Error【意味が分かると怖い話】
さくらもみじ
【何の変哲もないマンション】
光陰矢のごとし。
朝の時間というものは、通常のおよそ三倍の速度で流れ去るものだ。
滑り止めの適当な大学に通い出して、はや二ヶ月。
何となくひとり暮らしを始めてからというもの、わたしの
当然、寝過ごした際に雷を落としてくれる家族もいないため、惰眠をむさぼる機会は増える。
今日という日も例外ではない。
珍しく講義が二限からということで、完全に油断したまま、アラームもかけず二度寝してしまったのだ。
一時間ほど前の自分を呪いながら、わたしはバタバタと荷物をまとめる。
ろくに身だしなみも整えないまま、マンションの自室を飛び出した。
電車には、走ってぎりぎり間に合うかどうか。
ぞんざいな手つきで鍵をかけ、わたしはエレベータホールへ走る。
「お、ラッキー……っ!」
わたしの部屋がある三階で、エレベータは運よく止まってくれていた。
このマンションは四階建てのため、単純計算でも四分の一。
さらに、朝などは通勤通学に利用されるため、一階で止まっている確率が圧倒的に高い。
今日は可燃ごみの日だから、この階に住む主婦か誰かが利用したのだろう。
小さな幸運を噛み締めつつ、横に設置されたパネルの“降下”ボタンを押し、開きかけの扉に身体をねじ込んだ。
遅れてごみを出し忘れたことに気づくが、そんなことを気にしている余裕はない。
エレベータ内部のパネルは扉の左右両側についているため、右利きのわたしは、迷うことなく右手側のパネルを操作する。
素早く“一階”を選択したあと、意味もなく“閉じる”ボタンを連打した。
「あー、早く早く、遅刻しちゃう!」
一階に到着するやいなや、わたしは扉が完全に開くのも待たず、無理やり隙間をくぐり抜ける。
エントランスはエレベータホールから左へ進んだ先。
だが、そこでわたしは一瞬、決めポーズを取って右の方へ向きなおった。
目の前には、天井から床まで一面鏡張りの壁が設置されている。
本来は、建物の奥行きや開放感を演出するための機構なのだろうが、そんなことは関係ない。
わたしは講義に間に合うかどうかギリギリのとき、いつもここでファッションの最終チェックを済ませていた。
部屋の鏡で確認しない理由はたったひとつ。
何か問題があれば、その講義を諦めるための踏ん切りがつくためだ。
全方位に退路を用意するダメ学生の見本のような自分に、雀の涙ほどの罪悪感。
と、そんなことを考えている場合ではない。
化粧をしていない自分の顔が気分を
化粧は電車に乗っているあいだに済ませてしまおう。
左目の下にある自慢の泣きぼくろを指でつつくと、わたしは鏡に背を向け、エントランスへと駆け出した。
◆ ◆ ◆
――夕刻、帰路。
「もー、最悪っ!」
叫ぶように独りごちながら、わたしはマンションへの道を全力疾走していた。
最寄り駅を出てしばらく歩いたところで、突発的な豪雨に見舞われたのだ。
駅前に引き返して、雨が止むまでやり過ごそうかとも考えたが、距離的に中途半端だったため突っ切る方を選んでしまった。
思い返せば、大学構内で見かけた他の学生たちは、みな傘を持っていたように思う。
友人たちも、いつもはカフェテリアで小一時間
朝の天気予報を確認しそびれた自分を再び呪いながら、バケツを引っくり返したような豪雨の中を駆ける。
どうにかマンションへたどり着く頃には、すでに全身がずぶ濡れになっていた。
当然、ウォータープルーフの化粧品など使っているわけもなく、顔面はガタガタだろう。
部屋を出るときに慌てて履いた靴がスニーカーだったこと、それに、たまたま下着が透けるような服装でなかったことだけが、不幸中の幸いと呼べるかもしれない。
わたしは久しぶりに激しく脈打っている心臓を右手で押さえながら、ゆっくりと呼吸を整える。
「っは……っはぁ……ちょっと、太ったかな……」
高校時代は陸上部だったこともあり、この程度では息も上がらなかったのだが――。
運動不足には気をつけなければ。
寝て起きた頃には確実に忘れているであろう無意味な決意を固める。
何にせよ、このままマンションに入るのも気が引けた。
わたしは後ろで束ねていた髪をぎゅっと絞り、続いて服の
ガラス一枚を隔てたエントランスには誰もいない。
夕暮れどきにしてはあまりにも暗く、開放的な空間の放つ雰囲気は、逆にどこか不気味ですらある。
厚い雨雲が陽の光を遮っている上、まだ棟内の電灯が灯る時間には少し早いのだ。
雨が地面を叩く激しい音の他は、ときおり遠雷が大気を震わすのみで、心細さを感じるほどに静かだった。
「寒い……」
濡れて肌に張りついた服は、体温を急速に奪っていく。
わたしは手早くオートロックを解除すると、エントランスに踏み込んだ。
郵便受けを華麗にスルー。
薄暗い廊下を、自分の身体を抱くようにして歩き、まっすぐエレベータホールへ向かう。
このままでは風邪をひいてしまいそうだ。
早く自室に帰って熱いシャワーを浴びたい。
自然と小走りになり、エレベータホールへ駆け込んだ。
――そのとき。
左手、一面ガラス張りの窓から見える外の景色が、一瞬、見たこともないほどの白に包まれた。
続いて、鼓膜を貫くような轟音が響き渡り、視覚と聴覚が同時に奪われる。
