2016年8月13日(土)
キン!
フラフラと上がったそれは風に乗って
追いかけていた足を止め、落下地点に入ると、僕はグローブを構える。
白球はグローブの中に収まる。これでチェンジ。
後は最終回の攻撃を残すのみ。点差は2点差。十分に逆転可能な点数だ。
外野から足早に引き上げる。次は僕にまで打順が回ってくる。何とか繋いで少しでもチームに
僕は、試合を見に来た観客たちの中に、その姿を探す。
やはり居ない。この前ちゃんと約束したのに、結局仕事で帰ってこれなかったんだ。
最近、本当に忙しいみたいだから仕方がないのだろうけど、出来れば僕の打席には間に合って欲しい。
だって約束したんだから・・・
と、その時、監督が
様子が尋常じゃない。普段の
監督はそのまま僕の側まで寄ってきて、
そして僕に告げた。
「お父さんが・・・」と・・・
そこから先のことは、あまりよく覚えていない。
覚えているのは、
その日見たよく晴れた青色の空がやけに寒々しく感じられたことだ。
これは夢だ。あの日以来幾度となく繰り返し見続けてきた夢。
その日、僕は当たり前のように感じていた「日常」を失った。
場面は移り変わる。
次に見るのは葬式の光景。
シトシトと細かい雨が降り続ける中で静かに行われた告別式。
「私が悪いんです」
と、その女の人は言った。
若い女性だ。確か父さんの会社の同僚で、同じプロジェクトのメンバーだと言っていた。
「私がもっとちゃんと答えられていれば、会議があんなに
それ以上は言葉にならなかった。声にならない
「君が悪いんじゃない」
隣にいた年配の男性が女の人に寄り添うように立っている。確か父さんの上司だったと思う。
誰もが泣いている。本当に悲しい。
だけど不思議と涙は出てこなかった。
そうだ。悪いのは彼女じゃない。悪いのは僕だ。僕のわがままがこんな結果を招いてしまった。
だから僕は・・・
そして夢は繰り返す。あの日の光景を・・・
夢はただ繰り返す。忘れない。ただそれだけの為に・・・
だけど、もし可能ならば・・・
やり直したい。あの日を・・・
「健一。起きろ」
目が覚めたとき、最初に目に飛び込んできたのはロボットの顔だった。
驚いて身を起こすと、そこに広がるのは見慣れない光景だ。
ガランとした部屋に空っぽの本棚。開け放たれた窓から朝の日差しが差し込んでくる。
「お、やっと起きてきたか」
「おはよう健一。今朝の気分はどうだ?」
ぼんやりとした頭で記憶をたどると、少しずつ昨日の出来事が脳裏に蘇ってくる。
そうか、ここは
僕は改めて、Oguri1号をみた。父さんの作ったロボットは、今日も快調に動いているようだ。
「おはよう父さん。気分はいいよ」
「そうか、それはよかった」
何だかまだ夢を見ているみたいだ。こうやってまた父さんと話すことが出来るなんて・・・
それから僕は普段着へ着替えると、Oguri1号を抱えて1階へと足を運んだ。流石にロボットの体では、この急な階段は降りられないみたいだった。
階段をおりて、玄関を通り、奥にあるリビングに足を踏み入れると、そこにはソファーに腰掛けて静かにテレビニュースを見ている柚原さんの姿があった。
柚原さんの家は木造2階建てのオードソックスな一軒家だ。1階にはややゆったりしたリビングがあり、その隣に台所がある。台所からは先程からシューシューと炊飯器でご飯を炊く音が聴こえてくる。
「おはようございます柚原さん」
「おはようございます柚原さん。今朝の気分はどうですか?」
「ああ、健一くん。それに一郎くん・・・でいいのかな?おはよう。気分は・・・まぁ悪くはないね」
テンプレ気味の
その気持ちはとてもよくわかる。
「健一くん。朝は食べて行きなさい。昨日のうちに旧井先生のところにそう伝えておいたから」
「ありがとうございます」
「ところで
「纏さんですか?」
そう言えば彼女の姿が見えない。まだ寝ているんだろうか?
「おかしいな。いつもはもう起きてきて朝食の準備をしてくれている頃なんだが・・・」
時刻は午前7時を回ったところだ。確かにもう起きていてもおかしくはない時間だ。
「何だあいつ、こういうのは全部自分がやるって息巻いてたくせに、もうやめちまったのか?」
勝手知ったる我が家という感じで、どっかりとソファーに腰をおろしたたかしさんが悪態じみた言葉を漏らすと、
「いや、いつもはよくやってくれているよ。今日に限ってどうしたんだろう・・・」
と、柚原さんはいつもどおり柔和な声で纏さんを弁護する。
言っては何だけど、あんまり似ていないよねこの親子
「仕方ない。起こしてくるか」
と身を起こしたたかしさんだったけど、
「いや、もう少し寝かせておいてあげよう。昨日は久しぶりに大勢の人の前に出たから疲れているのかもしれない」
という柚原さんの言葉に、「それもそうか」と再びソファーに腰かけた。
テレビからは、現在進行中のオリンピックの話題が流れてくる。何でも日本のテニス選手が96年ぶりくらいにメダルを取れそうだという事だ、次の相手は前回オリンピックの金メダリストらしい。
テニスの事はあまり知らないけど、その選手の顔は知っていた。たまにニュースに出てくる顔だ。
ふたりと一緒に彼女の起床を待つ間、僕の脳裏にふとした疑問が浮かんできた。
どうして彼女はここにいるんだろうと・・・
昨日まではロボットのことで頭が一杯だったから深く考えることはなかったけど、よく考えたら、僕は纏さんのことをほとんど知らない。
柚原さんの姪だという話だけど、だとしたら彼女の両親はどこに?
