ホテル・ヒルベルト【ミステリマニア向け】

さくらもみじ

【無限の客室】


 いらっしゃいませ。

 ホテル・ヒルベルトへようこそ。

 二名様ですね。

 たいへん恐縮ではございますが、当ホテルは現在満室となっております。

 ご宿泊をご希望ですか?

 少々お待ちください、ただいま手配いたします。

 え、あ、はい。

 どうして満室なのにお部屋の手配ができるのか、と仰いますか。

 ごもっともなご質問でございます。

 いいえ、すぐにチェックアウトなさるご予定のお客様はいらっしゃいません。

 ここから離れた別棟に移っていただく、ということもございませんので、ご安心ください。

 なぜなら当ホテルはを備えた、世界で唯一のホテルなのでございます。

 はい、ただいまお部屋を確保いたしました。

 たいへん長らくお待たせいたしまして、まことに申し訳ございません。

 お荷物はそちらへどうぞ、すぐにお部屋までお持ちいたしますので。

 こちらがお部屋の電子キーでございます。

 お部屋番号は“〇〇一”、あちらに見えます階段を降りてすぐのお部屋です。

 ご用の際は、お部屋に備えつけの内線をご利用ください。

 なに、絡繰からくりいただく際、すぐにご理解いただけますよ。

 では、ごゆっくりどうぞ。


 ◆ ◆ ◆


 部屋に入るなり、わたしは途方もない疲労感に襲われた。

 いったい何なのだろう、この妙ちくりんなホテルは。

 と一緒に旅をするようになってから、こんなことばかりではないか。

 今日は久しぶりにまともな宿に泊まることができると思ったら、まったくの期待はずれである。

 当の相方はといえば、部屋の奥の小さな丸いガラステーブルに書物を広げると、柔らかそうなベージュのソファに腰かけて、早々とくつろぎ始めてしまった。

 いつの間にかアメニティの紅茶まで淹れていたらしく、書物の横には湯気の立ち上るカップが見える。

 まったく、慣れたものだ。

 わたしは溜め息をつきながら、ふと内装を見渡した。

 部屋は決して狭くはない。

 全体に柔らかな暖色の照明が行き届いており、安らぎの空間が演出されている。

 しかし、わたしの気持ちは一向に晴れる気配がない。

 ふたつ並んだベッドのうち、入口から近い方へ、わたしは崩れるように腰かけた。

「ねえ」

 相方に声をかけるも、返事はない。

 彼女は必要最小限の受け答え以外、基本的に請け合ってくれないのだ。

「どういうことなのよ、ここ」

 答えが返ってこないと知りつつ、問わずにはいられない。

 無限の客室。

 あの慇懃いんぎんなドアマンは、確かにそう言っていた。

 この際、もう“無限”という単語の現実味のなさには目をつむろう。

 相方との旅を続けるかぎり、こんな非日常は日常茶飯事なのだから。

 しかし、仮にこのホテルが本当に無限の客室を備えていたとして、果たして“満室”の状態から部屋を空けることなどできるのだろうか。

 大学二年生になる今年まで、すべて文系で通してきた筋金入りの“非”数学脳を持つわたしにとって、にわかには考えがたいことだった。

 本のページを繰る単調な音だけが部屋に響きわたる。

 相方は重度の猫舌のため、しばらくは紅茶に口をつけられないのだ。

 再び大きな溜め息をつくと、わたしは相方から情報を聞き出すことを諦め、熱いシャワーでも浴びようと立ち上がった。

 それとほぼ同時に、部屋のドアがノックされる。

 先ほどフロントに預けた荷物を運んできてくれたのだろう。

 わたしは念のためにチェーンをかけ、ドアを数センチ押し開けた。

 愛想の塊のような笑顔が隙間から覗く。

「お荷物をお持ちいたしました。よろしければ、ドアを開けていただけますでしょうか」

 わたしはこくりとうなずくと、いちどドアを閉め、チェーンを外して再び押し開いた。

「どうぞ」

 我ながら素っ気ない応対。

 申し訳ないが、いまのわたしはひどく疲れている。

 これくらいの無愛想は許してほしいところだった。

 しかし、目の前のベルボーイは、なぜか荷物を室内に運び込もうとしない。

 その代わり、ひどく言いづらそうに再び口を開いた。

「あの、大変申し訳ないのですが、お部屋を移っていただくことは可能でしょうか」

「は……?」

 わたしは呆気に取られ、しばし放心してしまった。

「実は、また新規のお客様が見えたものでして。当ホテルは無限の客室を所有しておりますゆえ、どれだけ多くのお客様にもお泊まりいただくことが可能となっております。ですが、それには皆様のご協力が不可欠なのでございます」

 わたしたちの協力が不可欠?

