自殺の権利

雪瀬ひうろ

第1話

「あなたはなぜ僕の自殺を止めるのですか?」

 男はフェンスの向こう側で、必死の形相した見知らぬ女性に向かって言う。

「理由なんてないですよ!」

 女はフェンスに掴みかかり男を睨む。男は確かにこの女性と初対面のはずなのに、彼女の表情はいつかどこかで見た性質のものだと感じた。

「目の前でビルから飛び降りて死のうとしている人がいるのに、素通りできる人間なんて居るはずないでしょう!」

 高層ビルの屋上はいつも強い風が吹いている。今、この瞬間も男と女の間には、渦巻くような風が轟々と吹き荒れている。

 沈みかけた太陽は世界を薄暮に変える。もうすぐ、一日が終わる。男にとっての最後の一日が。

「僕なら放っておきますよ」

 女は一瞬、鼻白んだ。男の冷たい言葉に驚いたからではない。そんな冷徹な言葉を語る男の様子が、まるで幼子見守る親のように穏やかだったからだ。

「……あなたは本当に自殺志願者?」

 女は唐突にこの状況に対する懐疑を抱く。ビルの屋上、それも安全柵の向こう側に立ち、街を見下ろす男。そんな男の背中を見て、思わず女は男に駆け寄った。彼が死のうとしているとしか思えない状況だったからだ。しかし、今の彼の澄んだ瞳を見ているとすべてが自分の勘違いだったのではないかと思い始める。

 だが、男は首を横に振りながら言う。

「いえ、僕は間違いなく自殺志願者ですよ。少なくとも社会一般の定義に照らし合わせれば間違いなく自殺志願者です」

 男のそんな物言いに女は一層混乱する。

「……とてもそうは見えない」

「それは……」

 男が口を開いた瞬間、男の柔らかな表情はほんの少し固いものへと変わる。

「それはあなたの思う自殺志願者像を勝手に当てはめているだけですよね」

 女は思わず息を呑んだ。

 男は淡々とした口調で言う。

「自殺志願者は酷い表情をしているはずだ、話を聞いてあげれば泣いて喜ぶはずだ、そんな風に思っているんじゃないですか」

「そんなこと……」

 そんなことはない。そうはっきりと宣言したかった。しかし、目に見えない何かが彼女の言葉を押し止めた。その何かは確かに自分自身の胸の中にある。

 男は話を続ける。

「別にあなたを責めるつもりはありません。あなたは間違いなく『いい人』なんだと思います。ただ、解ってほしいのは、『いい人』がすべての人にとっての幸いになるわけではないということです」

 女は男の言わんとしていることが理解できなかった。しかし、何かその一端のようなものを漠然と感じとることはできた。だが、その何かの欠片に、女は言葉という器を与えてやることはできなかった。


 男は考える。なぜ、自分はこの見知らぬ女性と対話しているのだろう、と。男は女を無視して空を舞い、文字通り新たな世界への一歩を踏み出してしまえばいいはずなのだ。しかし、それをしないのはなぜだろう。

 思索は男を無意識の海へと連れていく。形を持たない奔流が男の魂を弄ぶ。冷たい海の底で男は空を見上げる。海の底は浅い。

 結局、男は結論を出さなかった。ただ、男は女と話さねばならない、そう思ったから、そうする。そこに理由はない。ただ一つ言えることは男は女に自死を選ぶ自分を憐れんでほしいわけではないということだ。それは自分にとって最大の侮辱であったのだから。

「なぜ、僕の自殺を止めるんですか」

 男は女に問う。

「自殺しようとしている人を止めない人はいないわ」

「その理由はなんですか?」

「理由って……」

「『みんなが自殺を止めるから止める』。みんながやっていることなら何をしてもいいんですか?」

 女は男の言葉に押されながら呟く。

「そんなの小学生の屁理屈だわ……」

 男は言う。

「なら小学生が相手だと思って答えてください。なぜ、人は自殺をしてはいけないんですか?」

 女はまた息を呑むことになった。男が不思議な瞳を女に見せたからだ。男の瞳は確かに穏やかに澄んでいた。しかし、その色は闇のそれと同等だった。男の瞳は確かに美しい闇を湛えていたのだ。

 女は慎重に言葉を選ぼうとする。そんな女の様子を見かねたのか、男は言う。

「ああ。大丈夫ですよ。あなたの解答いかんで死ぬかどうかを決めようとしているわけではありません。僕の死は規定路線です。今更、それが変更されることはありません。ただ、この世界を去る最後の戯れにあなたと対話を試みているだけです」

 男はこのように語りながら自分自身の言葉に首肯してもいた。口にしたことで自分の心内が整理されたのだ。

「だから、あなたがなんて答えようと僕は死にますので、あまり気負わずに答えてください。アンケートのようなものだと思って」

「……ふざけないでよ」

「ごく真剣ですが」

 女は男を強く睨む。男は漠然と考える。女の表情は先程、自分に話しかけた瞬間のときから変わっていないように見えて、その内実ははっきりと変化している、と。彼女は自分にとって、もう単なる『いい人』ではなくなったのだな、男はそんな風に考えた。


