真夏の風景

カワサキ シユウ

第1話

 駅のホームを抜けて真っ先に目に飛び込んできたのは、真っ青な空に消えていく赤い赤い風船だった。雲ひとつない見事な晴天だ。きらきら照りつける太陽の輝きを一身に受けるひまわりの花。降り注ぐ蝉の合唱が加勢して、辺りの風景をいっそう夏の色に染めていく。街をぐるりと囲む新緑の山々が遠くに見える。その下で波のような陽炎が立ちのぼり、街は水のないビーチだった。駅前にあるのは少しばかり古ぼけた喫茶店。深い影の刺す軒下で氷の文字が涼しげに踊っていた。

 そんな夏のきらめきに取り残された小さなバス停に私はとことこと歩いていく。その屋根の下にはこじんまりとしたベンチがあって、上品な身なりをしたおばあさんがピリリときれいな姿勢で腰かけていた。

「こんにちは」

 私はそっと、できるだけ丁寧に挨拶をする。

「こんにちは」

 ややあって、オウム返しの返事があった。彼女は夏のまぼろしでもキュウリの牛に乗ってきた人でもないらしい。私はできるだけゆっくり、適度な距離をあけて彼女の横に腰かけた。呼吸しながら上下する肩をそっと盗み見た。

「暑いですね」

 私は明瞭かつ丁寧な発音ではきはきと声をかける。ちらとこちらを見たおばあさんは、そうですねぇ、とでも応えるようにはにかみながら微笑んで少し頷いた。私はなぜだか少し嬉しくなってその仕草をなぞるように小さく頷いた。

 二人の沈黙に蝉が割って入る。さざ波のようなその声に耳を傾けながら、私たちは同じ沈黙を守った。ふと言いかけた言葉はだから、音にはならなかった。そうやって暑い空気に溶けだした言葉が陽炎になるのかもしれないと私は思った。

 やがてさざ波が静かに引いていき、そのタイミングを見計らったかのようにおばあさんが小さく息を吸った。

 私はドキドキしながらその言葉を待った。

「私はね……ここで待っているんですよ」

 秘め事を打ち明けるような口調。でも、何を?

 私は口を噤んだままにこりと微笑んでこくびをかしげて見せた。続きを促したつもりであったが、おばあさんがそれに気付く気配はない。

「待っているんですよ」

 自分の中で確かめるような言い方だった。彼女はそれだけ話して満足したようで、私はやっぱり何も聞けず黙って頷くだけだった。

 そうしているうちに、陽炎の向こうからオモチャみたいなバスがぐわんぐわんと漂流するように揺れながら近づいてきた。停車するとすぐ、待ちきれないと言わんばかりにピーとチープな音がして扉が開いた。ヒンヤリとした空気が流れ出た。

 ステップに足をかけて小さな紙片を受け取る。立ち止まって後ろを見るとおばあさんはさっきとまるで変わらない姿勢で座っていた。

「乗らないんですか?」

 私は少し焦れて思わず声をかけた。せっかちな運転手さんが今にもその扉を閉めてしまいそうだったから。

「私は、もう少し待ってみようと思っているんですよ」

 おばあさんは慎ましく微笑んだ。私は、そうですか、と神妙ぶって頷いて、そのままバスに乗った。振り向いたところで扉はやっぱりそのチープな音をたててあっさりと閉じた。ごろごろとエンジンが唸り声をあげる中、私は一番後ろの席にふわりと腰かけた。バス停から離れていく車のガラスごしに振り返ったとき、そのバス停に人影をみとめることはできなかった。目を凝らしてもう一度見ようとしたが、やがて道を折れたバスに視界を遮られてしまった。

 車内で揺られながら私はそっと目を閉じた。そのまぶたの裏で、陽炎がくらりと揺らめいた気がした。

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