2016年8月11日(木) 山の日


 運転士うんてんしに切符を渡すと電車を降りる。


 途端とたんに強い日差しが頭上に降り注ぎ、僕は天を仰いだ。


 時刻はもうすぐ午後2時。厳しい暑さは東京と何も変わらない。どこも同じだ。


 だけど、降り立った先は全くの別世界べつせかいだった。


 古い校舎を彷彿ほうふつとさせる木造建ての駅舎えきしゃに、改札のない出口。


 終点である美濃赤坂みのあかさかの駅は無人の駅であり、未だに自動改札さえ導入されていない珍しい駅だ。


 首都圏で育った人間には馴染みのないことだが、ここでは電車を降りる際に運転士に切符を渡さなければならない。


 もう慣れたこととは言え、ここに来る度、自分がどこか別の世界に降り立ったような気分にさせられる。


 駅舎の隣には随分前に廃業したと思しき喫茶店きっさてんがある。


 その喫茶店の駐車場で見知った顔が手を振っていた。


「おーい。健一けんいちくん。秋子あきこさ~ん」


 旧井次郎うすいじろう。父さんの弟だ。つまり僕の叔父おじさんにあたる。


 最寄りの駅とは言え、ここから祖父の家のある青墓町あおはかちょうには結構な距離がある。


 だから、いつも次郎さんに迎えに来てもらっているわけだ。


「すみません。次郎さん。いつもいつも」


「いいんですよ。どうせ他に何もやることないですし」


 社交辞令しゃこうじれいのような挨拶あいさつを交わしたあと、僕たちは次郎さんの車に乗り込んだ。


 中山道を西に車は進む。古い町並みを残す旧街道きゅうかいどうの一角は、昔、人の行き交う場所だったのかもしれないけれど、今は人影もまばらで、車窓しゃそうから飛び込んでくる景色のほとんどは山と田んぼばかりだ。どこまでも続く、のどかな風景の中でセミの鳴き声だけが時折耳に飛び込んでくる。


「相っ変わらず何もないところだよね」


「こら、健一。そういうことを言うものではありません」


「はは、事実だから仕方ないですよ。秋子さん」


 地方公務員ちほうこうむいんである次郎さんは、東京に出た父とは違い、ずっとこの土地で暮らしている。最近、一軒家を購入したとのこと。恐らく、この先もずっとこの土地で暮らしていくのだろう。


「そう言えば次郎さん。もうすぐまたお子さんが産まれるって聞きましたけど・・・」


「ええ、もうすぐ出産予定日です。ひょっとして今回の滞在中に産まれるかもしれませんよ」


 次郎さんには、まなぶくんと、まなちゃんというふたりのお子さんが居る。そうなると3人目だ。


「また騒がしくなるな」と次郎さんは笑う。そうしている間にも、車は昼飯ひるいにある古墳こふんの横を通り過ぎて進んでいく。


 昼飯は、昔、どこかの偉い人が、仏像を運ぶ時に昼飯をここで食べたから付けられた地名という話を父さんの口から聞いたことがある。


「何だか安易あんいなネーミングだね」と僕が言うと、「地名の由来なんて得てしてそんなもんだよ」そう言って父さんは笑ったものだった。


「それにしても、兄貴宛の届け物なんてどういうことなんだろうね。遺品いひんってわけでもなさそうだけど・・・」


 横目でチラリと次郎さんが僕の方を見る。僕のひざの上には、出発直前に到着したあの父宛の荷物がある。


「この子、ずっと大事そうに抱えているんですよ。よっぽど気になるみたい。荷物になるから置いて行きましょうって言ったのに、聞かなくて・・・」


「だって、ロボットだよロボット。気にならない方がおかしいでしょ?」


「はは、そりゃそうだ。だけど、このあたりは女の人にはわからない感覚なのかもしれないね」


 次郎さんが笑う。最近、街中でもたまにロボットを見かけるようになってきたけど、まだまだ身近なものとは言えない。こういう新しいものを見ると心が躍るのは当たり前だと思うんだけど、女の人はそうじゃないんだろうか?