柚原さんは「故あって」なんて言ってたけど、それはどういうことなんだろう?
僕があれこれと色んな事を思いめぐらせていた時、2階の方からあわただしい音が聞こえたかと思うと、次いでトントントンと早足で階段を下ってくる音がした。
ようやく彼女が起きてきたようだ。
と思ったのもつかの間、途中で足音は途絶え、代わりに「わっ!」という声とともに、すごい音が聞こえてきた。
「お、おい・・・」
何が起こったのかは明らかだった。
思わず腰を浮かせたたかしさんと僕が見つめる先で、しばらくすると「いたた」と腰を抑えながら彼女が姿を現した。
よかった。どうやら無事のようだ。
「ごめんなさい伯父さん。寝過ごしました。今から朝食の準備を・・・」
と、そこで僕と目が合った。
「おはよう。纏君。気分はどうだい?」
いや、父さん、そのテンプレはこの場ではちょっと違うと思うよ。
彼女は僕とOguri1号を交互に見た後、
「そっか、健一君たちが来てたんだ・・・」
ようやく合点がいったという様子でそう言った。
「大丈夫?」
「うん。結構派手に滑ったからびっくりしたけど割と無事みたい」
彼女はお尻の方に目を落とすと、調子を確かめるようにゆっくりと身体を動かしてみせる。
ただ、僕としては、ちょっと目のやりどころに困る状況だった。
「まぁ、なんだ。纏、とりあえず着替えてから降りてこい」
意地悪な笑みを浮かべながらたかしさんがそう言うと、彼女はようやく自分の格好に気づいたようだ。
慌てて乱れたパジャマを着直した後、僕の方を見て、
「そうする・・・」
とだけ言い残して、再び2階へと上がっていった。
と、多少のハプニングはあったものの、4人全員がそろったため、柚原家でやや遅い朝食が始まった。
時刻は7時50分を少し回ったところ。流石に少しおなかがすいてきた。
内訳は、ご飯に、赤だしのみそ汁に、焼き魚に漬物といった簡素なメニューだ。
「これだけか?」とのたかしさんの言葉に「文句があるなら自分で作って」と纏さんの言葉は素っ気ない。
「うーん」
椅子に座った彼女は、先ほどから
「なんだ纏。
「またそういう事を・・・」
呆れたように小さく息を漏らした後、彼女は記憶を辿るように額に手を当てた。
「あの階段結構急だよね?だから滑った時は結構まずいなと思ったんだけど、なんかこう・・・重力がなくなった様にフワッと・・・」
「寝ぼけてたんじゃないのか?」
「なのかなぁ・・・昨日結構遅かったから」
彼女の口元から「ふぁ」とかわいらしいあくびが洩れた。
「なんだまた調べものか?大概にしておけよ」
「うん。今回のはそういうのとは、ちょっと違うんだけどね・・・」
眠そうに首を横に振る彼女の仕草は昨日の大人びた様子とは異なり、今は年相応の女の子に見える。
「でも意外だったよ。纏さんでも慌てて階段を踏み外すなんてことあるんだね」
僕としてはそれは素直な感想を述べたつもりだったけど、
「何を言っているんだ健一君」
と、たかしさんに笑われてしまった。
「こいつ、割とおっちょこちょいなんだぜ。このまえなんかな・・・」
「ちょっと、兄さん。何を言い出す気?」
それ、ちょっと聞きたいかも。そう思った僕の隣で、何に反応したのか、Oguri1号がすかさず二人の会話に割り込んだ。
「大丈夫だ。纏君。女の子は、少しくらい、おっちょこちょいな方がチャーミングだという話だぞ」
父さん。それ、フォローになってません。
ゲラゲラと腹を抱えて笑うたかしさんの姿に、
それは昨日までに見た彼女とはまた違った一面だった。
その様子を見て、柚原さんの口元からも「ははは」と笑い声が漏れた。
「いや、うちの食卓が、こんなににぎやかなのは久しぶりだ」
その後ものどかな会話を交わしながら、柚原家での朝食の時間は終わりを告げた。
「たかし兄さん。今日、岐阜の方に行く予定はある?」
朝食を終えて、後片付けをしている最中、纏さんが思い出したようにそう言った。
「岐阜?特にないが、どうした?」
「うん。図書館にちょっと用があって・・・」
「あ~なるほど」と、たかしさんは少し考えた後、
「行きだけならギリ何とかなるかもしれん。それでいいなら送って行ってやるよ」
「わかった。ありがとう」
「それとな。健一君」
次に、たかしさんは会話の矛先を僕に向けた。
内容はOguri1号の事だ。
「色々考えたが、何かあった時、今ある装備ではちょっと心もとない。事務所から必要そうなものをとってくる。もし、留守中に何かあったらここに連絡をくれればいい」
と、携帯電話の番号をメモした紙を渡された。
「いいんですか?」
「まぁ、乗りかかった船だ。それにこんな面白いもの触る機会なんてそうそうないからな。仕事なんて言ってしまえばどこでもできるし、しばらくこっちに滞在することにするよ」
