Ⅲ 楽器練開始

第1楽章 朝練にて

 打海うつみ高校吹奏楽部には、文化部の中では唯一、運動部と同様に「朝練」と呼ばれるものがあった。吹奏楽部では授業が始まる前の30分間、練習をすることになっている。


 朝練では楽譜を用いた演奏の練習はせず、部員たちは基礎練を中心に行っている。たった30分の練習ではあるが、パーカッションの場合はバチを持つ感覚、一定のテンポを刻む感覚といったもののように、吹奏楽部員たちの日ごろの練習の「感覚」というものを時間が空くことで忘れないようにするために設けられた時間のようだ。



 その朝練に向かうため、早めに登校する優人のかばんの中には、前に霧野に頼まれた、バチを入れるための袋が入っていた。


(案の定、母さん張り切って……昨日たった一日で作ってたな。まさか、金髪の不良っぽい女子に作ってるとは思ってもみないだろうけど……)

 優人はかばんの中に入っている、手芸が得意な母親お手製のバチ袋を、かばんの隙間からこっそりと覗き見る。

(霧野のヤツ、これ気に入ってくれるのかな……大丈夫かなぁ。気に入らない、って言われて投げつけられたりしないよな……)


「優人、おはよー」


 後ろから聞こえた声に、考え事をしていた優人はハッとして振り返る。そこには優人と同じように朝練に向かう、クラリネットパートの吹奏楽部員、山下志穂の姿があった。

 同じ吹奏楽部員というだけでなく、優人にとっては幼馴染という間柄でもある志穂は、家が近所で部活も同じため、登校時間が同時になる可能性は十分にあるのだが、実際に登校中に会うのは久々のことだった。


「あ、志穂。おはよう」

 誰かと一緒に登校することが久々だった優人は、子どもの頃から話し慣れている志穂とはいえ、ほんの少しだけどぎまぎする思いがした。


 そんな優人の様子を気にする素振りもなく、後ろから追いついてきた志穂は当然のように優人と並んで歩き、気兼ねない様子で話しかける。

「何気に久しぶりだよね、優人と登校するのって。部活でもさ、パート(担当する楽器(ごとの区分))が違うから全然話す機会とかないし」

「そうだね。今は基礎的なことを習ってる段階で、他のパートと練習する機会もまだそんなにないから」

 優人が頷いて言うと、志穂は少しうつむいてぽつりとこぼす。

「でも、優人もせっかくクラリネットやりたがってたのに……パーカス(パーカッションの略称)の担当になっちゃうなんてね」


 その言葉を聞いた優人は、自分でもそれが本意ではないと思うところのある話題に触れられたためドキリとしたが、咄嗟とっさに笑ってごまかす。

「……うん。確かに決まった時は結構ショックだったけど……やっぱりメロディーとか奏でたかったなとは思ったし。でも……先輩たちはすごく親切だし、千里もいるし、今は何だかんだ楽しくやってるよ」

「……それなら良かったけど」

 志穂はそう呟きつつも、まだ優人を心配気に見つめている。もしかして笑顔が引きつっていたかな、それとも元気がないように見えただろうかと優人は不安に思い、自分の表情から心の内が読まれないようにと、思わず志穂から目を逸らす。


 しばしの沈黙の後、志穂が口を開く。

「でも、パーカス……霧野さん入ってきて、大変じゃない? その……優人、大丈夫なの?」

「え、大丈夫……って?」

「……あの霧野さんと一緒にやるの、正直大変そうかなって思って。優人って、ちょっと気が弱いし心配で……」

「う、うん、まあ……確かに、まさかあの霧野が入部するなんて思わなくて、結構戸惑ったけど……」


(でも……霧野、パーカッションに関しては正直、僕より熱心に練習してるんだよな……)

 優人は心の中でふとそう思った。とはいえ霧野については優人もまだまだ不安視しているところでもあり、今までの言動から霧野を敵視していそうな様子の志穂を前にしてまで霧野の肩を持つ発言をすることはないか……と考えた優人は、その言葉を飲み込み、別の言葉を口に出す。


