第8話 ハイドラの危機 「途端に地獄の釜の淵まで直行しちまったじゃねえか」

 昼過ぎ、一通り事情聴取を終えたイマキリは街に出た。彼には一つ目当ての場所があった。


 車を飛ばしてダウンタウンまでやってくると、急に道が細くなって仕方なく車を降りた。


 通りには日干しレンガで造られた建物が立ち並び、そこから日除けの庇が伸びていた。


 そこはどうやら市場のようで、活気溢れる売り子の声が響いていたが、今の彼にはセミの鳴き声と同じくらい暑苦しいものだった。


 帽子を被り汗を拭いながら好んで影の中を歩くと、やがて一軒の建物の前で足を止めた。


「どんな御用で警察の旦那」

 ドアを叩き覗き窓に警察バッジを見せると、目つきの悪い男がボソボソと言った。

「ここには善男善女しかいませんぜ」


「ここがノトーリアス・ファミリーの根城だと言うことは分かっています。ガサ入れをかけてもいいんですが、僕はそういう嫌がらせは好きじゃない。今日は少し話を聞かせてもらえればそれで退散しますよ」


「お気を使っていただいて嬉しいですね。分かりました。では十分後、いや二十分後にまたおいでください。それまでに部屋を掃除して砂糖たっぷりのチャイなどを用意しておきますので」


「……いや、今がいい。今、この戸を開けてくれ」

 イマキリは男の挙動から唯ならぬ様子を感じた。恐らくこの戸一枚隔てた奥では、今何かが起こっているはず。そう直感した。


「開けないというのなら今ここで大声を上げて市場の人たちの関心を買ってもいいし、引き返して相棒を呼んできてもいい。本部に連絡して応援を呼んで、ネズミみたいに増えた警官でこの建物を取り囲みますよ! 」


 男が諦めたように力を抜きドアがスッと奥へと開いた。


 部屋は薄暗くただ自然光だけで照らされていた。中央には丸テーブルが一つあり、対峙するようにギャングのボスとハイドラが椅子に座っていて、更に彼らをギャングの手下たちが遠巻きに眺めていた。


「誰か来たみたいね。あなたのお知り合い? 」

 ハイドラの質問にボスは首を振った。

「いや、どうやら警官のようだな」

「そう。じゃあ立会人にでもなってもらおうかしら。そこのお巡りさん。ちょっといい? 時間は取らせないから」

 ハイドラはボスから目を逸らさず口だけを動かした。


「見ての通り今私たち決闘の最中でね。ボスが私に銃を向け、私は『電影』のカードを切ってボスを感電させようとしている。そこに都合よくあなたが来たって訳」


「質問していいですか? 」

 イマキリは一歩前に出ると言った。

「どうしてこんな状況になった! 」


「すっごく簡単よ。交渉が決裂しただけ」

「どんな? 」

 ハイドラは答えなかった。


「それじゃあ助けられるものも助けられませんよ! 」


「こいつが仁義を破ったからだ。俺たちの客のこと、客になるであろう人間のことを根掘り葉掘り聞いてきやがった。その上『再生』の紙牌を売りに来る奴がいたら、連絡をくれとまでいう始末。まあ、普通の感覚があればそんな図々しい願いは口にせんよな」


「とにかく二人とも手の物を僕に渡してくれ。ボス、あんたは銃を。お嬢さん、あなたはその袖口から見えている『電影』のカードを」


「断っていいかしら? 私はそういう消極的な手は好きじゃないのよね。丸腰になってから誰かのさじ加減一つでピンチになるのは御免だからね」


「しかしこのまま睨み合っていても埒が明きませんよ」


「そうでもないわよ。銃で殺せるのは私一人だけど、私はこのカードに加えて更にもう一枚『加熱』のカードを上乗せする用意があるから。勘違いしないでね。火炎を起こすんじゃないの。『電影』の効力を強化する為に使うつもり。それでここにいる私以外の人間をまっ黒焦げにしてやるわ。算数ができるなら、どちらがブツを放棄するかは明白よ」


