再び妙子さんがグイッと呼び止める。


「で?どうなの?あんたたちどこまで行ったの?」


 ダメだこの人。完全にスイッチが入っちゃってる。


「何処までって、そんなの何もあるわけないじゃないか。だってまだ知り会ったばっかりだし・・・」


「ダメよそんなのじゃ。あんた状況解ってる?」


「じょ、状況って?」


「あんたはもうすぐ東京に帰る。そして彼女はとても可愛い。次に会った時、あの子が彼氏を連れてきて、健一君。紹介するね。これ私の彼氏・・・なんて紹介されるなんてこともあるわよ。いや、絶対そうなる。間違いないわ」


 うんうんと自分の言ったことに納得するかのようにうなずいて見せる。


 どんな論理展開ろんりてんかいだよとは思ったものの、確かにその状況を頭で考えてみると・・・


「それはちょっと・・・嫌かも」


「でしょ?だからあんた。彼女に告りなさい。チャンスは少ないんだから今すぐにでもね!」


 そ、それはちょっと・・・


 あまりの気迫に気おされて後ずさりしたところで、背後から纏さんの声が聞こえた。


「健一君。私やっぱり携帯電話を資料館に届けてくるね。伯父さん困ってると思うから」


「チャンスじゃない」と妙子さんの目がキラリと輝くのを見た気がした。


「纏ちゃん。ちょっと待って。ひとりは危ないから健一が送っていくってさ」


 そして、僕に何の断りもなくサッサとそれだけを決めると、僕の背中をトンと押した。


「ホレ頑張ってきなさい」と・・・




 ・・・と言うわけで僕は今、資料館に続く道を纏さんと歩いている。


 あまりの早い展開に正直頭がついていかない。


 資料館へは徒歩で約15分。川を挟んで、広い田んぼの向こうに見えるのがそれだ。


 とは言え、いざこうなってみると何を話していいのかわからない。どうすればいいんだろう?


 そうしている間も、纏さんは静かに歩を進めていく。


 さっきまで普通に話せてたのに、意識してしまうと急に言葉が出てこなくなる。まいったなこれは・・・


 僕があれこれ考えていると、彼女はそこでピタリと足を止めて、僕の方を振り返った。


「さっき、妙子さんと何を話してたの?」


「え?それはまぁ色々と・・・」


「色々?」


「そう、色々だよ色々!」


 とても本当の事は話せない。


 彼女は「ふーん」と言いながら身をひるがえし、再び歩を進めていく。


「私も色々聞いたよ。健一君の事」


「え?」


 あの人たち、纏さんに一体何を・・・


「い、色々って?」


 僕がそう言うと彼女は再び振り返り、


「色々は色々だよ」


 そう言って、ふわりと柔らかく笑って見せた。


 ドキリと胸が高鳴る。


 相変わらずはっきりしない空の様子だけど、そこだけ暖かな陽光が差し込んで来たように思えた。


「面白い人たちだね。健一君のお父さんのお友達は」


 そう言って、彼女が空を見上げる。


 その仕草はとても自然で、見ているだけで肩の力が抜けていくのを感じた。


「やっと笑ったね」


「え?」


「健一君、さっきからずっと難しい顔して黙ってるんだもん。私つまらなくて・・・」


「あ、ごめん」


「いいよ。もっとお話ししよう」


 クルクルと表情を変える彼女は、どういうわけか、今日はいつにもまして上機嫌だ。


 何だか悩んでいた自分が馬鹿馬鹿しくなってくる。


「あ、ここ」


 またしばらく歩いた後、彼女は足を止め、小さな路地裏の小道を指さした。


「この先に、照手姫てるでひめの井戸があるね」


「え?そうだったかな?」


「ねぇ、行ってみようよ」


 彼女が僕の手を取って走り出す。その姿からは、最初に会った時に感じたどことなく寂し気な雰囲気はまるで感じない。


 恐らくこれが彼女の本当の姿なのだろう。暖かくて、真っすぐで、陽光のようにまぶしくて・・・


 ふと、その姿が別のものと重なった。僕の手を取って走るその後姿が、幼い日に見た光景と重なる。


 真っ白なワンピースに、ふわりと空を舞うそれは、真っ白な・・・麦わら帽子?


