今夜しその実の醤油漬けが食べ頃になる

こまち たなだ

鴛鴦

 彼女が店主を務める古書店は、商店街の外れにひっそりと建っている。踏み固められた土の上に建つ煉瓦造りの店舗で、色とりどりの花々に小鳥が飛ぶステンドグラスや、扉にオレンジ色の灯りを落とす乳白色のランプなど、古くも品の良い物ばかりが集められ作られた、小ぢんまりした店だ。

 “他のどこにもない、たった一冊を売っています”

 飴色の扉に掛けられた、ブラックボードに記された一文をひっくり返し、closedの文字にした女性――れんは、扉を施錠すると、ショルダーバッグを肩に掛けて、日傘をさした。

 早朝の商店街を足早に歩く彼女は、小学五年までを過ごしたこの町に戻ってから、ある男のもとへ出掛けるのが日課だ。蓮が店に置いている本の殆どは、彼から買い取っている。

 彼が住む家は、町外れの小高い丘の上にあり、良く手入れされた柊木犀の生垣が目印だ。甘い香りを放つ、白い花を付けた生垣を通り過ぎた蓮は、レースの日傘を畳むと門柱の呼び鈴を押した。

 朝から天気の良い日だった。たまに吹く風は冷たいのに陽射しが強く、涼しげだと揶揄されるつり目がちの一重瞼にも、額からの汗が滴り落ちていく。ハンカチで長い睫毛から汗をぬぐい去り、蓮は二回目の呼び鈴を押す。だが案の定、家主はまだ寝ているらしい。三回目の呼び鈴を鳴らしても応答がない。溜息を吐いた彼女は、格子戸を開けて鈴虫が鳴く苔生した前庭へ入った。赤や黄に紅葉した楓が作る木陰はひんやりと涼しく、園路の飛び石が僅かに濡れている。

 中庭へ回り、つくばいの真横の濡れ縁を覗いたが、今朝はそこに男の姿は無い。今までは涼を求めて座布団を抱えてそこで寝転んでいたのだが、今日は板張りの縁側のガラス戸も、しっかり閉じられている。玄関へ戻った蓮は革のカバンから合鍵を取り出し、磨りガラスの引戸の鍵穴に差し込んだ。蓮が入って来る事を考えていたのか、内側の捻締錠は掛けられていない。

 たたきにベージュのパンプスを脱いで揃え、蓮は家の主を探すのを早々に諦めると、仕事を始めるために台所へ向かった。蓮がこの家で家政婦の真似事をするようになってから、こういった事はよくあった。だから蓮も心得ていて、家の何処で寝ているかも分からない雇い主を探すよりも、先に朝食を用意して相手を呼ぶことにしている。

 近隣の住民の好意で渡された、生みたての卵をタイルの調理台へ置くと、蓮は手早くエプロンを身に着けた。冷蔵庫から取り出した鮭のアラを、水を張った鍋に放り込んで火にかけ、ごぼうはささがきに、人参、大根を銀杏切りにし、豆腐と一緒に煮込んで行く。鍋に蓋をした彼女は、今度は大根を擦った。忙しく動き回る彼女は、音もなく台所へ入って来た影に気付かない。影はゆっくりと蓮に近付いて、彼女の背後へ忍び寄る。

 あら汁に味噌を溶いて仕上げをする蓮の横を、骨ばった大きな手が伸びて行き、切って冷ましていただし巻き玉子の一切れを攫った。だし巻き玉子をつまみ食いした男を見上げた蓮は、逞しい両腕に肩を拘束されて、悲鳴を上げた。

「痛い痛い痛い! 止めて痛いったら!」

 蓮に忍び寄った影の正体、蓮の幼馴染みであるゆいは、寝癖だらけの髪をそのままに、平織りの黒い浴衣姿だ。伸びた髭で首筋をぐりぐりと頬擦りしてくる彼の頭を押し返しながら、蓮は滑らかな頬を朱に染めた。

「蓮ちゃん、俺もうダメかもしんない。ひもじくてひもじくて寝ていられないの」

「起きればいいじゃない。結ちゃんは寝すぎだよ!」

 身体を拘束する結の腕が、蓮の胸を押し潰す。やっと髭を擦り付けるのを止めた結は、甘えるように蓮の頭に顔を擦り寄せた。蓮は離れない彼の腕をそっと抱き反すと、あら汁の仕上げに戻った。結が擦れ声と共に溜息を吐く。

「.....今日の朝飯なに?」

「鮭のあら汁と、きのこ入り金平ごぼうと、だし巻き玉子」

 引っ付いて離れない男をそのままに、蓮は料理を続ける。


 蓮がこの家に来るようになったのは、一年前だ。開業資金と鞄に収まる荷物だけを持って、幼い頃過ごしたこの町へ戻って来た蓮は、引越し先のアパートの片付けを終えると、すぐに町へと繰り出した。

 財布に入っている一枚の写真を取り出して、真新しいランドセルを背負った二人の子供の背後に写る、骨董品店の看板が掛けられたブロック塀を探す。けれども、蓮が十数年間訪れることが無かった町は、すっかり様変わりしていて、記憶に残る田畑や森林が目立っていた通学路も、新興住宅地へと移り変わり、通い詰めた小さな図書館は老朽化のために取り壊されていた。蓮は引越し前、古い手紙を頼りに、勇気を振り絞って掛けた電話を思い出した。電話番号が今は使われていない事を自動音声が告げた後、それは虚しく途切れてしまっていた。

 行く宛を無くした蓮は、以前、自分が住んでいたアパートの跡地にも足を向けた。蓮にとってあまり良い思い出の無い場所は、地区センターの掲示板がある広場になったらしい。小さな子供が母親に見守られながら、鳩を追い掛けている。

 芝生の広場で掲示物をぼんやりと見上げた彼女は、近くの神社の骨董市のポスターを見つけた。その神社には覚えがあった。昆虫が大好きだった幼馴染に付き合って、神社のクヌギの林にカブトムシを探しに行った事があるのだ。今度、開店する予定の古書店に、置く商品が安く見つかるかもしれないし、もしかしたら彼に会えるかもしれない。蓮は期待を胸に、キャッチボールをする子供やその親と思われる女性らの傍を通りすぎて、昔は酒屋だったコンビニの角を曲がって進んだ。見上げれば雑木林の頭が見え、鳥居だけは昔の姿のままだ。ほっと溜め息を吐き出した蓮の記憶の中で、引っ込み思案だった自分を、引っ張るように手を繋いでくれた、一見少女と見紛う、線の細い少年が手を伸ばしてきている。蓮はその手を掴もうとして気付く。骨董市のテントが並ぶ参道すら、土の道から石畳へと舗装されているではないか。

 ショックを受けながらも、思ったよりも人で賑わう境内で、立ち尽くすわけにも行かず、人出に流されて歩く。強い郷愁の念にかられた蓮は、人混みの中で一人だけ取り残されて、迷子になってしまったようだった。

 所在無く身体にぶら下がる手を握り締めて、人の波から逃げるために彼女が行き着いたのは、テントの出店が連なる一角だ。ブルーシートの上に、たくさんの段ボールと骨董品が並んでおり、古書が詰まった段ボールを覗き込んだ蓮は、鮮やかな色合いを見つけて、沈んでいた心を踊らせた。番の鳥を刺繍した豪奢な布の装丁は、売れていないのが不思議なくらいに目立っており、手に取って確認した表紙に金糸で記されていた題名は、