「なんで死んではいけないのか、だっけ……?」

 女はどこか不思議な気分に浸っていた。女は確かに憤っていた。自殺志願者を止めようという純然たる好意で男に声をかけたにもかかわらず、「なぜ自殺してはいけないのか」などという子供じみた問いかけで、自分を煙に巻こうとする男。女は、それに対して怒りを覚えないほど、人間ができているわけではなかった。

 だが、女は同時に不可思議な高揚感が自分の鼻先に横たわっていることを認めずにいることはできなかった。女はどこか性的倒錯にも似た悦びをこの会話の中に見出だしていたのだ。

「死んだら悲しむ人間がいるから、で、どうかしら」

 女の言葉に男はゆっくりと首を振る。

「そんな人はいません。少なくとも僕には」

 女はフェンスを掴む指先に力を込めながら言う。

「解らないわよ。もしかしたら、世界中のどこかにはあなたの死を悲しむ人がいるかもしれない」

 古びて錆びかけたフェンスはぎりと小さな音を立てた。

「いないかもしれません」

「なら、目の前にいる私が悲しむかもしれない。少なくとも目の前で人に死なれて気分がいい人間はあまりいないわ」

「なるほど」

 男は今度はゆっくりと首を縦に振る。

「ですが、僕とあなたは少なくとも他人です。他人の都合をすべて慮ることなどできません。あなたは他人である僕に『不快なので呼吸をしないでください』と言われたら、僕の意見を尊重して呼吸をやめてくれますか?」

「……詭弁」

「詭弁ですね。ですが、あなたが僕の自死を止めることと、なんら変わりはないでしょう」

 男は続ける。

「僕は人には死ぬ権利があると思います。だから、僕は死のうと思うんです。理由は死にたいからです」

「そんな理由で納得できるはずない」

「なら、僕が学校で酷いいじめにあっていると言えば自殺を認めますか? 親から酷い虐待を受けていると言えば認めますか? 僕の命は長くなくて今も病気の痛みで苦しみを味わい続けている、と言えば?」

 女は何も答えられない。

「僕はね。人間にはどんなことでもする権利があると思うんです。人の自殺を止めたければ止めればいい。人を殺したければ殺せばいい。自殺したければすればいい……ただ、それ相応の報いを受ける覚悟さえあれば」

 女はもう何も言えない。先程まであった不可思議な高揚感もいつの間にか萎んでしまっている。ただ、この場から早く逃げ出したい。今となっては女の望みはそれだけだった。

「だから、僕は死を選びます。僕自身の自死の権利を行使して」

 それだけ言って男は向かい合っていた女に背を向ける。そして、彼を冥府へと連れていく虚空へと目を向ける。

 その瞬間、男の胸には祝福が溢れていた。まるで、この世界に生を受け、愛のもとに母親に抱かれたそのときと同等の喜びが男の心を満たしていた。それは男がこの世界で得た数少ない喜びの一つだった。

 女もまた男に背を向けていた。強くフェンスを掴んでいた指先が少しだけ痺れていた。男が最後の一歩を踏み出す前に女はこの場を去ろうと決意していた。

 二人の間に存在するフェンスが強い風に煽られ、ぎしりと音を立てた。

 女は最後の問いかけを男に行う。

「人は何のために生まれてくるのだと思う?」

 女は本当はそんなことが聞きたかったわけではなかった。だが、なぜか女はそんな問いを男に投げた。その理由を女は、自分自身のことでありながら、死ぬまで理解できなかった。

 男は女の思いをよそに男は答えた。

「自由になるためじゃないですかね」

 男はもう振り返らなかった。女がすぐ後ろに居るのか、あるいはこの場を去ったのか、それすらもうどうでもよかった。ただ、女の暖かな瞳が冷たい何かに変わった一瞬をもう一度だけ脳裏に浮かべて、男は女のことを忘れた。

 そして、男は最後の一歩を踏み出す。それは幸せな一歩だった。祝福された未来に至る輝かしい一歩だった。ああ、いったい誰がこの瞬間の自分を否定できるものか。男の頬を熱い涙がゆっくりと伝った。

 男の涙は天へと帰り、男は涙を残して新たな世界へと落ちていく。

 そうか、涙は空へ還るんだ。それが男の最後の思考だった。

 だが、それは男の勘違いだった。

 涙はただその場にとどまっただけだ。ただ、自分が落ちていたから、残してきた涙が、あたかも空を舞ったかのように錯覚しただけだ。それが決して天に届いたはずがない。男は何一つ成し遂げたわけではない。

 しかし、男はその幸せな勘違い包まれたままこの醜い世界を去った。男は確かに幸せだった。


 人が生きることに理由はない。同様に死ぬことにも理由はない。人は生まれて生きて死んでいく。ただ、それだけなのだ。

 男はただ自殺の権利を行使しただけだ。それを誰が責められるだろうか。いや、責められる人間は居る。それは彼の死骸を始末する羽目になる人間たちだ。そして、彼の死を目撃し、何らかの不快を抱いた者たちだ。彼らには確かに彼の死を批難する権利がある。

 だが、彼に何の関わりも持たなかった人間が、彼の死を批難することは正しいことなのだろうか。それはきっと誰にも解らないことなのだろう。

 男は死を望み、死を選んだ。

 それだけが厳然たる事実として、今、この場所に残っている。

                                   〈了〉

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