「ホラあった」


 細い路地を抜けると、やや開けた場所に出る。


 県道沿いにある大きな石碑の脇の小さな一角で、木々に囲まれるようにして、その史跡はあった。


 気を付けていないと見落としてしまいそうになる場所だ。


 井戸の隣の案内板にはこう書かれていた。



 照手姫てるでひめ水汲みずく井戸いど


 むかし武蔵むさし相模さがみ(今の神奈川県)の郡代ぐんだいぐん代官だいかん横山将監よこやましょうげんおんなまれ、照手姫てるでひめとしてなづけられ成長せいちょうしました。めるような美人びじんうことで世間せけん評判ひょうばんになりました。

 そのはなしいた常陸ひたちくにいま茨城県いばらぎけん)の国司小栗判官正清こくしおぐりはんがんまさきよは、使者ししゃてず強引ごういん婿入むこいりしてしまいました。そのため、父親ちちおや将監しょうげんがたいへんおこり、小栗判官おぐりはんがんどくの入ったさけませころしてしまいました。

 照手姫てるでひめふかかなしみ、あてのないたびて、あちこちさまよい、最後さいご美濃国青墓みののくにあおはか長者ちょうじゃ「よろづ」にわれることになりました。


 長者ちょうじゃは、その美貌びぼうきゃくらせようとしますが、照手姫てるでひめこばとおしました。おこった長者ちょうじゃは「一度いちど百頭ひゃくとううまにかいば(うまのえさ)をやれ」、「かごみずめ」、「十六人分じゅうろくにんぶん炊事すいじ毎日一人まいにちひとりでやれ」などと、無理むり仕事しごといつけました。

 照手姫てるでひめは、毎日毎日まいにちまいにち仕事しごとをつづけましたが、日頃信仰ひごろしんこうしていた千寿観音菩薩せんじゅかんのんぼさつたすけで、普通ふつう人間にんげんにはできそうもない仕事しごとげることができたのです。


 一方いっぽう毒酒どくしゅたおれた小栗判官正清おぐりはんがんまさきよは、熊野くまのにつかってよみがえり、二条大納言兼家にじょうだいなごんかねいえゆるしをみやこもどり、朝廷ちょうていから美濃国みののくにおさめる役人やくにん任命にんめいされました。


 その照手姫てるでひめ青墓あおはかることをり、つまとしてむかえ、二人ふたり末永すえながしあわせにらしたということです。


 この井戸いどは、照手姫てるでひめが、かごみずんだとつたえられています。


 照手姫てるでひめのおはかはここから約百米北やくひゃくメートルきた園願寺えんがんじ(おてら消失しょうしつ境内けいだいにあります。



「Oguri1号を支える機構の骨子こっしとなる部分は、terude frameworkという名前なんだよ。健一君のお父さん、よっぽどこの話が好きみたいだね」


「へぇ、そうなんだ」


 そのネーミングセンス。やっぱり父さんが作ったものなんだな。あれは


「対象となった人格モデルをベースに、色んな人との対話や接触を繰り返しつつ、取り入れた外部刺激がいぶしげきを自己のモデルに照らし合わせ、コアとなるモデルを再帰的さいきてきに形成していく。マニュアルには基本コンセプトと簡単な動作原理しか書かれていなかったけど・・・」


 そこで彼女は少し考えるように「うーん」と眉を寄せた。


「多分、このままではうまくいかない。詳しいことまではわからないけど、何だかイガイガするの」


「イガイガって?」


「うまく説明できないけど、何となく・・・多分まだまだやるべきことは沢山あるってことだと思う。でもやるべきことが多いってことは、とても楽しいことだと思うよ。だからね・・・」