「鴛鴦」

 食後の緑茶を啜った結が、その題名をぽつりと呟いた。食器を片付け終えた蓮は、ちょうど部屋に入ったところだった。

 板張りの広い縁側で胡坐をかいた結は、緑茶を片手に新聞を読んでいる。緩んだ襟元から差し入れた手が、広い胸を掻いた。

「例の本さ、諦めて、いまここで、蓮ちゃんに譲るよ」

 あの本の題名を言った結は、新聞から顔を上げない。彼に話があった蓮は、言い掛けた言葉を飲み込んだ。

 あの日、骨董市で鴛鴦という題名の本を売っていたのは、たった今、縁側で茶を飲んでいる、結だ。


「その本が気に入った?」

 手に取った本の表紙から顔を上げた蓮は、ダンボールの向こう、テントの屋根下に置かれた、折り畳み椅子に座る無精髭の男を見た。歳の頃は蓮と同じくらいに見えた。

「この本、お幾らですか?」

 値段を尋ねた蓮に、人好きのしそうな日に焼けた顔がくしゃりと笑う。その笑い方に、蓮は胸をどきりとさせた。ずっと見たかった少年の笑顔が、男の笑顔に重なってみえた。

「蓮ちゃんって、相変わらずせっかちだな。そこに至るまでの会話をさ、もっと楽しもうよ」

 自分の名前を呼んだ男の顔をまじまじと見た蓮は、男に結だと名前を告げられて、目を丸くした。

「うそ、結ちゃん? 本当に本当に結ちゃん?」

 変わっていたのは町だけではなかった。結とは家が近く、幼稚園と小学校の四年間、蓮が転校するその日まで、クラスも同じで仲良くしていた幼馴染みだ。高校に入るまでは手紙の遣り取りもしたが、どちらともなくそれも途絶えてしまって久しい。大人になった結は、女の子のようだった面立ちは精悍な物に変わり、蓮より小さかった背も、立ち上がれば見上げるほど高くなっていた。名乗られなければ、蓮はきっと気付けなかっただろう。

「嬉しいよ! 私、会いたくて、結ちゃんの実家に電話したんだけど、繋がらなくて……」

 諦めようと思っていたと言い淀んだ蓮に、ふと男の顔が悪戯に歪む。

「ふーん。で? いつ俺のところに来るんだ?」

 言われた蓮は、一瞬、きょとんとしたが、すぐに聞きたくないとばかりに赤くした耳を覆った。快活でよく笑う彼のことが好きだった蓮は、転校する直前、将来の夢を書くという国語の授業で、彼のお嫁さんになりたいと作文を書いてしまって、クラスを騒がせた。

「……ちっ、違うの! だって、あの時はもう転校する事が決まっていたし、子供だったし、な、なんかこう、勢いで! だって結ちゃん、いまさら……あの後何も言ってなかったじゃない!」

 しどろもどろに言い訳をする蓮に手を振って、結が立ち上がる。他の客を相手にしていたらしく、蓮とはテントを挟んで反対側に居た中年に紙袋を差し出し、談笑を始めた。

 一人で騒いでしまって恥ずかしくなった蓮が伏せた視線の先に、まだ手にしていた鴛鴦と題された本がある。何とは無しに、蓮は本の表紙を捲った。

 ぱりっという糊が出す真新しい音がして、朱色の上質な和紙の見返しが表れた。

「なんて、綺麗なの」

 本の中程に差し入れられていた栞紐は二本で、金色だ。恥ずかしかったのも忘れて、光の加減で虹色に煌めく栞紐を、夢中になって陽光に翳して眺めていた蓮は、突然、大きな手に本を奪われた。頭上にまで持って行かれた本が、男の顔の目の前で止まる。笑い掛けられた蓮は、再び赤くなった。

「お待たせ、蓮ちゃん。この本が欲しいんだっけ?」

「.....とても気に入ったわ。お幾ら?」

「なんか、蓮ちゃん小っさくなったなあ」

「結ちゃんが大きくなったんじゃない! で、幾ら!」

 質問に答えず頭をぽんぽん叩いてくる結の手を振り払った蓮は、ムキになって値段を聞いた。

「これ」

 ニコリと笑った結は、片手を上げた。五百円玉を財布から取り出そうとする蓮を、結はすかさず止める。

「まっさかあ。ケタ間違えてるし、蓮ちゃんたら冗談上手いんだから」

「茶化さないでよ。五千円ってこと?」

持ち合わせを確認しながら五千円札を出そうとする蓮に、結はいやいやと首を横に振る。蓮の顔が曇る。美しい装丁を見た蓮は、すっかりその、鴛鴦という本が欲しくなっていた。

「五万円? .....そんなに高いんだ。あの、買う気はあるよ。だから、せめて先に中身を確認しても?」

「いやいや蓮ちゃん、ケタ違うってば」

 にやにや笑いをしている結を見上げ、蓮は眉間に皺を寄せた。

「まさか、五十万.....」

「五百万」

 蓮の声を遮って、結は言い切った。蓮は口をぽかんと開けた。

「えっ、五百万円? 結ちゃん嘘付かないでよ!」

「でっけえ声で人聞き悪いこと言うなよな。そうだって言ってるじゃん」

 先ほどまで本が無造作に入れられていたダンボールに視線を落とした蓮に、結が手を横に振る。

「ああー、悪い悪い。この本、他の安いのと間違えて持って来ちゃったんだよ。新古品だし、見せるのもちょっと」

 蓮の頭上にあった本が、テントの奥へ去って行き、結の物らしい鍵付きのトランクへ入れられる。蓮は溜息混じりにそれを見送った。売り手が売れないというものは、どんなに欲しくても、蓮には無理強い出来そうにない。

「蓮ちゃんってやっぱり美人のまんまだ」

 振り返った結にそう言われて、蓮は頭を振る。そういったおべっかには馴れっこだった。吊り目の一重がきつそうに見えるらしく、下手に出た相手からそう言われる事が多かった。会いたがっていた幼馴染にまで気を遣われて蓮が落ち込んでいると、結に嬉しそうにその顔を指差された。

「そうそう、それそれ、無我の表情。そういう感じが昔のまんまなんだよ。懐かしい。何を言ってもやっても泣かない難攻不落の要塞を、陥落出来たらアイス一本!」

 にかっと笑った結に、蓮の口がぽかんと開く。

「なによそれ」

「今だから言うけど、男子の間で流行ってたんだよ、この文句。蓮ちゃんを泣かせられたらアイス一本奢りって決めてさ。ま、誰も泣かせられなかったけどな」

 解せないといった表情の蓮を一頻り笑った後、結は頭をかいた。

「蓮ちゃんって、結婚はまだ?」

 唐突な質問であったが、蓮は頷いた。指輪のない結の左手に蓮の視線が泳ぐ。

「夢があったし、そういうのとは縁遠いみたい」

「.....へー。じゃあ夢を叶えに帰って来たんだ?」

 夢であった古書店の開業を控えていた蓮は、その質問にも何の疑いもなく頷いた。一瞬、結は真顔になって、ぷっと吹き出し、敵わないやと笑い出した。

「母が以前、雑貨屋をやっていた場所で、もうすぐ古本屋を始めるのよ」

「ああ、そういう事。そういや作家になれなかったら、古本屋になりたいなんて、言ってたもんな.....」

 結が懐かしそうに目を細める。今でも趣味として小説を書く蓮は、幼馴染が覚えていてくれたことに頬を赤らめた。装丁家の祖父がいる結に、いつか自分の本を作ってくれと強請った事もある。それも覚えているのかどうか、様子を窺おうと彼を見上げた蓮は、再び笑われてしまった。

