『幻燈』

幻燈①

 涙の数だけ強くなる、とかつてのポップシンガーは歌った。

 つまずいたっていいじゃないか、とかつての詩人は書いた。

 そしていまの私は、ほんとうにそうだろうか、とつぶやく。

 いくら泣きべそをかいたところで一向に気分は晴れず、つまずいて擦りむいた右膝はじんじんと赤く滲む。晩夏の夜の風はひんやりと身体を冷やして、私の心はひたすらに弱っていた。鼻緒で擦れた足指のあいだが痛い。なんの感情もなく、まるで亡霊のように徘徊したことで私の身に起きたのは、ただ身体と心の出血だけだった。こんなんじゃあ、強くなんてなれっこない。自分でもわかっている。

 一組のカップルが笑い合い、ふざけ合い、勢い余って私にぶつかってきた。男は「す、すみません」と私の顔を見ずに謝る。そのあとで視線を上げて、ほんのすこしだけ、でもたしかにわかるように、眉をひそめた。見てはいけないものを見てしまったみたいに後ずさりして、こんどは無言で頭を下げる。女が「行こ」とつぶやいて男の服の袖を引っ張った。ふたりは足早に私の許を立ち去って行った。そこで、ああ、と私は気づく。浮かれた魔法にかけられた連中にも悟られてしまうほど、私はいまはっきりと、傷ついていたんだ。

 そして私はそれから、もうどうにでもなれ、と吐き棄てる。


   ◯


 約束の夜に、あいつはこの場所に来なかった。

 あてもなくいつまでもさまよう私を、夏祭りはとっくに置き去りにして行ってしまった。お囃子が熱を帯び、人々は目を輝かせて、深まっていく祝祭の息遣いに耳をそばだてている。短くなりはじめた日はもう暮れかかって、あたりの街並みに甘やかな灯りがともる。そのあいだ、既読にならないメッセージを何度もなんども確認しながら、私は重く湿った溜息をついた。

『楽しみだね』

 一方的に途切れたメッセージのやりとりは、噛み合わないコントみたいだった。ばかげていて、おもしろい。笑えてくる。でも実際に笑えないのはどうしてだろう。

 あきらめてスマホをかばんに突っ込んだ右手を、そのまま頭につけた髪留めに当てる。ちいさなジュエリーボックスから、せいいっぱい可愛いやつを選んできたつもりだった。慣れない浴衣の着付けも、不器用な私なりにちゃんとやってきたつもりだった。髪型だっていつもとちがう。いくら鈍感だって気づくはずだ。一目見たらわかるはずだ。なのに、どうして、一目も見ようとしてくれない。私を見ようとしてくれない。

 あいつと繋ぐはずだった右手は、そのまま宙空を切った。

 こうなることはわかっていたような気もする。あいつから返事が来なくなった三日前のあのときから、わかっていたような気もする。いや、もっと前からか。いま思えば、ずいぶんと前からあいつは、会話のときに私のほうを見なくなっていた。でも、私は直視することから逃げた。きっとつらいであろう事実を受け止めたくなかったのだ。あいつが私を見るのをやめたかわりに、私は現実を見るのをやめた。

 ふらふらと祭りの出店を冷やかす。店先には色とりどりのものが並んでいた。チョコバナナとか、焼きそばとか、ヨーヨー釣りとか射的とか、おいしそうなもの、楽しそうなものはいっぱいあった。けれど、いまの私には他人事にしか思えなかった。おいしいんだろうな、楽しいんだろうな。この場所にいながらどこか別の惑星で起こっている風景みたいに思えるほど、祝祭の息遣いは私から遠くかけ離れていた。

 楽しいわけがなかった。

 お祭りなんか楽しくない、青春なんか楽しくない、人生なんか楽しくない。もうどうにでもなれ、と吐き棄てた言葉が身体にまとわりついたようだった。死にたい……なんて大それたこと言う勇気はないけれど、生き続けることに興味をなくしたように、自分の未来に意味をなくしたように、心にぽかりと穴が空いてしまったみたいだった。