 どういうことだろう。

「いいよ」

 わたしが返事に困っていると、部屋の奥から声が響いた――相方だ。

 滅多に喋らない割に、彼女はよく通る声をしている。

「ありがとうございます、助かりました。では、こちらがお隣の“〇〇二”号室のキーでございまして、“〇〇一”号室のキーと交換になります。わたくしはこちらに待機しておりますので、準備が整いましたらお声がけください」

「もう大丈夫」

 見ると、わたしのすぐ後ろには、既に支度を済ませた相方が立っていた。

 驚くほど行動が早い。

 音もなく移動するのは、心臓に悪いため勘弁してほしいものだ。

「紅茶は?」

 わたしは目まぐるしい展開に動転しているのか、間の抜けた質問を投げる。

 隣の部屋で淹れなおせばいい、と相方の目が語っていた。

「では、鍵を交換いたしましょう。お隣のお客様は既にお部屋を出られたようですので、すぐにお入りいただけます」

 言って、ベルボーイは隣の部屋へ荷物を運んでゆく。

 マスターキーを持っているのか、勝手にドアを開けて部屋の入り口まで運び入れてしまったようだ。

「では、ごゆっくり」

 深々と礼をして、彼は足早に去っていった。

 ごゆっくりと言われても、こんな状況で落ち着くことなどできるわけがない。

 この調子で、新規の宿泊客がやってくるたびに、部屋を移動させられることになるのだろう。

 それに、どういった理屈でわたしたちが部屋を移動せねばならないのか、まださっぱり理解できていない。

 さすがの相方もわたしの困惑を悟ったのか、その重い口を開く。

「n+1」

 意味不明だった。

 彼女の助け船は往々にして、まったく助け舟にならない。

「もうちょっと噛み砕いてくれないと分かんないよ」

 わたしは涙ながらに訴える。

 数式など、できれば見たくもないほどに苦手なのだ。

 式の中に英字が入っているだけで寒気がする。

 そんなわたしを見て、相方は目をつむり、小さく嘆息した。

「新規の客が一組きたら、“〇〇一”号室の客を“〇〇二”号室、“〇〇二”号室の客を“〇〇三”号室、“〇〇三”号室の客を“〇〇四”号室、“n”号室の客を“n+1”号室へと順番に移すの。客室は無限にあるのだから誰もあぶれない。新規の客は“〇〇一”号室に案内される。私たちがそうだったように」