それは心強い。何しろ、親戚一同、こういうことにはからっきしだ。以前、テレビが映らなくなった時にやったように「叩けば直るんじゃない?」とか言い出しかねない。
「今年はいつまでこちらにいるんだい?健一君」
帰り際、柚原さんにそう尋ねられたので、今年は1週間程度滞在する旨を伝えた。
例年通りなら、長くても3日程度の滞在だったのを、今年は1週間滞在することにした。
勿論、それは父さんの納骨を兼ねた初盆だったということもあるけど、父さんの居ない東京の部屋で暮らす日々は、僕にとっても母さんにとってもまだ息苦しく感じられたからだ。
「田舎でゆっくりと過ごすといい」
とじいちゃんも言ってくれたので、今年は思い切って1週間滞在することにした。
でも、本当に良かったと思う。こんなに素敵な出会いがあるなんて夢にも思わなかった。ロボットを送ってくれた父さんには素直に感謝したい。
「纏さん。じゃあまた」
「うん。またね。健一くん」
軽い挨拶を交わして別れる。「また」という言葉が素直に嬉しい。
よく晴れた夏の一日。
今日も暑い一日になりそうだ。
健一君が帰ったあとすぐに、私は部屋に戻って出かける準備を始めた。
取り寄せていたその論文が届いたとの連絡が入ったのは昨日のことであり、それを受け取りに行くためだ。
ネットを使って調べ物をしていた時にたまたま見つけたその論文は、数年前のものだったけど、著者の欄には見知った名前が刻まれていた。
父の名前だ。
ダウンロードには
図書館に相談したところ、取り寄せることが可能だということなので、そうしてもらうことにした。
家族の名前というものはやはり特別だ。それを見るだけでまだこんなにも心が動かされる。
恐らく、父に頼めば送ってくれるのだろうが、そうする気にはとてもなれなかった。
今は、まだ父と話す気にはなれない。
それは父が主に専攻している分野の論文だ。
文字通り、アインシュタインの
アルバート・アインシュタイン
彼は、それまで主流だったニュートン力学の法則を、ニュートン力学では説明しきれない宇宙規模の振る舞いまでを
その試みは一般相対性理論と言う美しい時空の方程式として完成することとなる。
だけど、その試みは、その形成過程で一つの大きな問題をはらんでいた。
その法則をそのまま全宇宙に適用してしまうと、今の宇宙の姿は保てなくなってしまうのだ。
その問題を、解決するために、彼はひとつの定数を式に加えた。
それがアインシュタインの宇宙定数
だけどそれは、そのままでは潰れてなくなってしまうはずの宇宙に反発する力を与える為だけに無理やり当てはめたものであり、彼自身、宇宙が
こうして、アインシュタインの宇宙定数の問題は、いったんは歴史の舞台から姿を消すこととなる。
その
近年、宇宙が
それが最近よく耳にするダークマターやダークエネルギーという「見えない物質」と「見えない謎のエネルギー」の存在だ。
この「見えないもの」がもたらす引力と、「見えないエネルギー」がもたらす斥力。それらが普段目にする通常の物質よりも遥かに多くを占めており、
「見えないエネルギー」がもたらす斥力が宇宙を加速膨張させている。
表現は違えど、それはかつてアインシュタインが提唱した宇宙定数と同じものに他ならない。
勿論それに異論を唱える人間も多い。
その一つが、修正重力理論という一般相対性理論を拡張することでその現象を説明する試みになる。
「見えないものの存在が宇宙の大半を支配している」という考えは確かに疑問を挟む余地があるのだろう。
それはあたかも「裸の王様」を前にして「君にはあの王様の服が見えないのかい?」と言っているようなものだと父は言い、その考えを
物理学の最大のテーマは、あらゆるものを統一する理論を構築することであり、未知の物質やエネルギーを持ち出して説明したような気になっているのは堕落に過ぎない。
そう父は言っていた。
その考えが正しいのかどうかは今の私にはわからない。ただ・・・
纏・・・
私の名前だ。
それは父のその考えに由来している。
纏は「まとめる」と読める。
最初は「統一」などと書いて、何か別の読み方をさせるつもりだったらしいけど、それだとどうやっても女の子の名前にならないからと、母が提案した
ただし、母は「まとう」の読み方の方が好みであり、そちらには、「みんなを覆い包むような優しい子になってほしい」という想いが込められていたのだと聞いている。
だけど、それはかつてあったものの
今はもうどこにも見えない。
玄関を出て外に出ると、まぶしい日差しが額にかかる。
道を挟んで旧井家の広い庭が見える。健一君は今どうしているだろうか?ほかの人たちは?