 彼女が語る内容は僕には殆ど理解できないけど、楽しそうに語る声を聞いているだけで心が満たされてくる。


 そのったひとみは、はるか遠く、延々と続く空のように果てしない先を見ているかのように僕には思えた。


 やっぱり似てるんだな。父さんに。愛ちゃんは彼女のこういうところが最初からわかってたのかもしれない。


「でも、よく知ってたねこんな場所。僕だってあんまり覚えていないのに・・・」


 僕がそう言うと、彼女はきょとんとした目でしばらくの間、僕を見て、


 やがて呆れたように小さく笑うと、くるりと身を翻して来た道を再び歩き始めた。


「ほんと、なーんにも覚えてないんだね」


 え?それはどういう・・・


「行くよ。ちょっと道草しちゃったけど、伯父さん、きっと困ってるから」


 それから僕たちは色んな事を話して歩いた。


 その度に彼女は笑い、驚き、時には困ったような顔をした。


 そのすべてが僕の胸に一つずつ刻み込まれていく。


 彼女と柚原さんの家で出会ってからまだたったの4日しか経っていない。


 だけど、その4日の間に僕の心の中はこんなにも彼女の事であふれている。


 多分これが人を好きになるってことなんだろう。




 楽しい時間はあっという間に過ぎ去り、資料館まであと少しになった。


「はい。もうすぐ着くと思います。はい。そうですか・・・」


 彼女は先ほどからスマホで電話をしている。資料館に連絡をとっているみたいだ。


 実際便利だよな。僕も欲しいと言ったけど、お前にはまだ早いと父さんに言われたままの状態がずっと続いている。


 今度母さんに交渉してみようかな。


 僕がそう思って見ていると、暫くして、彼女は電話を終え、スマホを鞄にしまった。


「柚原さん?」


「ううん。受付の人。伯父さん、今、見学に来た子を案内しているみたい。だから伝言を頼んでおいたよ」


 資料館まであと少し。そうか、もう終わりなんだ・・・早いものだな。


 ふと僕は気づいた。


 ひょっとして、何の解決にもなってないんじゃないかと・・・


 再び焦りのようなものが僕の胸の中を支配する。


 一瞬、脳裏にガーっと怒り狂う妙子さんの姿が浮かんだけど、それはまぁ、どっちでもいい事として、自覚してしまったからこそ余計に思えてしまう。


 あと3日もすれば僕は帰る。このまま彼女と別れてしまってもいいものだろうか。そうなると彼女は・・・


 いや、それはダメだ。だから、


「纏さん!」


 と、僕が決意を固めかけたとき、それを見透かしたかのように資料館の方から柚原さんが歩いて来るのが目に入った。


 多分、連絡を受けて迎えに来たんだろう。僕は出かけた言葉を慌てて飲み込んだ。


 まいったな。流石にこの状況で告白なんてことはできない。


 何だか、残念なような、ホッとしたような・・・


 迎えに来たのは柚原さんだけじゃなかった。傍らには僕たちと同い年くらいの眼鏡をかけた女の子が居る。


 その女の子は僕たちに気づくと、嬉しそうな顔で小走りでこちらに駆けてきた。


「うそ。館長さんの姪って篠原さんの事だったんだ。あたしと同い年の親戚の子が来るって聞いたんだけど。まさかあなただったなんて!」


 と、そこで僕の方を見て、


「ははーん。さてはこちらは彼氏ですか?そっかそっか、篠原さん可愛いもんね。他の男子がいくら言い寄ってもなびかないのはそういうわけだったんだ」


 納得したようにうんうんと頷く。なんだか、随分と人懐こい子だな。纏さんの同級生だろうか?


「あ、初めまして。あたし国枝聡子くにえださとこと言います。篠原さんとは同じクラスで・・・」


「やめて!」


 と、突然纏さんが大きな声を上げた。驚いて彼女の方を見ると、先ほどまで穏やかだった表情は消え失せ、険しい顔で女の子をにらんでいる。


「どうして・・・」


 かすれるような声が纏さんの口から洩れた。


「どうしてここにあなたが居るの?伯父さんと何を話したの!?」


 切羽詰せっぱつまったような言葉。こんな彼女の姿を見るのは初めてだ。


「私、あなたに言ったよね!私に付きまとわないでって。妄想も大概にしてって!なのにどうして?私があなたに何をしたって言うの!?」


 激情に身を任せるようにしてそこまで一気にまくてた後、彼女は不意に肩を落とし、悲しそうにうつむいた。


「どうして・・・」


 ポロリと一粒の涙が彼女の目から零れ落ちる。


「どうして、今なの?ひどいよこんなの・・・」


 どうしていいのかわからなかった。


 ポロポロと涙をこぼしながら、「どうして?」とうわごとのようにつぶやく彼女を前に、僕も、国枝と名乗った女の子も何もできずにその場で立ち尽くす中、柚原さんがいち早く纏さんのもとに駆け寄った。


