地球が丸く見える場所

鋼野タケシ

地球が丸く見える場所

 たしかに、死んでしまいたいと言った。

 毎日がこんなに辛いなら死んでしまったほうがマシだと、弱音を漏らした覚えはある。酒の席でのことだ。本当は死にたいなんて少しも思っていない。


 猛烈な吹雪の中で、ぼくは死にかけていた。


 出張で北海道を訪れたのが一月の終わり。ぼくは二ヶ月を厳冬の釧路で過ごした。北海道出身の先輩に言わせれば「釧路は暖かくて雪も少ないから過ごしやすい」らしい。最高気温が氷点下の世界を暖かいと表現する先輩の気が知れない。

 出張中は、北海道に慣れている先輩の指示に従って来た。今日、この場所に来たのも先輩の発案だ。

「いやぁ、まさかこんなことになるとは思わなかった」

 当の本人はのんきに笑っている。

 雪は永遠とも思える時間、降り続いていた。フロントガラスの向こうは粉雪に隠されて真っ白。ぼくらは猛吹雪の中、自動車に閉じ込められ震えている。

「冬の北海道だと気温がマイナスだから、地上に降りても雪が解けないんだよ。で、どうなるかって言うと凍り付かずそのまま地面のあたりを舞うワケさ。そうするとこうやって目の前も見えなくなんのね。道路と空の区別もつかなくなるから、駐車場まで辿り着けて良かったよ」

 幸運だと言いたいのだろうか。ぼくらは死にかけているのに。


 仕事に追われる日々で、ぼくはちょっとだけ疲れていた。社会人として生きるのは思ったよりもつらい。誰もが耐えているのだからぼくにだって耐えられるはずと、自分に言い聞かせて来た。

 でも、もう限界。先輩に弱音を漏らしたのは、つい酒に酔ってのことだった。


 死んでしまった方がマシだ。仕事、将来、人間関係。すべてに悩んでいたぼくは、つい愚痴を漏らした。

 とにかくぼくは限界だと感じていた。この出張が終わり次第、仕事を辞めるつもりでいた。

 先輩に呼び出されたのは、北海道で過ごす最後の日曜日だった。

「せっかくだし、ちょっと観光しようよ。行きたい場所があるんだ」

 中標津町にある開陽台という名の展望台だった。釧路からは約百キロ離れている。だいたい東京から熱海までの距離だろうか。

「この距離なら一時間で行けるでしょ」と、道民は平気で恐ろしいことを言う。

 雲行きが怪しくなってきたのは、中標津の町に入ったあたりだ。

 雪が強くなってきた。空は分厚い雲に覆われている。この天気では展望台に登っても何も見えないだろう。ぼくがそう言っても先輩は気にしない。

「まあ、行くだけ行ってみようよ」

 展望台に近づけば近づくほど雪は強さを増していく。ぼくの不安は的中した。駐車場に車を停める頃には、外へ出られないほど吹雪いていた。

「エンジン切って。排気のパイプに雪が詰まったら、一酸化炭素が車内に逆流して窒息死するよ。そういう事故が多いんだから、北海道は」

 そうしてエンジンを切って一時間。強烈な寒さに意識が遠のいて来た。


「雪が収まったね」

 ほとんど眠りかけていたぼくは、先輩の声で我に返った。あれだけ降り続いていた雪が止んでいる。

「今のうちに、展望台のぼろうよ」

 ようやく生き延びたというのに、正気とは思えない。

 震えるぼくを置いて、先輩は車から降りた。外に一歩踏み出すと、足首が埋まるほど雪が積もっている。

 展望台の階段を先輩は登っていく。

 ローマのコロッセオを小さくしたような、円形の展望台。ぼくも先輩を追いかけて階段をのぼった。雪が積もり、凍り付いた階段はほとんど斜面のようなものだ。

 何度も足を滑らせながら、展望台へと上がっていく。

「ほら、すごい景色だよ」

 雲の切れ間から、太陽の光が差していた。

 なにひとつ遮るもののない景色が広がっている。

 どこまでも、どこまでも雪の平原。人工物は無線の鉄塔しか見えない。それすら雪に染められて辛うじて立っているように見える。地平線の向こうに青くぼんやりと山影が見える。

 空を覆い尽くす灰色の雲。かすかに差し込む日の光。どこまでも続く雪景色。大地は果てしなく広い。そのすべてが、今は雪の白に沈んでいる。

 視線の遥か向こう側、気のせいか地平線が湾曲して見える。歪んでいる。ぼくの視界の両側で、地平線の隅がすとんと落ちているように見える。やっぱり湾曲している。

 当たり前だ。地球は丸いのだから。


「地球が丸く見える場所なんだよ。開陽台は。ほら、看板にも書いてある」

 地球は丸い。当たり前の常識で、普段は意識もしない。地球は丸く、空は高く、世界はどこまでも広い。

 すべてを圧倒するような地球の巨大さ。地球を白く塗りつぶす雪の力強さ。そして今は冷たい雪の下で眠っていても、いつかは芽吹く緑の気配。

 先輩は、ぼくにこの景色を見せたかったのだろうか。ぼくの悩みがちっぽけだと、教えてくれるつもりで。

「いや、おれがこの場所を見たかっただけだよ」と、先輩はとぼけたようなことを言う。

 小さなぼくに、小さな悩みは深刻で、明日になればまた小さなことで悩むだろう。

 ちっぽけなぼくの悩みを知りもせず、地球は明日も大きくて、丸い。

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