目を閉じると思い出すのは、8年間に出会ったあの人の事だ。
「君のその力は、僕たちが忘れてしまった大切な何かなのかもしれないね」
そう言って優しく私の頭を撫でるあの温かい手のぬくもりを何故か鮮明に思い出すことができる。
だから健一君を見たとき、すぐに解った。あの時、一緒にいた男の子なのだということを・・・
「おーい。纏、そろそろ行くぞ」
たかし兄さんの声が聞こえる。
彼はかつての父の教え子であり、幼いころ、よく私と遊んでくれたお兄ちゃんだ。
あの頃はまだすべてのものが輝いて見えたような気がする。
父と母と、お兄ちゃんと私・・・
あの幸せだった日々がずっと続くと信じて疑わなかった幼いころの私がそこにいる。
助手席に乗ると、ゆっくりと車が走り出す。
後ろを振り返ると、
昨日の事を思い出すと、またじんわりと胸が温かくなってくるのを感じる。
それだけで口元が綻んでくるのが解る。くすぐったいようなこの想い。
「健一君と話すのは楽しいか?纏」
何気なくそう話しかけてきたたかし兄さんの言葉に、
「うん」と自然と言葉が漏れた。
「楽しいよ。すごく」
あと数日も経てば彼らは帰るだろう。
そして、また平坦な日常が始まる。
だけど今はこの想いを大切に育てたい。そう思う。
それとも、
これもまた私のわがままなのだろうか・・・
「いちろーおじさんよむのはやい」
Oguri1号の隣で絵本を読んでもらっていた
時刻は午前11時をまわったところ。
「はやいか?」と答えた後、Oguri1号は読む速度を
「こんどはおそい」
とまた、愛ちゃんが不平を漏らす。なかなか調節が難しいようだ。
愛ちゃんはついに絵本を取り上げ
「まながよんであげるね」
とOguri1号に読み聞かせるようにかわいい声で絵本を朗読し始めた。
「そしておうじさまは、おひめさまに・・・」
のどかな光景。ここでは時間がやけにゆっくり流れていく。
「兄ちゃんさ~」
と、相変わらずゲーム機に目を落としながら、学君が僕に話しかけてきた。
「纏ねぇちゃんのこと好きなの?」
・・・いきなり何を言い出すんだこの子は
「ねぇ、どうなの?」
そのままゲーム機を置いて、僕の方ににじり寄る。
ゲーム機の画面には「GAME OVER」の文字が
全く、今どきの子は、いったいどこでこんなことを習ってくるんだろう。
でも、そうだな・・・
「好きだよ」
と簡潔に事実だけを僕は述べた。好きか嫌いかと言われれば、間違いなく「好き」だ。
想いを巡らすと、彼女の色んなしぐさが脳裏に浮かぶ。僕は彼女のどんなところが好きだろう。
同い年とは思えないほどしっかりして、とても頭がいいところ。だけど本当はとても優しくて笑顔が素敵なところ。そして少しだけそそっかしいこともあるところ。数え上げるときりがない。
まだ出会って2日しか経っていないのに、随分と彼女の事を好きになってしまった。でも、まだまだ彼女の事を知りたいと思う。これが「好き」って感情なのだろうか?
「そっかぁ」
と満足そうに学君は頷くと、
「頑張れよ!」
と生意気に笑った。全く、この子は・・・
「まなもねー、まといおねえちゃんのことだいすきだよ」
僕たちの話を聞いていたのか、そんなことを言いながら、愛ちゃんがこちらに寄って来た。そういえばこの子は最初から随分と纏さんの事を気に入っているようだった。
「愛ちゃんは、纏おねえちゃんのどんなところが好きなのかな?」
「えっとねぇ」
愛ちゃんは、かわいらしいしぐさで、少し考えるそぶりを見せた後、
「いちろーおじさんみたいなところ」
と少し意外な言葉を発した。
「あったかくてねぇ。ぽかぽかして、おひさまみたいなの」
くるくると嬉しそうに愛ちゃんが、両手を広げて回って見せる。
父さんみたいか・・・確か愛ちゃんは最初からそんなこと言ってた気がする。あの時は彼女のどこを見てそう思ったのだろうか・・・
「そうか、健一は纏君の事が好きなのか」
しまった。まずいのに聞かれちゃったな。後で変なことにならなきゃいいけど・・・
ふと僕は気づいた。そういえば、Oguri1号は纏さんの事を覚えているんだった。ひょっとしたら彼女の事を何か知っているかもしれない。
ダメもとで僕が纏さんの事をOguri1号に尋ねると、
「不思議な子だ」
すぐにそんな回答が返ってきた。
「不思議な子ってどういうこと?」
「それ以上はデータにない。ただ『不思議な子』とだけ記述されている」
不思議か・・・何だか随分曖昧な表現だな。
結局、それ以上はOguri1号からも何も聞き出すことは出来なかった。
昼過ぎ、僕は改めて子供たちと外で遊ぶことになった。
時間は午後1時を少し回ったところ。場所は、近くにある神社の境内だ。
「もーいーかーい?」
遠くから、学君の声が聞こえてくる。
「まーだだよ」
と返す。これはお決まりのパターンだ。
割と広い神社で、10月に行われる大太鼓踊りは市の重要無形民俗文化財にも指定されているとのことだけど、残念ながら正月とお盆に帰省するだけだった僕は見たことがない。
