第37話 恋敵はマンマ
「ただいま帰りました……」
小さな声だったが、聞こえたらしい。すぐに母が出てきた。
「おかえりなさい、綺音」
にっこりと微笑む母の綺麗な顔が、いまは胸を痛める。
娘の異変に、母はすぐに気づいた。
「どうしたの?」
そっと伸ばされた手が頬を包む。やわらかく、あたたかい、優しい手。綺音は胸の痛みに顔をしかめた。
「……大丈夫」
「大丈夫には見えないわ。どこか痛むのではないの?」
心配そうな、母の顔。そう。母は、いつもの母だ。
綺音は母に抱きついた。
「綺音?」
驚きつつも、彼女は綺音をそっと抱きしめてくれた。
「マンマ。大好き」
ふわりと結架は微笑む。
母から香る薔薇の匂いに包まれて、綺音は少しだけ、心が解れた。
「わたしも大好きよ、綺音。誰よりも特別で、大切だわ。集一と美弦と、おなじほどにね」
「パーパと美弦より、いまは大切にして」
きゅっと力をこめた綺音の手に、結架が手を重ねる。
「そうね。わたしの綺音。あなたがいちばんよ」
うん、と綺音は頷く。
「大丈夫。マンマ、ありがとう」
顔を上げると、世にも美しい顔が微笑みを浮かべていた。その美しさに、娘としても見蕩れてしまう。
──こんなに綺麗なんだもの。わたしが敵うはずない。
悲しみと誇らしさが入り混じる。
そして、綺音は結架から身を離すと、小さく笑った。
「マンマ、今晩は和食がいい」
「あら、ちょうどいいわ。赤魚の煮つけを作ろうと思っていたの」
「さばく?」
「今日は切り身しかなかったの。だから、大丈夫よ」
「うん。わかった。音楽堂に行ってるね」
「ええ。奏くんは、もうすぐね」
「うん。ヴァイオリン取ったら、すぐに来ると思う。今日は、宿題ないから」
「あら、珍しいのね」
「うん」
落ちついて会話ができることに安心した綺音は、鞄を床から持ち上げて、
「部屋においてくる。あと、楽譜庫に寄ってから音楽堂に行くから」
「今日はヴィヴァルディかしら?」
「なんで判ったの!?」
目を丸くすると、母は朗らかに笑った。
「昔から、なにか気持ちの乱れることがあると、あなたはヴィヴァルディに整えてもらうのが習慣でしょう? 集一と同じ。違うのは、歌曲を聴くことではなくて、演奏して気持ちを整えようとすることかしらね」
「パーパだって、マンマとソナタを
「ハ短調のことね」
「そう。夜中に聴いたよ? あれは、なんだったの?」
「さあ、わたしにも分からないわ」
うそだ、と綺音は思った。
しかし、その瞳に浮かんだ悲しみの深さに気がついた彼女は、母を困らせるのを避けて、頷いた。
重い鞄を持ち換える。
無理に明るい声を出した。
「ね、マンマ。今度、綺音ともヴィヴァルディを
結架が微笑み、頷く。
「いいわよ。いつでも、今晩にでも」
「うん。ありがと」
綺音は足取りが軽くなるのを感じた。胸の痛みも、だいぶ薄らいでいる。やはり、自分は家族が好きだ。晶人のことも大好きだけれど、母のこともキライになんてなれない。
いつも愛してくれている母。
──わたしの憧れ。わたしの目標。
それは変わらない。
──まいっちゃうな。マンマが恋敵なんて。
階段をのぼりながら綺音はため息を吐く。けれど、その心は、それほど重たくはない。
──でも、晶人くん。マンマにはパーパがいるの。これだけは変わらない。マンマには、パーパしかいないから。だから、晶人くんの想いは……。
胸にちくりと針が刺さる。
──叶うことはない。
けれど、だからといって、綺音の想いが叶うわけでもない。
──いきづまりだね。
もういちど、深いため息をつく。
廊下を進んでいると、扉が開いた。
「綺音? おかえり」
「美弦。ただいま」
いまは見ると悲しくなる顔。
それでも綺音は微笑んだ。
「今晩、マンマとヴィヴァルディを
美弦の母そっくりの顔が華やいだ。
「ヴィヴァルディ? ト短調? イ長調?」
「どっちかな。わかんないけど」
「なら良かった」
「?」
美弦が笑顔になる。
「明日からの連休、おじーさまのところに行くでしょ?」
思わず綺音は目を見開く。
「あ、忘れてたっ」
「やっぱり。お迎えの車が来るって、マンマが言ってたよ。綺音はヴァイオリンも持って行くんでしょ? 準備しておかないと、だよ」
前髪をかきあげて、綺音は吐息を放つ。
「そうだったぁ。着替えなんかは、おじーさまのうちにもあるからいいとして、ヴァイオリンとかは持っていかなくちゃだわ」
「綺音とパーパは大荷物だね」
ふふふ、と美弦が笑う。
「ピアノは持っていけないもんねぇ」
「運ぶのは手伝うからね」
「うん、ありがと」
美弦が嬉しそうに頷き、
「じゃあ、僕も、もうすぐレッスンだから、ピアノ室に行くね」
「うん。頑張って」
「綺音も」
去っていく美弦の後姿を見守り、その姿が見えなくなると、綺音は部屋の中に入った。
マリア・テレジア・イエローといわれる柔らかな淡い黄色の壁紙に、黒っぽい茶色の天井。
小ぶりのシャンデリア。
アンティークのような造りのライティングビューローに、ガラスの扉がつけられた本棚。同じくアンティークのようなチェストと、カウチソファ。さらに、壁際にはコンソールテーブル。
美弦とほぼ同じようなしつらいの部屋。
綺音はチェストの上に鞄を置いた。横の本棚に教科書を入れ、翌日の時間割に従って必要なものを詰めなおす。
それから、担いだままのヴァイオリンをそのままに、部屋を出た。
階段を下りて楽譜庫まで行くと、大きな棚の前で止まる。
「
目印の索引を指でつつき、綺音は楽譜を取りだす。
そのなかから目当ての曲の楽譜を探しだし、のこりの楽譜は棚に戻した。
ふと、目が棚の隅にいく。
「……まだ、早いよね」
思わず呟いて、それから我に返る。
「急がなきゃ」
チャイムが鳴った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます