幻燈②
店主の案内で通されたのは、さきほどの店をさらに一回りちいさくした部屋だった。またさらに薄暗くなっていて、ほとんどなにがあるのか見えない。ぼんやりと目に浮かぶ部屋の構造は、やはり遊牧民のテントのように丸く囲う壁と、天井を支える放射状の梁。そして、闇に慣れはじめた私の目が確かであれば、部屋のまんなかにはなにかが鎮座している。私の背丈よりすこしちいさな、機械のようなものだ。
店主はポケットからあるものを取り出した。かたかたという音がする。店主はそのあるもののなかから、なにかをつまみ上げるような仕草をした。しばらくすると、ぱしゅ、と強く擦れるような音がして、とたんに部屋があたたかな光に照らし出される。燐寸(マッチ)だ。
私は橙色の光のなかで神妙にうつむく店主の表情を見た。彼が一服でもするのかと思ったが、どうやらそうではない。なにせ煙草をくわえていない。大事そうに燐寸の火を守りながら、彼はそれを口許に寄せるかわりに、部屋のまんなかに鎮座するものに近づけた。その行為によって、私は橙色の灯りに照らされたものの正体を捉えた。
そして、私の口から言葉がまろび出る。
「……幻燈機」
それは幻燈機だった。
さっきお店で店主に見せてもらったものよりも大きなものだ。黒くて四角い形をした箱に砲弾を撃てる短い砲身がついたような、あるいは蕎麦屋で出される蕎麦湯の湯桶のような物体が、四脚に乗って据えられている。その四角い箱から上のほうに煙突が伸びているが、煙突の先っぽはテトリスのように折れ曲がっていた。
「そう、幻燈機です」
店主は四角い箱の側部を開いた。きい、と金属が擦れる音がした。彼は燐寸を持った手を箱のなかに入れる。すると、じりじりとなにかが焦げつくような音がして、かすかに油の焼けるにおいが鼻をかすめた。
「油を燃した光が像を結び、ぼくたちに幻を見せてくれる、幻燈機です。きれいでしょう」
部屋が暗いうちはわからなかったが、店主が視線を向けた先には、スクリーン代わりに大きな白い布が吊るされている。そしてそこには、幻燈機から映し出された光の像が結ばれている。その像を見て、私はふたたび息を飲む。
魔女がいた。
大きな白い布に映し出されていたのは、皺が深く刻まれた鉤鼻の魔女だった。こちらに向けた眼は、ゆらゆらと炎に揺らめいている。その光の揺らめきはまるで生命の呼吸にも似ていて、私は魔女がいまにも語りかけてきそうな気がした。彼女は私に向かって妖しく微笑みかけている。すこし怖い絵であるはずなのに、「きれいだ」と低い声でつぶやく店主の声を聞いていると、なんだかこちらまで落ち着いた気分になってくる。不思議な機械だ。
しばらくじっと見つめていると、ふたたび店主が立ち上がり、小部屋を出て行った。どうしたんだろうと思いながらしばらく待っていると、戻ってきた彼は小脇におおきなガラス瓶を抱えている。私に歩み寄り、手に持っていた小ぶりの切子グラスを差し向けてくる。
「一杯どうですか?」
私がきょとんとしていると、彼は「お代はいりませんよ」と相好を崩した。そういうことじゃないんだけどなあ、と内心苦笑いしながら、礼を言って受け取った。店主はその場に腰を下ろす。私は彼のとなりに腰掛けた。
彼が注いでくれる酒は、切子のグラスのなかでかすかに碧白くきらめいていた。軽く口に含むと、爽やかな風がのどから鼻へと抜ける。薄荷酒だ。終わりゆく夏の夜への手向け酒にはちょうどいい。グラスを満たす光を口許に寄せて唇を濡らせば、私の身体のなかには爽やかな風が駆けめぐる。しとしととお腹の底に恵みの雨が降って、露に濡れた晩夏の草花が薫ってくるみたいだった。
すぐ空になってしまったグラスを持ちつつ無言で店主を見ると、店主は口角を上げてガラス瓶を持ち直す。いちおう恐縮しながらそれに応える。すると私のグラスにはふたたび碧白い光が満ちる。それを繰り返す。そんな時間を不思議に思いながら、凝りのように身体の内側に溜まっていた気持ちがほぐれていくようにも感じた。ちびちびとグラスを口に運びながら、ゆらゆらと微笑む魔女の幻を見つめる。
ひとりの人間の不幸を願ってしまったこと。
かつての私を幸福にしてくれていたはずのそのひとが、いままた私を幸福にするのは、そのひと自身が不幸になることなんだということ。
私は暗澹たるその思いを、きらめく酒といっしょにお腹のなかに流し込む。
それ以外はなにも望まないのだ。
もうどうにでもなれ。
ただひとつ願うなら、あいつが不幸になればいい。
でもほんとうは、そんなことを考えてしまう自分自身が醜くて、恥ずかしくて、悔しくてたまらない。他人の不幸で、しかもまがりなりにもかつて心を寄せたひとの不幸でしか、自分の幸福を見出せない、心の平安を保てないだなんて、人間としてあまりにもねじれている。現実を見ていなかったのは私だ。結論から逃げていたのは私だ。この罪は私のものだ。それなのに私は、悲劇の主人公を気取っているのではないか。生ぬるい悲哀を画面映えするだけのワタシ劇場に仕立てて、かってに酔いしれているだけではないのか。そんな醜い闇に飲まれてしまった私の心は、もう輝くことはできないのではないか。
「……」
ふと我に返った。私の手許のグラスは空っぽだった。店主の足許に置かれたおおきなガラス瓶もすっかり中身が減り、いつのまにか半分くらいになっている。あれほどの酒を飲んだのであろうか。すこし度が過ぎたかもしれない。手向けの酒の量も、罪の告白も。
部屋の隅のおおきな布には、あいかわらず魔女が妖艶に微笑んでいる。私のとなりにいる店主は、ずっとその幻を見つめている。私の心の闇に審判を下すはずの彼の満月の瞳は、もう私のことなど見ていないように思えた。こんどはその幻が私自身の罪を背負っているかのように、そしてそれを断罪するかのように、彼はずっと魔女の幻を見つめている。
「どうやらしゃべりすぎたみたいですね。いささか酔ってしまいました、ぜんぶおいしいお酒のせいです」
もう光を失った空っぽの切子グラスを、手近な床の上に置いた。部屋には机がないから床に置かざるをえない。間違えて蹴飛ばさないよう注意を払う必要があった。でも私は、すぐにでもそのグラスを手放したかった。
店主がふと立ち上がる。その手には半分ほど酒の残ったガラス瓶が握られている。幻を映す機械に歩み寄りながら、店主が口を開いた。
「酒は人間の本性を暴く」
彼は言った。「酒に飲まれた人間は、その醜い心をついにさらけ出す」
私はうつむく。弾劾にも似たその言葉に、私はすっかり酔いも醒める思いだった。そうだ、私は酒の勢いに飲まれて、醜い心をさらけ出したんだ。初対面の店主に、私はいったいなにをしゃべったんだ。
しかし店主は、その言葉のあとをつないだ。
「そして、酒を喫した『彼』もまた、人の心を暴き出す」
店主は持っていた薄荷酒のガラス瓶を、幻燈機の真上で傾けた。折れ曲がった煙突から、碧白い液体がとぽとぽと流れ込んでいく。じゅう、と機械のなかで炎が潰える音が聞こえた。私に微笑みかけていた魔女の幻も消える。小部屋はふたたび宵闇に支配された。それでもなお、店主は酒を注ぎ込んでいる。けっこうな量が入ったのではないのだろうか。幻燈機からはしかし、酒があふれ出るようすはない。
「あ、あの……?」
問いかけてみても反応はない。ついに一瓶すべて注ぎ終わってしまったようだ。ぽた、ぽたと機械のなかで雫がこぼれる音がした。ぽた、ぽた、ぽた。その音だけが響き渡る、永遠にも思える静寂のあと、幻燈機がかすかにかたかたと揺れた気がした。気のせいかと思い耳を澄ます。するとたしかに、幻燈機のあった場所の暗闇から、かたかたと震えるような音が聞こえていた。そしてそれはしだいに、がたがたと大きくなっていく。
ぽた、ぽた、ぽた。
かたかた、がたがた、がたがたがた。
そのとき幻燈機から、薄荷酒とおなじ色をした碧白い煙が漏れ出た。幻燈機の筐体の表面を這うその煙は、電灯の光を浴びた工場の排煙のように、わずかに発光して見える。
「わっ……」
驚いた私は立ち上がって後ずさった。しかし店主は、それをただじっと見つめている。彼の満月の瞳はまた、あの断罪の眼差しだった。
やがて煙は小部屋の床を埋め尽くした。雲海の上に立っているかのように、足許に碧白い煙がまとわりつく。あまりの気味の悪さに懸命に足を振り払うが、無駄なあがきだった。
そして慌てふためいていてもなお、その煙のさらなる異常に気づく。渦巻いているのだ。風はどこからも吹き込んでいないはずなのに、部屋の中心に据えられた幻燈機を取り囲むように、碧白い煙はゆっくりと渦巻いている。ごう、ごごう、と腹の底を撫でるような風の音がどこからか聞こえてくる。煙の渦は速度を増し、深い洞窟に風が迷い込んだような音が響き渡った。
そしてその渦はやがて、竜巻のように吹き上がった。思わず目をつぶる。強烈な風になぶられ、私はその場に立ち尽くした。金属が擦れ合うような音や、猛獣があげる唸り声のような音が聞こえる。碧白い竜巻が私を飲み込んだ。そのとき、一条の光が私の身体を貫いた。目を細めて見る。すると、碧白い竜巻のなかで幻燈機が私を真正面に見据え、その光で私をとらえていた。
