二歩目

 小春は背筋を滑った水滴に、悲鳴を上げそうになった。驚くほど冷たい汗は、恐怖によるものなのか、それとも躰に籠った熱を蒸散させるためのものなのか。

 小春は息を吐きだし、笑った。

 どちらにしても、呼気と一緒に吐き出すより、ずっと効率がいいらしい。深呼吸を繰り返しても収まらなかった息苦しさは、汗のおかげで暑さのせいだと錯覚できた。


「だから、髪、上げてんのかぁ」


 誰に答えを求めたわけではない。合っているかどうかも興味がない。曲げた膝を真っすぐに伸ばすため、ただ拍子が必要だっただけ。

 口をすぼめた小春は息をすぅと吸い込み、右の踵を左のつま先、半歩前に並べた。

 しつこくまとわりついてくる風が躰を揺らす。視界までもが揺れているのは、酔いのせいだけではない。


 小春は強く目を閉じ、ゆっくりと開く。揺れは止まった。

 月明かりは空を青く染め、並び立つ高層ビルを黒く浮き上がらせている。

 周囲の明るさが、小春の影を強く引き立てた。気づいてしまった春の間は、明るい家の中にも小春の居場所があるはずだ、と信じていた。


 あったのは居場所ではなく置き場所だ。


 雨音と共に訪れた夏の日に、小春は叔父夫婦の愛を一身に受ける従弟(いとこ)を見て、思った。叔父夫婦にとって、放っておくと何をしでかすか分からない姪っ子は、目の届く位置に置くのがいいのだろう、と。 


 その年の冬のある日、小春が学校を早退して家に戻った時に、それは確信に変わった。電気の消えた家に叔母の姿はなく、従弟いとこ一人だけが寝息を立てていた。

 よく憶えている。

 こんな小さな子供を置きっぱなしとかどうかしてる、と小春は妙な親近感を感じたのだ。あまりに小さな彼の躰には、叔父夫婦の心が詰まっているようにも思えた。


 親近感が、とたんに淀んだ感情へと形を変えていく。

 いまでこそ嫉妬だと分かるが、当時の小春は、蹴り飛ばしてやりたいという欲望の存在を、腹立たしさよりも先に感じた。それはまるで、父が自分を蹴飛ばしたときのよう、だったのかもしれない。


 小春は自分の父とは違い、蹴り飛ばしも、殴りもしなかった。感情を殺して、頬をつついてやっただけだ。もっとも、すっ飛んできた叔母に激しく肩を揺すぶられ、何をしたのかと問われ、結局は嘘だと断じられたが。


「いっそ、蹴っときゃ、よかったかもなぁ」


 小春は右足のつま先を壁の上に着き、二度、三度と足首を回した。

 きっと蹴れなかった。いま口にしてみたところで、あの時に蹴らなかったのだから、蹴ることなど出来なかったはずだ。


 私は、父とも、母とも、きっと違う。

 小春は曲げた両肘を胸の前へ引き寄せた。手首を交差させ、両腕をねじり上げるようにして躰と一緒に伸びあげていく。強張った肩の筋肉はさらに収縮させられ、顎を上げざるを得なくなる。前へ前へと進むために、顎先を正面に向けた。


 十二になった春の誕生日、小春は家を出る方法を考え始めた。叔父夫婦の家にあり続けた方が幸せなのは、言うまでもない。当時の小春ですら、母との暮らしと比べることさえ失礼だと思っていた。それでも置物として過ごす時間は、耐え難かった。


 夏が盛りを超えても、小春は施設に移してくれと言うべきか、悩み続けた。そんな言葉を口にするだけでも悪いと思えるくせに、言わずにいるのは苦しいものだ。


 庭で鈴虫が鳴きはじめ、口に出すこともないまま、卒業が目前に近づいていた。

 察してくれたらしい叔父が小春に問うたのは、雪がちらつく冬の夜だ。


『中学までか、高校までか、どっちにしたい?』


 なぜいちいち選択を迫るのかと、不思議だった。

 いまは良く分かる。叔父夫婦はどこまでも、善人で、普通の人たちで、責任を自らの手で放棄することに、耐えられなかったのだ。


 相手に選ばせてやった方が、重荷は少ない。他者に対して一方的に告げるのは、善人の心に傷跡を残す。だから選択肢を示して見せて、相手に選んでもらうのだ。いずれ相手が後悔しようと、それを選んだのはお前だと言えるから。