「何よそれ。新しいお客さんを、いちばん端の部屋の人たちが移動する部屋に案内するんじゃ駄目なの?」

「駄目に決まっているじゃない。このホテル、なんだから」

「うーん……」

 文系のわたしの直観には大いに反することだったが、相方が言うならそうなのだろう。

 “こちら側”に迷い込んでからというもの、彼女の言うことが間違っていた試しなんて、ただの一度もないのだから。

「ねえ、どうしてそんなに詳しいの? ここ……きたこと、ないんだよね」

「このホテルの名前、“ヒルベルト”だから」

 彼女はぽつりと、そう呟くだけだった。

 真意はわからないが、とにかく隣の部屋へ行かなくては始まらない。

 すぐ隣の“〇〇二”号室に入ると、今度はわたしが奥へ先行する。

 まがりなりにも説明してくれた相方に、せめて紅茶を淹れようと思ったのだ。

 ポットの中身を確かめる。

 幸いなことに、お湯の残量はほぼ減っていなかった。

 アメニティの場所を確認しようとした、そのとき。

 わたしは見てはいけないものを見てしまった。

 鏡越しだが、あれは確実に――。

「う、嘘……」

 身体が動かない。

 言うことを聞かない。

 部屋の奥側のベッドの、さらに向こう側。

 カーテンの下に位置する場所。

 そこに横たわっているのは。

 顔を真っ青に染め上げた、明らかな絞殺死体だった。


 ◆ ◆ ◆


 声を出すこともできず、わたしは立ち尽くした。

 見たくもないのに視線を逸らすことができない。

 首に巻きついた長い縄のようなもの。

 無数の吉川線。

 不自然に飛び出した眼球と舌。

 吐き気がする。

 様子がおかしいことに気づいたのか、相方がこちらへ寄ってきた。

 死体を見ると、彼女は何も言わずに脈を測る。

 そしてこちらを振り返ると、目を伏せて首を左右に振った。

 わたしは訳もわからず涙が出た。

「……フロントに連絡しようよ」

「駄目。この部屋はオートロック。もともとこの人がひとりで宿泊していたのだとしたら、最も怪しいのは私たち」

 そうだ。

 この様子では、亡くなってから長い時間は経過していない。

 怪しまれる可能性は充分にある。

「また、密室だもの」

 ぽつりと相方は呟いた。

 実のところ、こういった事態に巻き込まれるのは初めてではない。

 旅の道中、幾度か似たような目に遭っている。

 わたしは、なぜか毎度のように第一発見者となり、痛くもない腹を探られてきた。

 “こちら側”の人々は人格が破綻しているケースが非常に多く、彼らにとってみれば、動機がないことは人を殺さない理由にはならないのである。

 どうせ怪しまれるなら、できるだけ悪あがきをしてから怪しまれたい。

 泣いている場合ではないのだ。

 涙をぬぐう。

 あわよくば、真犯人をあぶり出してしまいたいところだ。

 わたしが目で訴えると、相方は微かにうなずき、部屋の入口の方へと向かった。

 こういうとき、相方は本当に心強い。

 わたしは亡骸に手を合わせ、足早に彼女の後を追った。


 ◆ ◆ ◆


 部屋を出ると、誰もいない廊下が左の方向に延々と伸びている。

 しかし、右に少し進んで“〇〇一”号室の前を通りすぎ、階段を上れば、そこはもうフロントだ。

 不審な挙動はなるべくつつしみたいところである。

 相方は迷うことなく左に進み、隣の部屋の扉をノックした。

 客は全員“n+1”号室に移動したはずなのだから、あの人がもし殺されていなければ、本来はここへやってくるはずだったことになる。

 予想はしていたが、やはり返事がない。

 この場合、考えられる可能性はふたつ。

 本当に部屋の中には誰もおらず、あの死体が単身客だった場合。

 相部屋していた別の人間――おそらく真犯人が、居留守を決め込んでいる場合。

 しかし、マスターキーを持っていないわたしたちでは、どちらかに絞り込むことはできそうもない。

 早くも八方ふさがりだ。

 と、そのとき、階上から足音が聞こえた。

 わたしと相方は急いで自室に戻ると、覗き窓を注視する。

 二人で覗くにはかなり窮屈だが、背に腹は代えられない。

「あ、あの人」

 部屋の前を通過したのは、先ほどわたしたちに部屋の移動を催促したベルボーイだった。

 この部屋を素通りしたところを見ると、今度は別の用件で下りてきたようである。

「……引き留めておいて」

「え?」

 相方は突然部屋のドアを開け、わたしの背中を押した。

 いきなりのことに対応しきれず、わたしは足をもつれさせる。

「わたた……っ、もう! もう少し優しくしてくれてもいいのにっ」

「おや、どうなさいました?」

 体勢を立て直すと、こちらをいぶかしげに窺うベルボーイと目が合った。

 考える暇もない。

 相方が部屋の中で何をしているのか知らないが、彼女が目的を果たすまで、どうにか足止めをしなくては。

 相方のことだから、無駄な要求は絶対にしないはず。

 わたしはその点において、彼女を全面的に信頼していた。

 気取けどられないように深呼吸。

 大丈夫、幾度となく修羅場をくぐり抜けてきたわたしなら、きっとできる。

「え、えっと。あの。あ、あはは。いいお天気です、ねぇ……」

 ――駄目だ。

 最高に怪しいやつになってしまった。

 不審がられているのが、相手の引きつった笑顔越しにはっきり伝わってくる。

 ごめんなさいごめんなさい。

 は、早く助けて。

 と、そのとき。

 後ろのドアが開き、相方が廊下に出てきた。

 どうにか間に合ったようである。

「これ、前の人の忘れ物です。直接届けようと隣の部屋を訪ねたのですが、出られませんでしたので」

 そう言って、彼女は無骨な男物の腕時計を差し出した。

 例の死体から取り外したのだろうか、相変わらずの精神力である。

「お隣? ああ、“〇〇三”号室は現在ですよ。フロントでお待ちのお客様が、すぐに入室されますけれどね。お恥かしい話ですが、ただいま準備に手間取っておりまして。お忘れ物はわたくしが届けておきますので、預からせていただきます」

 隣が空室――?

