永遠の辰子姫

深水えいな

第1話

 僕と綾瀬あやせは田沢湖が見える湖畔の町で育った。


 田沢湖は秋田県にある日本一深い湖で、その青く澄み切った湖を見に、毎年沢山の観光客が訪れる。


 小さい頃は、地元にある湖がそんなに凄いものだと思っていなかったので、なぜこんな田舎の景色を皆こぞって見に来るのだろうと不思議に思っていたものだ。


 その良さがようやく分かるようになったのは大学に入り地元を離れてから。


 光の加減によって翡翠にも藍にも見える水面。そこに映る四季折々の風景。


 春には満開の桜、夏には輝くばかりの新緑、赤に黄色、色とりどりに湖を縁どる紅葉、そして冬の雪景色。そのすべてが眩しいくらいに美しかった。


 思えば幼なじみの綾瀬が綺麗だということにようやく気づいたのも、ちょうどその位の時期だった。


 高校、大学と別々の道に進学して長い間会っていなかった綾瀬と成人式で久々に再会した僕は、そのあまりの美しさに思わず息を飲んだ。


「久しぶり! 元気にしてた?」


 昔の綾瀬は、髪が短くて、色黒で、痩せっぽちで、まるで男の子みたいだった。


 だが久々に会った綾瀬は、髪が伸び、きめ細やかな肌に薄っすらと化粧をし、隣に居るだけで緊張するような美人になっていたのだ。


「お、おう......」


 僕がすっかり変わってしまった綾瀬に戸惑っていると、綾瀬は昔のようににっこりと僕に笑いかけた。


「全然変わってないね。ねぇ、野球まだ続けてる?」


「いや、高校の時にやめたよ。綾瀬こそ、ソフトボールは?」


「私も高校でやめちゃった。元々そんなに上手くも無かったしね」


 あはは、と綺麗な歯を見せて笑う綾瀬。その笑い方は、昔と変わらなかった。


 昔、僕は少年野球を、綾瀬はソフトボールをしていて、よく一緒にキャッチボールをしていたのだ。


「久しぶりにキャッチボールしたいね」


 成人式の二次会の帰り、酒に酔った僕たちはそんな話をし、湖の畔にある少年野球チームの練習場へ忍び込んだ。


 最初は綺麗になった綾瀬に緊張していた僕だったが、昔のようにキャッチボールをしているうちに戸惑いは徐々に消えていった。


「ねぇ、覚えてる? 学校で肝試しをした時のこと」


「ああ、覚えてるよ。あの時は確か、サトルが途中で泣いて引き返したんだよな」


「サトルくん、懐かしい!」


 そんな他愛も無い話をしながらボールを投げ合う。


 小学生の時、山の中に秘密基地を作ったこと。隣の家の犬に落書きして怒られたこと。担任の先生のおかしな癖。


 懐かしい話は尽きなくて、何度も何度も笑い合った。


 誰もいない小学校のグラウンド。星明かりの下、白いボールが行き交う。大人になったのに、こんな所でキャッチボールをするなんて、何だかドキドキする。


 いけない遊びをしているような、誰も知らない秘密基地に隠れてるみたいな、そんな気持ちが、たまらなく愛しい。


「しばらく見ないうちに綺麗になったな」


 キャッチボールをしながらだと、どういう訳か素直に気持ちを言える。勢いでそう言った僕に、綾瀬は照れたようにはにかんだ。


「そう? もしかして辰子たつこ像にお祈りしたからかな?」

 綺麗なフォームでボールを投げる綾瀬。


 田沢湖には辰子姫伝説、という伝承がある。


 昔々、この地には辰子という類稀たぐいまれなる美貌を持った少女がいたそうな。

 少女は自分の若さと美しさを永遠に保とうと観音様にお百度参りをする。


 そしてついに、満願の夜「北に湧く泉の水を飲めば願いは叶う」というお告げを聞いた辰子は、夜中に家を抜け出し、泉の水を飲んだ。


