第38話 ふりかえるとそこにはバッハ
奏と西澤とともにヴィヴァルディをさんざん弾いて、ようやく綺音は心が落ちついた。
晶人のことで胸がいっぱいなのは変わらない。
けれど、悲観的な考えは消えていた。
いまはまだ、晶人も結架のことで胸がいっぱいなのだろう。けれど、それは叶わぬ夢。彼も、それは解っているはずだ。それを受け止め、自分のなかで咀嚼するのには、時間がかかる。
そのあいだに、綺音のことを少しでも考えてもらえたら。
綺音は、ひどく楽天的な気持になっていた。
「さて。綺音さん。ちょっとバッハを弾いてみない?」
「え?」
綺音は楽弓を振る手を止める。
「以前に
「はい……」
意図の汲めない綺音を見て、西澤がにっこりする。
「ちょっと今日のヴィヴァルディを聴いて、バッハを聴かせてもらいたくなったのよ。私の伴奏でも構わないかしら」
「はい」
綺音は首を縦に振り、ヴァイオリンを構える。楽譜がなくても、既に暗譜していた。
先生もそうらしい。
単音と和音が流れ出る。
綺音はそこに響きをのせた。
わずかな違い。
奏が息をのむ。
西澤が目を丸くした。
──なんという艶。
輝きに、いっそう深みが増している。
優美で儚げな、それでいて勁いまでに美しい旋律。それは変わらない。けれど、ほんの少しの長音のなかに、短い音の流れのなかに、以前はなかった艶麗があらわれている。
それは、いくつもの恋を重ねた大人の女性の響き。
失ったものも、得たものも、自分のうちに重ねてきた、淑女の芳醇。
──まだ、中学生なのに。
西澤は舌を巻いた。
──技術だけじゃない。表現力が……格段に増しているわ……。
雑味が混ざりがちな重音のひとつひとつにも、雲間から浴びる光の優しさのような配慮が見受けられる。激しさよりも慈しみを出さねばならない高音も、のびやかで丁寧だ。
終盤。
より繊細に、たゆたうように、音が繋がれていく。
トリルと終音。
しばらくは沈黙が場を包んだ。
「……先生?」
綺音が耐えきれなくなって声を上げる。
西澤は満面に笑みを浮かべた。
「素晴らしいわ……! 綺音さん、ここ数日で、とても表現力が上がったわね!」
「そ、そうですか?」
「そうよ。前は無邪気そのものだったのに、色気が加わったわ。奏くんのものとも少し違う、あなたならではの色気が。いったいどうしたの? 恋でもした?」
「ええっ」
綺音と奏が異口同音に小さく叫ぶ。
「あら、いいことよ。苦しい恋も楽しい恋も、すべて音楽には肥やしになるのだから。私も経験あるわー」
西澤が両目を閉じて、過去の思い出に浸る。
「まだ、若々しかった頃、ウィーンでリサイタルをしたのよ。そのとき、モーツァルトのソナタを
二人の生徒は目を丸くした。
「あまりに素敵なひとでね。もう私は離れるのが辛かったわ。また共演しましょうって約束して、別れたの。そして、それきり。いまでも思いだすの。あのひとは、すこしでも私と響かせた音楽を特別に感じてくれたかしらって」
「……会ったのも、それきりなんですか?」
奏がおそるおそる訊く。
西澤は頷いた。
「向こうは、私よりも大物だから。ウラジーミル・クレーイツェルといえば、わかるかしら?」
「ええっ、クレーイツェル!?」
「あの、モーツァルトのソナタ全集で有名な?」
「ベートーヴェンのソナタ全集も!」
綺音の興奮は最高潮になった。
「先生、すごい! 教科書に載ってるような演奏家と共演したんだ!」
西澤がひらひらと片手を振る。
「若いころよ、一回きりだし」
「でも、凄いです。ロシア最大のピアニスト!」
「逆に若いころっていうのが凄いぃ」
「向こうも若かったから。まだ、駆け出しで」
軽い笑い声を立て、西澤は謙遜する。それを、ふたりは揃って輝く瞳で見つめた。
「ほかには? 誰と共演したことあるんですか?」
「伴奏してくれたピアニスト? そうねぇ。ふたりにも分かるひとでいうと……神谷 文代さんとか、クリストフ・ワイセンベルク、マリエッラ・ポリーニ」
ふたりは目を見開いて、大きなため息を放った。
「
「なにそれ。凄いメンバーってこと?」
「うん。肩を並べる者が多くはないってこと」
ふたりのやりとりに、西澤がふきだす。
「そうね。ひとりひとりは凄いと思うわ。運が良かったのね。彼らと共演できるなんて」
腕を組み、
「正直、いまでも懐かしいわ。でも、演奏活動より教育のほうが楽しいの。あなたたちのような生徒をもてて、幸せよ。成長が楽しみだわ」
「先生……」
「生徒の伴奏のためにピアノの腕も上達したしね」
ウインクする。
そのお茶目さに、ふたりは緊張感をほぐされた。いつものレッスンとは少し違う空気。
「──さて、そろそろ夏のコンクールの準備をしないとね」
一気に緊張が戻ってくる。
「予選はパガニーニとバッハよ。無伴奏」
「うあ、パガニーニか。24のカプリースですよね」
西澤が綺音に頷く。
「そうよ。23番。バッハはソナタ第3番から、ラールゴ。まあ、セミファイナルとファイナルは自由曲だから、綺音さん好みの選曲にしてもよいでしょう」
「やったぁ」
「よかったね、綺音」
「よかった、じゃないのよ。奏ちゃんも、頑張らないと、なんだから」
「えっ、ええっ?」
奏はうろたえて、楽弓を取り落しそうになった。
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