彼女の右手

侘助ヒマリ

右手の指輪は魔法使いのバリケード

 午前8時26分――


 東京メトロ千代田線乃木坂駅3番出口を出た僕は、腕時計を確認する。

 初秋とはいえ、朝の太陽はまだ夏の余韻を残し、暗い地下道から出たばかりの僕の目に白く鋭い光を差し込んでくる。

 ベンツやポルシェ、アルファロメオなど外車が目立つ外苑東通りを、僕はそのまま六本木方面へ向かって歩く。

 本当は西麻布の会社へ行くなら青山霊園の方を通るのが近道なのだけど、7月からはいつもこのルートで通っている。


 東京ミッドタウンを横目に通り過ぎ、六本木アマンドの交差点へ出る。

 午前8時35分。

 ……少し早いかも。


 信号が青になるが、僕は立ち止まって1回やり過ごす。

 信号を渡っていくのはスーツ姿の会社員や清楚なワンピースのOLたち。

 夜の喧騒を隠した六本木は、まるで自分がオフィス街であるかのような顔をして彼らを出迎えている。


 次に青になったタイミングで信号を渡る。

 アマンドの前まで来ると、僕はつま先を右に向けて方向を変える。

 六本木駅の出口から出てくる人々の後ろ姿をじっと見ながらゆっくりと歩く。

 タイミングを間違えないように、慎重に――。


 彼女が出てきた。


「おはようございます」


 肩より少し長いダークブラウンの髪をした、スモークピンクのワンピースの後ろ姿に声をかける。

 ストレートの髪を揺らして彼女がこちらを振り向く。


「三神くん。おはよ」

 彼女の笑顔に惹きつけられるように、僕は歩みを早めて彼女に追いつく。


「今日もまた会ったね」

「僕いつも同じ電車に乗るんで。小長谷こながやさんもそうなんですか?」

「うん、そう。いつも観てるテレビのお天気コーナーが終わったタイミングで出るから、同じ電車になるの」

 たわいもない会話をしながら、僕はいつものように彼女の右手をちら、と見る。


 今日も指輪をはめている。


 彼女の右手の薬指で控えめに輝く、シルバーのシンプルな指輪。

 先月の飲み会で隣の席に座った僕は、思いきって彼女に尋ねた。


「その指輪って、彼氏からもらったんですか?」

「そうだよ」

 僕より2つ年上の彼女は、照れることもなくそう言った。

「長いんですか?彼氏と」

「うん。もう5年になるよ」

「結婚しないんすか?」

「そりゃしたいけど……。

 彼、同い年だし、ベンチャー企業立ち上げて間もないから、まだ結婚にしばられたくないみたい」

 僕がいきなり突っ込んだ質問をしたせいで、彼女は少し困惑した笑みを浮かべた。


「三神くんは?かっこいいし彼女いるんじゃない?」

「僕ですか……。好きな人は、います。片想いですけど」

「へぇー。どんな人?」

 いたずらっぽく微笑んで見つめる彼女を見つめ返す。

「……僕より3つ年上なんです。彼氏持ち」

 年齢に少しフェイクを入れてごまかした。


「そうなんだぁ。彼氏持ちじゃあ切ないねぇ……。

 あ、でも彼女、30歳ってことでしょ?