「中学まで、って言っときゃ良かったんだ。私のバカめ。大バカめ」


 小春は挙げた手をそのままに、左のつま先を奈落に向かって開く。さっきの一歩よりも大きく、強く前に出てやろう、と思った。

 胸が高鳴る。

 入学式の日に、叔父夫婦は姿を現さなかった。別に不満があったわけではない。


 むしろ夏になるころには、小春は二人に感謝しはじめていた。高校まで行かせてもらえるのだから、と学費のことを調べたからだ。十三になったばかりの小春には、想像を絶する金額だった。

 まだ働くことが出来ない自分が腹立たしく、せめて無駄にはせぬようにと、何の役にも立たない勉強に励んだ。秋の内には学級内でも目立つようになり、冬を終える頃には校内で噂になっていた。


 小春は人の視線を感じ、首を振った。

 地上百メートル近いテラスに、人などいない。近くにあるどこの建物よりも高いのだから、いるとすれば、下から塔を見上げる者だけ。強くなり続ける鼓動が、錯覚を呼んだ、はずだった。

 

 学年をあげると、少年たちの視線が張り付いてきた。

 新入生たちはどこから噂を聞きつけるのか、たびたび教室に姿を見せる。視線を感じて振り向くと、彼ら彼女らは慌てて姿を隠す。まるで飼育小屋にいる兎にでもなったようだった。

 

 目立つのを防ぐために愛玩動物を演じたことが、裏目に出ていた。事態は意に反するように悪化し、榊裕子以上に頭が軽い上級生の女たちを集めるに至る。

 それまで耐えた一年と約半分を無駄にしたくなかった小春は、夏が本格的に始まるまでは沈黙を守った。

 

 休みが明けると少年たちも落ち着きを見せ、秋は静かなものだった。小春の笑顔に夏季休暇を思い出すのか、笑いかけてさえやれば、上の女たちは脱兎のごとく逃げるようになったのだ。

 雪が解ける頃、卒業生の数人が小春を呼び出した。

 いよいよ来たかと、小春は小銭数枚居れたコンビニの袋をねじり上げ、右手を通して握り込んだ。


 待っていたのは軽薄な笑顔を浮かべた男たちで、告げられたのは美辞麗句によるの言い換えだった。あのときのことを思い出すと、いまでも小春は笑ってしまう。


「ぶっ叩いとけばよかったなぁ」


 足を引き上げようとした小春は、躰の強張りを感じた。

 男どもに愛想笑いを浮かべて頭を下げた小春は、相手を同級生に変えて、同じことを繰り返した。彼らの言葉を聞いてやれるほどの余裕はない。得られる推薦枠を選ぶ方が、重要だったのだ。


 最もたやすく、多額の奨学金を取れるのはどこか。いまでは下らないといえる選択である。しかし当時は、勝手に並んでくれる男を見比べるよりも、はるかに難しく思えた。

 小春が叔父を前にして首を垂れたのは、夏至の次の日だった。

 いまと同じように足が強張っていたのが、忘れられない。悩みに悩んで、最寄りで一番程度がいい、公立の学校を選んだ。


 叔父はふぅん、と鼻を鳴らして、いいよ、と頷いた。


 簡潔な返事に、拍子抜けした。小言も文句も労いも、何もないのだから。

 受験校が決まって気の抜けた小春は言い寄ってくる男たちに辟易とし、一人を選んで女になってしまおう、と心に誓った。

 後々に面倒が起きなそうな一人を選んだまでは良かったが、小春はもたつく男につい「さっさと終わらせよう」と口走ってしまった。

 冬になり、小春は男を知らないまま、合格通知を叔父夫婦に渡した。


「最低な口説き文句だったわ、あれは」


 若気の至りに苦笑した小春は、壁の上面から右足を浮かせた。

 どうやら少しばかり過去の恥部を思い出したところで、鼓動は収まりはしないらしい。それならば、いっそ躰に籠る熱ごと、思い切り踏みつけにいくべきだ。

 次の一歩を踏み出しはじめた瞬間から、緊張が加速していく。

 

 風の強い日だった。

 ほとんど終わりかけた桜の花が舞い散って、そこが東京だと忘れてしまう。幸いにも新入生代表を務めたことで新たな級友は小春を避けてくれ、その夏から誰にも知られることなく働き始めることができた。

 