「ホント変わってないよな、お強請りの困り顔まで変わんない……いいぜ、じゃあ、本が入用なんじゃねーの」

 このとき、業者から本を買い取る予定だった蓮は、仕入れ値に納得が行かなくて、計画が頓挫していた。

「確かに、必要だけど」

 言い淀んだ蓮に、結が明るい声で言う。

「俺の家さ、古物商畳む予定なんだ。ちなみに俺も独り身ね。余ってる本、言い値で譲ってやろっか? なんだったら、さっきのやつは開店祝いでつけるよ」

 結が指差したのは、先程のトランクだ。

「えっいいの? 本当に?」

 身を乗り出してきた蓮の肩を、結がぽんぽん叩いて笑みを深くする。

「昔のよしみ。ただし、貸しは身体で払ってね」

「.....なにか、仕事しろってこと?」

 それがどんな仕事なのか真剣に尋ねた蓮を、結は呆れ顔で見た。

「なあに惚けちゃってんの。男と女の関係になって下さいって言ってんだよ。俺、そろそろ身を固めたいと思ってたんだ」

 瞬きも忘れて固まった蓮は、昔、体育の授業で野球をしたとき、ピッチャーになった結が投げた球を思い出していた。結が投げたのは、どれもこれもストレートで、しかも剛球だった。勢いが良過ぎる球は誰も打てず、野球チームに入っている子ですら顔色が無くなり、ついには受け止めるキャッチャーが悲鳴を上げた。

「ええと、結ちゃんそれって、プロポーズになっちゃうよ」

「嬉しい? 蓮ちゃん、今でも俺のこと嫌いじゃなさそうだもんな。結婚指輪確認しちゃうくらいには」

 声を上げて笑う結は、大人になっても相変わらずだった。率直な癖に、どこまでが本気で冗談なのか分からない。赤くなり過ぎた蓮も、相変わらず弱気で、そんな結をいなせなかった。

 再会した記念に一杯飲もうと誘われて、骨董市が終わってから強引に手を掴まれ、結の自宅の玄関を入るまでは、蓮は本当にそのまま結とそういう関係になってしまったら、どうしようと考えていた。つまり、蓮は蓮で、大好きだった幼馴染に下心があった。だが、家に入った瞬間に、蓮のそういった考えは消え去った。ただ、惨状に呆然と佇むことになったのだ。

 その家は元々、結の祖父母が使っていた家で、昔、蓮が結に連れられて遊びに来たときと同じく、庭こそ綺麗なままだったが、家の中がとにかく酷かった。埃と蜘蛛の巣が当たり前に蔓延り、畳にはカビと丸まった服、板の間はべたべたする謎の液体が染み込み、その上を和紙や糸や金槌やらが足の踏み場もなく置かれて、通されたダイニングのアンティークと思われるマホガニーの机の上は、空いた酒瓶が所狭しと並んでいた。

 昔から汚いのが許せない蓮にとって、そこは地獄の何丁目かに見えた。

「結ちゃんふざけないで! 私が汚いのダメだって知ってるでしょう!」

 鳥肌を立てて叫んだ蓮に、結は足を上げて穴の開いた靴下をみせびらかす。

「蓮ちゃん、なあに言ってんだかぜんっぜん分かんない。どこが汚いって?」

「ーーーーっ、もう、いいっ!」

 蓮が吠えると、結は笑いながら逃げて行った。よく、結の部屋の掃除を手伝っていた蓮には、懐かしい遣り取りではあったが、そんな場所で、飲む気にはならなかった。気付けば掃除洗濯皿洗い夕食の支度までやって、逃げ回る結の足から汚れた靴下を剥ぎ取った後、風呂まで沸かしてやった。

「.........なるほどな、蓮ちゃん。まずは押しかけ女房してくれるわけか。流石せっかちだねえ、もうお嫁さんも同然だ」

 ホタルイカの酢味噌を肴に、冷酒を飲む結がからかい混じりに笑った。掃除機を片手に駆け回っていた蓮が何か言い返す前に、結は近くにあったダンボールを足で押し遣ってきた。

「怒るなって。これ、まずは手付けね。本好きの蓮ちゃんなら気に入ると思うぜ? ぜーんぶ、世界に一冊だけの、特別な本ばっかりだからさ」

 本と聞いて蓮が駆け寄ったダンボールに詰まっていたのは、どれも高価そうな質の良い装丁がされた本だった。結に礼を言って、一冊を手にした蓮は、中を開いて読み始めて、止まらなくなった。

 最初に読んだのは、一人の女性が挫折するまでの短い物語だ。どうしてかその女性と会話をしているような錯覚に陥った蓮は、本を読み終えてしまうと、彼女が去って行くような、寂しいような心持ちになって、ダンボールの中の次の本に手を伸ばした。

「蓮ちゃんってば、まだ本の虫を卒業出来てないんだ?」

 結が笑っている。昔から本が大好きだった蓮は、よく結に付き合って貰って、図書館へ通った。閲覧室で暇そうに図鑑を広げる結の隣に並んで座って、何時間も本を読んで、終いには結から、いっそ本の虫になっちまえと揶揄された。

 昔のように本から顔を上げない蓮に、結がはあと溜息を吐き出す。

「.........なっつかし、無視されんの」

 彼はぐいと酒を喉へ流し込んだ。

 その後、蓮は本を段ボールから引っ張り出すのを何遍も繰り返すことになり、その日、家に帰るのも忘れた。

 大きな出窓から陽の光が射し込んできて、漸く顔を上げた蓮は、頭に埃除けの手拭いを巻いたままだ。肩には結が着ていた羽織りが掛けられ、その持ち主はダイニングルームの床に座り込んだ蓮の真横で、蓮のワンピースの裾を掴んで、丸まって鼾をかいていた。


 蓮はその後、結の家に通うようになった。

 結から明確にそうしてくれと頼まれたわけではなく、次に来たらあっちの掃除をしようとか、結が貰ってくる旬の野菜や魚を調理しようとか、行けば何かと次回の仕事が出来るからで、それを結が拒まず、自然と受け入れていたからというのもある。

 蓮がそうして家政婦の真似事をするために結の家へ通うのが、二人の間で暗黙の了解になった頃、結が次のダンボールを差し出した。

 既に古書店をオープンさせていた蓮は、前回譲って貰った本の全てを売りきっており、待ちきれずにその場でダンボールの蓋を開けた。本を取り出した蓮の耳に、しとしとという水音が響く。縁側の電灯が照らす外は霧雨で烟っている。

「他人の人生が、面白い?」

 再び本を読み耽ける蓮に、真横で酒を傾けながら結が聞いた。蓮はいつも通り、本に夢中になっている振りを決め込んで、黙っていた。

 確かに、結から渡された本は、人の記憶を濃縮して文章にしたようで、読めば誰かの人生を覗いているような、不思議な気持ちにはなる。けれど、蓮が結から渡された本に夢中になるのは、今は別の理由があった。結から渡された本は、作者こそ全て別の人物だが、奥付に記された装丁家の名前が全て、高天 結になっている。

 蓮が顔を上げると、結は柱に背中を預けて、縁側のガラス戸の向こうの庭を見ていた。紫陽花の花が盛りを迎えつつあるその庭を、外と隔てる玄関には古い表札があり、そこには高天と書かれてある。