 そんなことを思っている内に、車は狭い旧中山道きゅうなかせんどうの道を進み目的地である祖父の家に到着した。




 濃尾平野の北西部に位置する大垣市の西のはずれ、青墓町の更に西端、旧中山道近くの一角に祖父の家はある。


 中山道青墓宿なかせんどうあおはかじゅくというと、昔は遊女ゆうじょの宿として栄えた場所で、後白河法皇ごしらかわほうおうがここで遊女乙前ゆうじょおとまえから今様いまようを習い、後に『梁塵秘抄りょうじんひしょう』をなしたという話が残されている。

 今様の発祥はっしょうの地としても知られるとのことだが、正直、そこまで詳しい事は僕にはわからない。全て父や祖父からの受け売りだ。


 そもそも僕には「今様」が何なのかが根本的に解っていない。一度祖父に尋ねてみたとき、長々と講釈こうしゃくをされたものだが、それほど興味があるわけではないので、ながし程度ていどに聞いていた。

 要するに昔の流行歌りゅうこうかみたいなものだという事しか頭に残っていない。


 祖父は昔、民俗学みんぞくがく教鞭きょうべんをとっていたと父から聞かされたことがある。IT会社に勤めていた父とは対照的で、実家に帰るとよく口喧嘩をしていたけど、あれはあれで仲が良かったように僕には思えた。

 父はIT会社に勤めてはいたものの、民間の伝承でんしょう怪談話かいだんばなしなどに詳しかった。多分、祖父の影響なのだと思う。


「健一兄ちゃんこんにちは」


「けんいちにーちゃん。こんにちは」


 車から降りると、早速可愛らしい二人が迎えてくれた。


「こんにちは、まなぶくん、まなちゃん」


 二人は、次郎さんの子供だ。確か学くんが8歳、愛ちゃんが4歳。


 僕はこの子達が赤ちゃんの頃から知っている。随分大きくなったものだ。


「お~、健一。秋子さん。来たか」


 縁側えんがわでは祖父の健造けんぞうと祖母のとめが、大きなお腹の妊婦さんと一緒に座って手を振っている。


 妊婦さんの名前は旧井碧うすいみどり。次郎さんの奥さんだ。


 視界に広がるのは、古い二階建ての木造建築もくぞうけんちく。広い家だ。縁側の前にはやや広めの庭が広がっており、中央にある手入れの行き届いた立派な松の木が威風堂々いふどうどうと居座り、家の周りを囲む樹木じゅもくを従えている。


 息を吸い込むと、木造建築ならではの独特の匂いが広がっていく。風の香り、土の匂い・・・


 豊かな自然に囲まれた土地に建つ木造の一軒家。


 別に東京に自然がないわけではない。喧騒けんそうから外れて自然を満喫まんきつしようとすれば方法などいくらでもある。だけどそれは都会に点在するオアシスのようなもので、人の営みの中に織り込まれているというよりは、余暇よかを楽しむ場所に近い。


 やはりここで感じるものとは何かが違う。そう思わざるを得ない。


「これで全員そろったか?」


「まだ、妙子たえこが来てませんよ。多分夕方くらいに来ると思うんですが・・・」


 いつものことです。と次郎さんが肩をすくめた。


 妙子さんは、父さんの妹。3人兄妹の末っ子になる。


 一言で言うと、まぁ大雑把おおざっぱな人ってことになるかな。会社をやめて、今は市内でオリジナルの服飾店ふくしょくてんを営んでいる。独立してからまだそれほど経っていないけど大丈夫なのだろうか。