「落ち着きなさい。纏」


 その言葉にハッと我に返ったように彼女が柚原さんを見る。


「どうしたんだ?纏、彼女は資料館に見学に来ていただけだよ。美濃地方の伝承に興味があるからと言ってね」


 彼女の視線が動き、柚原さんと国枝と呼ばれたその女の子を交互に捉える。


 暫くして、ようやく落ち着いたのか、彼女は涙を拭うと、女の子に向かって小さく頭を下げた。


「ごめんなさい。国枝さん。私、あなたに失礼なことを言ってしまったわ」


「あ、いや、あたしこそなんだか、その・・・ゴメン」


 ばつの悪そうに目をそらしながら、女の子が言う。


 次に纏さんは再び柚原さんの方を見て、鞄の中に入れていた携帯電話を取り出した。


「伯父さん。これ、携帯電話・・・もう忘れちゃだめだよ」


「ああ、すまないね」


「本当にごめんなさい。私はこれで帰ります」


 そして、もう一度深々と頭を下げると、彼女は来た道を戻り始めた。


 柚原さんはまだ何か言いたそうだったけど、やがて諦めたように静かに首を振り、ため息とともに言葉を口にした。


「国枝さん。申し訳ないが、今日の所は許してやってほしい。健一君。纏の事を頼んだよ」


 慌ててその後を追いかける。でも「頼んだよ」と言われても僕にはどうしていいのか・・・


 そして僕たちは来た道をまた戻り始めた。


 彼女は何もしゃべらない。しばらく無言の歩みが続く。


 聞きたいことは山ほどあった。


 一体あの子との間に何があったのだろうか?


 何がそんなに悲しいのだろう?


 僕が君に何かをしてあげられることはないのだろうか?


 だけど、それを口にすることは出来なかった。そうすると何かが崩れてしまうように思えたからだ。


「柚原さんにも困ったもんだね。最初から言っていておいてくれればよかったのに」


 代わりに僕が口にしたのは、当たり障りのない言葉だった。


「わざとだよ」


 それを聞いた彼女の口から意外な言葉が漏れた。


「今回のはそうじゃないかもしれないけど、いつもはそう。閉じこもりがちな私を何とか色んな人に会わせようとしてくれてる。たかし兄さんもそう。わざとだらしないところを見せて私に世話を焼かせようとする。それはとても有難い事なのだけれど、私は・・・」


「私は・・・」と独り言のように呟く彼女にかけられる言葉が見つからず、僕はそれ以上何も言えなかった。


 さっきまであんなに身近に感じていた彼女の事が、今はやけに遠く感じる。


 結局のところ、僕はまだ彼女の事をほとんど知らない。


 彼女が何を思い、何に悩んでいるのかと言うことも・・・


 告白だのなんだの、ひとりで盛り上がっていた自分が酷く滑稽こっけいに思えた。


 そのまま無言で来た道を戻り、旧井家の近くに差し掛かった時、たくさんの人の笑い声が聞こえてきた。


 どうやらまだOguri1号が色んな人と対話をしているみたいだった。


「すごいね。健一君のお父さんは・・・」


 その光景を見ながら纏さんの口から再び言葉が漏れた。


「あんなにたくさんの人がみんな笑ってる。そこに居るだけでみんなを幸せにできる。それがどれだけ難しくて、どれだけ大切なことなのか・・・」


「私にはできない」とため息とともに吐き捨てたその言葉が、沸き上がった笑い声にかき消されていく。


「健一君、ゴメン、私疲れちゃったみたい。もう帰るね」


 そう言って彼女は、寂し気に笑うと、そのまま柚原さんの家の扉を開けて僕の視界から姿を消した。


 僕は終始何も声をかけてあげられなかった。


 行きはあんなに輝いて見えた曇り空が、今は元通りの暗く沈んだ鉛色なまりいろにしか見えなくなった。




 旧井家に入ると、庭先でOguri1号が近所のひとと会話をしているのが目に入った。



「オレオレ、田中だよ。ホラよく昔遊んだろ?覚えているかな?」


「・・・昔よく遊んだ田中というキーワードに該当する人間は2人。そのどちらの田中だ?ひとりめは小学校の3年生の時に近所に居た男子、もうひとりは・・・」



 Oguri1号が何かを話すたびに、歓声が上がる。いいよね。ロボットは楽で。


 そのすぐ傍で、楽しそうにそれを観察するたかしさんの姿が目に入った。


「なるほど『よく遊んだ田中』では流石に推論は働かないか。まぁこれは人間も同じだろうけど、受け答えの仕方がまだまだだな。仕方ないって言えば仕方ないが、例えばこう、それとなく探りを入れるように・・・」


 とそこで僕に気づくと、「よぉ健一君」とこちらに近づいてきた。


「今帰りかい?纏はどうした?」


 僕が何も答えないでいると、何かを察したのか、更に問いかけてきた。


「何かあったのか?」


「何もありませんよ」


 ぶっきらぼうにそう答えて立ち去ろうとする僕の手を、たかしさんが掴んだ。


「教えてくれ。何があったんだ?纏に何か言われたのか?」




「そうか・・・」


 僕が事の顛末てんまつを話すと、たかしさんは深いため息をひとつついた。


「そいつは迷惑をかけたな」


 迷惑だなんて、そんな・・・


「彼女は、その・・・家族みたいなものですから・・・」


 それは殆ど、妙子さんの受け売りだ。恋人・・・と言えないのが悲しいけど、その言葉が今の彼女と僕を結ぶ細いつながりのようなものに思えたからだ。


「教えてください。何故、彼女はあんな風になったんですか?」


 僕の問いかけに、たかしさんは暫く考えるような素振りをみせたけど、やがてゆっくりと首を横に振り、


「それは俺の口からは言えない。本人の口からのみ語られるべきものだ」


 と言った。そんな、どうして?