 蓮は純粋に興味があった。自分が一緒にいなかった年月を、初恋の男の子がどんな風に過ごして来たのかを。やがて、酔っているのか、眠いのか、結は重たそうに瞼を閉じた。


 結から譲られた本を、店の棚に並べると、すぐに買い手が現れた。どの客も吸い寄せられるようにその本がある場所へ行き、手に取ってページを捲ってすぐに、ある者は興奮して顔を赤らめて、ある者は目に涙を浮かべて、蓮がいるレジへと持って来る。

「どうして本を譲ってくれるの?」

 結がダンボールを直接、古書店へ持って来た事がある。蒸し暑い日だった。いつもとは違って、相当な冊数が詰まった段ボール箱をカウンターへ載せた結に、カウンター越し、椅子に座ったままで蓮は尋ねた。首に掛けたタオルで汗を拭う結は、きょろきょろと店を見回している。すぐに売れてしまう本を、惜しげも無くただ同然で手放す結が、蓮は有り難くはあったが、理解し難かった。

「下心があるからに決まってるじゃん」

 良い店になったなと続けて笑うと、赤くなった蓮にお構いなしで、結は客用に置いた椅子にどっかりと座り込んだ。業者から最近仕入れた昆虫の大判の図録を眺めるつもりらしい。蓮は目を瞬かせた。

 蓮には一瞬、女の子のような見た目の少年が、そこに座ったように見えたのだ。実際は精悍な顔立ちのごつごつした男がいるばかりだったが、何気ない仕種や表情が、結は昔と何も変わっていない。昆虫採集が大好きだった彼は、蓮の読書に付き合うときは、こうしていつも図鑑を眺めていた。

「結ちゃんって、今でも虫が好きだったりする?」

「大好き」

 繊細に描き上げられた揚羽蝶を眺めて即答した髭面の男に、蓮は吹き出した。

「蓮ちゃんさ、それで、いつになったら俺に抱かれてくれるの?」

 だから蓮はよく、結がそんな台詞を吐いても、聞き流していた。

「また結ちゃんたら、変な冗談ばっかり言うんだから」

 蓮が出した客用の紅茶に口を付けた結は、何も言わないまま、にっと笑んだ。優しい少女のようだった男の子も、蓮によくこんな意地悪を言って笑っていた。表情に乏しい子供だったことを自覚していた蓮は、そんな自分が驚いたり怒ったりするのが、今でも結は楽しいのだと思っていた。

「.........鴛鴦は、入れてない」

 開いたダンボールの中から、その本を探し出そうとしていた蓮は、手を止めてもう一度、結を見た。図録から顔を上げた結は視線が合うと、勝ち誇ったような顔をした。

「あの本、蓮ちゃんすっごく欲しいんだろ? 好きそうだもん。俺だってバカじゃないよ、奥の手はとって置かなきゃ」

 意地悪に笑う男の姿は、やはり少年時代の彼と重なった。


 長雨が続いた後の青空を見上げていた蓮は、足元の存在に気付いて肩を跳ねさせた。脱皮をし損ねた蝉の死骸が、抜け殻に道連れにされて、飛び石の上に落ちている。木の幹で鳴いているのが当たり前の蝉が、そうして死んでいるのが、蓮は昔から怖かった。昔は結が死骸を拾い上げて傍に避けてくれたものだ。

「蝉だって、生きてんだから、死ぬときだってあるだろうよ」

 何でもないように言う少年を思い出しながら、蓮はそれを踏まないように避けて飛び越えると、玄関を入った。

 静かな日だった。仕事で書斎に籠る結と、そうして碌に会話もせずに帰る事はしょっちゅうだ。その日も、家事が一段落したから帰ると書斎の結に声を掛けようとした蓮は、彼にダンボールを指差された。台車に載せられているのを、そのまま持って行けと言う。

「.........結は、どうして装丁家になったの?」

 何度目かのダンボールを渡された蓮は、思い切って結の背中に尋ねた。ずっと聞きたかったけれど、蓮は彼の今までを聞けずにいた。話す機会が無かったわけではない。現に蓮自身は今までの事を話していた。聞き上手にもなる結に、高校に入ってから両親が離婚したことや、親戚の家に居候した事、最近になって母親が亡くなったのも、殆どを話したと思う。それなのに、結は自分の話はしてくれなかった。蓮がさり気無く尋ねても、それとなく話題を逸らしてしまうのだ。だから、蓮も一番、結に聞いて欲しかった事は、まだ話せていない。

 結はいま正に一冊の本を作り上げようとしていた。結の大きな手が動く度、開けた穴に糸を通す音が響く。

「どうしてって.....俺は、これしか出来ることがなかったから」

 振り返って屈託ない笑みを向けてくる結は、昔はスポーツも勉強も出来る男の子で、蓮は首を傾げてしまった。ふと結が、笑みを浮かべたまま、眉間に皺を寄せる。

「俺って馬鹿正直で、真っ直ぐだったろ?」

 蓮から見ても、確かに結は正義感が強くて、曲がったことが大嫌いな男の子だった。優しげな見た目に反して衝突も多かったと思う。けれど、結とは真逆で、見た目から気が強いと勘違いされてしまう蓮は、何度、そんな彼に庇われて、助けられたか分からない。

「爺さんに、まあ、師匠なんだけど、言われたんだ。こういう性格はさ、向いてるんだとさ。特殊な物語の装丁をするのに」

 そう言った限り、結は黙った。再び蓮に背を向けた彼は、作業へと戻り、静かになった部屋に、蠟引きの糸を引く独特な音が響いた。


 結が家に居ない日も、蓮は仕事に来た。そんな日は早朝の決まった時間に、洗濯や掃除をし、そのうちに帰って来るだろう結のために、軽食の準備をして帰宅する。だがその日は、店によく来るようになった客に誘われて、早朝の公園を散歩してから家に来たため、いつもより時間が遅かった。鍵を開けて入った無人の家は既に蒸し暑くなっており、蓮はすぐに窓を開けて回った。

 縁側のガラス戸を開け放ち、散らばった結の仕事道具を簡単に纏めて片付ける。蓮は和紙の下に、背に布をつけただけの、装丁途中の本があるのに気付いた。

 乳白色の紙束は、ずしりと重みがあり、陽の光を円やかに反射した。背に貼るための布の接着部分を押さえるためか、簡単に目玉クリップで留めてある。

 蓮は指先でパラパラと本文を捲った。そして眉根を寄せた。そこにある筈の文字が、一文も存在していないのだ。

「これはまだ読めないの、終わってないから」

 背後に近付いた気配が、蓮から紙束を奪っていく。帰宅が遅くなると言っていた筈の結だった。忘れ物を取りに帰ったと告げた彼は、小脇に茶封筒を抱えている。

「.........どういう意味?」

「言ったとおりの意味だ。俺が手掛ける本は、みんな、装丁が終わって、一冊の本になって、初めて読めるようになるんだ」

 蓮が見上げた先に結の顔がある。そこにはやっぱり、女の子のように可愛いかった、昔の面影は残っておらず、好奇心旺盛そうな男の顔があるばかりだ。背中を彼の胸に預けるような格好になった蓮は、結の顔をじっと見返した。

「からかってる?」

 尋ねた蓮を、結は鼻で笑い飛ばした。

「サンドイッチ、持って行って良い?」

 結は、蓮が夜食用に作ろうと思っていた、薄く切った胡瓜とマーガリンのサンドイッチを言っているらしい。大方、蓮のことを探してキッチンで材料を見つけたのだろう。蓮は急いで用意すると言って、彼の胸から抜け出そうとした。