 ちなみに、彼女が遅れて到着するのはいつものことだ。


 いつもの光景。穏やかな時間。だけど、


 父のいない初めてのお盆。


 今日から7日間、僕はこのにぎやかな親戚しんせきたちに囲まれて過ごす事になる。





 荷物を運び終えると、僕は、早速さっそく、ロボットを取り出した。


「お、健一くん。早速やるのかい」


 と、次郎さんが興味津々きょうみしんしんといった様子で寄ってきた。ロボットは男のロマンなんて言うけれど、分からなくもない感覚だ。


「健一兄ちゃん。それなに?」


「けんいちにーちゃん。それなに?」


 エコーがかった子供達の言葉を聞きながら、僕はロボットを調べる。


 背中のみぞあたりにスイッチらしきものを見つけたので、押してみた。


 ウーンと低い音を立ててロボットが動き出した。どうやら起動きどうしたようだ。


 何が起こるのか。ワクワクしながら待ったのだけど、そこから先、いくら待っても、何も起こることはなかった。


「・・・これだけ?」


 残念そうに学くんが呟く。いや、そんなことはないだろう。ロボットなんだから、喋ったり動いたりするはずだ。


 横にしてみたり、腕を動かしたりしてしばらく格闘してみたけど、何も起きない。相変わらず低い駆動音くどうおんが聞こえて来るけど、ただ、それだけだ。


「説明書は入ってないのかい?」との次郎さんの言葉に、ダンボールの中を漁ると、1冊の冊子が出てきた。だけど、冊子を開いてすぐ、僕は読むのを諦めた。


 内容は全て英語で書かれているみたいだった。


「次郎さん。これ読める?」


「無理だね」と苦笑しつつ次郎さんは首を横に振る。


 結局、その後、辞書を片手に小一時間ほど格闘かくとうしたけど、解読不能かいどくふのう見事撃沈みごとげきちん。ほとんど何もわからなかった。


 父さんからのメッセージを期待した僕の想いは、まずは、見事に裏切られる形になったのだった。







 午後6時を回ると、ようやく日差しも和らぎ、過ごしやすくなってくる。


 縁側に座ると、心地よい風が入ってきて、風鈴ふうりんを揺らす。


 僕の隣には、小さなロボット。


 ロボットは依然として何も語らず、ただ、そこにあるだけだ。


 一体、誰が何のために、こんなものを送ってきたのか。


 手掛かりとなりそうな説明書はというと、英語と専門用語の羅列られつで解読不能。大人たちに助けは求めたものの、説明書を見るなり皆こぞって白旗しろはたを上げた。そうなると手のうちようがない。


 こんなもの一体どうしろって言うんだ。


 そんなことばかり考えていたとき、祖母が声をかけてきた。


「健一」


「なに?ばあちゃん」


「今年も沢山野菜が取れてねぇ、勝手口の所に置いてあるから、ちょっと柚原ゆはらさんのところまで持って行ってくれないかい?」


 所謂、「おすそ分け」と言うやつだ。


 都会と違って、この辺りは近所づきあいが多い。こうやってできた野菜や果物を交換したりするのを何度か見たことがある。


「そうそう、ついでに柚原さんも夕食に呼んできてくれないかい?ホラ、生前は一郎も随分ずいぶんお世話になったからねぇ」


 柚原さんはお隣さんで、祖父とはとても仲がいい。確か、昔、祖父の教え子だったと聞いている。よく縁側で祖父とを打っていたのを見かけたことがある。


「わかった」


 まぁ、こんなところでいつまでもくさっていても仕方ない。ロボットの事は夕食後また考えよう。


 そう気持ちを切り替えて、柚原さんのところに向かいかけた僕に、背後から再び祖母の声がかかった。


「いいかい?ちゃんと呼んでくるんだよ」


 なんだろう?念を押すようなことには思えないんだけど・・・


 などと考えながら、勝手口にあった野菜の沢山入った袋を手に取ると、僕はとなりの家に向かった。




 呼び鈴を鳴らしてからしばらく待つと見知った顔が姿を現した。


「ああ、健一君。こんばんは。今年も来たんだね」


 柚原さんは少し線の細い老紳士ろうしんしだ。


「はい。今年は少し長めに滞在たいざいします。去年までは父の仕事があったので、それほど長くは居られなかったんですけど・・・」


 今年は父が居ないので・・・と言いよどむ僕の様子を見て、柚原さんの口元から軽いため息がれた。


「一郎くんか・・・あれからもう4ヶ月も経つのか」


 そう。あれからもう4カ月も経つのだ。


 父の死を知った柚原さんは、わざわざ東京まで来て父の葬式に参列してくれたのだった。悲嘆にくれる母の隣で、祖母と一緒にずっと寄り添ってくれていたのを昨日のことのように覚えている。