勿論、子供たちにとってもそんなことは関係なく、今はこうやってかくれんぼの舞台として使わせてもらっている。
「もーいーかーい?」
「もーいーよ」
何回かお決まりのやり取りが続いた後、僕はOKの合図を送った。
と同時に、動き始めた学君の足音が聞こえてくる。緊張の一瞬だ。
「健一にーちゃん。どこー?」
だけど簡単に見つかってあげるわけにはいかない。まだまだ暑いさなかだ。少しは時間を稼がないと身が持たない。
「あ!纏おねえちゃん」
「え?」
思わず声が出てしまった。しまったと思った時には時すでに遅し。
「健一にーちゃん、みっけ」
見つかってしまった。何てベタな手を・・・引っかかる僕も僕だけど、最近の子供はとてもずる賢いんだな。
と、思ったけどそうではなかったようだ。「おねーちゃーん」と愛ちゃんが向かう先には、確かに彼女の姿があった。
「愛もみっけ。何だよつまらないな」
「ごめん。邪魔しちゃったかな?」
「いいよ。おねーちゃんも一緒にやろ。今度は健一にーちゃんが鬼だ」
子供二人に誘われると、さすがに断ることもできず、戸惑う彼女を半ば強引に巻き込むような形で、そこから先、小一時間ほど僕たちは子供たちの遊びに付き合うことになった。
遊びを終えた僕たちは帰途に就く。
神社から旧井家までは大人の足で歩いて約5分くらい。車通りの多い道を避け、細い路地を進んでいく。
愛ちゃんは、先ほどから僕の背中で可愛い寝息を立てている。疲れてしまったようだ。無理もない。いつもならお昼寝の時間だ。
学君はあちこちで色んな虫を見つけては、遊んでいるように見えるけど・・・
「頑張れよ!」
とさっき、軽くおしりを叩かれた。全く、最近の子供は・・・
「元気だね」
私もうヘトヘトだよと、僕の隣を歩く彼女の額から大粒の汗が流れ落ちた。本当に申し訳ない。とは思いつつも少しだけ嬉しいと感じてしまうのはまぁ仕方のない事だと思う。
「纏さんは図書館からの帰り?」
「うん。取り寄せていた論文が届いたから取りに行ってたの」
彼女の持つ空色の手提げカバンから、やや大きめの封筒が顔を見せている。多分それがそうなのだろう。
論文か・・・聞きなれない響きだ。
僕も成績は悪い方じゃないと思うけど、彼女のそれは次元がまるで違う。はるか先を歩いているような気がする。
カバンの中には、もうひとつ。カラフルな本も入っていた。
「あ、これ?」
僕の視線に気づいた彼女は、その本を取り出して見せる。
その本の表紙には『あやとり大図鑑』と大きく書かれていた。
「昨日ネットで見て、色々と試してみたんだけど、やっぱり難しくて。だからちゃんと構造を把握しないといけない気がするんだよね」
そう言って、彼女はポケットからひもをとりだして、手の中で動かして見せた。
昨日よりは格段にうまくなっている。まだ手の動きがぎこちないけど、ちゃんとした形にはなっていた。
僕たちは歩く。
二人の間には、近そうで遠く、遠そうで近い。微妙な距離がある。
でも、今はまだ、この心地よい距離感に浸っていたいと思う。
そんなことを言ったら、学君に怒られてしまうかな。
旧井家に差し掛かった時、ちょうど妙子さんが門をくぐろうとしているのが見えた。午前中の仕事を終えて帰ってきたのだろう。
その姿を見て、僕の隣から、纏さんが駆け出した。
そのまま妙子さんのところまで走って行って、図鑑を手に、なにやら色々聞いているようだけど、多分あやとりの事じゃないかな。
ここで、この関係は終了。ちょっと悔しいけど今はまだ仕方ない。
「健一君」
と、その時、柚原さんの家の方から声がかかった。
振り返ってみると、たかしさんが僕に手を振っている。
「あとでちょっとOguri1号を持ってきてくれないかな」
たかしさんの部屋に入ると、昨日までがらんとしていた部屋の中に色んなものが増えていた。
複数のモニターに、ノートPC、大きな工具箱に、何に使うのかわからないケーブルや部品などが乱雑に床に転がっている。
Oguri1号を連れて行くと、早速たかしさんは、Oguri1号をネットワークに接続し、マニュアルを片手に色々と点検し始めた。
つないだノートパソコンのモニターに様々な数値が映し出されている。
正直何をやっているのか僕には全くわからない。
「よし。状態は良好。異常なしだ」
暫くして、たかしさんはそう言うとノートパソコンを閉じて作業を完了し、近くに置いてあったカバンの中から小さな機器を取り出すと、それを僕に手渡した。
「これは?」
「ポケットWiFiだ。眠るたびにこっちに来なきゃならんのは不便だろ。これさえあれば、いつどこに居たってネットワークにつながる」
それは便利だ。でも・・・
「なんだ?こっちに来る口実が少なくなって残念か?」
う、そんなことは、ある・・・けど・・・
言いよどむ僕を見て楽しそうに笑う。やっぱりこの人意地悪だ。
「それにまぁ、多少は便利になるはずだ」
「便利?」
「そうだな。例えば」
たかしさんは、Oguri1号に明日の天気を教えてくれと言った。
「明日2016年8月14日。岐阜県大垣市の天気は曇り。降水確率は40%だ」
