半歩、その後

 闇夜の向こうに、榊裕子の顔かたちが見える。

 額に玉のような汗を浮かべた小春は、躰が震えるほどに昂ぶっていた。榊裕子は小春にとって最悪そのものであり、腹立たしいことに遺伝的母でもある。

 ただ普通に生きていたかっただけの小春を追い、人生を食い荒らそうとしてくる。

 

 まるで――。

 

 小春は首を振り、脳裏に浮かんだ言葉を消した。

 前を見る。歩いてきた細い道は、残り少なくなっていた。

 渡りきれたら、どうしたらいいのだろうか。生き延びたとして、何がしたいというわけでもない。ただ生きてくることに必死で、ようやく形だけでも普通に近づいてみたら、このザマだ。


 暗い部屋の中では、男が一人大の字になって寝ている。随分と時間も経った。そろそろ起こしてやらないと。

 どうやって。

 小春は踏み残したすべてを込め、左足を前へと出した。

 

 学生としての三年目、目指すべき普通の形の家族の姿を見て、榊裕子と決別することに決めて戻った。普通に至るためには、まず母と同じであってはいけない。友人と言える人はいなくても、同窓生に母と間違われているようではダメだった。


 夏季休暇に入る前、小春は長い黒髪を切り捨て赤く染め、ウィッグで隠した頭を知人たちに閉所で見せた。他愛のない、子供じみた抵抗だったとは思う。しかし榊裕子は小春の変化に気付けなかったのか、思いのほかうまくいったのも事実。


 秋の間ぱったりと姿を見せなくなかった彼女は、休みの間に会ってくれないか、と連絡を寄越してきた。絶好の時期で決別のチャンスでもある。小春はいつかのときと同じように、手製の凶器を手元に隠して持っていき、口を開くよりも早く腕を振りぬいた。


 顔に傷を残してやれば、二度と同じ真似はできない。そう踏んでいた。

 果たして四年目の春、彼女の姿は影も形もない。長い戦いを終えたと考えていた小春は、遅れて職を探し始める。母との冷戦で相手で生活が遅滞していたこともあり、夏の内に得られた内定は不本意なものだった。それでも小春は、喜びを感じていた。


 それは漸くにして得た、ずっと望み続けていた、ごく普通の挫折だった。

 秋には早々に職探しを止め、今度は恋を探そうか、などと考えていた。残念ながら周囲の人々はそれどころではなかったし、思い描いた無害な男もいなかった。

 それでもいい。

 普通の失敗を重ねて、普通の冬を迎えられたのだ。


「最後の最後で、邪魔しやがって……っ!」


 怒りに我を失った小春は、勢いよく左足を振り出していた。

 風を切り、真っすぐな道に足跡を刻む。

 二十三にしてありふれた新社会人になれ、次々と現れる普通を楽しんでいた。

 与えられた仕事で学んできたことが一切役に立たない。上司は下卑た冗談を言い、愛想笑いを返す。盆休みの前には連れていかれたビアガーデンで管を巻き、酔った振りをして露悪的に次席卒業を誇ってみせる。憧れのありふれた生活だ。


 気付けば世には人肌恋しくなってくると言われる季節となっていて、ついでに恋でもしてやろう、と考えた。

 普通を演じ続けていても小春の容姿はどうしても男の目を引くらしく、世話を焼いてくれる先輩が数人できていた。不倫はダメ、略奪愛も普通じゃない、大恋愛なんて望んじゃいない、と選んだ相手は、信じられないほど無欲で無害な男だった。


 悪くはないが良くもない顔をして、趣味があると口にしてはいても、小春ですら知っている程度の話をひけらかす。そのくせ性欲と下心は持ってくれている。唯一の問題点は社長の息子であることだけ。それも小春が勤める大して大きくもない会社の次期社長という程度のことで、十二分に普通の範疇に収めていいと思えた。


 小春は宙を切る左足に渾身の力を込め、振り下ろした。

 冬の間にすり寄った小春は、トラウマがあると誤魔化し、恋をしたことにした。

 新たに後輩がついたころ、男と時間をかけて付き合うことになっていた。小春にとっては形式的な恋愛だったが、彼に取っては劇的な恋だったのだろう。夏の盛りに躰を求められた時には、感覚の違いに苦しんだ。


