フラメンコステップ

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一歩目

 疲れ果てた伊藤小春がいきつけのスペイン・バルに訪れたときだった。

 最悪なことに、いつも座ることに決めてたお気に入りの席には、先客がいた。腹の出っ張った中年の男だった。

 腹立たしく思いはしても、その席を譲れという元気もない。

 小用にでも立った隙を狙って席を奪ってやろう、と、隣の席に座ってやった。

 

 頼んだのはサングリア。

 と言っても小春のためだけに作られた、甲類焼酎を使って砂糖を抜いて、ただ酔っぱらうことを目的としたサングリアを装う何かである。

 ある意味で元の酒を冒涜するかのようなそれを嚥下した小春は、今後の身の振り方を考えた。そのときに、面白いことを隣の男が言い出した。


「フラメンコではステップを刻むときに人生を踏みつけるんだ」

「はぁ?」


 朝から何も食べてない胃袋から吸収されたアルコールは小春の脳に急速に染み込み、その能力を著しく奪っていた。

 もう一杯を飲み干して、注がれた三杯目を中身ごと隣の男の耳元に叩きつけ、ハンドバッグを探したらたまたま入ってたハンカチを、血に汚れた右手に巻いた。


 勘定をするのもまどろっこしくて、財布を開けたら入っていただけの一万円札をカウンターに置き、店を出る。

 フラメンコなんか知らないし、人生を踏みつけるという言葉が癇に障った。ついさっき、まさに人生を踏みつけられた直後だったのだ。


 酩酊し思考は止まりかけているというのに足は動く。変なもんだ、と思いつつ、小春はあの男の部屋に戻ることにした。

 何が高層マンションだよ、頭の軽さが住処を上に引っ張り上げんのか、などと毒づきながら、目的の扉を開ける。部屋はまだ暗いままだ。


 家主が起きることはないのだから、当然ではあるのだが。


 胸からアイスピックを生やした男の躰に目をやると、やっぱり私は娘で、あの母ありきの人生だったな、と思ってしまった。


 滑稽だ。

 笑うと同時に、バルでサングリア風焼酎を耳から飲むことになった男の言葉が、思い出された。


『フラメンコではステップを刻むときに人生を踏みつけるんだ』

「んなわけあるかい。踏んでるのは床でしょーが」


 伊藤小春は今頃は救急車にでも乗っていそうな男に同情しながら、ダイニングテーブルに残っていたワインのボトルを手に取った。

 口をつけ、喉を鳴らして、ラッパ飲み。

 ボトルを投げると寝てる男の頭に当たり、想像通り中身の入ってなさそうな音がした。もっとも、中身が入ってないのは小春も同じか。


 酔いが激しい。


 夜風に当たれば少しは収まるような気がして、アルミサッシを引き開けた。


「あっつ……」


 流れてくるのは生ぬるい風で、却って酔いが回る気がした。せっかく開けたのだから、一歩くらいは出てやろうと足を踏み出すと、カツン、と小気味良い音がした。


「ヒール履きっぱじゃんよー」


 うんざりだ。心の底からうんざりだと思う。


「うん。死ぬか」


 小春はテラスの端まで歩き、落下防止用の壁の上に立つ。ちょうど足一足分の幅。

 死ぬ前に一回くらいは顔を見といてやるか、と思い、部屋を見る。


「顔こっち向いてないじゃん」


 部屋の中の男はぐっすり寝ている。もう起きることはない。

 広がっていた血でも踏んでしまったのか、部屋からここまで足跡が残っている。

 血の跡じゃーないか、と小春は思う。血の跡なら赤いはず。足跡は青いというか黒いし、黄色い点がついている。赤くないから血じゃねぇだろう、と小春は思った。


 ちらりと下を覗く。高い。前を見る。細い道だ。

 渡りきったら、死ぬのはやめよう。

 そう決めた。

 途端に躰に当たる風が粘ついて、バルに居たデブを思い出してしまった。


「フラメンコかー。どんなんだっけ」


 思い返す。

 昔、いまはネギ畑みたいにアイスピックを生やすことになった男と一緒に見た映画が、フラメンコを題材にしていた。バルにいたデブにそっくりな俳優の記憶がある。


 その俳優を覚えているのは、ずっと酒浸りで臭そうな雰囲気のキャラなのに、劇中で主人公にステップを教えてやると言い出すシーンでは、無駄に恰好良く思えたからだった。その俳優が思い切り足を振り下ろすと、ボロい木の床の上で埃が舞うのだ。


 苛立ち紛れにステップを刻んだ、と当時は見ていた。


「人生を踏みつける、かぁ」


 小春は両腕をゆっくりと上げ、自分の人生を思い返した。

 一歩。

 思い切り叩きつける。

 鈍い音が響く。

 