Oguri1号は父さんの声で即座にそう答えた。
その後、今朝のニュースや株価、この近くのお出かけスポットなど矢継ぎ早に尋ねてみるが、そのことごとくに的確に答えていく。
「すごい」
僕は思わず感心してしまったのだけど、たかしさんは苦笑いを浮かべ、
「まぁ、こんなものは子供だましだ。音声認識さえ出来ればそれほど難しいものじゃない。言ってしまえば昔からある技術の延長上だよ。こいつにわざわざやらせるような事じゃない」
と軽く肩をすくめて見せた。
「じゃあ、Oguri1号には何をさせればいいんですか?」
「さぁな」
さぁな・・・って、
勿体ぶった末に出てきた答えに何だか肩透かしを食らったような気分にさせられたけど、珍しく真面目な顔になってたかしさんはこんなことを口にした。
「ひとに作られたものってのはな。普通は何らかの目的をもって生まれてくるもんなんだよ。それはどれだけ技術が発達しようとも変わらない普遍の事実だ。だが、こいつにはそれがまるでない。こいつが内包している問題は、人が何のために生まれ、何のために死ぬのかと同質の答えのない問題だ。君のお父さんが生きていたら是非その答えを聞いてみたいところだったんだが・・・」
難しいことはよくわからない。
だけど、何となくだけど、父さんなら多分こう答えるんじゃないかなと思った。
「そんなことは考えてもみなかった」と・・・
「そういえば、健一君。纏はどうしてる?」
帰り際、玄関でたかしさんが僕にそう尋ねてきた。
「纏さんですか?多分妙子さんたちとあやとりで遊んでるんじゃないかなぁ?」
「あやとり・・・って、マジで?」
「そうなんですよ。こんなことなら僕も父さんに習っておけばよかった・・・って何笑ってるんですか?」
おかしくてたまらないと言った様子のたかしさんに首を傾げる。僕、何か面白いこと言ったかな?
「いやすまない。すごいね。君の親族は」
「すごい?」
「ああ、色々と思い悩んでるのが馬鹿らしくなってくるよ」
何だか馬鹿にされているような気もするけど・・・
ひとしきり笑った後、たかしさんは言った。
「健一君。纏と仲良くしてやってくれよ」
そう言われて悪い気はしない。
「はい」
「ああ、あとな」
と、思い出したようにたかしさんはこう付け加えた。
「あいつ熱中しすぎると周りが見えなくなるとこあるから、あやとりの方はほどほどにさせといた方がいいぞ」
あ、やっぱり?何となくそんな気もしてました。
そしてその夜も、ごく自然な成り行きで柚原家と旧井家の合同の夕食会が開かれた。
Oguri1号は、さっきまでまたじいちゃんと囲碁をしていたようだけど、今日は早々に切り上げたようだ。
今は学君と碧さんの隣で何かを話している。さっきから母さんもその輪に加わったみたいだ。
碧さんはOguri1号と話しながらしきりにメモをとっていた。
「そんな隠し味が・・・」などと感心したような声が聞こえてきたから、多分料理のことを聞いているのだろうと思う。
学君は昆虫や魚から始まり、アニメの設定やらゲームやら色々なことを聞いているようだ。「へぇ」とか「本当に?」とか色んな感想が漏れてくる。
たかしさんは「子供だまし」なんて言っていたけど、あれは本当に便利だと思う。そのうち一家に一台くらいロボットが導入されるんじゃないだろうか。
そうすれば、暮らしももっと便利になるに違いない。
纏さんはまた妙子さんにあやとりを習っているみたいだ。愛ちゃんと一緒に先ほどから熱心に話を聞いている。
正直あの輪の中に入るのはちょっと難しい。
僕も、妙子さんに習おうかなと本気で思ったけど、纏さんとふたりで並んであやとりをする姿を想像してやめておいた。
それはそれで何か変だ。
だけど、ああやって楽しそうに笑う彼女の姿を見ているだけで満たされた気分になる。
Oguri1号と纏さん。
いつもはいなかったこの二人が、父さんの居ないこの空間を満たしている。
父さんはこんなことまで考えてあれを作ったんだろうか?それはとても凄いことだと思う。
と、その時、トイレから戻ってきたでじいちゃんと目が合った。何だか憮然としているようだ。
「じいちゃん。もう今日は父さんと碁打たないの?」
と僕が問いかけると、「ふん」と不快そうにひとつ息を吐き、
「あんなものが一郎であるものか」
と言い残して、去っていった。
なんだか機嫌が悪そうだ。
父さんも、少しは手加減してあげればいいのに・・・
そして、今日も穏やかな時間がゆっくりと流れて行った。
「次郎君。隣いいかい?」
次郎が一人で飲んでいると、ビール瓶を片手に柚原さんが近寄ってきた。
「あ、どうも」
促されたビールをコップを空にして受け入れる。トクトクと注がれていく
珍しく酔っているようだ。
柚原徹
父の教え子だというこの老人のことを実のところ次郎はほとんど知らない。
彼が隣の家に越してきたのは次郎がまだ高校生の時だった。
それ以来、父とは頻繁に交流があったものの、次郎とはたまに挨拶をする程度の関係で会話をしたことすら殆ど記憶にない。