 飲めば飲むほど喉の乾きに苦しんだ辰子は、時が経つのも忘れてひたすら泉の水を飲み、ついには泉は枯れてしまった。


 そして、いつの間にか辰子の姿は巨大な龍になっていた。龍になった辰子は、田沢湖に沈んで、そのまま湖の主となったのだという。


 田沢湖の湖畔にはそんな辰子姫を象った黄金の像と、浮木神社という小さなお社がある。そこは美容と縁結びの神社として有名だ。


 観光シーズンには、縁結びを願って多くの若い女性がここを訪れる。


「何でまた。お前、誰か好きなやつでもいるのか?」


 僕が尋ねると、綾瀬は頷きながら写真を見せてくれた。


 そこには綾瀬にお似合いの、すらりとした男が写っていた。暗い湖の底に沈んでいく僕の気持ち。だが平静を装って笑う。


「綾瀬なら大丈夫だよ、お似合いだ」


「えへへ、そうかなあ?」


 嬉しそうな笑顔。その笑顔を見た瞬間、何故かひどく胸が痛んだ。


 家に帰った後、僕はやるせない気持ちと共に、地ビールを思い切り飲み干してやった。

 それでも、どうしてだろう。その喉の乾きは、抑えられそうに無かった。




 次に綾瀬と再会したのは僕らが三十歳の時。


 同窓会の知らせが届いたのだ。都会なら

三十歳で独身なんて普通だろうが、田舎は結婚が早い。


 独身同級生の皆の幸せな姿を見せつけられるのは辛かったが、それでも僕が同窓会にわざわざ出向いたのは綾瀬に会うためだった。


 綾瀬はどうしているだろうか。結婚して子供の一人や二人はいるだろうか? あの、すらりとした綾瀬とお似合いの男と――


 もしかして、凄く太ったかもしれない。老け込んだかもしれない。


 それでも、綾瀬に会いたくてたまらなかった。綾瀬とした、あのキャッチボールは今でも僕の心の中で大切な宝物みたいに光っている。


 同窓会に着くと、見慣れた同級生たちが出迎えてくれた。


「お前、変わらないなあ」


 すっかり禿げてしまった中学の時の担任が笑う。時の流れとは残酷だ。


「四、五年前に一度結婚ブームが来たみたいだが、最近またチラホラと結婚する奴が出てきたみたいだな。どうだ? お前は」


「いやあ、僕はまだ」


 僕は曖昧に笑いながら綾瀬の姿を探した。しかし、そこには影も形もない。


「ところで、綾瀬は?」


 僕は周りに尋ねたが、誰も見ていないという。綾瀬と仲の良かった女子も尋ねてみる。


「さあ、ついこの間まではSNSに彼氏との仲の良さそうな写メ載せてたんだけど」


 小さな赤ん坊を抱いた同級生が答える。

 そうなのか。僕はネットやSNSは全くやらないから全然知らなかった。


 他の女たちも、お節介にも会話に割り込んでくる


「なんか、別れたって聞いたよ?」


「えぇっ? でも、八年も付き合ってたじゃない」


「彼氏が若い女に乗り換えたらしいよ。同じ会社の、入社したての女の子だって。あんなに長く付き合ってたのにね」


 綾瀬の噂話で盛り上がる店内。僕は何となく居づらくなって店を出た。


 店を出て、真っ直ぐに湖へと向かう。


 観光地と言えど、田舎の夜は暗く、辺りは静かで、ただ木々を揺らす風の音が心を震わせる。僕は複雑な気分で湖畔を歩いていた。


 綺麗な満月が水面を琥珀色に照らし、風を受けてゆらゆら揺れる。


 昼間は、透明度が高いので湖畔からでも、キラキラと魚が泳いでいる様子が良く見える。


 だけれども夜は、どこか不気味に黒い波が静かに揺れているのが見えるだけだ。


「ねえ、夜になると、お魚さんも眠っちゃうのかな?」


 幼い綾瀬が僕にそう問いかけたのをふいに思い出した。

 

 すると湖に向かってフラフラと歩いていく、白いワンピースの女性の姿が見えた。


 ――ゆ、幽霊!?