風の音とも猛獣の声ともつかない、おぞましい雄叫びが聞こえ、その圧におされるように、私は尻餅をついてしまう。そして、まるでそれを待っていたかのように、金属を引っ掻くような叫び声とともに、『それ』は私の身体から飛び出した。
「……っ」
私は言葉を失う。
それは幽霊だった。
他人の幸福を呪う私の心の闇が具現化した怪物だ。光を映さない落ち窪んだ眼で、カラスのように真っ黒な翼を翻して、吹きすさぶ風のなかでうなっている。その声は怒りがにじみ出ている気もするし、泣いている声にも聞こえる。そして竜巻の風向きが変われば、高らかに笑っているようにも聞こえるのだ。
あまりのおそろしさに、私は頭を抱えてその場に伏せた。なにかを叫びながら伏せたと思うが、なにを叫んだのか自分でも憶えていない。そして、渦巻く嵐のなかでも、私の姿を嘲笑う幽霊の笑い声にもかき消されることなく、彼の声ははっきりと私の耳に届いた。
「お嬢さん」
店主だ。「目を背けてはなりません。耳を塞いではなりません。これはあなたの心の闇です」
やめて、と私は懇願するようにつぶやいた。
私の心を見透かすのはやめて。
私の闇を暴き出すのはやめて。
嵐のなかを漂っていた幽霊が、その落ち窪んだ眼で私をとらえる。ぐぐぐ、と目の前まで降りてくる。目と目が合う。光を映さないはずの幽霊の眼に、私の姿が見える。私は怯えている。絶望に似た匂いが鼻を刺す。ぼろぼろの腕が伸びてきて、私の首根を掴もうとする。ごうごうとうなる嵐の音が聞こえる。他人の不幸を願う心の闇が、私を不幸にしようとしている。目の前の現実から逃げようとした私自身が、私を不幸にしようとしている。
私は怯えている。
これ以上傷つくことに、私は怯えている。
「いまです」
そこへ、店主の凜とした声が聞こえた。彼は言う。
「あなたが恐れている闇に、あなたが怯えている心の傷に、向き合うのは、いまです」
私の視界に充ち満ちていた碧白い煙が、一気に吹き上がっていく。私をとらえていた心の闇の怪物が、もはやなんの感情かもわからない叫び声を上げながら蒸発していく。目がくらむ。そのとき、店主の言葉が私の心のなかに響く。
「光というものは、――」
ゆっくりと目を開くと、私の目の前にはふたたび祭りの喧騒があった。私の心の機微を知らない甘やかな街の灯りが、晩夏の風にゆらゆらと揺らめいている。太鼓と鐘の祭囃子がのどの奥まで響いてくる。そして、私はこれもまた、幻燈機が見せる幻だと知っている。
私は歩を進めた。鼻緒で擦れた足の痛みも気にかけず、私の表情を見て恐れおののく祭りの客の視線をはばかることもなく。ただまっすぐ前を向いて、私は歩を進めた。
そして、そこにはあいつがいた。
「……帆波(ほなみ)」
あいつが私の名前を呼んだ。その表情は、ふいに現れた私の姿に驚いているようでもあり、私の登場を予感していたようでもあった。
「陽太」
私もあいつの名前を呼んだ。浮かれた魔法にかけられた祝祭の息遣いのなかでも、私の声はしっかりと届いたらしい。陽太は気まずそうに眉をしかめた。私はそれで怯んだ。私を傷つける現実が、目の前の陽太の表情ににじみ出ようとしているのだ。
それでも、と深呼吸をする。私は私の心の闇に、向き合わなければいけない。これが酒の力で幻燈機が見せる幻だったとしても、私にとっては現実なんだ。受け容れなければいけない。
店主の声が聞こえる。
くるしい闇のなかで私の背中を押す、店主の言葉が聞こえる。
すぐそばまで歩み寄る。目の前で立ち止まる。しっかりと地を踏みしめる。そして私は、あいつに告げる。
「きみは私との約束を破った。どうして、なんてもう訊かないよ。きみが私のことをもう好きではないことは、とうの昔からわかっていた。それを認めようとしなかったのは、私の罪だ」
私はじっとあいつの眼を見つめた。陽太も私を見返してくる。ふたりの目が合う。そうして私はついに、ここへ来てはじめて陽太のことをしっかりと見たかもしれないということに思い至る。こんな表情をするやつだったのか。陽太のことを見ていなかったのは、私もおなじだったんだ。私はここで目の前の現実を受け容れようとしている。だから目の前の陽太のことも、受け容れなければいけない。
「でもきみは今晩、たしかにわたしを傷つけた。私はたぶん一生、きみの不幸を願い続ける。きみだけ幸福になろうだなんて、ぜったいに許さないから。醜かろうが、情けなかろうが、歪んでいようが、この感情は私の本心だよ。紛れもない、私の心の闇だよ」
きみにはわかる?