 まるで踏み潰された蛙だ、と思った。大学時代に女たちが話していたのは、このことだったのか、とも。しかし小春はこみ上げる可笑しさを飲み込んで、満足気な男に生涯付き合ってやろう決めていた。


 これが普通なのだと、信じることに決めていた。

 秋には波乱を装い、冬には再び心を通わせたことにして、二十五になる。

 小春の誕生日に、狙い通り、男は指輪を持ってきた。簡素な銀色のリングと無色透明な石には、普通の人生が詰まっているようにも思えてくる。


 小春は泣いていた。

 落ちる躰は加速し、細い幅へと迫る。

 半歩ずれれば、奈落に落ちる。


 梅雨のジメジメとした空気の中で分厚く白いドレスを着ることのどこが幸せなのか、と小春は考えていた。どうせならもっと涼しい時期にしてくれ、そう言いたくなるのをこらえて、男の言葉に喜ぶフリをする。式の計画がじわじわと煮詰まってきたところで、唐突に男が妙なことを気にし始めた。


「一度、小春のご両親にも挨拶を……」


 視界が揺れる。男の残りの言葉を聞き取れない。おそらく、ありもしない墓へつれて行けと言ったのだろう。適当に死んだと言ったのがいけなかった。避けなければいけない。しかし――。


 小春の思考は堂々巡りを繰り返すばかり。いくら訝し気な目をこちらに向けられても、真実を伝えていいものか迷ってしまう。

 話す機会は、唐突に訪れてしまった。全く望まない、尋常ではない形で。

 

 昨日のことだ。正確には、ほんの数時間前のこと。

 榊裕子が訪ねてきた。

 それも小春が男の家にいる時に。

 

 階下のカメラ付きインターフォンに写る女の顔を見て、小春は言葉を失った。なにをしに来たのか、どう答えるべきなのか。息がつまり、汗が噴き出し、思わず声に出していた。


「母さん……?」


 途端に力が抜けて、小春はへたり込んだ。

 男は慌てた様子で小春に代わり、榊裕子を応対していた。


『はじめまして、小春の母です』


 聞こえた声色は機械越しで変質しているにも拘わらず、表情まで容易に想像がついてしまう。柔らかく微笑んでいるはずだ。小春そっくりの顔で、嗤っているはず。

 男に出てはダメだということもできず、ただ座り込んでいるしかなかった。

 

 数年ぶりに姿を見せた母は、驚くほど、顔を変えていなかった。

 張り付けた薄笑いは小春と同じく妖艶に男を誘い、声色は小春と区別することも難しい。目元に皺が微かに見えること以外は、全てが小春と似通い、母であることを証明している。


 小春が一言も発せない内に、会話が進んでいく。

 平凡で普通な男は、小春が嘘をついていたことには、一切触れなかった。気遣ってくれたのだと思う。彼は叔父や叔母や従弟いとこと同じ人種、つまりは真っ当に生きてきた人だ。頼んでもいないのに、事情を察したつもりになっていたのだろう。

 榊裕子は小春、男と交互に目を動かし、頬に残る傷を細い指先でそっとなぞった。


『この傷ね、この子につけられたんですよ。ひどいでしょう?』


 小春は全身の肌が粟立つのを感じ、両肩を抱いた。いったい何が榊裕子にこんなことを言わせるのだろうか。結婚を歓迎するような女ではないとも思っていたが、邪魔をする目的はどこにある。まさか自分が結婚に失敗したから、などという世迷言を言うつもりでもあるまい。

 見開かれた男の目が一瞬こちらを覗き、すぐに榊裕子に向けられた。


『えぇと、僕はお嬢さんと結婚を考えていて……』


 男と榊裕子がどのような会話は、全く頭に入ってこなかった。口をはさむ余地もなく会話を進めていく二人の顔が、少しずつ柔らかくなっていく。様々なことをいまになって知らされたはずの男は榊裕子の作る場に呑まれ、ワインなぞ出していた。

 小春は男と榊裕子に勧められるままグラスを手に取り、腐臭漂うどぶ川の水のようにしか感じられない液体を飲み干した。


 冷ややかな笑顔を浮かべた榊裕子の、穴に似た色合いの真っ黒い目が、小春の分断された記憶の中に残っている。


『伊藤小春との結婚は断じて認めません。絶対に、何があっても』


 理由が何一つ想像できない言葉の列は、いまもはっきりと記憶にある。平凡で普通なはずの男も、難色を示していた。彼の事情など知らないが、母親の言いなりになることだけは、死んでも嫌だ、と思った。