「.........本好きの蓮ちゃんはさ、まだ、自分の本を作りたい?」

 抜け出る直前に腰に回ってきた腕に引き留められた蓮は、尋ねられて目を大きくした。

「作りたい。今でも、下手の横好きで物語を書くことがあるから……」

 小さな声で告白した蓮を抱く、結の腕に力が込められる。蓮は顔を朱に染めた。

「覚えていてくれたの? 私が結ちゃんに、本を作ってって、お願いしたのを」

「忘れるわけないじゃん」

 迷いもなく答えた結に、蓮は恥ずかしくなって下を向いた。訪れた沈黙が去ったら、蓮は笑われると思っていた。けれど、結の笑い声はいつまでも聞こえず、代わりに蓮の頭上に、舌打ちの音が響いた。

「まあた蓮ちゃんは、そうやって黙り込む」

 探るように腹を弄られた蓮は悲鳴を上げた。エプロンと薄いワンピースの布地越しに見つかった臍を、ぐりぐりと親指に刺激されて、身を捩る。

「結ちゃん、くすぐったいよ」

「だから? 蓮ちゃんさ、相変わらず気弱だよな。こんな事されてもろくに抵抗しないし、このまま流されちゃいそう」

「くすぐったいったら! 何考えてるのよ!」

「なに考えてんのか分かんないのは、蓮ちゃんだろ!」

 突然、大きな声を上げた結に、驚いた蓮は身体を強張らせた。背後で浅い呼吸を繰り返す結は、蓮が知る、懐かしい表情をしている。異性だったのにも関わらず、いつでも蓮の一番の仲良しが、自分でなければ怒っていた、あの頃の結の表情だ。

 臍を探っていた結の手が下腹を弄り、ショーツの線をなぞっていた。

「腹の内、見せろよ。人の家で夜明かして通い詰めたかと思えば、他の男と肩並べて歩いて涼しい顔してすまして……何がしたいんだよ!」

 腹肉を弄るのを止めさせるために、蓮が掴んだのは、血管が走るゴツゴツした男の手だった。当たり前なのに、よく繋いでくれた繊細な手では無くなっていることに、蓮は驚く。

「蓮ちゃんさ、俺に本を作らせるって、どういう意味だか分かってる?」

 震え出した蓮は、結が作った本を思い出す。段ボール箱に無造作に詰められた無数の本は、誰かの人生そのものを切り取って装丁したかのように、突き抜けて繊細で美しく、それと同時に、人間としての汚さやずるさも、何もかもを隠さずに曝け出していて、だからこそ、目を離すことが出来ない。

「もう分かってるんだろ、俺の仕事がどんな物なのか。だったら分かってるよな? 全部を委ねて、抱かれて、見せてくれなきゃ、俺は作ってやれないんだ」

 震える蓮の身体を、結の手が滑っていく。膨大な数の本の著者は、全て女性だった。そう気付いた蓮の、胸の中に冷たい何かが満ちて行く。

「なあ、蓮ちゃん。蓮ちゃんにとって…………俺って、なに?」

 蓮が身を捩っている内に、エプロンの胸当ての肩紐が外れたのか、はらりと結の手に掛かった。大きく開いた襟ぐりから、滑らかな鎖骨の向こうの谷間が見えてしまっている。

「蓮ちゃん」

 胸の谷間が丸見えなのを知ってか知らずか、その上から腕を回して蓮を抱き締めた結は、蓮の耳元に呟いた。

「なあ蓮ちゃん」

 名前を呼ばれているのに、蓮は返事すら中々出来なかった。

「蓮ちゃんってば。泣いてないよな? ごめん。でっかい声出したりして」

「…………見たの? さっき、公園にいたのを」

 やっと、それだけを乾いた口で蓮が聞くと、結は頷いた。

「……………あれ、誰」

「お客さん。…………女の人だよ、背が高いけど、最近結婚したばかりの、新婚さんで」

 俺の早とちりかと結が照れ笑いすると思っていた蓮は、間近にある彼の真っ直ぐな相貌に射抜かれて、動けなくなった。

「信じて良い?」

 コクリと頷いた蓮を、結の腕が力強く掻き抱く。


 あの日を境に、結は妙に蓮と距離を詰めてくるようになった。自分のことは話してくれないのに、蓮のことは聞きたがり、蓮が家に通ってくるだけの関係を崩さないのに、蓮が結にとって何なのかを、蓮に問いかけてくる。時を急くように鳴いた鈴虫の音を聞いて、蓮は風に揺られて音を立てるガラスの風鈴を、軒先から外した。

「蓮ちゃん、俺、さみしいの」

 不貞腐れたように蓮に背中を向けて、縁側に寝転んだ結が呟く。履き掃除をするから畳の上を一旦、退いてくれと蓮が言ったのが、余程気に入らなかったらしい。落ち込んだ声を上げた彼に、蓮は無言を貫くことにした。

「今日、ばあさんの命日」

 江戸箒を使っていた手を止めた蓮は、結の背中を振り返った。この家の仏壇に並んだ二つの位牌に、蓮は手を合わせる事はあっても、そこに記された日付まで確認した事はなかった。

「ねえ結ちゃん、はぐらかさないで教えてよ。おばあちゃん…………おじいちゃんも、いつ亡くなったの?」

 もぞもぞと動いて仰向けになった結は、眩しそうに目を細めた。結の視線の先で、庭の柿の木が実を付け始めている。

「いつだったかな? よく、覚えてねーや」

 頭の後ろで腕を組んだ結は、やっぱり自分の事は話さないつもりらしい。そのまま目を閉じてしまった。蓮が知る限り、仕事をしていないときの結は、こんな風に寝ているか、飲んでいるかだ。

「嘘言いなさい、だって……寂しいって言ったばかりでしょ? 可愛がって貰っていたものね、私にもおやつくれたり、優しい人達だった。寂しくてもおかしなことじゃ.....」

「生きてたら死ぬもんだろ。同い年なのに偉そうな口聞くなよ、弱虫蓮ちゃんのくせになっまいき言いやがって」

 昔からこうだった。だらしのない結に、母性本能を擽られた蓮が、こうして少しでも口を出すと、結はいつだって突っ撥ねる。

 蓮は縁側に寝転んだ少年を、膝枕してやる老婆の姿を思い出して、胸が締め付けられた。祖父母に可愛がられている結のことが、羨ましくて仕方なかったけれど、同時に、嫉妬深い癖に気難しく、獰猛とすら言える結が、借りて来た猫のように甘える彼の祖母のことが、蓮はずっと羨ましかった。