近くに雷が落ちたのだと理解したときには、もう遅い。
驚いた拍子に、濡れた床で足を滑らせ、わたしは大きくバランスを崩した。
「ひゃわぁっ!?」
全身に鈍い痛みが走る。
なまじ勢いがついていたせいか、かなり盛大に転倒してしまったらしい。
飛びかけた意識をどうにか留めると、薄暗さを取り戻したエレベータホールで、床に突っ伏している自分がいた。
「ったたぁ……ついてないなぁ、もう」
幸い、壁などにはぶつからずに済んだようだ。
しかし、すぐ目の前に迫っていた一面の鏡で確認してみると、あちこちに
深い紫に変色した肘の部分など、シャワーを浴びるときには随分と痛みそうだ。
泣きそうになりながら起き上がると、わたしは辺りに散乱した
一刻も早く部屋に帰りたくて、すぐにエレベータ横のパネルから“上昇”のボタンを選んで押す。
朝と同じように、たまたま一階でエレベータが待機していたようで、すぐに目の前の扉が開いた。
ひどく薄暗いせいか、運がいいという感情よりも気味の悪さが勝ってしまう。
宙吊りされた大きな箱の中に入ると、わたしは身体じゅうの
しばらくすると、扉は自動で閉まり、続けて一瞬の重力が身体を包む。
目の前の扉が音を立てて開く。
「あ、あれ……?」
ボタンを押し間違えてしまったのだろうか。
パネル上部の階数表示板には、“五階”を示す文字が
それほど長く乗っていたようには思えないが、気が動転していたことで時間の感覚がおかしくなっているのかもしれない。
呆気に取られていると、扉はすぐに閉じ、再び緩やかな重力を感じる。
そこで、わたしはある事実に思い至り、にわかに全身の肌が
そう、このマンションは四階建て。
五階など、そもそも存在しない。
そして、さらに恐ろしいことは、このエレベータがまだ上昇を続けているという事実だった。
「やだ……な、何なの、これ……」
一体、このエレベータはどこへ向かっているのだろうか。
肌寒さで震えていたはずのわたしの身体が、いまは明確に別の理由――紛れもない恐怖で震えている。
階層表示板から目が離せずにいたわたしは、それが次なる文字に切り替わる瞬間を見逃さなかった。
「ちょっと、うそ……エラーって何よ……」
このエレベータは故障してしまったのだろうか。
それとも、わたしの目がどうにかなってしまったのだろうか。
表示されたのは――これまで見たことも聞いたこともない、“
ひどい耳鳴りに冷や汗、背中に氷を入れられたような悪寒。
エレベータは、この得体の知れない階層で停止するつもりなのか、再び軽い浮遊感がわたしを包んだ。
臓腑が
扉の開きゆく様子が、コマ送りのようにゆっくりと感じられた。
しん――と、静まり返った薄闇の空間が、扉の向こう側に広がっている。
ぽっかりと開いた扉は、まるで冥界へ通じる門のよう。
それでも、わけのわからないエレベータの中にいるよりは、何倍もマシに思えた。
「誰か……誰か、いないの?」
わたし以外の人を求め、いつの間にか、身体は勝手に駆け出していた。
しかし、エレベータの外にも人の気配はない。
言いようのない不安で胸が張り裂けそうだった。
このマンションが四階建てというのは何かの勘違いだったかもしれないと、何度も自分に言い聞かせる。
さきほど止まったのが五階なのだとすれば、ここは六階。
エラーの表示は、たまたま階層表示板が故障しただけ。
たったそれだけのこと。
そうだ、そうに違いない。
小学生の男の子のように、一段飛ばしで階段を駆け下りる。
部屋に帰ったらシャワーを浴びて、テレビをつけて、友達に電話して、何でもない日常に帰ろう。
努めて未来のことだけを頭に思い描く。
しかし――。
わたしが二階分の階段を降りると、その先に階段は続いていなかった。
あと一階層下りなければ、わたしの部屋にはたどり着けないというのに――。
「やだ……やだやだやだ……」
その現実から目を背けようと、わたしは必死になって首を振る。
だが、階段が下へ続いていないということは。
ここが一階であるという事実だけは、どうにも
ひとつの憶測が脳裏をかすめる。
わたしはそのおぞましさから逃げるように、エレベータホールへと駆け出した。
そこには一面鏡張りの壁がある。
薄暗さに拍車のかかった棟内。
向こうから、半泣きの自分が駆け寄ってくる。
鏡の正面に立つと、わたしは我慢できずに叫んだ。
「出してよ! そっちはわたしの世界なんだから!」
鏡の向こうのわたしは、それを聞くと、我慢できずにといった様子で口の端を
わたしは間違っても微笑んだりなどしていない。
では、向こう側のわたしは一体何者なのか。
鏡を叩くわたしの動きを、彼女は最早、真似しようとさえしていなかった。
すぐに現実が追いついてくる。
もう、目を背けられそうもない。
右目の下にある泣きぼくろを指でつついて。
鏡の向こうのわたしはこちらに背を向けると、どこへともなく歩いていってしまった。
【了】
――解答はタグの四つ目に忍ばせてあります。
確認されるかどうかは、ご自身でご判断ください。
Error【意味が分かると怖い話】 さくらもみじ @sakura-momiji
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