 私の人生を邪魔するなと、小春は思わず手を振り上げていた。

 手は榊裕子には届かなかった。

 小春の手首は男の大きな手につかみ取られ、痛いほど強く握りしめられていた。

 こいつはどこまで善人なのだろう、と思うと力が抜け、小春は再び腰を落とした。


 眉をひそめ、こちらを睨んでいた男の躰が、何かに押されたように揺れる。力の抜けかけた男の手が、再び手首を強く握りしめてきた。彼の視線は静かに落ちていく。

 

 小春は、男の見つめる先を、目で追った。

 アイスピックが彼の胸から生えていた。拍動に従い、黒いグリップが揺れている。粘りつくような空気の中で、男の躰は滑るように倒れていった。小春の手首を筋が浮き立つほどに強く握っていた男の手が、震えを止め力なく落ちた。

 小春は唾を飲み込み、男の躰に立つアイスピックの柄に震える手を伸ばす。


「抜いたら血が噴き出すわよ?」


 榊裕子の言葉通り、ほんのわずか上に引いただけで、男のシャツは赤く染まり始める。去っていく衣擦れの音を耳にした小春は、早まる呼吸を抑え込み首を振った。

 榊裕子は、僅かに欠けた左の犬歯を覗かせ、嗤っていた。


「またね。伊藤さん」

「……は?」


 母が残した別れの言葉は、耳の奥を抜けていく。白手袋をはめた手を左右に漂わせ、榊裕子は扉の向こうへと消えていった。部屋には渋いブドウの香りと鉄錆の匂いだけが残り、酒精によってか世界は歪み、喉がひどく渇く。

 何か飲みたい。

 小春はだらしなく床に寝転がる男に、目をやった。


「バル、一緒に行く?」


 いつもなら、「ほんと変な酒が好きだよね、小春は」なんて返してくれるのに。どうやら今日は機嫌が悪いらしい。それとも、寝てしまったのだろうか。一人で行くしかないか。最悪な一日だった。まさか母の幻覚を見るなんて。お気にいりのサングリアでも飲もう。オレンジをちょっと混ぜたやつ。不味いワインなんか飲むからだ。

 

 前へと躰を傾けた小春は、足を踏み外していた。

 九十メートル下に人気のない歩道が見えた。

 落ちる。

 浮遊感に気付いた小春は、反射的に右手を真横に伸ばしていた。全体重が一気に肘の内側にかかり、鋭い痛みが走る。

 なぜ手を伸ばした。


「死にたくないから、だろぉ!」


 小春は湧いて出てきた疑問を投げ捨て、左手を落下防止壁の端にかけた。声にもならない唸り声をあげて躰を引き上げ、足を振り上げ引っ掛ける。


「……ん、なろ……っ!」


 絞り出すように怒声を発し、小春は落下防止壁の上に乗りあがり、跨ることができた。絶望的に酸素が足りず、荒い呼吸を繰り返す。左足が僅かに軽くなり、遥か下方の奈落にヒールが消えていくのを見送った。


「……っぶねーな!」


 誰に対してでもなく叫んだ小春は、笑いだす。普段以上の力が出たのは、多量に飲んだ酒のおかげなのかもしれない。すっかり酔いは冷めていた。

 私をありふれた人にしてくるはずだった男は、榊裕子に殺されてしまった。


「血も涙もねーな……」


 小春はこの期に及んで涙一つ落とそうとしない自分に、深い溜息をついていた。

 なんだって母さんは男を殺したんだろう。結婚に反対することはまぁ分からんでもない。だけどなにも殺すことはねーだろ、と思い、小春は眼前に垂れ落ちた前髪を掻き上げた。


 かちん、と軽い音がした。

 趣味の悪い耳飾りが壁の上で跳ねた。

 月明かりを青白く返して身を投げようとしている。


「ちょっ……!」


 栄螺の殻で作ったとかいう、母からもらった唯一のものだ。

 小春は躰を傾け手を伸ばしていた。

 あと少し、もうちょっとで。

 指が冷たい感触を感じた瞬間に、小春は気づいた。


 あの女と同じだ。


 小春は落ちていく耳飾りを見送り、伸ばした手を躰ごと引いていた。もんどり打ってテラスの内側へと転がり落ちる。背中を打ったか息は詰まり、後ろ頭は痛いのだか熱いのだか分からない。目には涙がにじむ。