「だから、健一君、これは俺の一方的なお願いになるんだが・・・」


 そう前置きしてから、たかしさんは言葉を続けた。


「君がどう思っているかはわからないが、あいつは多分、君の事を好いている。だからあいつから何か自分のことを話すようなことがあったら力になってやってほしい」


 その後、僕が旧井家に帰ると、宴会はまだ続いていた。


 妙子さんが僕を見つけて寄ってきたけど、僕の様子を見るなり、急に表情を変え、


「まぁ、人生いろいろあるわよ」


 と申し訳なさそうにそう言い残して去っていった。


 無責任な・・・だけど僕はそんなにわかりやすい顔をしていたのだろうか。


 騒がしい場所を離れ、ひとり物思いにふける。


 考えるのは彼女の事ばかりだ。


「告白しろ」とか「頼んだよ」とか「力になってやってほしい」とか言うけど、みんな本当に勝手だよ。


 何も知らない僕に一体何が出来るというんだ?


 もう一度彼女の事を想う。


 思い浮かぶのは、色々な彼女の姿だ。


 泣いたり、笑ったり、怒ったり・・・


 だけどやっぱり僕は、


 彼女のあの笑顔を見てみたいと思う。


 もう一度あの素敵な笑顔を・・・






「では行ってきますね。あなた」


 お母さん声がする。


「今日は遅くなるのか?」


「ええ久しぶりの同窓会ですから少し羽目を外させてもらいます。纏も、ちゃんといい子にしてるのよ」


 私はプイッと顔をそらす。お母さんとは昨日喧嘩したばかりだ。まだ私は全然許してない。


 昨日、友達の前でちょっとした手品をしていたことをお母さんに見つかってしまったのだ。


「種も仕掛けもありません」


 そう。種も仕掛けもない魔法のような手品。これをやるとお母さんは昔から私を叱った。普段は温厚なお母さんが、その時だけはとても怖かった。


 だけどその日、友達の前ですごく怒られたのに腹を立てた私は、結局お母さんと喧嘩してしまったのだ。


 何もあんなに怒ることはないのに。みんな困っていたでしょ。お母さんなんて嫌い!


「こら、纏、ちゃんと返事しなさい」


 お父さんがそう言ったけど、私は頑なに「いってらっしゃい」を言わなかった。


「行ってきます」と言ってお母さんが歩き始める。


 その時、不意に胸騒ぎがして私は「お母さん!」と言葉を発した。


「どうしたの纏?」とお母さんが振り返る。


 だけど私は、その後の言葉を飲み込んだ。「行かないで!」というその一言を・・・


 何も言わない私を見て、ふぅと一言ため息をつくと、そのままお母さんは私の視界から姿を消した。


 そして私はそれを一生後悔することになる。





 お母さんは、その日、高校の同窓会に出席するために出かけ、


 そして帰ってこなかった。

 

 同窓会からの帰り道、通り魔に襲われたお母さんの時間は、そこで歩みを止めることになる。

 

 唐突に、そして永遠に・・・






 目が覚めたとき、時刻は既に午後5時を回っていた。


 あの後、本当に眠ってしまったらしい。


 身を起こすと、ツーと涙が頬を伝って落ちていくのを感じた。


 何だろう?何か夢を見ていた気がする。だけどよく思い出せない。気怠けだるさだけが体に残っている。


 あまりいい夢ではなかったのかもしれない。


「変なことになっちゃったな」


 起きて最初に浮かんだのは、資料館でのことだ。


 健一君はどう思っただろう。変な子だと思わなかっただろうか?