 小春は、「お前は産まれた瞬間、床に落ちた」と、母に聞いたことがある。

 母の名は伊藤裕子。春に産まれたから小春よ、などとのたまっていた。

 どうせ嘘だと思っていたのだが、出生届を見ると真実だった。ほとんど唯一と言ってもいい、母が小春に話した真実だ。


 母は実家暮らしで、オレンジ畑を継いでいた、らしい。実際に見たことはない。

 いずれにしても、小春が生まれたことを喜んでいたらしい。叔母から聞いた。そして父が喜んでいなかったらしいことは、誰に聞かなくても分かる。


 その年の夏には泣きわめく小春を嫌がり、蹴り飛ばしたのだそうだし、おかげでいまも肋骨が一本ひん曲ってしまっている。

 秋になると父は母にも怒りをぶつけ、冬にはすでに家を出ていたそうな。いずれも後になって知ったことで、生まれたばかりの小春は知ることなどない。


「産まれた瞬間からロクでもねぇなー」


 小春の目から、涙が落ちた。

 その後、父は未練がましくも、小春を捨てたら戻ってもいい、と母に伝えたと聞いている。残念ながら、自分から働く、というマトモな思考回路を持たない母は、すでに別の男を捕まえてきていた。

 ともかく、その年の夏には同棲をキメやがったことで、母・伊藤裕子は、苗字を榊に変えた。相手の男は大西亮介、とか言ったような気がする。

 

 とんでもない野郎でオレンジ畑の利権を小分けに売って食い繋ぐ、という提案を母にした。そんなバカげた提案を受け入れた母も母だ。何か理由があったらしいが、詳しく聞いたことはない。


「もしかして、ガキでも出来てたんかなぁ?」


 いずれにしても、春をしのいで夏を超える頃には金もつき、権利も消えていた。当然、円の切れ目は縁の切れ目でもあるわけで、大西亮介氏はどっかに消えた。残ったのは榊裕子と伊藤小春だけだ。なんもかんも失った冬に、ようやく榊裕子は伊藤小春を娘だと思うようになったらしい。


「さいってーな人生じゃねぇか! ハードモードだよ! まだ二歳だぞ!?」


 自分で思い出しておきながら耐えらず、叫んでいた。

 叫んだ記憶が再生された。

 そういえば、母親にぶっ叩かれたことがある。パパは? と聞いた、気がする。

 

 二歳の頃なのだから、事実は怪しい。捏造された記憶かもしれない。そのときに、母は小春を捨てようとして踏みとどまったのだ、と涙ながらに言っていた。涙の方は嘘だとしても、捨てようとしたのは本当だろう。


 記憶があるから。叔母の。

 しょうもない女だった母・榊裕子の妹、つまり叔母が、小春の様子を見に来た。その瞬間だけは記憶に残っている。叔母がおもっくそ榊裕子を引っぱたいていた。


 小春の顔に残る青あざを見て、ブチ切れたのだと後年聞いた。叔母の方はあまり嘘を言う人ではないから、きっとホントだ。

 

 斜め下に転がり落ちるのを得意とする思考回路の母は、まだ若かったのもあってか、小春を養う気になった。選んだ仕事は春を売ることだったけど。


 年がら年中となりの部屋から、バカ丸出しな声が聞こえていた。その声のおかげで今があるのが、悔しくてたまらない。一冬通してコトが済んだらあやされて、小春が黙ればコトが始まる。あやす対象が変わるだけなのだ。忘れられやしない、最悪な記憶ワースト一〇には食い込むであろう思い出である。


 ふいに風が吹き、肩にかけていたカーディガンが揺れた。小春はその拍子にバランスを崩し駆け、両手を横に広げざるを得なかった。


「セーフ……」


 危いところだった。

 すんでのところで、小春は叔母の家に引き取られることが決まった。小春の記憶にもとづけば、四歳になったばかりか、そのくらいの頃だ。叔母の家の近所には同年代の子供がいて、すぐに友達になったという。こっちは記憶があまりないから、嘘かもしれない。


 覚えているのはその夏、蛍を見に行こうと叔母に外へと連れ出されたことだ。

 そこで聞かれた。

 家で気持ち悪い声をあげる母と暮らすか、叔母と住むか、どちらか選べ。


 今にして思えば、一瞬でも迷ってしまったことが恐ろしい。何か母を選ぶか迷わせる理由があったのかもしれないが、小春はそこまで細かくは覚えてはいなかった。


 その年の冬に叔母の家で見た、暖かい暖炉の火の色は思い出せる。そこで誰かに――あのデブおやじと同じように――耳をぶっ叩かれたのだ。鼓膜が破れたとかで、火の色を見ると救急車のランプの色を思い出してしまう。叔母は「近所の子が叩いた」とか言っていた。


「嘘だろうなぁ」


 耳をなぞり、その下に指先を滑らせる。触れたのは首飾りの鎖。

 春、小学校に入ったばかりの頃、叔母の首飾りを持ち出し、学校に付けていった。

 その時のことが理由で叔母は呼び出され、態度を変えた。疫病神だとでも思われたのかもしれない。子供のやることだから、といまさら言うつもりもない。おそらく調子に乗っていたのだろう。なにせ初めて訪れた幸せな時間だったのだから。


