音楽の血統
第39話 マンマのファンは応援期間も長い
「そういえば、パーパがマンマと結婚するって決めたとき、おじーさまはダンコ反対! なさらなかったの?」
ミントティーのカップをそっと傾けて揺らめく芳香を楽しみながら、無邪気さを装って、綺音は上目遣いを真っ直ぐに祖父に向けた。
連休初日。
さすがの祖父は動揺こそしなかったものの、長年の圧縮された怒りや苛立ちが攪拌されすぎてツノが立つほどのクリームになった何かが、その胸中に常に保存されていたのだという事実を遂に孫たちが理解してくれるのかと思えば、些か緩んだ気持ちになったことも仕方ないだろう。
「反対ね……あれに反対の意を発するのは、もう、数え切れないほどのことだったが、まあ、あの時ほど酷かったことも珍しい」
心なしか、祖父の声は弱々しく、いつものハリが20%ばかり減っている。
「じゃあ、反対はしたの?」
美弦にしては、ゆっくりとした、優しい語調の問いかけだった。
「したな。そもそも、それ以前に通告してあったのだからな。〝我が榊原グループで日々、闘ってくれている社員や家族を守るため、次期総帥たるお前は、この五人のなかから伴侶を選べ!〟と。籠絡方法まで調査報告に載せた釣書を積み上げてやったさ!」
「凄い」
「ああ。だがな、その翌日、あいつは五人とそれぞれ婚姻した場合に起こりうるグループへの痛手──裏切りの下克上を狙っている人物とつながっているだとか、親が娘を嫁入りさせてから中枢部まで掌握して乗っ取りを企んでいるだとか、家族の個人資産を持ち出して売り払う前科持ちの親族がいるという事実だとか、証拠文書や画像、音声まで添付して突っ返してきやがった」
「わぁ……翌日って……それ、絶対、もっと前から調べて準備してたよね、パーパ。おじーさまが誰を推してくるのか分かってたんだ」
遠い目で美弦が呟くのを横で聞きながら、綺音は身を乗り出す。
「それで、パーパは、なんて?」
「──〝あなたや会社、世間が僕に望む配偶者を据えるということは、いずれ榊原の名を消す布石にしかならない。ならば、いまは婚姻の利益が配偶者個人にしかなくとも、いずれグループ全体の価値になります。いえ、してみせますよ、この僕が〟そう啖呵を切りおった」
姉弟は沈黙した。
ミントティーが目に染みる。
「あら。結架さんが息子の妻になってくれることを誰よりも喜んでいらしたのに、いつまでも反対するふりをなさっていたことを、そろそろあの子にも詫びてはいかがです?」
さらに空気が固まった。
「え、フリ……?」
苦虫を噛み潰して口中に含んだままのような表情をしている祖父に、その妻女は、にこにこと笑んだ顔を向けたまま、言葉を続けた。
「結架さんの録音演奏を伴奏に集一さんがアヴェ・マリアを吹いているのを聴いたときからの熱烈なファンでいらした癖に、本当にヘソ曲がりなんですから。あなたが集めた、あの子たちの結婚披露宴会場候補のホテルのパンフレットの膨大なこと、集一さんが困惑してましたのよ。国内だけでなく、国外のホテルからも取り寄せてましたでしょう。あの
「……初耳なんですが、お母さん」
扉のほうから声がして、祖父の肩が びくりと跳ねた。
いつの間にか、そこには集一が結架と立っている。扉を開けているのは、その話題の中にも出てきた志都子だ。集一が幼年のころから、この家で働いている。
「わたしも初耳だわ、集一。わたしの録音演奏を伴奏にしてくださっていたの?」
「中学生のときからね。ずっとお世話になっていたよ」
「まあ……」
結架の表情がほころぶ。
綺音と美弦は、置物のように
結架が義父母と挨拶を交わし、集一が母にだけ声をかけてから定位置の席に身を落ち着かせる。遅れてきた二人が出された紅茶で喉を潤すのを待ってから、この場で一番、実質的な地位の高い女性が口を開いた。