 困ったな。次からどうやって声をかけていいのかわからない。


 いやだな。本当に楽しい一日だったはずなのに・・・


 視線を動かすと、ハンガーにかかった昔の制服が目に入る。


 これにはいい思い出がない。まさかまたこれを着ることになるとは思わなかった。こんなことなら黒い色の服だけでも買ってもらえばよかった。


 そうすればあんなことにはならなかったのかも知れない。


 私は部屋を出て洗面所に向かうと、顔を洗って、鏡に映った自分の姿を見た。


 酷い顔だ。こんな顔で人前には出られない。


 今日の夕食会は断ってもらおう。今はどうやって笑っていいのかわからない。


 ついさっきまでは自然にできていたことなのに・・・


 部屋に戻った私は、昨日できなかったことをやることにした。


 取り寄せた論文を開き、父の記述した数式を導き手として、イメージを膨らませる。


 アインシュタインの一般相対性理論いっぱんそうたいせいりろんは、滑らかな時空の方程式だ。そこでは重力の生み出す溝に沿ってあらゆるものが相互に作用しながら連続した曲線を描いていく。空間も、時間も・・・


 そこにあるのはとても気持ちいいゆるやかな丘陵きゅうりょう。完成された一つの世界だ。


 イメージを拡大し、そこからまずは極小レベルまで歩を進めてみる。


 そこにあるのはボコボコと量子りょうしあわが噴き出る荒れ狂った世界だ。先ほどまでの緩やかな世界とは、とても相いれない、不連続な尖った世界。


 すぐに足を踏み入れることはせず、いったん保留し、今度はイメージを広げ、極大へと近づけていく。


 そこは宇宙の果て。宇宙の加速膨張が観測される遥か彼方の宇宙の先だ。


 このふたつを念頭に置いた上で、再び父の導くその手に従って、それらをひとつに纏めようと試みる・・・


 右手と左手。あやとりの糸を絡めとるように慎重に、少しずつ・・・ゆっくりと・・・


 苦しい!息がつまる。こんなこと、本当に出来るのだろうか・・・


 暫く頭の中で、いくつかの試みを試した後、私はイメージを中断した。


 ダメだ。この試みは多分うまくいかない。


 今の私には父ほどの論理構成能力ろんりこうせいのうりょくがないので、確かなことは言えないが、とてもイガイガする。この試みはすぐに破綻はたんするだろう。


 何よりとても雑に感じる。


 そこに感じるのは焦りや悩み・・・


 多分それはこの頃の父の心境そのものだ。


 私は読み終えた論文を元の封筒にしまうと、その頃の父の姿を思い浮かべてみた。


 母が亡くなってから、父はより研究に没頭し始めた。


 ただ、その割には思うような業績に繋がっていなかったようだった。いつもカリカリしていたのを覚えている。


 一緒に過ごす時間も徐々に少なくなり、電話での会話が増えていった。


 声だけの存在


 それが私にとっての、あの頃の父の印象だ。


 だけどそれはきっと私が招いてしまった結果だ。


 私があの時、意固地にならずにちゃんと母に告げてさえいれば・・・


「ごめんなさい。お父さん」


 私は独り言のように呟くと、階下に足を運んだ。


 1階のリビングには既に伯父の姿があった。大きめの液晶テレビに映し出されているのは本日のニュースだ。


 ニュースはオリンピック関連の話題で持ちきりだ。メダルを取るたびに我がことのように喜ぶニュースキャスターの顔が映し出されている。


 伯父は私に気づくと、優しく声をかけてきた。


「もう気分は大丈夫なのかい?纏」


「はい。昼間は申し訳ありませんでした」


「出来れば何があったのかを聞かせてほしいんだが・・・」


 伯父の言葉は当然だ。だけど出来ればそこにはあまり踏み込んでほしくはない。


「彼女とはちょっとした行き違いがあっただけです。また学期が始まったら改めて謝っておきます」


「そうか・・・」


 伯父はそれ以上何も聞いてこなかった。


 優しい人だ。こういう時は少しだけ罪悪感を覚える。


 ごめんなさい伯父さん。でも話すわけにはいかないんです。


 そのまま夕食の支度を始める。


 こちらに来てからと言うもの、家事全般は私の仕事だ。こういった単純作業は私の気を紛らわせてくれる。


 まぁ、時には失敗するけど・・・だけど、たかし兄さんが言うほど酷い失敗じゃ・・・ないと思う。


 とは言え、ここ数日浮かれていたのを少しだけ反省するしかない。