「その黒焦げになるのって僕もですか? 」

「ごめんね」

 急にハイドラが申し訳なさそうな顔をしたので、イマキリは思わず納得しかけた。


「いやいや、良くない良くない。止めてくださいお嬢さん。このままだとあなただって死ぬんですよ。誰も助からないじゃないですか! 」


「私を助けたいんだったらこいつから銃を取り上げて」

「だからそれにはお嬢さんもカードを——」

「それは嫌。考えてもみてよ。ここはこいつらのアジトなのよ。無事にここを出られるまでは絶対にカードは手放せないわ」


「分かった分かった。俺の負けだ、ハイドラ」

 ボスは拳銃をイマキリに投げた。


「底なし沼に引きずり込みやがって。お前一人の命を取るのに、組が全滅したんじゃ勘定が合わねえよ」


「他の人間の武装も解除してもらえるかしら。もしくはこの部屋から出て行って欲しいな。お願いできるからしら刑事さん」


「そう言ってるんで、ちょっと席を外してもらえませんか? 」

 イマキリの頼みに組の者たちはブツブツ言いながらも部屋を出て行った。


 最後の一人が出て行った瞬間、ハイドラの体は緊張の糸が切れたようにだらんとなった。


「豪気な女だ。たった一人で俺たちに立ち向かうなんてな」

「あんたが簡単に銃なんて向けるからよ」

 カードをポケットにしまいながらハイドラが口を尖らせた。


「ちょっと脅そうとしただけだよ。二度とここに近づかないようにな。それをお前さんが紙牌なんか出して対抗しようとするから、途端に地獄の釜の淵まで直行しちまったじゃねえか」


「それならそうと最初に言ってくれれば良かったのに」

「言っちまったら脅しにならんだろ。もういいよ、馬鹿馬鹿しい。ところで刑事さん。あんたは一体この俺に何の用だい? 」

「えっと……そうですねえ」

 イマキリは困ったように言葉を濁した。せっかく直ってきたボスの機嫌を、また損なわないかと危ぶんでいた。


「何だよその生返事は。用があるからわざわざここに来たんだろ? 」

「まあ、そうなんですけどね」

「それじゃあ遠慮なく言えよ。それともなにか、俺があんたの頼みにヘソを曲げるような小さい男に見えるってのか? 」

「そうは見えませんが……」


「私には分かるわ。この顔は何か隠している顔よ」

 ハイドラは明らかに楽しんでいるようであった。


「おいハイドラ。『走査』のカードは持ってるか? あったら俺に貸してくれよ。後で二枚にして返すからさ」

 またそれはボスも一緒のようであった。


「手打ちとしてはいい条件ね。いいわよ。私も刑事さんの要件にちょっとばかし興味があるから」

 ハイドラは『走査』のカードを差し出した。


「分かった分かった。話しますから止めてください! 」

「あら、最近の警察官はすぐ脅しに屈するのねえ。大丈夫かしら。こんなことじゃあ一市民として心配だわ」


「そんなもので全てを赤裸々にされるよりはマシですからね。僕の要件はハイドラさんと一緒ですよ。実はそこのホテル・トランスオクシアナで展示予定の紙牌が昨晩何者かに盗まれまして、それを捌くために犯人がここに来るんじゃないかと踏んだんです」


「確かにハイドラにしてもお前にしても予想としては間違っちゃいねえが、今のところまだそういう客は来てねえな」

「そうですか。どうなんでしょうか、来ると思います? 」

「俺が知るかよ。金に変えないかもしれんし、初めから買い手を用意しているかもしれんぞ」


「そこら辺は考え出したらキリがないですからね。とにかくもしそういう話があったら、何でもいいので教えてもらえるとありがたいんですけど……駄目ですかね? 」


「もちろん俺としてはこんなことくらいで警察を敵に回すつもりはないが、そちらの膨れっ面のお嬢さんの始末はお前さんがしてくれよな」


 ハイドラの白い目が突き刺さり、思わずたじろぐイマキリであった。

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