 僕は身構えたが、よく見ると、それは幽霊ではなく綾瀬だった。


 直感的に、僕は綾瀬が身投げをするんじゃないかと思った。慌てて走ると腕を引っ張る。


「綾瀬! 早まるな!」


 綾瀬はキョトンとした顔で僕の顔を見た。


「……え?」


「…………え?」


 綾瀬のその反応に、僕もまた面食らってしまう。


「早まるなって、何のこと?」


 小さく笑う綾瀬。


 聞けば、綾瀬は別に身投げをしようとしていた訳ではないらしい。


「じゃあ、何であんなところに」


「ただ、湖が綺麗だな、と思いながら水面を見てただけだよ」


 湖面を見つめる綾瀬の横顔。


「そしたら......何でだろうね。急に辰子姫の気持ちが痛いほど分かって、引き寄せられるように、フラフラとここに来ちゃったんだ」


 そう言って笑う綾瀬だったが、その目はうっすらと赤くなっていた。


 永遠の若さと美しさを望んで御百度参りをした辰子姫。龍になり、湖の底へと沈んだ悲劇のヒロイン。


 僕も、そんな辰子姫へと思いをはせた。


「――ねぇ、どうして私たちはいつまでも、同じままでは居られないんだろうね」


 綾瀬の目から、ぽろぽろと溢れ出す大粒の涙。綾瀬は慌てて涙を拭った。


「あれ? おかしいな。どうしてこんな――」


 だが、涙は止まらない。ポロポロ、ポロポロと綾瀬の白い頬に雫がつたう。


「どうしてだろうね。どうして人って変わってしまうのかな? ねぇ、永遠って無いのかな?」


 僕は思わず綾瀬を抱きしめた。


 綾瀬は僕の腕の中で、身を震わせいつまでも泣いていた。


 僕はかける言葉もなく、ただその背中を何度もさすってやるしかできなかった。


 湖に沈んでしまった辰子姫を助けるには、僕はあまりにも無力だった。


 ――ねぇ、永遠って無いのかな?


 金色の乙女は、キラキラと輝きながら、僕らを見つめていた。


      ◇



「ねぇ、辰子姫伝説には続きがあるって、知ってた?」


 湖畔をゆっくりと歩きながら綾瀬が尋ねる。青いインクを流し込んだような水面。新緑が水彩画のように揺れる。


「ああ、もちろん。八郎太郎の話だろ?」


 僕は答えた。


 永遠の若さと美しさを願うあまり龍になってしまった辰子姫。


 そんな辰子姫に恋をしてしまった人物がいる。それが辰子姫と同じ、元は人間だったのが、禁忌を破って龍神になってしまった八郎太郎。


 八郎潟に住むという八郎太郎は、毎年冬になると田沢湖に恋人の辰子姫を訪ねにくる。


 そのため二人が同居する田沢湖は愛の熱で凍る事がなくなったという。


 僕は浮木神社で引いたおみくじを、隣にある桜の木にしっかりと結びつけた。


 こうすることで、辰子姫と八郎太郎のように末永く幸せで居られると言われている。


「ほら、綾瀬も」


 僕はしわくちゃになった手をのほうへ伸ばす。


「……うん」


 少女のように赤くなって、はにかむ妻。

 その時僕の目に写っていたのは、しわくちゃに老いた綾瀬――のはずだった。


 しかし、そこにいたのは、若く美しいのあの日のままの綾瀬だった。


 あの夜、僕は綾瀬に告白した。


 すると綾瀬は今みたいに、少し赤くなって、美しい笑顔で笑ったのだ。


 僕の目には、あの日の綾瀬の姿がいつまでも焼き付いている。


 だからいくら年をとろうとも、僕の目に映る君は永遠にあの日のまま。


 空の青と、湖の青。辰子像が、陽の光を受けてキラキラと輝く。


 この田沢湖のきらめきのように、君はいつまでも美しい。永遠の、辰子姫だ。

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