「まあ……今のところ、練習は普通にやってるよ。まだ基礎練だけだけど」

「……そうなの? ちゃんと真面目にやってる?」

「うん。だから……まあ……大丈夫じゃないかな」

「でも霧野さんって……あの性格だし、合奏で皆の演奏に合わせてくれるとは、到底思えないんだけど」

「……それは…………」

 その点に関しては自分も不安に思っている部分であったため、優人はそれ以上何も言えず、黙り込んでしまった。

「……正直、不安要素しかないのに……こんな時に入部されても困るよね」

 志穂は曇り空を見上げながら、誰に聞かせるでもなくそう呟いた。



 朝練開始の十分ほど前、少し早めに優人と志穂は吹奏楽部の部室として使われている、視聴覚室に辿り着いた。

 クラリネットパートの席へ向かう志穂とはその場で別れ、優人はパーカッションパートの集まる、視聴覚室の中央前方の席へと向かう。


 優人が自分の席の周りを見ると、パーカッションのメンバーの中で、今のところ来ているのは――――霧野ひとりだけのようだった。


 霧野は点呼の時間の前にはいつもどこか外へ移動していて、視聴覚室にはいないことが多かった。しかし今日は早めに来たからか、霧野はまだ視聴覚室にいて――――これから練習に向かうのだろうか、基礎練道具を手に持ち、ガタガタッと音をたてて席から立ち上がろうとしている。


(あっ、練習に行く前に渡したかったのに……)


 優人が霧野を眺めてそんなことを思っていると、その視線を感じたのか、ふいに霧野がこちらを見て、はたと目が合ってしまった。


「あっ」


 思わず声をあげた優人を、霧野はいぶかしげに見る。

「何」

「あ、ええと……その、おはよう」

 とりあえず挨拶をする優人を一瞥いちべつし、霧野は優人から目を逸らしながら、呟くように言う。

「……おはよ」


 それからおもむろに立ち上がり、基礎練道具を持って視聴覚室の外へと向かう霧野を、優人は慌てて引き止める。

「あ、待って、ちょっと霧野に用事が……」

「何」

 眉をひそめる霧野の視線におどおどしながらも、優人はかばんの中をまさぐり、目当ての物を取り出して霧野に手渡す。

「これ……前に言ってたバチ袋。作ってもらったんだけど……」


 霧野は優人の手にあるものをじろりと見る。それは黒地のしっかりとした布でできた袋に、カーキ色の紐が袋の口についた、バチを入れるにはぴったりの大きさの、長細い袋だった。


 霧野は手渡されたバチ袋を興味深そうに眺めまわした後、少し頬を紅潮させ、満足気に頷く。

「……助かる。その……作ってもらってありがとうございましたって、アンタの母親に言っといて」

「あ、うん……!」


 霧野が素直に感謝の言葉を口にするのを聞いて優人が目を丸くしていると、霧野は手に持っていた、この前行った楽器店で買い物した時にもらった袋の中から自分のバチを取り出す。

 そしてそれを早速、優人が持ってきたバチ袋の中に入れ、袋の口の両側についた紐をきゅっと引っ張り袋を閉じる。


「じゃ、一足先に練習行ってくる」

 霧野はそう言ってくるりと背を向け、バチ袋を頭の横に掲げて軽く振った。



「いい感じだね、ユッキーのバチ袋も。シンプルだけどユッキーらしい、カッコいい感じの色だね」


 その日の朝練終了後、千里が机に置いてある霧野のバチ袋を眺めながら、霧野に声をかける。


「……ゆっきー?」

 未だその愛称に慣れない霧野が思いっきり顔をしかめるも、全く気にすることなく、千里は自分のバチ袋を霧野のバチ袋の隣に並べる。それから近くの机に置かれていた優人の袋も勝手に手に取り、隣に並べて置いて、満足気ににっこりと笑う。

「わあ~~バチ袋、一年生三人でお揃いになったね! いい眺めだぁ」

 霧野は「お揃い」という言葉に少々うんざりした様子を見せるも、内心まんざらでもないのだろうか、千里と一緒に三つ揃ったバチ袋を黙って眺めている。


「これでようやく霧野の基礎練道具も全部揃ったし、ちょうどいいタイミングだったな」


 その後ろで大村も、三つ揃ったバチ袋を腕組みしながら眺めつつ言う。その言葉に反応した千里が、素早く大村の方を振り返る。

「え、何がちょうどいいんですか?」


 それを聞いた大村はにやりと笑う。

「この前買い物行った帰りに言ったろ。ちょうど今日の放課後から、楽器練開始だからな」

「え、やったーー!」

 思わず万歳する千里の横で、優人も珍しく、パッと顔を明るくしている。一方の霧野はバチを使った基礎練が好きなためか、特に何の反応も見せずにいる。


「まずは担当する楽器決めからだな。ま、そんなわけだから今日の放課後、楽しみにしとけよ」


 大村はそう言ってかばんを手に取り肩にかけると、一年生の皆に背を向け、視聴覚室から出て授業へと向かう。


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パーカッション・ライフ ほのなえ @honokanaeko

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