 遊ぶ金が欲しかったのではない。

 校則を破らぬように生徒指導室にも話を通した労働の目的は、高校を卒業するまでにかかる小春の延命費の返済だ。叔父夫婦が居なければとうの昔に死んでいたのだから、当然のことだ。


 秋になっても働き続け、気付けば冬になっていた。通帳に並んだ数字を見た小春は、絶望とはこういうものだと、叩きつけられた。明らかに追い付かない。このまま続けたところで半分にも届きはしないだろう、とすぐに分った。


 小春は躰を前に傾ける。もっと前に、ずっと大きく。

 十七になり、小春は短時間で多額の金を稼ぐ方法を、思案し始めた。思いついた方法は、悲しくも母と同じ。自分を売っ払うのが、最も早い。入学以来つきまとう男の数は増え続けている。彼らから搾り取るだけでも、相当なものになるだろう。

 

 しかし、危険も孕んでいた。

 全くの他人と違って学友となれば、校内で噂にもなる。評判は地に落ち価格は下がり、得られた学費の一部免除も取り消されてしまう。それだけは避けたい。

 

 時間が必要だった。

 誰にもバレずに済む時期を、小春は優等生を演じて待った。

 訪れた夏の長期休暇で、小春は行動に出る。溜めた金もあるし、多少帰宅が遅くなったところで叔父夫婦は子供にかかりきりで、小言の一つも言われることはない。

 

 学校周辺を避け遠出して、後腐れのなさそうな男を探す。話に聞くに、初めてであることで、相手はすぐに見つかるだろうと、楽観していた。

 予想は外れ。

 ひと声かければ群がるのではないかというくらい簡単に話が進む。しかし、金で女を買おうという男の中では、処女は求めるよりも避けるものらしい。


 ごく僅かにいる喜ぶ男は、後腐れどころか、寝た瞬間から面倒を起こしそうな雰囲気すらある。こんなことなら、あの日に捨てておくべきだった、と小春は働き続けるしかなくなった。


 枯れ落ちる葉と一向に増えない数字に息をつくと、雪と共に転機がちらついた。

 母が現れたのだ。

 真冬に真っ赤なコートを羽織る榊裕子の笑顔を、小春は忘れられない。

 

 話では葉っぱの次に粉にもに手を出したと聞いてたのだが、言葉を失うほどに若い。こちらを見つめる目は澄んだもので、薄っすらと引き上げられた口角は鏡の中に見るそれと瓜二つだ。

 

 吐き気をこらえ、小春は榊裕子と喫茶店に入った。

 味のしないコーヒーをすすりながら、一緒に暮らそうという言葉を聞き流す。罠だと分かりきっている。その分かりやすい美貌に騙されてくれるのは、何も知らない男だけ。


 聞くだけ無駄だと、小春は席を立とうとした。

 再び座りなおしたのは、冷たい目をした榊裕子が、母が、


『お金がいるなら、貴女と寝たいって人がいるけど』


 と言ったからだ。

 なんて女だ、これが母か、心中で呪詛を唱え、小春の口は「いくら?」と動いた。


 その夜、小春は不本意な形で女となり、裸の母が受け取った札束から、半分ほどを抜きとった。榊裕子と別れて帰った小春は、笑う叔父夫婦と従弟の顔を見て、初めて本物の後悔を知った。


――あの女と同じか。


 小春は重力に身を任せ、さらには力も加え、躰を前へと落としていく。

 尊厳と引き換えに手元に残った紙束は、酷く汚らしく見えた。こんな金を渡せば、従弟かれの家は崩れてしまう。決して渡せるようなものではない。


 春になり、小春は再び現れた榊裕子の頬を打ち、袂を分かった。はずだった。

 いずれにしても、まともな労働に勤しみ、身を置く先を必死に探し始めた。そこに至って、小春のこれまでの人生が邪魔をし始める。決別したはずの母でなく、小春自身の人生が障害となった。


 まともに生き過ぎていた。

 上等な人間を演じ、叔父夫妻に頼らずを探す姿は、周囲の人には尊く見えたらしい。ただ打たれることや叱責されることを避けてきただけなのに、務め先には進学すべきだと言われ、高校の教員も口を揃えた。

 間の抜けた話だが、学内で最も優秀な生徒が就職するというのは、しょぼくれた学校でも不名誉なことらしかった。


 全てを振り切るために、汚れたものを除いて、貯金を叔父夫婦の前に積んだ。


『そのお金で大学に行きなさい。どうしても返したいというなら、そうしなさい』


 小春の心中を切り裂く、鋭利な善意だった。

 身を汚し心を自傷し手に入れた金を除いた意味が、四散して消えていく。自分がしでかしたことが自らの心に鞭を打ち、何一つ言い返せなくなる。二人の発する声色には幾度となく向けられてきた冷たさはなく、ただ泣くことしかできなかった。