兄とはよく会話していたようだが、あの頃の自分は兄とはあまりうまくいっていなくて、その会話に加わることもなかった。
その兄が東京の大学に入学し、家を出て行った後も、殆ど会話を交わすことなく今に至る。だから次郎としても何を話していいのか分からない。
「いい子ですね。纏ちゃん」
楽しそうに妙子と会話をする纏ちゃんの姿を見ながら、半ば
「ああ」
と満足そうに頷き、柚原もまた纏ちゃんの方に視線を向ける。
「いい子だよ。本当に・・・」
老人の目が揺れている。その瞳は今ここにある光景とはまた別のものを映しているように思えた。
「それにしても君の所の兄妹は本当に仲がいいね。毎年見ていて飽きないよ」
「まぁ、なんだかんだ言って、家族ですからね。切っても切れない腐れ縁ってやつですよ」
まさに「腐れ縁」という表現があっている。
色々あったが、結局は皆こうやって毎年集まっている。
ただ、今年は本当にどうなるんだろうと心配していたのも確かだ。だがそんな心配は
やはり兄貴は兄貴だったという事だろう。しんみりするなんて似合わない。
次郎は、手にもつコップを少しだけ傾けて見せた。
キンと乾いた音が聞こえたような気がする。
恐らく兄は今も自分の隣に居て笑っているのだろう。
「私はね。次郎君。ひどい兄だったんだよ」
ややあって老人は再び口を開き始めた。
「幼い弟と母が父から暴行を受けるのを黙って見ていた。怖かったんだよ。その怒りが私に向けられるのが・・・だから弟が必死で母をかばうのを、馬鹿な奴だと思って見ていた」
それは次郎が知らない柚原の過去の出来事だ。
どうしたものかと考えたが、次郎はそのまま何も言わずに聞くことにした。大人になるとこうやって無性に誰かに愚痴を聞いてもらいたいこともある。
老人は続ける。
「弟がどんな想いをで母をかばっていたのか、そんな弟を母がどんな想いで見ていたのか、私は知ろうともしなかった。あの日、母が幼い弟を連れて家を出て行くまではね・・・」
うわ、これは想像以上に重い話だ。
それは
次郎は矛先を変えることにした。
「俺だって、兄貴とずっとうまくいっていたわけじゃないですよ」
「そうなのかい?」
「ええ、出来すぎた兄を持つってのも気苦労が絶えないもんですよ。はっきり言って嫌いな時もありましたね。比べられてしまうんですよ。周りにも、妹にもね」
何に対しても前向きで、活動的で、人気者だった兄に比べて、自分はあまりにも地味な人間だった。
妙子は心底兄貴の事を尊敬していたし、その反動で次郎に対しては当たりが強かった。喧嘩したときはいつも兄貴の味方ばかりをしていた。
まぁ、今もその時の名残は残っている気もするが、あれは一種の愛嬌みたいなものだ。昔ほどの敵意は感じない。
その兄貴が、父と大喧嘩をして東京の大学に進むために出て行ったとき、はっきり言って清々した。
ざまぁみろ「一郎が、一郎が・・・」とか期待をかけて言っていても、結局最後はみんな勝手なもんじゃないかと
「まぁ、でもさっきも言いましたが、そこは腐れ縁ってやつです。兄貴は結局兄貴だし、俺は俺です。今となってはいい思い出ですよ。何もかもが」
そう。これもまた思い出だ。今は子供たちがそれを引き継いで、同じような人生の1ページを歩もうとしている。この歩みはきっとずっと続いていくのだろう。
「その後、弟さんとは?」
と次郎が問いかけると、
「ああ、再会したよ。たかしが連れて来たんだ」
それは突然の出来事だったと柚原さんは言う。40年ぶりくらいに会った弟は立派に成人し、美しい奥さんとひとりのかわいらしい女の子を連れて突然訪ねてきた。
なんでも弟は大学で教鞭をとっており、たまたま受講した生徒の名簿の中に「柚原たかし」の名前を見かけて声をかけたのだという話だ。
「たかし」というのは柚原が弟の名前をとってつけたものだった。
「お互い、色んな事を話したよ。母は既に他界していたが、あの後再婚し、幸せな人生を送ったという話だった。ホッとしたよ。長年のわだかまりが消えていくような思いだった」
柚原の視線が再び楽しそうに笑う女の子に注がれる。
なるほど、その時の女の子が纏ちゃんと言うわけだ。
「よかったじゃないですか?」
「ああ・・・」
柚原の目が、再び手に持つコップを捉える。揺れる液体の中にはくたびれた老人の姿がゆらゆらと映し出されていた。
「ただ、そこから先はまた連絡が途絶えてしまってね。たかしは就職してしまったし、私はこれ以上弟の人生に関わるべきではないと思っていた。だから最近まで奥さんが亡くなったことさえ知らなかったんだよ」
「本当に悪い兄だよ私は」と言いながら、何かを思い浮かべるように柚原の目が虚空を泳ぐ。
「だから、弟から電話がかかってきた時、今度こそ弟の力になってやろうと思ったんだよ。あの子の事を受け入れたのはその為だ・・・」
それは次郎に言い聞かせるというよりは、独白のようなものだったのかも知れない。
何が起こったのかまでは分からない。だが、それがよくない事だということは想像に難くない話だった。