「秋子さんは元気かい?」


「はい。今はもうすっかり元気を取り戻して、来月から働き始めることになっています」


「そうか・・・」


「それはよかった」と柚原さんが笑う。素敵な微笑みだと思う。何と言ったらいいのだろう。都会にはあまりいないタイプの人だ。


「それで、今日はどんな用件かな?」


 そうだった。すっかり忘れていた。


 慌てて持ってきた野菜の袋を渡してから、僕が祖母の言葉を伝えると、柚原さんは快く承諾しょうだくしてくれた。


「夕食の材料が足りなくてね。丁度、外食にしようかどうか迷っていたところなんだ。ありがたくご相伴しょうばんに預からせてもらうよ」


「では準備が出来たらまた呼びにきます」


「ああ、健一君。少し待っていてくれないか?」


 そう言って、いったん帰ろうとした僕を柚原さんが呼び止めた。


 何だろう?僕を見て意味ありげに笑うその姿はなんだかちょっと楽しそうに見える。


 柚原さんは僕を玄関に待たせたまま、玄関脇げんかんわきにある階段を2階に上がって行った。


まとい。ちょっと降りてきなさい」


 2階から柚原さんの声がして、しばらくしてから「ガチャリ」と扉が開く音がした。


 誰かいるのだろうか?確か奥さんが亡くなって今は一人で暮らしていると聞いたのだけど・・・


 再び階段を下る音がして、柚原さんが一階に降りてくる。


 そしてその隣には、僕と同い年くらい女の子がいたのだった。


「健一君。こちらはめいまといだ。故あってね。今はうちで預かっている」と柚原さんが言い、女の子の瞳がまっすぐに僕を捉える。ドキリと胸が高鳴るのを感じた。


 可愛い子だった。多分、今まで見たどんな子よりも・・・


「纏、こちらは健一君。 隣の旧井うすい先生のところのお孫さんだ」


「知っています」


 開口一番かいこういちばん、意外な言葉が女の子の口から洩れた。


「久しぶり。健一君」


 え?ちょっと待って。突然の言葉に焦る。急にそんなこと言われても返す言葉が見つからない。


 懸命けんめいに記憶を辿たどろうとしたけど、全く心当たりがなかった。


「よく覚えているね纏。昔一度だけ会っただけなのに」


「それはまぁ・・・」


 と再び女の子の視線が僕に注がれる。ごめん。覚えてない。


 多分、僕は何とも言えないような間の抜けた顔をしていたのだと思う。


 僕の様子からそれをさっしたのか、女の子は僕から目をそらすと、その目を柚原さんに向けた。


「それで伯父おじさん。話ってなんですか?」


「今日、これから旧井先生のところの夕食会にお呼ばれすることになったから、お前も準備しなさい」


 チラリと纏と呼ばれた女の子が僕を見る。そして


「私はいいです」


 と言った。


 いやいや、そういうわけにもいかないでしょ。


 ふと、祖母の言葉を思い出す。


「いいかい?ちゃんと呼んでくるんだよ」


 あれはこういう意味だったのか。


 結局、何度かのやりとりの後、纏さんは承諾し、僕は改めてそれを伝えに一旦帰ることになった。


 帰り際、もう一度、彼女の姿を見る。


 本当に綺麗きれいな子だ。でも、


 多分、笑うともっと可愛いんだろうなと僕は思った。






「ところでさー健一、あの子誰?」


 等と言いながら、缶ビールを片手に僕のところに寄ってきたのが妙子さん。父さんの妹にあたる人だ。さっきまで次郎さんの隣で何かを愚痴ぐちりながら、飲んでいたけど、どうも飽きたらしい。


 視線の先には、柚原さんの隣で黙々と食事を口に運び続ける少女の姿。


 あの後、いつものようになしくずしに食事が始まってしまったので、妙子さんはおろか、みんな彼女のことを知らないままだ。


 じいちゃんやばあちゃんは彼女と顔見知りらしく、2・3言葉を交わしていたみたいだけど、後は基本的にじっと座ったまま誰とも話すことなく静かにたたずんでいる。


 時折何かを探すような仕草を見せるのは、誰か見知った顔を探しているのかもしれない。


「へー、柚原さんに姪御めいごさんなんかいたんだ」


 僕が事情を話すと、妙子さんは興味津々と言った顔で彼女を見ながら、僕の脇をつついた。


「健一。ちゃんと相手してやりなさいよ」


「僕が?」


「当たり前でしょ。この中で一番年齢近そうなのあんたなんだから。彼女、つまらなそうにしてるじゃない。袖振そでふり合うも他生たしょうの縁。こういう時はお互い様ってものよ。それがうちのモットーなのよ」