 ひとしきり悶絶し、空を見上げた。奈落の底に比べれば、はるかに明るい。


「さようなら伊藤さん、ね」


 母は、榊裕子は、伊藤小春に執着していたのだ。小春ではなく、に。

 ろくでもない女として嫌い、軽蔑していたはずの母の影を追おうと、小春が落ちていく耳飾りに手を伸ばたように。

 

 榊裕子は父の、伊藤徹の影を追っていただけだ。次から次に新しい男に手を出しながら、決して伊藤小春を手放そうとしなかったのは、彼の影が手元から消えるのを恐れただけだ。


 小春は屈曲したままの肋骨を指先で撫でた。

 きっと、母と唯一似ていない目つきと、血も涙もない暴力性だけは、父ゆずりなのだろう。だから榊裕子は小春を執拗に手元に置こうとしたのだろう。


「榊、裕子め……」


 私はお前なんかとは違うんだよ、と小春は思い、立ち上がった。


「趣味じゃないんだって、あのイヤリング」


 お前なんか捨ててやる。どこかであの化け物を母だと思おうとしていたから、こんな下らない人生を生きる羽目になったんだ。いつまでもずるずる過去を引きずっているから歩けなくなるんだ。


 小春は勇ましくアルミサッシを開いて部屋へと戻り、眉をしかめた。生暖かいぬめりが素足にまとまりついてきている。血だまりってのはこんなに嫌なもんなのか、ヒール落としたのは失敗だったな、などと考えながら部屋を出た。


 男のことは可哀想だとは思うが、別に愛していたわけでもない。ありふれた人生を送るために必要だっただけで、好きとも嫌いとも思ったことはないのだ。

 マンションを出た小春は、奇妙なものを見つけた。青白く光を返す、趣味の悪いイヤリングだ。探せば靴も転がってるんかなぁ、と上を見上げた。


 さきほどまでぶら下がっていたテラスは、涙で滲んで、見えなかった。

 鼻をすすった小春は涙を拭い、足元のイヤリングを見つめた。

 バルで男が言っていた言葉が思い返される。


『フラメンコではステップを刻むときに人生を踏みつけるんだ』


 小春は足を振り上げ、思い切りイヤリングを踏みつけた。靴底を通して安っぽい破砕の感触が伝わってくる。踏みにじる。


「意外とイイじゃん。習ってみようかな、フラメンコ」


 気持ちがいい、思いのほか楽になるじゃないか、と小春は頬を緩めた。あの小太りの親父の頭をカチ割ったのは、失敗だったかもしれない。謝る気もないが。

 習うなら本場がいいな、スペイン、ならあの金で行ってしまおう。

 小春がこれからのことを考え始めたときだった。


「えーと、お嬢さん」

「はい?」


 お嬢さんとは、と小春が振り向くと、制服警官が二人、立っていた。

 息がつまる。別に私が殺したわけではないのだから、焦る必要もない。でも連絡をしていないってのはまずいし、考えてみたら榊裕子は手袋を――。


「お嬢さん? えーと、伊藤小春さんで間違いないですか?」

「あ、は、はい」

「あなた、バルで男の人殴ったでしょ」

「……はい」

「嫌なこと言われたのかもしれないけどさ、殴っちゃダメでしょ。大けがですよ、あの人。いま病院に……ってアナタも怪我してるね。救急車呼ぶ?」


「いえ……ええと、会えますか? あの人」

「なんで? 謝りたいとかってこと?」

「や、謝る気はないです」

「は!?」

「ただお礼が言いたくて」

「あんた何言ってんだ!?」


 伊藤小春は警官たちに腕を掴まれ、パトカーの中に押し込められた。





「あの子は私と伊藤の愛の結晶なんです」


 ほどなくして逮捕された榊裕子は、その月並みな言葉を、繰り返しているらしい。

 小春は、従弟からの手紙を折り畳み、大切にポケットにしまった。

 わざわざスペインまで手紙を寄越すなんて、律儀にも程がある子に育ったもんだ。だいたい、いまさら教えてもらっても、過去を振り返ってやるほどの暇はない。

 陽を浴びて輝くオレンジ畑は、日ごとに美しくなっていく。


「謝りはしないけど、ありがとう、とは言っとくよ」


 ひとり呟いた小春は、心に新たな一日を刻み付け、その夜もステップを踏んだ。

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