「…………昔さ、結ちゃんと喧嘩して、私がここへ謝りに来たとき、結ちゃんにおばあちゃん、膝枕してくれてたね」

 蓮は箒を壁に立て掛けると、寝転んでいる結に近付いて、膝を折って座った。

「だから?」

「来て」

 蓮に頭を抱かれるように、その膝に頭を乗せろと促された結は、目を丸くした。

「話してくれなくても、こうするくらいなら、いいじゃない。人の裸も見たがるくせに」

 真っ赤な顔を険しくする蓮から顔を背けた後、面白くなさそうに鼻を鳴らした結は、膝に頭を乗せて来た。ついでとばかりに結の手が蓮の膝丈のスカート越しに太股を撫でる。

「お。蓮ちゃん、太ったな?」

「う、うるさい! 素麺が美味しいんだもん!」

 肩を震わせて笑った結は、居心地良さそうに目を閉じる。

「あのとき蓮ちゃんってば、俺が無視してたら、向こうでじいさんと将棋始めちゃってさ。覚えてるぜ」

 さり気無くスカートの中に潜り込んで行こうとする彼の手を、蓮は慌ててスカートごと掴んだ。

「……柔らかくて気持ち良い」

 声と共に吐き出された結の吐息が、じんわりと蓮の腿に熱を伝える。結の横顔は、いつもよりも幼く見えた。

「蓮ちゃん、なんか落ち着くから触らせてよ」

 頬を真っ赤に染めた蓮は、彼の手を離した。自由を得た男の手が、緩々と蓮の膝や太股を這う。蓮は擽ったさと恥ずかしさから身体を強張らせて、ぎゅっと目を閉じた。

「蓮ちゃん」

 いつかのように、結から名前を呼ばれても、蓮は返事が出来なかった。太腿の上の結の顔が、笑い声と共に揺れる。

「それで、いつ、作らせてくれる?」

 蓮は赤くなるばかりで、答えられない。


 蝉の声が少なくなり、代わりに朝晩は密やかな虫の音が目立つようになった。草むらから響く虫の音を聞き、坂を登り切った蓮は、駐車場にとめられた一台の青い車を物珍しく眺めた。これまで来客があったとしても、蓮も知った顔は蓮と同じく、徒歩や自転車で来ているし、駐車場が使われているのを見るのは初めてだった。日傘を畳み、呼び鈴を鳴らそうとした指を、蓮は止める。庭から聞こえた話し声に気を取られたのだ。格子戸をそっと開けて入り込み、中庭への飛び石を進めば、話し声は大きくなった。

「もう一度、私を本にして下さい!」

 意思が強そうな女性だった。身振り手振りで緩く結った髪を揺らして、縁側に向かって本を作って欲しいのだと懇願している。そんな彼女の、真っ直ぐで一生懸命さを、蓮は知っていた。彼女は、森村かなえだ。蓮の店の棚で、しばらく前から売れ残っている本の著者で、行先が決まらない本と同じように、彼女は本の最終ページまで、夢のために今の仕事を続けるかやめるかで、迷っていた。

「悪いんだけど、無理だな」

 腕を組んだ結が、気怠そうに告げた。開けたガラス戸に凭れる、寝起きらしい結に、容赦なく森村かなえが食いかかる。

「お願いします! お金なら、前の二倍は出せます! 退職金をあてますし、もう少し続ければボーナスが出ますからそれも.....もう一度あの、優しい気持ちを取り戻したいんです!」

「金の問題じゃなくて、作れねーんだって。内容が同じ本は俺は作りたかない」

 胸元に縋ってきた森村かなえを結は真っ直ぐに見返すと、作れないともう一度言った。それでも森村かなえは、結の胸元に差し込まれた紙束を見つけて、諦めないとそれを掴み出そうとする。結はその手を掴んだ。

 その後も両者が一歩も引かないせめぎ合いが続き、蓮は気付かれないようにそっとその場を離れた。

 最初に蓮が森村かなえの本を読んだとき、蓮は本に対して親近感を覚えた。ひたむきで頑固なまでに真っ直ぐな彼女は、人と衝突する事が多く、生きにくそうな人生を歩んでいた。それが、本を作って貰うことになった終盤から、彼女の人に対する態度は軟化した。本にされても恥ずかしくない人生を送るために、人に優しくしたいと彼女が思ったからだ。

 用意した朝食をテーブルへ並べていると、結がふらふらとやって来て崩れ落ちるように椅子に座り込んだ。

「帰った? 森村かなえさん」

 蓮がコップに水差しからレモン水を注ぎ入れると、結はそれを一気に飲み干した。

「客の名前なんか、よく分かったんじゃねえの。にしても、蓮ちゃんひっどいなあ、声掛けてくれればもっと早く切り上げてくれたかもしれないのに.....作れないもんは作れないって言ってんのに、帰らねーんだもん」

 テーブルに寝癖だらけの頭を伏せた結の言い草に、蓮は眉根を寄せる。もう一度、優しい気持ちを取り戻したいと一生懸命に説明する、森村かなえの姿が思い返された。

「どうして作れないの?」

「……作れないわけじゃないけど」

 答えた結はブドウを口に放りながら、宙を見つめてぼんやりしている。

「じゃあ作ってあげれば良いでしょう。今からでも連絡してあげたら?」

 蓮がそう言って、彼がテーブルに置きっ放しだったスマホを差し出しても、結は反応を示さない。蓮はいつか結が自分に背を向けて、仕事をしていたときの姿を思い出した。今と同じように、すぐ近くで声を掛けたのにも関わらず、結は仕事中は滅多に蓮を振り返らない。

「ねえ、結ちゃん」

 結の好物の筈の脂がのった焼き鮭から、立ち上っていた湯気が消え掛かっていた。未だ結はスマホを受け取るわけでもなく、好物に箸を付けるわけでもなく、ぼんやりしたままだ。

「ねえ、結ちゃんってば」

 蓮を無視した結は、クリップで留まった紙の束を弄び出した。

「結ちゃん」

「じゃあ、蓮ちゃんがあの客の本を作るところを、その場で見てるなら、作ってもいいよ」

 要領を得ない結の言い方に蓮は顔を顰めた。

「なに言ってるの?」

 結が指で弾いたブドウが、蓮の胸にばしりと当たってテーブルを転がった。頬杖をついた結が、苛々と足を鳴らす。

「結ちゃん」

「目の前で見てなよ、蓮ちゃん。俺が蓮ちゃん以外の女の裸を隅々まで見て、全部を噛み砕いて、大切に丁寧に、この手で優しくしてやるところ」

 森村かなえを組み敷く結の姿を思わず想像してしまった蓮の頭は、真っ白になった。ひゅと音を鳴らして空気を吸い込んだ蓮の姿が、結の視界から消える。

「えっ。おい蓮ちゃん」

 慌てて椅子から立ち上がった結は、床に座り込んだ蓮の所まで降りて来て、真っ赤に染まった彼女の頬を見て、笑い出した。

「びっくりした。なにも、尻もち付くことないだろ」

「だって! 結ちゃんが変なこと言うから!」

 身体から力が抜けてしまった蓮を、結は腹を抱えて笑う。

「はあ? 俺は別に変な事は言ってないよ。言葉通り、俺のお仕事最初から見学しませんかって聞いただけだし」

「それが変でしょ! だってそれって.........あの人とするところを、黙って見てろって事じゃない!」

 柄にもなく叫びながら、蓮は胸の中が氷が張ったように冷たくなるのを感じた。

 膨大な数の本を作った結は、いつも通り目の前で笑っているのに、蓮は下がった口角をぴくりとも上げられそうにない。

「.........蓮ちゃんさあ、そんなに嫌なら、また作ってやれなんて言わなきゃいいだろ」

 笑うのを止めた結が、座り込んでいる蓮の前で胡座をかく。頭をぽんぽんと叩かれて、蓮は下を向いた。

「だって.........森村かなえさんって、放っておけない」

「はあ?」

「森村かなえさんは、中身が結ちゃんに、似てる。だから」

 優しくしてあげて欲しい。プライドが高い結に、最後までは蓮は言えなくて、口を閉じた。

「ふーん」

 結が鼻で笑う。

「じゃあ蓮ちゃんは、いいんだ? 俺が他の女と仲良くしても。これはせっかく、蓮ちゃんのためにとっておいた紙だったのに」

 顔を上げた蓮に、結は紙束を指差した。

「もうすぐこの、特殊な紙がなくなりそうなんだ。なくなっちまったら、もう一生作れなくなる。.....どうすんの? 蓮ちゃん。最後に作る本の客に、俺は特別な感情が起きないとも言いきれない。だって本は抱かなきゃ、作ってやれないんだぜ?」