 もうどうにでもなれ。

 ただひとつ願うなら、あいつが不幸になればいい。



 そんな気分だったからか、私はふととある見世物小屋をはた目に見て足が止まった。浮かれる夏祭りの会場でその小屋がなぜ私の気を引いたのかは、私自身にもよくわからない。晩夏の風に揺らめく甘やかな祭りの灯りのなかで、その小屋はうす暗い宵闇にとっぷりと沈んでいるように見えたのだ。会場のはずれにあるという理由だけではないように思える。ただその小屋には、いまの私を惹きつけてやまない不思議な魔力があった。

 小屋の形は出店の屋台とは違い、大陸で遊牧民が暮らすテントみたいな家の形に似ている。ゲル、だったっけ? 社会科は苦手だったからよく憶えていないが。その小屋が祭りの喧騒から外れた世界の片隅みたいなところにちんまりと建っていた。その暗ぼったい異様な雰囲気からか、だれも人が寄り付いてないようだ。そりゃそうだ、私みたいに「元」恋人を呪いながら、ふらふらとこんなところにまで流れ着く人間なんて、この夏祭りにはいないだろう。

 それにしても雰囲気が異常だ。黒々としたオーラが漂っているように見えるのは、決して夜の闇のせいだけじゃない。もしかしたらここは怪しいサーカス団の秘密の拠点で、なかで凶暴な猛獣でも調教しているんじゃないか、黒魔術で産み出した怪獣を飼育してるんじゃないか、いやむしろ、祭りの喧騒に紛れて捕らえた愚かな人間どもを、未知の高知能生命体が洗脳している最中なのではないか……? おぞましい思考がぐるぐると頭をめぐる。まあ祭りの客=陽キャだから、彼氏持ちメンヘラくそ女どもは宇宙人に喰われてしまえばいい……えんがちょ……と思っていると、いつのまにか私はその怪しい小屋の内部のことが気になりはじめていた。もともと祭りになんてもう興味も用事もないし、どうにでもなれ、とか吐き棄てていた人間なので、むしろ宇宙人でも出逢ったほうが楽しい。だから私は、小屋の入り口をくぐった。

「失礼しまーす……」

 小屋のなかに人間の気配はなかった。もちろん宇宙人もいなかった。おぞましい降霊術や調教、人体実験などは行われていないようで、私はいささか安堵した。それと同時に、どこか残念な気もする。

「……って、私、なに期待してんだか」

 小屋はほんとうに社会科の資料集で見た(ウン年前の高校の記憶)遊牧民の家みたいで、ぐるりと丸く建物を囲む壁や足許の床には色彩豊かな幾何学模様があしらわれ、頭上では何本もの木の骨組が中心から放射線状に伸びて天井を支えている。そして、その真ん中にはランプが吊り下げられており、宵闇に沈む小屋をぼうっと照らし出している。壁際をめぐる棚は雑多なものであふれている。しかし、雑多ななかにも秩序はあるようで、そのモノたちがいちばん魅力的に映るような角度で棚や床に置かれているみたいだった。たぶん売り物なんだろう。

 私は商品を見て回った。長崎で見つかった日本最古のねこの肉球の化石、一発打ち上げると天気が晴れるという花火の特大五尺玉(私の背丈とほぼおなじくらいある)、「アエリカ帝国」という国から輸入した特産品のフェイスタオル(聞いたことない国だが実在するらしいけれど、ほんとかな。ニコちゃんマークが描いてあって実にださい)などなど。月の石なんてものもある。どれも眉唾物ばかりだ。けれど、眺めているとなんだか楽しくもなってくる。子どもが思い描く夢のアイテムを思いつく限り集めてみました、みたいな棚の上の顔ぶれに、警戒していた私の心もだんだんとほぐれていくようだった。

 どれどれ、あいつに買っていくお土産はないだろうか、とびきり迷惑なやつを……と考えて、もうその必要はないことに気づいた自分の滑稽さに笑う。なに考えてんだ。あいつは自分でこの場所に来ないことを選んだんじゃないか。来ないと決めた場所の思い出なんて、あいつが必要としているはずがない。ましてや私との思い出なんて。