私の心の闇が生み出した幽霊の幻が、きみには見える?
碧白い嵐のなかであげる叫び声が、きみには聞こえる?
私にははっきりと見える。はっきりと聞こえる。だってそれは、れっきとした私の一部なんだから。それはたしかに私のなかで渦巻いている。私のなかで息づいている。
その闇のなかで私は、光を見出していくんだ。
自分の幸福は自分で決める、なんてよく言ったものだ。そのとおりじゃないか。きみなんかに、私の幸福は規定させない。私は新たに踏み出す世界で、自分の幸福の価値をつくりあげる。
「きみに振られて傷ついたのも、きみのことを恨んだのも、そんな自分の醜さも、私にとってはぜんぶ現実なんだ。私はそれを受け容れる。ありのままの自分を受け容れる。それを恥じる必要はないんだ。そして私はいつか、それを乗り越えていくよ」
それは、これからの私の未来の話。きみの知らない物語の話。
「私はこれから、きみのいない世界で幸福になるから。だから陽太、きみも私の知らないところで、かってに幸福になってね」
私は陽太に背を向けて歩き出す。もうあいつの反応や表情なんてどうでもよかった。もうどうにでもなればよかった。新しい一歩を踏み出していく、私の目の前に伸びる光の道こそが、いまの私にとってのすべてだった。
涙の数だけ強くなる、とかつてのポップシンガーは歌った。
つまずいたっていいじゃないか、とかつての詩人は書いた。
そして心の闇を受け容れた私は、輝ける未来へと歩き出す。
◯
いくら怪しい店だからといっても見世物は見世物だ。客としてその対価は支払わなければならない。お酒のお代はけっこうと言われても、あの時間のすべてを無償として踏み倒すわけにはいかない。
宴もたけなわを迎え、夜空にはいよいよクライマックスの花火が花開いていた。そこかしこからわあきゃあと歓声があがる。私はそのなかを、ふたたびさまよっている。
「あれ、おかしいな……?」
あの店主の店が、どうしても見つからないのだ。最初はふらふらとあてもなくたどり着いた場所だったが、その方向感覚はなんとなく残っている。ここにあったはず、というおぼろげな記憶があるものの、すぐにおなじ場所をぐるぐる巡っていることに気づく。
お礼が言いたかった。荒療治ではあるにせよ、彼は私の気持ちを前に向かせてくれたのだ。彼の言葉がなかったら、私は自分の心の闇に蝕まれ、そのまま飲まれていたかもしれないのだ。
それでもやっぱり見つからない。また足も痛くなってきた。もしかしたら私は、夢を見ていたのかもしれない。幻を見ていたのかもしれない。気が沈んで視線を落としかけたとき、どどんッ!と特大の花火が上がり、まるで雨に濡れる空をいっぺんに晴れ渡すみたいに、あたりが明るくなった。そのときだった。
きらり、となにかが地面で光った。
「……っ!」
私はすぐに駆け寄る。なにもない空き地だった。石ばかりが転がっていて、ところどころ背の低い草木が茂っている。それだけのはずだった。なのに、その光の正体を見て、私の胸は高鳴った。
かすかに碧白くきらめく液体の残った、ガラス瓶だ。
あれは夢ではなかった。幻ではなかった。……いや、幻だったのかもしれない。私が一夏に見た夜の夢だったのかもしれない。けれど、あのできごとはたしかに私のなかに息づいている。あの言葉はたしかに私のなかで光を放っている。祭りも終わり、物憂げな夏の夜に沈んでいく闇のなかで、その碧白い記憶はたしかに輝いている。
歩き出そう。
店主のあの言葉を思い浮かべて、私はふたたび、前を向いた。
――光というものは、深い闇のなかではじめて、輝いて見えるものなんですよ。
短編革命 音海佐弥 @saya_otm
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