 ベルボーイは意外な言葉を口にした。

 どういうことだろうか。

 彼は死体のことを知らないはずだから、最低ひとりは隣の部屋に人がいると思っていなくては辻褄つじつまが合わない。

 しかも、フロントから新たな客がやってくるとも言っていた。

 相方の言っていたことを信じるなら、これは明らかに妙だ。

 もしや、このベルボーイが真犯人で、わたしたちの荷物を“〇〇二”号室に運び入れた際に殺害したのだろうか。

 それを隠蔽いんぺいするために嘘をついているという可能性は――。

 いや、あり得ないだろう。

 あの短時間で、大の大人ひとりを絞め殺せるわけがない。

 ますます謎は深まるばかりだった。

「では、失礼いたします。腕時計こちらの件、ありがとうございました」

 ベルボーイは腕時計を丁重にポケットへしまうと、廊下の向こうへ歩いていってしまった。

 そして、“〇〇五”号室の辺りで立ち止まり、ドアをノックする。

「ルームサービスです。ご用件を伺いに参りました」

 これ以上は見ていても実りはなさそうだ。

 振り出しに戻ってしまったか。

 わたしが溜め息を吐いた、そのとき。

「へえ」

 相方が笑った。

「う、嘘……?」

 わたしは驚きを隠せない。

 これは彼女が真相に至ったときにのみ見せる、唯一にして無二の表情なのだから。


 ◆ ◆ ◆


「もう解けちゃったの? ね、ねえ、どういうこと?」

 にわかには信じられなかった。

 あの密室のトリックが、この短時間で。

 伺いを立ててみたものの、相方は一向に返事をくれない。

 先ほどは少しだけ持ち上げられた口の端も、いまは真一文字に結び直されている。

 わたしが知るかぎり、虚構も現実もひっくるめて、最も寡黙な探偵役だった。

 そもそも、謎が解けたときのリアクションが「へえ」だけだなんて、あまりにもあんまりだ。

 相方がなぜかわたしたちの部屋――“〇〇二”号室の扉に背中を預けてしまったので、わたしも真似をして隣に寄りかかる。

 彼女は滅多に喋りこそしないが、特別、意地悪な性格というわけではない。

 謎が解ければ、限りなく無駄を省いた言葉で説明してくれる。

 まだ黙しているということは、きっと確証に欠けるのだろう。

 ここでこうして何かを待つことにも、必ず意味があるはずだ。

 しばらくすると、“〇〇五”号室から、先ほどのベルボーイが慌てた様子で飛び出してきた。

 わたしたちを見ると、気まずそうに一礼をして、足早に通りすぎようとする。

 しかし、相方がそれを許さなかった。

「質問があります」

 落ち着きを保ちながらも張りのある声。

 聞こえなかった、では到底済まされそうもない。

 ベルボーイもそう思ったのか、足を止め、渋々といった様子でこちらへ振り返った。

「申し訳ございません、いまは火急の用がございます。すぐに戻りますので……」

「簡単な質問がふたつだけですから、大人しく答えられた方が早いかと」

 有無を言わさぬ相方の眼光に、ベルボーイは怖気おじけづいた様子である。

 本当に、彼女が味方でよかったと思う瞬間だった。

「ひとつ。先刻やってきたという、フロントで待機している新規の客は“何名”ですか」

 安心した矢先、わたしは一転して不安に襲われた。

 そんなことを聞いてどうするのだろう。

 そもそも、わたしたちが移動したのは“〇〇一”号室から“〇〇二”号室までの一部屋だけだ。

 このホテルは基本的に二人部屋で構成されているようだから、普通に考えれば一人か二人という結論に絞られるのではないだろうか。

 しかし、ベルボーイから返ってきた言葉は、わたしの想像を遥かに超えていた。

「それがですね。ここだけの話になりますが、実は様なのですよ。当ホテルといたしましても、そうそう巡り合うことのない事態でして。恥ずかしながら、こうして対応に追われている次第なのです」

 無限名――?