 商品を手に取っては戻して矯めつ眇めつ、「あやしい……」とひとりで唸っていると、とつぜん、

「いらっしゃい」

 と後ろから声をかけられた。お腹の底を撫でるような、低く沈み込むように響く声だ。「ひぃっ!?」と間の抜けた声が口から漏れる。振り向くと、目の端に男性の姿が映った。レジカウンターの向こうに店の奥へ続く通路があり、そこからこの店の店主らしき壮年男性が顔を出している。まったく心臓に悪い。

 消え入る声で「どうも……」と返すと、店主はかすかにこうべを垂れた。「あやしい」とはっきり口にした手前、気まずさのあまりすぐに店を後にすることもはばかられる。もうすこし適当に冷やかしてさっさと退散しようと思い、しばらく物色しているふりをすると、とあるものが私の目についた。

「切り絵?」

 それは切り絵だった。長い一枚の黒い紙がぐるりと一周して繋がっており、背の低い円筒のような形になっている。紙は精巧に切り抜かれ、情景が再現されている。祭りかなにかの様子だろう、建物などの街並みのなかにのぼりや提灯が見える。空の空間に咲いているのは花火だろうか。石畳の道を歩く子どもたちの表情は楽しげだ。

「すてき」

 切り絵を眺めながら無意識にそうつぶやくと、ぬっ、と私の左側から黒い影が伸びてきた。人の手だ。

「うわぁっ」

 ふたたび間抜けな悲鳴をあげてしまう。見ると、先ほどの店主がいつのまにか私のそばまで近づいてきていた。音もなく腕を伸ばして、私の肩越しに棚のものをいじっている。

「死ぬかと思った……」

 撫で下ろすように胸に手を当てた。心臓がばくばくと高鳴っている。ときめきにも似たその心の躍動に気づいて、私の心境もいよいよ複雑になる。どうして夏祭りなんかに来てまで、こんな薄暗い部屋でおっさんにときめかされなければいけないんだ。これがかの有名な吊り橋効果か。だとしたらたまったものではない。

 私が人知れず憤然と店主を見据えていると、彼の手許でふわりと灯りが灯った。見ると、フィルムリールのない小さな映写機のような機械から、まっすぐに光が伸びている。棚の同じ段に背の低い白い板が衝立のように置かれており、光はその衝立の板に向かって当たっている。板にはスポットライトのような丸い光の穴が空いているみたいに見えていた。

「……?」

 私が不思議がってまじまじと見つめても、店主はなにひとつ説明をしなかった。彼は無言のままその機械の位置を動かし、衝立に空いた光の穴の位置を調整する。そして一連の作業を終えると、私の目をじいと見た。

「え、な、なに」

 怖かった。薄暗い小屋に浮かび上がる彼の双眸は、かすかに波立つ湖面に映る満月のように、ゆらゆらと揺らめいていた。まるで私の心に巣食う闇に審判を下すかのごとく、彼は私から目を背けない。

 いったいなにがはじまるんだろう。いまからこの機械で眼でも焼かれるんだろうか。「彼氏にふられて傷心の乙女(笑)の右目丸焼き、価格応相談」とかキャッチーな販促ポップをつけられて、この異空間に飾られて売られるんだろうか……私がしこたまびびっていると、しかしそういうわけでもないらしく、店主は私の持っている切り絵の筒と小さな映写機を交互に指差した。どうやら「それをここに置け」という合図のようだ。不思議でしかたがなかったが、逆らってやっぱり目を焼かれることになるのもいやなので、私は店主の指図に従った。

 持っていた切り絵の円筒を、その真ん中に映写機がすっぽりと入るように、周りを囲うように置く。すると、衝立に当たっていた光は切り絵の模様によって一部分だけ遮られ、一部分はくぐり抜けて衝立を照らした。その光は形となり、像となり、情景となって、薄暗い小屋の闇のなかに浮かんだ。店主が切り絵の円筒を回すと、衝立に映る情景もみるみる変わっていく。まるで街灯が灯るように、小さな夜空に花火が狂い咲くように、そして子どもたちの笑顔が輝くように、切り絵は光の架け橋となって、小屋のなかの私と切り絵の世界とを結んでくれた。それはあまりにも幻想的で、私は息を飲んだ。

