第35話 晶人の願いごと

 結局、三人は話を途切れさせ、教室に戻った。

 藤田と談笑している晶人の姿を見て、綺音の胸がきゅっと縮む。


 ──ああ、どうしよう。


 その横で、奏も胸を痛めていた。


 ──その十分の一でもいいから、ぼくのことも気づいてほしい。


 長いあいだ、一緒にいるのに。綺音は、奏の気持ちには微塵も気づかない。

 奏にとって綺音はずっと、最初から、特別な女の子だというのに。


 真理絵の表情が困り果てているのを見た美月が目でどうしたのかと訊いたが、彼女は友人に首を横に振った。

 事態はこんがらがっていて、とても、ここでは話せない。

 それに綺音は、美月にはまだ話したくないのだ。勝手に話してしまうわけにはいかない。


 美月が肩をすくめ、咲子は微かに笑む。

 その様子には、気を悪くしたようなところはない。内心は面白くないとしても、二人は綺音のことを大切に思っており、信頼していた。自分たちを故意に粗略に扱うはずがない、と。


 それはたしかにそうだ。


 綺音は友人たちを大切に思っている。


 ただ、その性格から、言うべき機会を窺っているのだ。


「……それだけだもん」


 呟いた綺音を、奏が黙って見ていた。


     ◇ ◆ ◇


 数日後の帰り際。


 ヴァイオリンを背にした綺音に、晶人が声をかけた。


「なに?」


 首を傾けた綺音に、晶人が言う。


「ちょっと、時間があるかい」

 その表情はいつもの無表情で、感情が知れない。

 綺音は正直なところ、縮みあがった。


 ──こういう無感情なところも、レイセイチンチャクで好きだと思ったけど、いまは怖いかも。


「綺音」


 奏の視線が痛かったが、綺音は微笑んだ。


「ごめん、奏ちゃん。教室ここで待っててくれる?」

「……わかった」

 頷いた奏に鞄を預け、綺音は晶人についていく。


 晶人は綺音を例の場所に誘った。人通りの少ない場所。教員棟と校舎をつなぐ渡り廊下。転校してきて間もない彼も、時間帯によっては誰も来ない、この場所の特性を知っているようだ。


 風が爽やかに吹いて、二人の髪を揺らす。


 そこに着くと、晶人が口を開いた。


「お願いがあるんだ」

「お願い?」

 綺音は面食らう。

 思ってもみなかった言葉だった。


「結架さんに、僕のチェンバロの先生になってほしい」


「……え?」


 真剣な表情の目に、綺音は戸惑う。


「僕はピアニストじゃなく、チェンバリストになりたいんだ」


 綺音は大きな目をさらに見開いた。


「……だから、コンクールに出ないって言ったの……? ピアニストにはならないと思うって言ったのも?」


「うん。僕はチェンバロが好きだ。あの音と、響きが。だから、早くチェンバロを弾きたい」


「でも、なんでマンマに?」


 ──マンマが好きだから?


「結架さんって、あの〝折橋 結架〟なんだろう? ロスの再来とも呼ばれた、最高のチェンバリスト。天才と誉れ高い」


 綺音は息をのむ。


 結架は、自らの肖像写真をいっさい使わない。コンサートの目録にも、コンパクトディスクのジャケットにも。それは徹底している。テレビ出演もしない。だから、折橋 結架の顔を知っているのは、共演者や業界関係者に限られる。


 榊原 結架がチェンバリストの折橋 結架だということは、昔からの友だちには話していたが、晶人には、まだ話していない。結架の演奏も聞かせたわけではない。母がチェンバリストだとは話したけれど。それでも彼は知っていた。


「知ってたんだ」

「わかるよ。結架さんって珍しい名前だし。楽譜庫にあったコンパクトディスクも見せてもらったし」

「あは。そうだね。マンマのディスクもいっぱいあったよね」


 綺音はぎこちなく笑う。


「尊敬してるんだ。結架さんの演奏を学びたい」

 熱心な声。

 けれど、綺音は頷けなかった。

 ──どうしよう。


「音大に入学するまでなんて待てない。付属高校でも学べるかもしれないけど、でも、それも待ちきれないんだ。それに、誰より結架さんから教わりたい」


 ──でも、マンマは。


 数日前の母の言葉を思い出す。


 ──だから、暫く演奏活動も国内だけに絞って、ゆったりと仕事をするわ。


「だから、きみからも結架さんに頼んでみてくれないか? 勿論、最初にお願いしに行くのは、僕だけど」


 時間はとれるかもしれない。しかし。教えるということは、責任が生じる。母は以前から、音大の名誉教授になる話を断りつづけている。

 いつか、母は言っていた。


 ──わたしのチェンバロは、まだまだ、ひとに教えられる性質のものとは言えないわ。それにね。教えるということは、とても大変なことよ。自信も覚悟も、それなりに必要だわ。わたしには、とても無理ね。


 とても母が首を縦に振るとは思えない。


 ──それに、いまのマンマに無理はさせられない。


「綺音?」


 そう呼ばれることの嬉しさは、いまは感じなかった。


「……ごめん、晶人くん。たぶん、無理だと思う」


「どうしてだい?」


 すぐには答えられない。


「謝礼だったら、充分とは言えないかもしれないけど、用意できるって父も言ってるんだ。一緒にお願いに行ってくれるとも」

「そういうことじゃなくて」


 綺音の苦しさは限界を超えた。


「マンマはお弟子をとらないの。昔から。そう決めてるって言ってた」

「知ってる。でも、お願いしたいんだ」

「だめ。マンマの気持ちを乱すわけにいかないの」

「……気持ち?」


 綺音は一瞬で、決意した。


「いまのマンマに悩みごとを持って行きたくないの。だって、マンマには──」

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