 いったい何なのだ、それは。

 あまりの途方のなさに、わたしは思考を放棄しかけた。

「なるほど。では、ふたつ目の質問です――」

 相方は顔色ひとつ変えていない。

 果たして予想通りだったのだろうか、それともその逆か。

 彼女は常にポーカーフェイスのため、心のうちがまるで計り知れなかった。

「――用件は、でしたか」

「な、なに言ってるの!」

 わたしは条件反射的に会話へ割って入った。

 事件に関することは、まだ明るみにするわけには――と考えたところで、先ほど相方が笑ったという事実が脳裏をよぎる。

「……見てしまわれたのですね」

 ベルボーイの表情が険しいものに塗り替えられた。

 間違いなく死体のことを言っているのだろう。

 やはり、彼が犯人だったのだ。

 密室の謎はマスターキーで説明できる――というか、密室でも謎でもなくなってしまう。

 さらに、今さらになって気づいたことだが、殺害のタイミングは荷物を運び入れたときである必要はない。

 それより前にいくらでもチャンスはあったはずだ。

 そして、真犯人に死体を見たことが知られてしまったいま、わたしたちはとても危険な状況に置かれているはずだ。

 ――逃げなくては。

 だが、金縛りに遭ったように足が動かない。

 ベルボーイはじりじりと詰め寄ってくる。

 万事休す、か。

「――申し訳ございませんでした!」

 わたしがすべてを諦めかけたとき、突然、ベルボーイが頭を下げた。

「へ?」

 意味がわからなすぎて、開いた口がふさがらない。

「部屋の設備が新品同様に綺麗だったので、奥まできっちり点検していなかったのです。先ほど“〇〇五”号室のお客様が、『“〇〇二”号室で、ついカッとなって同室の人間を殺してしまった』と仰られたときは、目の前が真っ暗になりました」

 ベルボーイは、究めてばつの悪そうな顔で説明を続ける。

「貴女様方おふたりが、まだご遺体を発見していらっしゃらないことを願いつつ、まずは取り急ぎフロントに連絡しようと思ったのですが――遅かったようです、ね」

 つまり、こういうことだろうか。

 真犯人は“〇〇五”号室の人間で、“〇〇二”号室から“〇〇五”号室へ移動する直前に同室の者を絞殺したが、“〇〇二”号室の簡易清掃に入ったベルボーイは、あろうことか死体を見落としたままで、部屋の掃除を適当に済ませてしまった、と。

「言い訳などいたしようもございません。が、詳しい話はそちらのお嬢様がご存じのご様子ですから、わたくしはひとまずフロントへ連絡に参ります。すぐに代理の部屋を用意いたしますので、いましばらくお待ちを……」

 早口に言い終えると、ベルボーイは重い足取りで階段を上っていってしまった。

「つまり、謎なんて最初からなかったの?」

 相方は無言でうなずく。

「密室でも何でもなかったわけ?」

 再びうなずく彼女。

「なーんだ、恐かったぁ。取り越し苦労だったのかぁ」

 わたしは行儀が悪いと知りつつも、今日一番の巨大な溜め息とともに、その場へ崩折くずおれた。

「でも、これだけはわかんない。わたしたちが“〇〇一”号室から“〇〇二”号室に一部屋ぶんだけ移らされたのに、どうして“〇〇二”号室の人たちが入るはずの“〇〇三”号室が空いていて、三部屋ぶんも離れた“〇〇五”号室なんかに移ってたわけ?」

「n^2+1」

「えぬのにじょう、ぷらすいち?」

「nに“〇〇一”を代入すると“〇〇二”。“〇〇二”を代入すると“〇〇五”」

「あっ! な、なるほど……でも、なんでそんな数式だってわかったの?」

「最初は勘。あのベルボーイが“〇〇五”号室に入っていったから、もしやと思って。確信を得たのは、フロントで待機している客の数が無限だと知ったとき。満室のホテルに無限の人間を新たに収容するためには、無限個の空き部屋を確保しなくてはならないから」

「え、ええ……? そんなことで、無限個の空き部屋なんて作れちゃうわけ?」

 相方はもう、うなずきすらしなかった。

 既に説明は終わったということなのだろう。

「どうする? ここで大人しく待つ?」

 珍しく相方から尋ねてきた。

 ということは、この質問は彼女にとって重要なことなのだろう。

 確かに、こんな場所で宿泊を続けるのは賢い選択とは言えないかもしれない。

「ううん、いいや。ここはもうりごり。野宿でもした方がまだマシだよ」

 本音を言えば、シャワーくらい浴びておきたかったところだが、一刻も早く離れたい気持ちが勝ってしまった。

 こうして、相方との何度目になる正念場は、どうにか幕を引くこととなる。

 温かいシャワーは次の宿に期待するとして、すぐにここを出よう。

 “こちら側”は底が知れない。

 もしかしたら、すぐ近くに、無限の湯船を持つ温泉があるかもしれないのだから。


 【了】

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ホテル・ヒルベルト【ミステリマニア向け】 さくらもみじ @sakura-momiji

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