顕世の霊は脆く泡沫の如し

天邪鬼

顕世の霊は脆く泡沫の如し

 実家が消えた。隣人を訪ねても、私の家族のことすら覚えているものはいなかった。


 そもそもなぜ私が実家を訪れたのかと言えば、昨日市役所でおかしなことを言われたからである。念願叶って彼女、飯沼佳奈と結婚することになり婚姻届けを出しに市役所に行ったのだが、そこで戸籍謄本をもらおうとしたときだ。

「あの、申し訳ありませんが…お客さまの本籍地が見つからないんです。」

 私は初め、その意味を理解できなかった。

 奇妙なことに、私の家族の情報と、私自身の情報はすべて残っているのに、本籍地のデータだけが消えてしまっているのだった。

 しかし本籍地の住所は覚えているからとそれを伝えようとすると、また不思議なことに、どういうわけか住所が全く思い出せない。どうしようも無いのでその日は婚姻届を出すことを諦めた。


 家に帰った後で、それなら家族に直接連絡をとればいいじゃないかと思いメールをしたが、夜になっても返信は来ず、電話をかけるも、父、母、妹、誰一人として繋がらなかった。

 これは何かあったのではないかと思い、夜も更け始めた頃に家を飛び出し車を走らせ、同じ市内にある私の実家へと向かったのだった。

 しかし、私の実家だったはずのその場所には、見たことも無いアパートが建っていた。中を調べてみたかったがさすがに他人の敷地となってしまったところに勝手に踏み入るわけにもいかず、昨晩は仕方なく家に帰ったのだ。そして今日、改めてここを訪ねたが、アパートに家族が住んでいる様子は無かった。

 しかしどうやら私に黙って引っ越したというわけでも無いらしい。というのも、そもそも私の家族はここに存在していなかったことになっているのである。

 隣人は誰も私の家族を知らない。無論私のことも知らない。覚えていないというよりむしろ、全く知らないのだ。

 おかしい、確かに市役所にはまだ家族のデータが残っていた。私の気が狂っているわけではあるまい。


 ふとその時、私は弟が出張で近くまで来ていたことを思い出した。運のいいことに弟はすぐに電話に出た。事情を説明するともっと詳しく聞きたいというので近くの喫茶店で落ち合うことになった。



 カランカラン



 弟が来た。特筆することも無い、中肉中背、ごくごく普通の私に似ず、弟は背が高く顔立ちが整っている。何度も見ているはずなのに、なぜか初めて会ったような気がする。

「久しぶりだな…」

 私は弟の名を呼ぼうとした。しかしそのとき、私は弟の名を知らないことに気がついた。

「本当に久しぶりだね兄さん、すっかり変わってしまって、まるで初めて会うような気分だ。」

 とりあえずその場は適当に取り繕って、今の事情を説明した。弟はそれを聞くと、とりあえず母方の実家に帰るようにと言った。幼い頃に両親を亡くした私と弟は、兄弟二人、いつも互いに助け合ってきた。

 いや、正確には私がいつも弟に助けられてきた。今もそうだ、本当に情けなく思うが、私は弟のように頭が回らないから仕方がない。


 弟に駅まで送ってもらい、私はそのまま母方の実家へと向かった。

 そうして電車に揺られること一時間、昨日からの異変のために疲れていたのだろうか、睡魔に襲われうつらうつらとし始めたとき、私はとんでもないことに気が付いて身震いした。血の気が引いていくのが分かった。


 そもそも私に弟はいない、私にいたのは妹だ。両親も死んでなどいない。いや、連絡がとれない今それを証明する術は無いが、少なくとも私が実家を出るまでは健在だった。昨日の段階では覚えていたことなのに、ある時点から突然記憶がすり替わっていたのだ。それに私は、なぜ母方の実家へ帰らなくてはならないのか、その理由を弟から全く聞いていない。

 なぜ弟、いや、あの男は私に母方の実家へ行けなどと言ったのかは分からないが、とにかく私は怖くなってそのまま来た道を引き返した。



 日が傾き始めた頃、烏の鳴く声を聞きながら私はようやく帰宅、するはずだった。

 今度は私の住んでいたはずのアパートが消えた。それも、今度はまた厄介な消え方をしている。今、私は右手前方に自分の部屋があるアパートを見ている。しかし一歩でもアパートの敷地の前に踏み込むと、気づけばアパートを通りすぎているのである。何度もそこを行ったり来たりしたが、いくらやってもアパートの前に辿り着くことは無かった。

 私は学者では無いから詳しいことは分からないが、強いて言うならば、アパートが消えたというよりも、アパートの前にある座標が消えた。というところだろう。おかしな形で空間が繋がってしまって、私は家にすら帰れなくなったのである。