 それにねと、意地悪い笑みを浮かべながら妙子さんが言う。「可愛い子じゃない」と、


 ええ、否定はしません。だから余計に困るんです。


 あの後、何とか思い出そうと試みたけど無駄だった。思い出したらそれをきっかけに話そうと思っていたわけだけど確かにこのままじゃらちが明かない。


 これはもう本人から聞くしかない。冷やかす妙子さんを横目に、僕は彼女の元に移動した。


 やぁ、と言って隣に座ると彼女の瞳が僕を捉える。


 ・・・なんだかちょっと緊張する。


「さっき柚原さんが言ってたけど、僕たち昔会ってるんだよね?」


「一度だけだけどね」


 素っ気なく彼女が答える。


「ごめん。正直言うと、僕、覚えてないんだ。それっていつのこと?」


 彼女はしばらく考える素振そぶりを見せたあと、


「私が6才の頃だから、今からちょうど8年くらい前のことだと思う」


 と言った。ずいぶん前だな。流石に思い出せない。でもそうなると、やはり彼女は僕と同い年ってことになるらしい。


「お父さん・・・」


 ふと、彼女の口からそんな言葉がれた。


「お父さんはどうしたの?確か居たでしょ?あのちょっとお調子者っぽい感じの人」


 周囲に視線を巡らせながら彼女が言う。そうか、彼女は父さんにも会ってるんだ。ひょっとしてさっきから誰かを探しているように見えたのは・・・


「いないんだ。もう・・・」


 僕は端的たんてきに事実だけを口にした。


 しばらくして、僕が発した言葉の意味に気づいたのか、「ごめんなさい」と一言だけ言葉を発して、ひどく落胆らくたんしたように彼女は目を伏せた。


 そのまましばらく時が流れる。


 いやだな。この言葉はいつまで経っても慣れられない。単純な事実を告げるだけなのに、そうする度に何かが失われていくような気がする。


「そうか、だからなんだね」


 ややあって、再び彼女は言葉をつむぎ始めた。


「え?」


「ここには何かが欠けている。そんな気がしてた。にぎやかに見えるけど、そこにはあるべき何かがない。そこには本当に必要な何かがあるはずだった。だけど今はそれがない。それはとても悲しいことだよね・・・」


 彼女の言葉が僕の胸に突き刺さる。


 確かにみんな、いつものように振舞ふるまってはいるけど、どこかぎこちない。暖かな雰囲気の中にもどこか冷めたような不思議な感覚が広がっている。


 そこにあったのは、祖父と一緒にののしり合いながら囲碁いごを打つ父さんの姿。


 そこにあったのは、次郎さんと妙子さんの間に座って談笑だんしょうする父さんの姿。


 そして、そこにあったのは、学くんと愛ちゃんとじゃれ合う父さんの姿。


 それは、今年の正月。ほんの7ヶ月前にはそこにあった光景なのだ。


「そうか、あの人、死んじゃったんだ・・・」


 そう言って、顔を伏せる彼女の瞳に微かなうれいの色が混じる。


 れる瞳の奥で彼女が何を考えているのかはわからないけど、多分、彼女にとってもそれはどこか大切な思い出なのだろうと僕は思った。


 と、その時、トタトタ小さな足音を立てながら、愛ちゃんがこちらに寄ってきた。


 そのままジーっと、纏さんの方を見る。


 それは人見知りな愛ちゃんにしてみれば珍しい行為だった。


 いつもは学くんの後ろに隠れて、初対面の人には決して寄り付こうとしない子なのだけど、間違いなく初対面であるはずの纏さんの前まで近づいてきて、じっと何かを言いたそうに彼女を見上げている。


 そして次に、愛ちゃんは更に驚くべき行動に出た。そのまま纏さんの胸に倒れこむようにして抱きついてみせたのだ。戸惑いの色を見せる纏さんの膝の上で、幸せそうな声を上げる。