「あの子はね。とても賢い子だ。こちらが何か手を差し伸べる前に、それを察してスルリと遠ざかり、自分で解決してしまう。優しい子だよ。だけど私にはどうすることもできない。気ばかりが焦ってしまってね」
そう言って寂しげに笑う老人の姿を見ながら、次郎は思う。
人の子を預かるというのはどういう気持ちなのだろうか。例えば自分が健一君を預かったとするとどうするだろう。
きっと何かをしてやりたいと思うだろう。だけどそれをどう受け入れるかは子ども自身の問題だ。
「君たちには本当に感謝している。ありがとう。あの子を連れてきて本当に良かった」
次郎は何も言えなかった。本当に自分たちには老人が望むようなことができているのだろうか・・・
老人の視線の先には、楽しそうに笑う女の子の姿がある。
だが、次郎にはその笑顔が何故かひどく危ういもののように見えた。
お風呂から上がり、たかし兄さんの部屋の前を通った時、兄さんが床に寝っ転がって熱心に本を読みふけっているのを見かけた。
あけ放たれた段ボールから、乱雑に本が転がり、昨日まできれいだった部屋は見るも無残な姿に変わり果てている。
「もう、またこんなに散らかして・・・」
「うっせーな。俺はこっちの方が落ち着くんだよ」
そのままの姿勢でぶっきらぼうに答える兄の足元に転がるのは、ほぼ人工知能関連の書籍や雑誌ばかりだ。
Oguri1号の影響なのだろうか、どうも火がついてしまったらしい。
その姿を見ると少しだけ昔の事を思い出す。
父が突然連れてきた私の従兄のおにいちゃん。
きっかけは、父が臨時講師として招かれた大学での量子論の授業だったと聞く。
一人っ子だった私に突然できたお兄ちゃんの存在。
来るたびに面白いお話を聞かせてくれる、そのお兄ちゃんの事が私は大好きだった。
その彼が何故、研究をやめてフリーのエンジニアをしているのかはわからないけど、今回の事が良いきっかけになればと思う。
「頑張ってね。お兄ちゃん」
「お?おう・・・」
またひとつ心に温かい光がともるのを感じた。
こうやって、動くことで変わっていく世界もあるのだ。
部屋に帰った私は、日記をつけ始めた。
さて、今日は何を書こうか
今日も書きたいことはたくさんある。
まずは朝の事だ。
あれは本当に失敗した。
起きたらいつもの時間をとっくに過ぎていた。あやとりの調査にあまりに夢中になりすぎて、気づいたら午前3時を回っていたのがいけない。
寝過ごしたのは久しぶりの事だった。慌てて飛び起きて、階段を駆け下りるつもりが途中で滑ってしまった。
しまったと思った時にはもう遅い。
私の体はほぼ正確にニュートンの運動方程式にしたがって落下する。
・・・はずだった。だけど、何だか急に体がフワッと浮いたような気がして、あまり衝撃は感じなかった。
急な階段だった割に大きな怪我もなく・・・あれは何だったんだろう?
重力定数が変わった?そんなはずはない。宇宙の果てならともかく、こんな近縁で観測されるような現象ならそもそも問題にすらならない。
多分、気のせいだ。単に運が良かっただけだろう。今度からはちゃんと気を付けないといけない。
その後は・・・ああ、これはちょっと書けない。
あれは流石に恥ずかしかった。本当に失敗した。彼はどう思っただろうか?
それから・・・
それから・・・
日記を書き終えた私は、それを引き出しの中にしまうとゴロンとベッドに寝っ転がった。
時刻は午後11時ちょっと前。流石に今日は眠い。明日こそちゃんと起きるためにはもう寝ないといけないだろう。
そう言えば、明日は旧井家で、午前中に法要があると健一君は言っていた筈。天気は・・・
・・・大丈夫。明日は雨は降らない。晴れるとは言い難いけど、雨が降り始めるのは夜半過ぎ。
だけど次の日は一日中雨だ。夜までやまない。傘が必要だ。
その次の日は・・・
不思議なことに、こちらに来てから私のこの感覚は前にも増して鋭くなっている気がする。
一体、いつまでこのような状態が続くのかはわからない。
いつかは消えるとお母さんは言っていたけど・・・
視線を動かすと、カバンの中に入った封筒が目に入った。
そう言えば、そうだった。論文
・・・いや、今日は、読むのはやめておこう。そのことは明日また考えればいい。
目を閉じる。
今日もいっぱい健一君たちと話をした。
健一君・・・
あの人の子供。彼はすっかり私の事を忘れてしまっているみたいだけど、私は鮮明に覚えている。
彼の周りに流れる空気は、とても優しくて心地良い。だから一緒にいると何だか嬉しくなる。
私の中に生まれたこの不思議な感覚は、昔感じたものとはまた違った音がする。
トクトクと心地よい響き。そこに身をゆだねるだけで楽しくなってくる。
ムズ痒いようなこの気持ちは何だろう?
そして私は眠りにつく。今日と変わらない明日が訪れるのを願って・・・
その夜、私は久しぶりに母の夢を見た。
記憶の中の母は優しく微笑んでいた。
大好きだった母の笑顔。幸せだった頃の記憶。それがずっと続くと思っていた。
あの日が訪れるまでは・・・
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