 多分、彼女の事は、ひとつの戒めなのだろう。


 国枝聡子・・・


 夏休み前に彼女と交わした会話が脳裏に浮かぶ。


「篠原さんって不思議な人だよね。だって・・・」


 うかつだった。まさかあんなことがきっかけになるなんて・・・


 今なら解る。母の言葉はとても正しい。


 気を引き締めなければならない。でなければ伯父さんにまで迷惑をかけてしまう。それだけは絶対に嫌だ。


 こちらに来てからと言うもの、穏やかな日々が続いている。


 それは私が望んだものでもあり、変わらない日常の中で私は生きている。


 出来る限り、それを壊さないように・・・






 その晩、纏さんは夕食の場に現れなかった。


 柚原さんがやって来て、「今日は気分がすぐれないそうなので」と告げて帰っていった。


 僕は昨日まで彼女が居た場所を見る。


 彼女が笑いながら、妙子さんたちとあやとりをしていた場所には今は誰も居ない。冷たく冷え切った空間がそこにあるだけだ。


 彼女の居ない部屋ってこんなに広かったんだ。


 子供たちが楽しそうにOguri1号と遊ぶ声すら遠い世界の事のように思えてしまうから不思議だ。


 それだけ僕の中で彼女の存在が大きくなっているという事なのか・・・


「けんいちにーちゃん。まといおねぇちゃんとけんかしたの?」


 そう言いながら、愛ちゃんがトタトタとこちらに寄ってきた。


 心配そうに僕の方をジッと見つめてくる。


 しまったな。子供にはそういう風に見られてしまっているのか。これは考えものだ。


「喧嘩してないよ。纏お姉ちゃん。今日は身体の調子がちょっと良くないだけだから」


「じゃあ、あしたはまといおねぇちゃんくる?」


「そうだね。多分、いやきっと来てくれるよ。纏お姉ちゃんも愛ちゃんのこと大好きみたいだし」


 そう言うと、愛ちゃんは、ぱぁっと顔を明るくして満足そうに去っていった。


 そうだな。まだフラれたわけでもない。


 色々言われるけど、僕自身何がしたいかが問題だ。


 僕は隣の家を見る。ここ数日何度もお邪魔したその家の中に彼女は居る。彼女は今どうしているだろう。


 笑っているのか、泣いているのか・・・


 ただ僕は思った。


 もう一度会って話がしたいと・・・





 夜、風呂から上がった次郎は、妹が珍しく縁側で黄昏たそがれているのを見かけた。


「ふぅ」と明らかなため息をつきながら、缶ビールをあおるその姿は、まぁいつもの事だが、その顔に反省めいた憂いが混じっているところを見ると、どうも何かをやらかしたらしい。


「まだ飲んでいるのか?」と次郎が言うと、わずかに顔をこちらに向け、「なんだジロちゃんか」とめんどくさそうに吐き捨てる。


「何だとは何だ?兄貴に向かって」


 次郎が言うと、「うっさいわねぇ・・・」と一気にビールを飲みほし、こちらに向かって空になった缶を投げ捨てた。


 カランという音を立てて足元を缶が転がっていく。とても子供には見せられない姿だ。


「私さぁ、今回ちょっと自信があったんだよね」


 仕方なしに次郎が転がった缶を拾っていると、今度は愚痴を言い始めた。仕方ない聞いてやるか。


「だって、あの子、健一と話すとき何だか本当に楽しそうにしてるでしょ?健一もあの子のこと好きみたいだし、だからもうあんたらくっついちゃいなさいって思ったわけよ」


 そう言って、右手と左手を合掌がっしょうするように合わせて見せる。


 何だ、健一君の様子がおかしかったのはその為か、おおかた、こいつがけしかけて、結果、玉砕したってところだろう。


 玉砕?そんな筈は・・・あのおじさん連中に冷やかされていた時の彼女の顔を見る限り、迷惑がっているようには見えなかった。むしろ・・・


「はぁ、でも失敗かぁ・・・健一には悪いことしちゃったな」


「まだ失敗と決まったわけじゃないだろ?健一君に聞いたのか?」


「うーん、私、そんな勇気ない。ジロちゃん聞いといて」


 なんだそれは、全く・・・


 あまりに身勝手な妹の言葉に次郎が呆れていると、妙子はその場でゴロンと寝転がり、空を見上げた。


「結局さぁ、嫌なことがあるときって、くよくよ悩むより、それを上回るくらいの素敵なことで上書きしちゃうのが一番なんだよね。大人になるとどんどんそれが難しくなっていくから、今のうちにいっぱい素敵なことをして頭をいっぱいにしちゃえばいいのよ。そうすればきっとうまくいくから。健一も・・・纏ちゃんもね」