「おねーちゃん、いちろうおじさんのにおいがする・・・」


 愛ちゃんがそう言うのとほぼ同時に、後ろから声が上がった。


「なにこれ?ロボット?」


 振り返ると、妙子さんがあのロボットを持って学君とじゃれあっている姿が目に入った。


「健一兄ちゃんのロボットだよ。でも動かないんだ」


「そうなの?けんいちー、これ動かしてみてよ」


 そう言えば、遅れて到着した妙子さんはロボットのことを知らないんだった。


 僕は、乱暴にロボットを扱う妙子さんからロボットを取り上げると事情を説明した。壊されでもしたらたまったもんじゃない。


「へー、いちにぃ宛の荷物ねぇ・・・面白そうじゃない」


 妙子さんは昔から、父さんのことを「いちにぃ」と呼ぶ。


「妙子さん。これ読めない?一応説明書みたいなんだけど」


「なにこれ?英語?無理無理。私、そういう学はないから。こんなの読めるのいちにぃくらいのもんよ」


 ヒラヒラと手を振りながら、妙子さんが言う。やっぱりダメか。最初から期待なんかしてなかったけど・・・


「マニュアル。あるんですか?」


 その時、意外なところから声が上がった。振り返ると、纏さんがこちらを見ている。


「見せてもらっていいですか?」


 そう言って、纏さんは妙子さんの手から英語の説明書を受け取るとペラペラとページをめくり始めた。


「纏さん、これ読めるの?」


「黙って」


 はい。ごめんなさい。


 ペラペラとページをめくる音が聞こえる。


 いつの間にか、みんな彼女の周りに集まってきて自然と輪が出来上がっていた。


 愛ちゃんはそんな彼女に寄り添うように立って不思議そうにその行為を見上げている。


 それを見て妙子さんが「へぇ」と感心したような声を上げる。ここまで愛ちゃんが初対面の人になつくのは本当に珍しいことなのだ。


 そうしている間にも彼女はすごい勢いで英語の本を読み進めていく。たまに読み飛ばしてはいるみたいだけど本当に読んでいるんだとしたらこれはすごいことだと思う。


 やがて、彼女は本を閉じると今度はロボットを調べ始めた。


「どう、動かせそう?」


「うん。まだわからないけど、健一くん。ここのネットワークを使わせてもらっていい?」


「ネットワークって?」


「ネットワークはネットワークだよ。ホラ、ここにLANの口があるでしょ?背面のカバーを外せば直接つなげるみたいだけど、それだとちょっと厄介そうだから、出来ればネットワーク越しにSSHで・・・」


 と、そこで彼女の言葉が止まる。どうやらいつの間にか自分を中心に輪が出来上がっている事に初めて気づいたようだった。


「ああ、お構いなく。続けて」


 妙子さんの言葉にうなづくと今度はやや遠慮えんりょがちに言葉を続ける。


「・・・とにかく、ネットワークを介して、ノートPCなんかで繋いで命令を出してあげないと起動しないみたいなんです。このロボット、Oguri1号っていう名前みたいなんですけど、今は初期状態なので、そうしないと何も受け付けないんです」


「ネットワークって言うと、インターネットみたいなもん?」


「・・・少し違いますが、そう思っていただいても結構だと思います」


 なるほど、そういうことか。でもそうなると・・・


「そりゃ無理ってもんだよ。纏ちゃん」


 と妙子さんが肩をすくめる。


「何故ですか?」


「ここ、見てよ。ここにそんな大層な代物があると思う?インターネットどころか、パソコンだってないわよ。普段は偏屈へんくつなジジババしか住んでないんだから、そんなもんあるわけないじゃない」


 遠くから「偏屈で悪かったな」と声が聞こえる。祖父は柚原さんと縁側で碁を打っているようだった。


「うそ・・・今時いまどきそんなところあるんだ・・・」


 信じられないと言った面持ちで纏さんが周りを見回す。ふすまを開け放った家の中は、縁側まで吹き抜けていてさえぎるものがほとんどない。確かにネットワークどころか、ハイテクを思わせるものなど何もない。風鈴に蚊取かとり線香せんこう扇風機せんぷうき団扇うちわ。小さな薄型うすがたテレビが部屋の隅で申し訳なさそうに鎮座ちんざしているだけだ。


「それにしても、Oguri・・・小栗おぐりか・・・それってやっぱり小栗判官おぐりはんがんのことよね?」


 感慨深かんがいぶかげにロボットを見ながら妙子さんがそんなことを口にする。


「となると、このロボットは兄貴が作ったものなのかな?」


 との次郎さんの言葉に、「そりゃそうよ」と妙子さんが答える。


「だって、ロボットにこんなふざけた名前付けるの、いちにぃくらいのもんじゃない」


 小栗判官おぐりはんがん照手姫てるでひめの伝説は、歴史や民俗学にうとい僕だって知っている。というか、昔、じいちゃんや父さんから何度でも聞かされた青墓に伝わる有名な伝説のひとつだ。


