第36話 残酷な事実
綺音は語調を強めた。
「──マンマのお腹には、赤ちゃんがいるんだもの」
晶人が目を瞠る。
「わたしたちに、妹か弟が生まれるの。だから、マンマにいまは負担をかけたくない」
無言の晶人の表情を窺うが、綺音にはどうにも理解できなかった。無表情のなかに傷ついたものは読みとれない。けれど、無関心にも思えない。
「たぶん、晶人くんの願いはマンマにとって悩みになる。お願いだから、それは避けさせて」
暫くのあいだ、二人のあいだを沈黙が流れた。
「……そうなんだ……」
やがて、晶人は静かに言った。
「おめでとう」
「晶人くん……」
「ごめん。そうだね。僕の願いで結架さんに悩んでもらいたいわけじゃない」
その声にある哀しみが、失恋によるものか、音楽をやりとげられないことによるものか。
綺音には解らなかった。
「わかった。諦めるよ」
いつもは無表情な晶人の顔だが、いまは悲しみに翳っている。
綺音は両手を握り、俯く。
「ごめんね。ごめんなさい」
「きみが謝ることじゃないよ」
「でも……がっかりしたでしょ?」
──苦しいかな。切ないよね。
「それは残念だけど。結架さんと赤ちゃんの身体が大切だからね」
唇だけで晶人は微笑んだ。
「……おとななんだね、晶人くん」
すると、彼の表情が変化した。
驚きのあとに、なんともいえない、寂しげなものに。
「……ちがうよ。いまは諦めるだけだ。そう簡単に、引きさがれはしないよ」
綺音の胸が波うつ。
そして、ずきりと痛んだ。
──やっぱり、似てる。
「いまはピアノを頑張ることにする。でも、チェンバロは結架さんに師事したい。ほかのひとから教わるのは嫌だ。それは譲れない」
「晶人くん……でも」
「引き受けてくれるまで、お願いするよ。赤ちゃんが落ち着いたら」
「でも、それじゃあ」
「待つ価値はある。それだけ大事なことだから。だから、気にしなくていいよ」
そうはいっても、それでは習熟に差が出てしまう。
「そんな顔しないで。大丈夫だから」
伸ばされた晶人の手のひらが、ぽんぽんと綺音の髪を撫でる。優しい手。思いやりに満ちた動き。
「……コンクールにも出るよ。少しでも音楽性を高めておきたいから」
それが、綺音には痛々しく見えた。
「晶人くんっ、わたし、わたしね」
けれど、晶人は聞こうとはしなかった。
「大丈夫。もう行こう。代崎くんが待っているよ」
そして、すっと身を翻して、背を向けてしまう。
「晶人くん……!」
綺音は両手を握りしめる。
けれど、それ以上は言えなかった。
──好き。
口に出せなかった。
──好きだよぅ。
言葉を発せなかった。
──すごく、すごく好きだよ……!
振りむいた晶人の顔に浮かんだ微笑は優しかったけれど、綺音の想いを退けている。
「帰ろう。今日も、代崎くんとレッスンだろう」
「うん……」
頷くしかない自分がもどかしい。
けれど、晶人の悲しみを隠した微笑の前で、心の叫びをのみこむことしかできない。
好きなひとが振り向いてくれない悲しさを知っていて、それがあることの負担を負わせるなんて。
風が強く吹いて、綺音は零れた涙が飛ばされていくのを感じた。
◇ ◆ ◇
戻ってきた綺音の表情を見て、奏は小さく吐息をはなつ。
晶人は一緒ではない。
「綺音? 蔵持くんは?」
「あとで来ると思う。さきに帰っていいって」
鼻をすすりあげながら言う。
奏は残酷なことを思う自分に嫌悪感を持った。
「じゃあ、帰ろうか。今日もレッスンがあるんだし」
綺音は頷いた。
ヴァイオリンを持ち上げて、背負う。
帰り道、綺音は一言も口を利かなかった。
重苦しい雰囲気に、奏は考えを巡らせる。
綺音の様子からして、もしかしたら好意を打ち明けたのかもしれない。けれど、呼び出したのは晶人のほうだ。なにを話したのだろう。綺音がこれほど落ちこむようなこと。綺音の直感が当たったのだろうか。けれど、まさか想い人の娘に心を打ち明けるとは思えない。晶人は、そうした無神経な少年ではない。
では、綺音の気持ちを察した晶人が、先手を打ってそれを退けたのだろうか。それにしては、綺音の様子が妙だ。もしそうなら、綺音は強がりな子だ。明るい笑顔で戻ってきただろう。
「……奏ちゃん」
家の前までやってくると、ようやく綺音が口を開いた。
「なに?」
大きな瞳が奏をとらえる。
「なにも訊かないでくれて、ありがとう」
思わず奏は大きく息を吐く。
「……話したくなったら、聞くよ」
「うん。ありがと」
やっと小さく微笑んだ綺音に、手をのばしかけて、やめる。
「今日もバロック?」
そう訊ねた奏に、綺音は首を縦に振り、
「ヴィヴァルディ」
呟くように答えた。
「作品二、第一番、ト短調?」
「プレリュード、サラバンド、クーラント」
そのどれもが、落ちこんだとき、綺音が弾きたがる曲のうちのひとつだ。
「美弦を伴奏に呼ばせてもらう?」
「先生の伴奏で充分」
綺音の頬の血色が薄い。奏は心配そうに彼女を見つめる。
「休まなくて大丈夫なの?」
「休みたくないわ」
「顔色が良くないよ」
「それは困っちゃうな」
ため息。
奏は危うく彼女に触れそうになった。綺音の嫌がることはしたくない。必死にこらえる。
風が吹いて、綺音の表情を彼女の長い髪が隠した。
「じゃあ、あとで」
奏の手から鞄を受けとり、綺音は門扉を開く。
「うん……」
手を振り、綺音はポーチへと歩いていった。
それを見送り、奏は歩きだす。
ヴァイオリンをとってこなくてはならない。
その足取りは重たかった。
綺音に元気がないと、自分も元気ではいられない。
そのことに、彼女が気づいていないとしても。
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