「集一さんが伴奏にしている演奏の弾き手が結架さんだと教えたのは、志都子さんですけどね。ね?」
「ええ、弦子さま。CDに結架さまのお名前がございましたからね。同じものを揃えてくれと誠一さまのお言いつけで、販売店に電話をして届けて貰いましたのも、私です。ご幼少期の録音作品も含めて総て、集一さまがお持ちのコレクションと同じくなるよう注文いたしました。以降に発売されたものは勿論、当時、リリース情報が出る度に予約するよう仰せつかっておりました」
「志都子さん……」
長年の雇用者に頭の上がらない姉に対するような視線を向けている祖父を、驚いた姉弟が凝視した。これほど威厳の失墜した姿を見るのは、初めてだ。
「まあ、お義父さま。ありがとうございます。感激ですわ。声楽を志しておられた、お義父さまに認めていただけていたなら、これほどの誉れはありません」
「ゆ、結架さん……」
「ええっ! おじーさま、声楽家だったのぉ⁉︎」
息も絶え絶えの祖父に、綺音が飛びつく。
「わあ、嬉しい! ねえ、マンマや美弦と、なにか演って!」
「そう言われると思ってはいたが」
「……つまりは遥か昔から結架の大ファンで、義理の娘になったことが嬉しくて仕方ないということですね、お父さん」
冷え冷えとした声音だったが、そこからは聞きとれないながらも明らかな喜色を集一の顔に見た一同は、一瞬、反応が遅れた。
「そして、ヘッドフォンをして歌っていたのは、あれは、結架の録音演奏を聴きながらだったのですね」
誠一が泡を吹きそうなほど狼狽した。
「お、おま、お前、なぜ」
「
「
怪訝そうに聞き返してきた父に、にっこりと笑みを向けた集一だったが、それ以上は説明する気がないらしく、口を閉ざしたまま結架の手を握った。
ため息を吐き、誠一が肩を落とす。
一応の心当たりはあるのだ。友人である登川の誕生日祝賀の会がお開きとなった後。ちょっと来て祝いの歌を聞かせてくれと言われた。その際、伴奏者がいないのに無理だと告げた彼に、悪友が差し出したヘッドフォン。そして、実はこのころの移動中に車内でいつも聴いている結架のCDジャケットを見せられ、「俺はお前の声だけ聴ければいいから」とか言いくるめられて歌わされた、あの、鍵までかけたはずの部屋。しかし、そういえば、つづき部屋が無人かどうかまでは、確認していなかった。
「あら、じゃあ、私の誕生日に、美弦さんの伴奏で歌ってくださいな、あなた。お祝いに。いいかしら、美弦さん?」
「勿論です、おばあさま」
これは絶対に断れない筋の願いだ。
「お、おいおい、二人とも」
「いいではありませんか、お父さん。僕も楽しみですよ」
冷然とした美しい微笑に悪意がないか、誠一は身構えたが。その笑みは、どちらかといえば苦笑めいていた。息子から向けられる笑みに敵視するような剣呑さがないのは、あまりに久しぶりすぎて、落ちつかない。
「……そうか」
「いいなぁ。わたしも、一緒に演りたい」
「では、綺音さんは結架さんと、演奏してくれると嬉しいわ」
祖母の笑顔が本当にそれを望んでいるものだったので、綺音の心は浮き上がって宙を舞う。
「わぁ、おばあさま!
「ええ。とても楽しみね。せっかくですもの。集一も加わってもらってはどうかしら」
「それもそうね。バッハのカンタータでオーボエと歌える曲は沢山あるでしょう。お願いしますわね、誠一さん」
──おい、どうしてくれる。
とでも言いたげな顔をした父親を見て、集一が愉快そうに笑った。
風花 ~舞い散るは きみへの想い~ 汐凪 霖 (しおなぎ ながめ) @Akiko-Albinoni
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