 それを壊したのも自分なのだから、あの母にしてこの子あり、と思われたのか。

 

 救いになったのは、叔母が冷たくなるのと引き換えに、叔父が父親ばりの優しさをみせるようになってくれたことだった。その喜びも次に学校に行ったとき、机に残された落書きを見て消え失せてしまったが。

 

 ただ突っ立っていても、壁を渡り切ることなどできないのだから、仕方ない。

 小春は左足を一歩踏み出した。

 

 何が悲しいかといえば、落書きを消すのを手伝ってくれた友達だ。手伝ってくれたから友達だと勝手に認定した小春も小春だが、平手で打ったのはまずかったと思う。

 

 せっかく父の代わりを務めていてくれていた叔父が学校に呼び出され、散々頭を下げさせらてしまった。その後どういうわけか、冬になると叔父が元通りに冷たい態度を取り始め、叔母が以前のように優しくなった。もしかしたら、交代で親代わりを務めることにでも決めたのかもしれない。

 

 小春はふと思い出す。耳。

 片足を宙に浮かせたまま、触る。叔父と叔母がくれた、栄螺の貝殻でつくったとかいう、色はともかく造形センスが欠片もない、趣味の悪い青いイヤリングがない。


 無くなったところで困るモノでもないが、捨てられなかったのだから、最後くらいは身に着けていたかった。ほとんど唯一といっていい、母からもらった品だった。


 小春に手渡したのは叔父と叔母だが、あの二人に子供にそんなイヤリングをくれてやるような趣味の悪さもない。あるとしたら、色ボケの母だ。


 夏に姿を現したのだから、確実だ。


 殆ど拉致されたかのように手を引かれ、故郷とかいう廃墟に連れ戻された。目的は未だに不明だ。そこには父親を名乗る男がいた。秋の間そこで暮らす羽目になり、まるで地獄に連れ戻されたかのようだった。


 特に最悪だったのが、父とかいう男だ。

 完全に小春を女として見ていた。客観的に見ればどこからどう見てもただの少女、人によっては幼女なんて呼ぶような小春をだ。それから察するに、最初の父でも、大西亮介でもないのだろう。


 いずれにしても、冬になり、母が姿を消す度に家にいる父とやらに狙われ、生まれてきたことを呪う日々が続く。

 

 助け出してくれたのは母ではなく、やはり叔母だった。

 小春は目を瞑った。

 開いたまま歩いたところで、たとえ酔っているにしても、踏み外すような気がしない。踏み外したいのか、渡り切りたいのか、すでに分からない。

 

 戻ってすぐのころは何もない平穏無事な春を過ごせた。人生で二度目の順風満帆というやつだったのだと思う。その夏に叔母夫婦に子供ができたこともあり、確実に幸せだった。

 

 秋に母が大麻取締法違反で捕まるまでは。

 

 叔母の態度はまたも急変した。当時はともかく、いまなら当たり前だと思える。

 自分の血がつながる子供が出来た。引き取る羽目になった姉の娘、つまり小春は悪童といっていいくらいに迷惑をかけるし、引き取っている間中、常に姉やその周辺人物がウロチョロする。そして、うろつく連中は、大麻を吸う女に関わっている連中ということになる。普通の感性の持ち主ならば、もはやその子を我が子のように扱うなど、無理だ。


 冬になると、叔母は膨らむ胎に気が滅入りでもしたのか、包丁片手にこちらを睨んできた。一家の良心、叔父がそれを止めてくれ、叔母は母親代わりをやめ、距離を置いて接してくるようになった。それでも殺されずに済むし、何度も助けられてきたのだから、反発する気も起きないものだ。今まで通りとは無理でも、安寧が得られた。


 小春は重心を前に傾け、目を開いた。

 月には雲がかかり始めている。あの春と同じような、霞がかった月だった。

 叔母が自分の子に気を使い小春と距離を取った春も、叔父が親の代わりをしはじめた夏の夜も、ちょうどこんな明るさだった。


 父代わりは四季の一つの間も持たなかった。

 生まれた子供がかわいいのだから、それも仕方ないことではある。なにせ叔父にとっては同じ遺伝子をもつ初子だ。彼にとってみれば、妻の姉である犯罪者のクソガキとは、比べるまでもないことだろう。


 小春の居場所は、その冬から崩れ始めた。

 いま、目を開けてしまったことで、足の踏み場を見誤りかけているのと同じ。

 目を向けなければ足を下ろせたはずだ。気にしなければ気にならなかったはず。


 いま、恐怖に負けて目を開けてしまったように、あのときの小春も目を開けてしまった、ただそれだけの話だ。


 黒いヒールが、一歩目を壁の上に突いた。

 産まれてからの十年を踏みつけ、一歩目のステップを刻んだ。


「っぶねー……」



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