 小春は夏が来る前に、学費免除を求めて大学を探した。結局、探すのは金だ。とはいえ今度は多少の蓄えもある。普通の人である叔父夫婦のためにも、小春姉ぇと呼んでくる従弟のためにも、早く家を出てやらなければならない。


 ただ叔父夫婦の元に置かれていただけのはずの小春は、しかし紅葉もみじに混じる楓のように、色形こそ僅かに違っていても家族になりかけていた。凍える夜、当たり障りのない会話以外したことのない従弟が泣き喚き、頭を深く、深く下げて逃げるように家を出た。


 前へと落ちる躰に合わせ大股を開いた小春は、半ば強引に右ひざを先へと振り出した。踊るように、とは、とてもいかない。生きた時間を駆けるように足を出す。

 

 十九になってようやく、全てから解放された気がした。

 入学と同時に始まった新生活は、殆ど記憶が残らないほど早かった。初めて得られた他人ひとではなく自分と向き合う時間を、ひたすらに働き学ぶことに使ってしまった。


 恐ろしいことに、学内の男たちに海へ山へと誘われるまで、夏が来ていることに気付かないほどだった。まともな労働で得られる対価は少なく、叔父夫婦に返す金は満額にはまだまだほど遠い。


 すべての誘いを断り働き続けたことは、却って男たちの関心を引いてしまった。男が群がれば女も群がる。どうせ断るのだからおこぼれに預かろうというのだろう。分かりやすい欲望をぶつけてくる同窓に、小春は冬まで耐えた。


 高校と違って、大学は楽でいい。休みが早く、早々に会う機会を逸してくれる。

 底冷えするワンルームの片隅に腰を下ろした小春は、顔を見せに来ないか、という叔父の電話に、時間が取れない、と頭を下げて筆を執った。


 逃げ出てきたはずのが、ずっと小春を縛り付けていた。


 がづん、と大きく鈍い靴音が鳴る。

 右足に躰を乗せた小春は、立ち上がりながら、引きずるようにして左足を滑らせた。重く響かないはずの靴音が、テラスの窓ガラスを揺らした気がする。


「榊裕子……榊、裕子……っ!」


 小春は憎しみを込めた瞳で、男の躰が転がる部屋を見た。

 母を名乗る女は、またしても春に姿を見せた。声をかけてくることはない。距離を取り、しかし常に周囲に影を見せる。それに小春が気づいたのは、寄ってきた男の一言に依る。


『また昨日とはちょっと雰囲気違うね』


 すぐには影だと気づけなかった。男の言葉はよくある常套句の一種にも思える。しかし、前日にその男と会った記憶が一切なく、まさか、と思い至った。聞き返した小春が知ったのは『少し大人っぽい雰囲気で、小春ちゃん、と声をかけたら笑ってくれた』ということだ。


 ギラギラと照り付ける日差しの下で見た母の顔は、想像以上に醜いものだった。こちらに向けられた笑顔は、まるで深夜に見る誘蛾灯のように冷たく輝いている。薄汚い羽虫を無限に呼び寄せるそれは、毎朝のように鏡の向こうに見るツラと全く同じ。


 小春以外には、年が二十近くも違う女だ、とは分からないのだろう。母の隣にいた男は小春に向かって『双子か、裕子の姉か』と、聞いてきた。


 化け物め。


 そのときたしかにそう思ったことを、小春は強く憶えている。

 榊裕子は秋の間中ちらちらと姿を見せ、次第に周囲の人々に影響を及ぼしてきた。外見が同じで、人当たりがよく、男のあしらいでは小春は足元にも及びはしない。まさか母だと言うわけにもいかず、冬季休暇の間に叔父夫婦の家へと足を運ぶ羽目になってしまった。


 小春は、歯を折れそうなほどに強く噛み、怒りの涙を流した。


「榊裕子ぉ……っ!」


 握りしめた拳がぬめり、小春は息を飲んだ。両手を開くと、右手に巻いたハンカチは真っ赤に染まり、傷などなかった左手には四つの爪痕があった。

 伊藤小春は勢いよく首を振り上げ、虚空を睨んだ。

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