 私は妻に電話をした。もしかしたら妻が中から私を導いてくれるかもしれない。あるいは、アパート前の座標へ繋がる別のルートを教えてくれるかもしれない。

 しかし、電話に出た妻は私に開口一番、

「母方の実家に行きなさい。」

 と言った。そしてすぐに電話を切ってしまった。

 私はタクシーを拾って近くの駅へ向かい、とりあえず駅前のカプセルホテルで一晩明かした。

 そしてまだ日も登りきらぬうちに電車に乗り、母方の実家へと向かった。


 電車に揺られ、一時間ほど経ったとき、私はまたサッと血の気が引くのを感じた。

 私に妻はいない。つい一昨日、ようやく今の彼女と結婚しようとしたところで、まだ妻はいない。

 ここまで来たら、きっと私は母方の実家へ行かなくてはならないのである。母方の実家に何かがある。


 電車を乗り継ぎ、乗り継ぎ。夜はコンビニ弁当を食べ、カプセルホテルに泊まり、また次の日は電車を乗り継ぎ、乗り継ぎ。

 そうして私はようやく実家に辿り着いた。


 何も変わった様子は無かった。

 広い梨畑に、その横を流れる小川。何もかも、私が子どもの頃に見た景色そのものだった。

「ごめんくださーい」

 私が戸を叩くと、中から祖父が出てきた。

「おお拓也、おかえり。また大きくなったなぁ。」

「うん、僕また背伸びたよ。」

 その後僕は、おじいちゃんにアイスを買ってもらった。僕はおじいちゃん家の近くにある駄菓子屋さんのバニラバーが大好きで、いつもここに来ると買ってもらうんだ。

 その日の夜はすき焼きだった。とっても美味しかった。

 僕はお腹が膨れて、眠たくなって、そのまま居間で寝てしまった。なんだかおじいちゃんもおばあちゃんも僕に微笑みかけてくれているような気がした。


 ちょうど月明かりが窓から射し込み始めた頃、私はその明かりのためか目が覚めた。どうやら、誰かが布団を敷いてここまで運んでくれたらしい…すぐに、その考えが間違っていることに気がついた。いったい私の祖父と祖母が、どうしてあの老いた身体で私を運ぶことなどできようか。

 確かにここは、私が幼少期に訪れた当時と、全く変わっていない。

 そう、全く変わっていないのだ。時間さえ動いていない。何もかもあの時のままだ。私の心さえ、あの当時に引き戻されていた。


 さらに言えば、祖母は一昨年すでに亡くなっている。祖父はその後すぐに痴呆になり、今は施設にいるはずだ。

 そしてここは、父方の実家。私はいつから方向さえまともに選べなくなってしまったのだろうか。何もかもが狂ってしまっている。


 私はまたとぼとぼと夜の道を歩いて駅へと向かった。ちょうど来た電車で、今度こそ母方の実家へと向かった。

 午前三時に駅に来る電車など、まともな電車ではない。しかし私がそれに気付いた時には、すでに扉は閉まっていた。

 誰もいない車両の中、一人、何が起こるのかと怯えながら私は椅子の上で縮こまっていた。



 いつの間にか、私はそのまま眠りについていた…




 朝が訪れた。私を起こしたのは携帯のチャットアプリの通知音だった。見ると、通知はすでに百件を超えていた。

 すべて、私の高校時代の友人から。そしてその友人たちの名は、すべて私の知るものでは無かった。

 記憶がすり替えられていく。記憶が消えていく。あるべきものが消えていく。過去と現在が混じり合う。あるのは混沌だけ、何一つ、もはや自分さえ信じられないここを、私はいつになれば抜け出せるのだろうか。

 とにかく、気を確かに持って、私が今すべきことは母方の実家へ行くことだ。そこに行けば、何もかも解決するかもしれない。解決しないかもしれない。

 しかしとにかく、行かなくては何も始まらない。でなければ、おそらく私は永遠にこの混沌の中に閉じ込められたままだろう。

 そして、私が今乗っているこの電車、どの駅にも止まろうとしない。ただひたすらに走っている。どこを走っているのかさえ分からないが、間違いなく私の目的地へと向かっているのだろう。根拠は無い。ただ確信があった。


 トンネルを抜け、見慣れた街に着いた。私は少しだけ安堵した。ここは、少しばかり私の子どもの頃より開発が進んでいる。つまり、時間はズレていない。

 そして電車は、母方の実家の最寄り駅へ止まった。私がそこに下り立つと、風のように走り去った。


 さて、ようやくここに着いた。

 鬼が出るか蛇が出るか。ともかく私は行かなくてはならない。


 しかし、母方の実家があったはずのそこにはなぜか私の住む市の市役所が立っていた。

 もう何が起こっても私は驚かなかった。


 私は迷わずその中へ入った。

 そこには私の彼女、佳奈がいた。

「お名前を伺ってもよろしいですか?」

 佳奈が言う。

「…分かりません。」

「では、私の名前は?」

 彼女が言う。

「…分かりません。」

「私とあなたの関係は?」

 女が言う。

「…分かりません。」

「母方の実家へ行きなさい。」


 私は女に言われるまま市役所を出ると、またタクシーを拾って最寄り駅まで向かった。いつの間にか私は、自分の住んでいるはずの街に戻っていたのである。



 母方の実家へ行かなくてはならない。



 そういえば、母方の祖母は今年で百二十歳になるはずである。元気にしているだろうか。

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