 この幻想の世界に入り込んでしまったら、二度とこちらの世界には戻って来られない気もする。そしてふたたび目を醒ましてしまえば二度と、この幻想には出逢えないような気もするのだ。

「幻燈です」

 ぽつりと店主が言う。さきほどは低く沈み込むように思えた彼の声が、弦楽器の音色のようなどこか芯の通った声色に聞こえた。

「幻燈?」

 顔を向けて私が訊ねると、瞳のなかの月を揺らして彼は答える。

「そう。マジックランタンとも言います。映画の祖先みたいなものです。もともとは幽霊や魔物を観客に見せる機械でしたが、こういうのもありでしょう」

 私は幻燈に視線を戻す。その情景は二流三流の映画よりもよほど私の心のなかに染み入ってくるようだった。

「きれいですね。なんだか心が洗われます。いまの私にはぴったりというか……むしろもったいないというか」

 店主が私を見る。含みのある私の言葉に、彼のなかで引っかかるところがあったのだろう。

 べつに気を引きたいわけではなかった。話を聞いてほしいわけでもなかった。ふらっと訪れた得体の知れない見世物小屋の、得体の知れない壮年店主に向かって、そんな言葉が出たのがそもそも想定外だった(たいへん失礼な言い分だが事実だ。得体の知れなさで言うなら私も負けず劣らずであろうが)。

 でも、と私は思う。

 どうせもう二度と逢えない幻想だ。すこしくらい弱音を吐いたところで、去りゆく人への呪詛を述べたところで、夏の神さまは見てなんかいないだろう。なにせきょうはお祭りだ。神さまは民衆からもてはやされるのにせいいっぱいだ。

「きょう、とてもいやなことがあったんです」

 うつむいて、足許にぽたぽたと言葉をこぼすように、私は話をはじめた。とつぜんこぼれはじめた言葉に、店主が耳を傾ける気配がした。

「私の青春がひとつ、終わりを告げまして。約束を反故にされて、私はこの夏祭りにひとり取り残されまして。失意のうちにふらふらさまよっているところに、このお店を見つけたんです」

「……」

 店主はなにも言わずにいた。私にとってはその静寂がむしろ心地よかった。

「私は彼が幸福になることを許せませんでした。そして彼の不幸を願いました。自分の幸福などもはやどうでもよく、ただただ彼の不幸を望みました。あそこのお賽銭箱に千円入れて。千円ですよ、千円。奮発しちゃいましたよ。神さまもびっくりでしょうね、どうしたこの女、貧乏くさい顔してんのに太っ腹じゃないかって。そりゃそうですよ。こっちだって必死なんです。自分がこんなに不幸なのに、あいつだけがいい思いするのは許せないから。だからあいつの不幸を祈りました。そのほかのことは、もうどうにでもなれって。ふだんはご縁がどうのこうの言って五円ぽっちしか払わないくせに、人を不幸を願うときってどうしてあんなに見境がなくなるんでしょうね」

 私は息をつく。店主はみじろぎひとつしないで、私の告解のゆくえを見守っている。

「そして私は気づいたんです。ああ、人間にとってのいちばんの幸福は、他人の不幸なんだなって。そんなふうに思ってしまう、人間という生き物は、私という存在は、なんて醜いんだろうって」

 小屋に沈黙が降りた。私の呼吸と鼓動だけが、耳のなかに響いている。

 しばらくすると店主は、小屋をぼんやりと照らしていた幻燈機の灯りを消した。そしてしずかな笑みを浮かべて私を見る。さきほどとおなじような、私に審判を下す無慈悲な満月に似た瞳で。

「お嬢さん、もっとおもしろいものを見せてあげよう」

 彼は言った。「こちらへおいで」


   ◯

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