「そうだな」


 次郎もまた、空を見上げる。今夜は夜半過ぎから雨になるらしい。


 ふと、隣を見ると、いつの間にやら妹が寝息を立て始めていることに気づいた。


「やれやれ、しかたのないやつだ」


 と次郎は嘆息し、台所にあったタオルケットを持ってきて、妹にかけてやった。


 言動も理屈も無茶苦茶で、突拍子とっぴょうしもない奴だが、それでも妙にやることが正しい事もある。


 結局、最も兄貴を見ていたのがこいつであり、一番の理解者だったのかもしれない。


 ただ、大人が手を差し伸べてやれるのはここまでだ。


 あとはあくまで本人次第だ。


 こいつが言うように、健一君も、纏ちゃんも・・・




 本日分の日記をつけた私はそれを引き出しに締まってから、起こったことを振り返ってみた。


 いい事と悪い事


 やはり、どうしても悪い事の方にばかり意識が行ってしまう。


 少しチェックしてみよう。


 私は別の引き出しからトランプを取り出すと、それを無造作に切ってすべてを裏返して机の上に並べた。


 そして一つずつめくっていく。


 最初はスペードの8、次は、ダイヤの8、その次はスペードのK、それからクローバーのK


 つまり神経衰弱だ。数値のペアを当てていくゲーム。


 一般的には記憶力を試されるものなのだけど・・・


 全てのトランプを1回目でめくり終えると、私はトランプを再び引き出しにしまった。


 基本的に、初回はどれだけ記憶力が優れた人間でも、運にしかならない。


 ある程度めくれて来てからが勝負となる。だけど今の私は恐らく無敵だ。


 それはマジック以外の何物でもない。


 ただし、種も仕掛けもないのが問題なのだけど・・・


 以前から定期的にこういう状態になる事があった。だけど、ここまでではなかった。


 母が言うように、いつかは消えるものだとしても、今でないことは確かだ。


 いつまでこんなことを続けなければならないのか・・・


 去年起こったことを少しだけ振り返ってみる。


 幼い頃は、「すごい」で済まされていたそれに対する反応も、ある程度分別がついてくる頃になれば、「得体のしれないもの」でしかなくなる。


 私のこの力を知っている者にとっては、はっきりと言ってこれはイカサマでしかない。


 だから、前の学校で起こったことは、当然の帰結だ。


 母の言いつけを守らずに、幼い頃にとった行動への代償・・・


 ただ、一番の問題は、それが父にまで及んでしまったという事だ。


「お父さんにも言ってはいけません」


 そう母は言っていたはずだ。だけどあの時の私にはそれしか選択肢がなかった。


 それほどまでに追い詰められていたからだ。




 ・・・やめておこう。その事を考えるとまた暗い気持ちになる。


 もう過去の事だ。今の私の生活はとても安定している。




 いい事の方を思い出してみる。


 まずは午前中に行われたあの楽しい法要だ。


 お経の最中にあんなに笑いそうになったのは初めてだった。


 あれはヤバかった。こらえるのに必死で、後はほとんど覚えていない。


 思い出すだけで楽しい気持ちになる。



 それからみんなで会食をした。


 最初のスピーチのとき、何だかとても切なくなって・・・


 何だろう、ロボットの言葉に重なって何かが聞こえたような気がする・・・


 何だったかはよくわからないけど、微かに声が・・・聞こえたような?


 その後は宴会みたいな会食が始まって、色んな人が私の所に来て話していった。


「お嬢ちゃんかい?健一君の彼女って言うのは?」


「彼女?違いますよ。彼とは単なる友人です」


「え?そうなのかい?さっきからロボットがそう言っているけど?」


 ロボット?ああそうか、これもまた、あの人の演出か・・・だとしたら私もそれに乗ってあげるべきなのかな?この場はそういう場所みたいだし


「嘘です。彼とは少し前からお付き合いさせてもらっています」


「おおそうか、そうかあの鼻たれ小僧がなぁ・・・」


「健一君の事を知っているんですか?」


「ああ勿論だとも、実はな・・・」


 彼女・・・


 特別な響きだ。


 その時の私は少しだけその情景を思い浮かべてみた。


 同じ学校に通って、いつも隣に彼が居て、そこを私と一緒に歩いていく。


 それはとても心地よくて、とても暖かで、そして少し切ない特別な空間


 そう。あの時の私は、資料館までの歩みを進めながらこう思ってしまったのだ。


 この瞬間が永遠に続けばいいのにと・・・



 でも、解っている。


 あと数日もすれば彼は帰り、私はまたこの平坦な日常を歩いていく。


 ひとりで、ずっと・・・


 あれ?おかしいな?何だか胸が痛い。


 どうしてだろう?楽しい思い出のはずなのに・・・



 ポツポツと窓を叩く音が聞こえてくる。


 そうか、今日は夜半過ぎから天候が崩れるんだった。




 雨が降ってきた。

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