 床に座り込んだ状態で、彼を見つめ返した蓮は、背中を向けた結が、蓮を無視して自分以外の女と向き合っていた事を思い出す。昔は、意地悪はしても、蓮を無視するなんて、絶対にそんなことしなかったのに。そして綯交ぜになった心情を整理し切れなくなって、込み上がってくるものを、蓮はついに耐え切れなくなった。

「結ちゃん、い、嫌だ、私、いや、なの、うっ.........うえええん」

 結の手を自分と繋いで、ぼろぼろと涙を溢して泣き出した蓮に、結が眉を下げる。

「う.........嘘。うそうそうそ、違うって! 違うんだよ嘘だよ! うそ!」

 そして呆れたような声を上げた。

「そんなわけないじゃん、紙なんか何でも大丈夫だし、いくら特別な本って言ったって、抱かなくたって、作れるっつーの! 蓮ちゃん、俺が今まで何冊装丁してきたか知ってるだろ」

「うっ、嘘! だって、ずっとそうやって、ひっく、言ってた!」

 泣き噦る蓮に、結が参ったと呟く。

「だから.....あーもう! それは俺が蓮ちゃんを抱きたいから言ってただけ。蓮ちゃんって、ほんと、何とかが頭に付くくらい素直だよな。そういうとこまで変わってないって.....むっかつく! むかつく! この泣き虫蓮め」

 本当はただこうするだけだと、結が蓮の泣き顔を隠すように、紙の束を蓮の額に押し当てる。

「.....本当に?」

 嗚咽を噛み殺しながら聞いた蓮に、悔しげに結が頷いて、蓮は涙で濡れた顔を朱に染めた。あーあと結が残念そうに、繋いでいない側の手で顔を覆う。

「くっそ.....もー、泣くなんてずっりいの、いつも通り流されて、大人しく抱かれてくれれば良かっただけだろ.....」

 呟いて仰向けに寝転んだ結は、やがて手の隙間から蓮の赤い顔を覗き見ると、拗ねた子供のように横向きに寝転んだ。


 結から手渡された本を持って店に戻った蓮は、開店準備もせずに、カーテンを引いたままの暗い店内で、レジカウンターに備え付けの椅子に座った。手元だけを照らすランプを頼りに、鴛鴦の刺繍に指を這わす。

 蓮が大人げもなく泣き出したあの日、いつも通りに食事を始めた結は、その後何も言って来なかった。昔、作文を書いた時のように、何事もなかったかのように、彼は振る舞い、それからも蓮が結の家に通うのも、たまに冗談を言う結に笑わせられるのも、以前と何も変わらない日々が続いた。

 けれど、蓮はいつか結に話そうと思っていたのだ。流されるままにはならず、自分の気持ちも、今まで話せていなかった、蓮のこれまでの話も、全部を結に話すつもりだった。

「親父達の店にあった古本も、後で宅配で届くように手配してあるよ。だから、これで、蓮ちゃんがここへ通う理由はなくなるな」

 今日こそは話をしようとしていた蓮は、緑茶を啜る結の片手から、ずっと欲しかったあの本を渡されて、何も言えなくなった。極めつけに新聞から顔を上げない結は、手を振った。

「もう、諦めて手放すよ。今までありがとうな、蓮ちゃん」

 それきり黙った結は、何も言ってはくれなかった。混乱した頭では、頷くのが精一杯だった蓮は、そのまま家を出た。

「.........私の、ばか」

 鴛鴦の上へ顔を伏せて、蓮は呟いた。蓮はまた、流されてしまったのだ。

 ぽたぽたと表紙の上に涙が落ちる。泣き虫蓮、と結に言われた気がして、蓮は慌ててカーディガンの袖で本を拭いさった。実の所は、昔は二人だけのときには蓮はよく泣いて、結を困らせていた。蓮がクラスメイトから泣かされずに済んだのも、結が庇ってくれていたからだ。

 鼻を啜りながら、裏表紙を開いて奥付から装丁者の名前を探した蓮は、そして気付いた。

 装丁者と著者名は、二名になっていた。

 装丁者である結の名前の上方に高天絆たかまきずなとあり、そのまた上方には著者名、一人は高天叶恵たかまかなえ、もう一人は装丁者と同じ高天絆とあった。急いで後ろからページを捲った蓮は、本が二部に分かれている事にも気付いた。二本の栞紐はそれぞれの著者にあてられた物であり、同じ時を進む二人の主人公を同時に読み進めるために使うらしい。

 読み終えた蓮は、店の鍵を締めるのも忘れて、商店街を走った。


 表紙を開いてすぐに始まるのは、高天叶恵の物語だった。

 優しくて明るい性格の彼女は、多感な少女時代を経て、やがて大人になり、ある男と出会う。

 この世でたった一冊の本を作り上げる、装丁家の高天絆だ。彼と惹かれあった叶恵は、大恋愛の末に彼と結ばれて、そして、お茶が趣味だった叶恵のため、夫となった高天絆は、見晴らしの良い丘の上に、茶室を備えた二人の家を新調するのだ。

 震える手で、蓮が高天叶恵の物語の途中で読み始めた、高天絆の物語は、本の半ばから始まった。

 叶恵と出会うまでは、自分は死んでいたと記す男の物語は、最初は新しい命を授かって優しい母親となった高天叶恵との、順風満帆な人生についてが書かれてあった。途中まで高天叶恵の物語とも重複する内容は、孫に恵まれて暫くして、叶恵を亡くす所から、ほの暗い影を見せる。高天絆は家族と衝突を繰り返すようになったのだ。

 それは高天叶恵の最終ページで、頑固な夫を諌めるのが彼女の楽しみでもあると書かれていたが、愛する夫を見送ってから旅立つつもりでいた彼女も、病床についた最期、夫の事を心配していた。自分が死んだ後、夫が家族と上手く付き合えるかどうか、そして、孤独に死んでいったりはしないかを。彼女は夫の跡を継いで装丁家を志している孫に、だからこそ、最期に頼み事をした。その頼み事が何なのかは、孫との秘密と記される。

「ねえ、あなた。そろそろ、私のことも、本にしてくださるかしら」

 装丁されれば、寿命が縮まる。それが分かっていて、病院からの一時帰宅の折に、絆に叶恵が言った台詞だ。最愛の男に贈った、彼女の最期の言葉。つまり、彼女の物語は、高天絆が作り上げたと思われた。

 残りの高天絆の物語では、高天叶恵を亡くした後が刻刻と記される。妻が案じていた通り、妻を看取ってから家族と疎遠になった彼は、夫婦で暮らしていた家で、一人で過ごす事が多くなった。

 移りゆく季節の中で、妻が愛した庭を一人で手入れし、仏壇と書斎の机だけにひたすら向き合い、やって来る客と、似た者同士で装丁家の弟子である孫とだけ、遣り取りをする。

 頑固な男は、叶恵が死んでからは、可愛い孫の心配をしていた。自分に似て頑固で、真っ直ぐで、こうだと決めたら、周りも顧みずに走り抜けようとする孫。

 孫は幼馴染みの女の子にせがまれたからと、その女の子が遠くへ引っ越そうが、それから何年も時が過ぎようが、がむしゃらに高天絆の弟子としての道を突き進んでいた。

 成長して装丁家として絆の跡を継いだ後は、てっきり適当に誰かを娶るものかと思っていれば、お嫁さんにして欲しいとあの娘が言ったからと、嫁も貰わないでいて、両親を困らせているようだった。自分のせいだと高天絆は、仏壇に呟いていた。