「こりゃ、ますます動くの見てみたくなったわ。纏ちゃん、どうなの?動かせる?」


 纏さんは暫く考えるような素振りを見せたあと、


「伯父さん。うちのネットワークを使うので一旦戻ります」


 相変わらず祖父と碁を楽しむ柚原さんに向かってそう言った。


「ああいいよ。纏、助けておあげ」


 その言葉に纏さんはうなづき、Oguri1号を抱き上げ・・・ようとして、少しふらついた。


「持ってみると意外と重いねこれ・・・」


「あ、僕が持っていくよ」


 僕たちは、そのまま祖父の家を出て、柚原家に向かった。




 鍵を開けて、玄関脇の階段から2階に登る。


「急な階段だから気をつけて」


 そう言って、彼女は先に階段を登っていく。


 2階まで登ると、纏さんは部屋の前で待っていた。


「ここが私の部屋。入って」


 え?マジで?と思ったけど、本人がいいと言うんだから仕方ない。同い年の女の子の部屋に入るのは勿論初めてのことだ。


 少しだけドキドキしながら部屋の中に足を踏み入れる。


 そこは想像していたのとは全く別の部屋だった。


 何の飾り気もない部屋で、奥に勉強机があり、その上にノートPCが乗っている。ベッドの隣に大きな本棚があり、そこにはところ狭しと本が並んでいた。


量子統計力学りょうしとうけいりきがく


特殊相対性理論とくしゅそうたいせいりろん


一般相対性理論いっぱんそうたいせいりろん


相対論的量子力学そうたいろんてきりょうしりきがく


 聞きなれないタイトルが並ぶ。他にもところどころ英語の本もあり、マンガはおろか、年頃の女の子らしいものなどどこにも見当たらない。


「そこにハブがあるから、LANケーブルで繋いで」


 言われたとおり、Oguri1号をつなぐと、彼女はノートパソコンを操作し始めた。


「DHCPが有効だといいけど・・・たしかマニュアルに管理者用の初期パスワードが・・・」


 時々、僕にはわからない言葉が彼女の口から漏れてくる。


 居心地の悪さを感じて、どうしようかと思っていたとき、ベッドから1冊の本が転がり落ちてきた。


ちょうひも理論りろん


 何となく親しみやすいタイトルだったから、本を開いて中身を見てみる。


 途端に目眩めまいのようなものを感じた。


 日本語で書いてあるのは確かだけど、中は難解な言葉と記号の羅列られつだった。意味が分からないどころか何について書かれている本なのかすらわからない。


「すごいね。こんなの本当にわかるの?」


 僕の言葉に、彼女が振り返る。そして僕が持っている本に目を向けると、


「まさか。ほとんどわからないよ」


 だよね。そう言われて、少しだけホッとした。


「でも・・・」


「いつかは理解したい」そう言って、再びノートパソコンを操作し始める彼女の瞳は、とてもんでいて、はるか先を見ている。そんな気がした。そう。僕には見えない遥か先にあるなにかを・・・


 そして、僕はこの瞳を何処かで見たような気がした。いつか、何処かで・・・




 その後、彼女は、ノートパソコンに向かって何かの作業を進めていたみたいだったけど、暫くすると


「これはもう無理・・・」


 と言って、ふぅとため息をついた。


「繋げてみたのはいいけど、どうにもならないよ。Imayou Operation Systemなんて聞いたこともない名前だし、必要なライブラリを入れようにもパッケージマネージャーすら分からない。流石に専門的すぎて今の私には無理だよ・・・」


「よくわからないけど・・・という事は、起動は無理?」


 Imayou?それって「今様いまよう」?


 そんなことを思いながら尋ねてみると、再び彼女は考える様子を見せた後、


「健一君。明日、時間空いてるかな?私、そういうのに詳しい人に心当たりあるから、明日一緒にOguri1号を持って会いに行こう。その人なら多分、起動できると思う」


 そう言った。


 戻ったあと、僕が事情を説明し、明日の午前中の納骨のうこつの後に、午後から彼女と一緒にOguri1号を持って行くことになった。


「多分、そっちのほうがいいと思う。あの人、絶対午前中は起きてないから」


 愛ちゃんは、あいかわらず纏さんの側にピッタリと寄り添っている。どうしてかは解らないけど、初対面のはずの彼女をとても気に入っているようだ。


 父さんの作ったロボット。


 それはどんなものなのだろう。ちゃんと起動できるだろうか?


 その夜、僕はそんなことばかりを考えて、なかなか眠ることができなかった。


 早く明日になればいいのにと・・・




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