 色も音も香りすらも、何も響かなかった絆の心は、叶恵と出会ってから、ずっと彼女と、彼女を取り巻く全てしか存在していなかった。彼女が死して尚も、他の誰かが入り込む隙はなく、心は死んでしまった一人だけを求め続けて、移りゆく季節が齎す全てが、彼女のことだけを思い返させる。孫はそんな部分も、自分に似てしまったのだろうと絆は記す。

 それでも、季節を見送る度に仏壇へ、まだそちらへいけないと、絆は話し掛けていた。理解者である自分が死んだら、孫が一人になってしまうから、だから、絆はまだ死ねなかった。

 まだ死ねない、まだ逝けない。まだお前の所へ逝けそうもない。成長する孫を見守って、どこか浮き立つ心でそう言い続けて、絆は何度、甘い花の香りを嗅いだだろう。

 仏壇に紅葉した楓の葉が舞い落ちて、線香立ての灰に滑り込んで、やっと高天絆は気付いた。

 楓が紅葉し、鈴虫が鳴いて、冷たい風が頬を撫ぜて、やがて葉が落ちて虫が黙るのに、まだ死ねない、まだだと言った所で、仕方が無い。

 もう、線香立てに伸ばそうとした腕に力は入らず、座り込んだ足もぴくりとも動かない。頑固な心で強烈な眠気を払おうにも、勝手に視界が薄れて行く。まだ死ねない、まだ孫を一人には出来ない。もう一度、呟こうとした絆の肩に、何者かの手が乗せられた。

 薄れ行く視界に、叶恵に似た優しい顔が映り込み、それを真っ白な紙束が遮った。まだ死ねない。縺れる唇を動かした絆に、お迎えも来たことだし、好い加減に死になと穏やかな声が告げた。一人じゃない、あんたが羨ましいと声は続けて、婆さんの願い通り、あんたを一人ぼっちには、しないからと言った。

 孫の言葉を理解した高天絆は、俺達の本こそは、お前の最高の切り札になるだろうから、つまらなく手放すなよと、最期の力で笑っていた。本はそこで終わっていた。


 夕焼けがオレンジ色の光で照らし出した丘の道を、息を切らして登りきった蓮は、格子戸を開け放ち、玄関の引き戸に鍵を差し込む。がちゃがちゃと音を立てて解錠した後は、靴を揃えもしないで脱ぎ捨てて、結の姿を探して家の中を回る。

「結ちゃん!」

 葉の影が落ちる縁側にも、仕事道具が乱雑に置かれた書斎にも、ほの暗くなった中庭にも、結の姿はない。胸に抱えて来た本が、やけに重く感じて、蓮は廊下で立ち止まる。蓮が俯いた拍子に落ちた涙が、廊下に染み込ん消えた。

「結ちゃん.....どこに居るの?」

 探し回る蓮に、結は答えない。それでも、玄関や廊下の電灯が点いているのを見ると、家の何処かには居るのたろう。

「結ちゃん!」

 探しても、呼んでも、結を見つける事が出来なくて、蓮は泣きじゃくっていた。

 結はずっと蓮を想っていてくれた。けれど、鴛鴦を手放すことで、もう諦めるからと結は言っていた。真っ直ぐな結が、一度決めた事を覆すのは考えにくい。だから、結はきっと何処かに隠れていて、自分と会わないようにしているのだろう。そう思った蓮は、ちゃんと彼に、言いたかったことを、話していれば良かったと後悔した。

 蓮は病気を患った母親が、持ってきた縁談を、行き遅れになるなと叱られて、結納まで話を進めていたのだ。そして結納の席で、やっぱり結婚出来ない、夢があるんだと、相手や相手の両親、母親に、頭を下げて破談にした。

 婚約指輪まで用意していた相手には怒鳴られ、母親からは、死の間際にまで、親不孝者と罵られた。けれど蓮はあのとき、結納の二文字に、ずっと想ってきた相手の名前があるのに、気付いてしまった。真っ直ぐにこちらを見る瞳に、また流されて、夢を叶えられなくて良いのかと聞かれて、励まされたような気がした。

 それからは、どんな困難が立ちはだかっても、蓮は夢に向かって突き進む事が出来たし、だから、店だって持てて、ずっと会いたかった結にだって、会えた。それを、蓮は話したかったのに。

「.....ごめんなさい、結ちゃん。私もずっと、好きでした」

 泣く蓮は、幼い頃、確かに難攻不落の要塞だった。いつでも泣く前に、誰よりも強い幼馴染みが、守ってくれたのだから。けれど、それはつまり、無敵の結が居なかったら、蓮はただの泣き虫でしかなく、だから泣きながら蓮は、家の中に自分が居座る言い訳を考えて、家の中をさまよって、唐突にしその実の醤油漬けを思い出した。

 気まぐれに結が菜園に植えたシソが、大繁殖して大量の実を付けたのを、せっせと蓮は収穫して、一昨日瓶に詰めて醤油漬けにした。冷蔵庫の奥で眠っているから、きっと結は気付かない。

 台所のドアを開けて入った蓮は、空っぽの炊飯器を確認して、すぐに米櫃に向かった。きっと、酒の後にお茶漬けにしたら、結は喜ぶだろうと思ったからだ。米を研いで仕掛け終えてから、緑茶の葉の残りを確認しようと、ダイニングの棚に行こうとして、テーブルの真横で酒瓶と寝転ぶ男の姿を見つけて、蓮は足を止める。

「あーあ、よく寝た。人の名前、ガキみたいに呼んでらと思ったら、また泣いてたのかよ、蓮ちゃんは」

「.........起きてたなら、そのときに返事してくれれば良かったじゃない」

 仰向けで寝ていたらしい結は、蓮の恨み事を聞いて、眠そうな目を擦って笑った。

「ごめん.....鴛鴦、読んだ?」

 寝転んだままで結はそう聞いた。

「うん」

 返事をして、蓮は棚を開けた。茶筒を取り出して蓋を開ける。香ばしい匂いを放つお茶っ葉は、まだ残りがあった。

「で、どうして此処に戻ってきた?」

 蓮の足元で結が焦れたように呟く。蓮は涙の跡の残る頬を袖で拭うと、茶筒を持って台所へ戻った。

「蓮ちゃん」

 結に名前を呼ばれて、蓮は茶筒を握り締める。答えを求められているのは、分かっていた。けれど、蓮は今はただ、結の側にいつも通りに居たかった。

「.....醤油漬けが、夕飯に食べ頃だから」

 鍋を取り出して夕食の準備を始めた蓮の背後で、結が勢いよく起き上がる。

「おいおいおい!」

 蓮が振り返った結は、驚きと苛立ちの混ざった顔をしていた。

「蓮ちゃん、おいおいここは、こここそ、流される所だろうが!」

「.....流される?」

「あああ! もう! だから俺のとっておきの切り札、鴛鴦を読んで、俺の重たいくらいの気持ちが分かったんだろ? で、家に来た。よし、じゃあ流されろよ!」

 暫し、頭を掻き毟る結を見た後、蓮はとりあえず食事の支度に戻った。結が態とらしく肩を落として、大きな溜息を吐き出す。

「ねえ、結ちゃん」

「.....なんだよ」

 不貞腐れた返事をした結に、泣いているのを気取られないよう、声を抑えた蓮は、一度だけ深呼吸した。

「今夜は一緒に飲もう。そしたら、二人でお茶漬けを食べようね。聞いて欲しい話が、あるから」

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今夜しその実の醤油漬けが食べ頃になる こまち たなだ @tanadainaka

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