 早く彼氏から奪わないと、彼女結婚しちゃうんじゃない!?」

「そうっすよね。なんか行動起こさないとな、とは思いますけど」


 その指輪を外してくれたら、僕はいつでも行動を起こすのに。

 今日もそんなことを思いながら、彼女と並んで会社に向かう。


 彼女、小長谷芙海こながやふみさんが僕の会社に派遣社員として入社してきたのは7月のことだった。

 好みのタイプはあるけれど、まさか27歳にもなって一目惚れするとは思わなかった。


 一緒に仕事をするうちに、彼女の飾らない人柄と清楚な色気にますます魅かれた。

 けれど、彼女の右手の指輪が魔法使いのバリケードのように、僕にアプローチを躊躇させている。

 僕ができることといったら、こうして通勤時間を合わせて彼女の隣を歩くだけだ。

 ただ、これも2か月近く続けているから、そろそろもう少し彼女との距離を縮めたいと思っている。


「あ、そうだ。小長谷さんにお願いがあるんすけど……」

「え?なあに?」

「例の片想いの彼女の相談、同じ年上の女性ってことで、のってくれませんか?」

「えっ!あたしでいいなら全然のるよ!」

「ほんとっすか。そしたら会社帰りに飲みに行きませんか?」

「うん、いくいく!」

「そしたら、早速今日とかはどうです?」

「今日は、ごめん。予定があって」

「そっか。じゃあ、来週は?」

「来週ね!大丈夫な日があるはずだから、スケジュール確認しとくね」


 相談っていう名目で彼女を誘うなんてチープなやり方だけど、片想い中っていう設定で心を許してくれてるのか、すんなりとのってくれた。


 西麻布の裏通りを入ってすぐの雑居ビルに僕たちの会社がある。

 CGアニメや企業の販促用ビデオを制作する小さな会社だ。

 西麻布は駅が遠くて通勤には不便だけど、周辺エリアの華やかで着飾った雰囲気よりも落ち着いていて僕はけっこう気に入っている。


 エレベーターの中は、彼女と密室で2人きりになれる至福の時間だ。

 けれど、彼女の髪に触れたい、抱きしめてしまいたいという衝動と闘う、試練の時間でもある。


 3階にある会社に着くと、15名の社員のうちの半分くらいはもう来ていた。

「おはようございます」

 僕と一緒に編集作業を担当している会田さんも来ている。

「おはよう。三神、今日社長に制作過程見せることになってるKBJのプロモビデオのファイルってどこにあるかな?」

「あ、それならこのフォルダに入ってます」

 いつものように彼女と通勤し、いつものように僕の一日が始まった。



 定時の18時がくる。

 派遣の彼女は事務作業を終え、「お疲れさまでした」と会社を出た。


 僕は予定のない日はいつも22時くらいまで残業している。

 今日は会田さんに確認もらいながら編集を進めたいアニメーションがある。

「三神、悪いけど今日はお先するわ。お疲れ!」

「えっ!会田さん帰っちゃうんすか?」

「悪いな。予定があるんだよ。今日だけは帰らせてくれ」

 普段僕より遅くまで残業してる会田さんがこんなこと言うなんて珍しい。


「わかりました。じゃあ、ここの部分は明日確認お願いします」

「了解。朝イチで見ておく。じゃあ」


 会田さん、デートかな。

 メガネはずしたらイケメンなんだから、コンタクトにすりゃもっとモテるだろうな。

 まあでも、仕事が忙しくて出会いがないのか。もう32なのに。


 会田さんが帰ってしまったので、僕は仕方なく他の作業を進めておくことにした。



 翌日の朝。

 僕はまた乃木坂駅から六本木駅を経由して通勤する。

 アマンド前の横断歩道を渡って右に曲がり、ゆっくりと歩く。


 出てきた。


 ――と思ったそのとき。

 きょろきょろとあたりを見回す彼女と目が合った!


 ……と思ったら、彼女は慌てて駅の出口の中に引き返してしまった。


 ?????


 僕は何が何だかわからず、出口の前で彼女の引き返した方を見た。


 階段から上がってくる通勤客の中に、会田さんの姿。

 その後ろに、気まずそうに隠れている彼女の姿。

 昨日と同じ、スモークピンクのワンピースだ。




 なにこれ――。




 会田さんは少し気まずそうに、でも何事もなかったかのように「おはよう」と僕に言う。

「……おはようございます」

 彼女をちらっと見ながら、僕も何くわぬ顔で挨拶する。


 今日は僕が西麻布までの道を先に歩いている。

 僕から距離をとって、さらにお互いにも微妙な距離をとって歩く会田さんと彼女。


 なんだよ。


 彼氏いるんじゃなかったの?

 会田さん、渋谷からバスで来てるはずなのに、なんで六本木駅使ってんだよ。


 清楚なはずの小長谷さんのイメージが崩れる。

 そのイメージは、僕が彼女に触れて崩していきたかった――。



「三神君、来週ね、火曜日あいてるけどどう?」

 昼休み、デスクでサンドイッチを食べている僕に彼女が聞いてきた。

 ちらりと彼女の右手を見る。

 指輪してるのに、なんで会田さんと朝帰りするんだよ……。


「あ、僕その日ダメなんで。また今度でいいです」

 僕のそっけない態度に、気まずそうに「そっか……」と下を向く彼女。

「……彼氏と、うまくいってないんですか?」

 言外に、会田さんと朝帰りしたことに僕が気づいていることを伝えた。


「あ……。うん。最近距離を置こうって話になって……」

「でも、指輪は外さないんだ」

「……」


「僕だったら」


 あれ?何言いだすんだ?俺。


「距離置くとか、まどろっこしいこと言う奴は許せませんけどね」

「三神君……」

「相手の年齢とかこの先の人生とか考えたら、自分のエゴで中途半端につないでおくのってひどいでしょ?

 結婚って相手を縛るものじゃないでしょ?お互いに支え合うもんじゃないんすか?

 そんな価値観の奴に人生の大事な時間をこれ以上割かれるなんて無駄じゃないっすか?」


 なんで俺、彼女に説教してんだろ?


「……5年付き合ったんだよ。そんなに簡単に割り切れないよ」

 目に涙をためて彼女が言った。

「そんなに好きならなんで……」

 ”会田さんと寝たんですか”とはさすがに聞けずに飲み込んだ。


「ごめん」

 彼女はなぜかそう言って僕の前から立ち去った。




 次の日から、僕は六本木を経由するのはやめた。

 彼女と出会う以前のように、青山霊園の端をかすめるように歩いて会社へ行くようになった。


 会田さんは、あれっきり早く帰りたいなんてこと言わず、いつも遅くまで残業している。




 💍




 ハロウィンが終わると、街は慌ただしく衣替えしてクリスマスムードを漂わせる。

 まだ冷たく張りつめた空気になりきらない夜空に、無数のLED電球が明かりを灯して”早く冬になれ”と急かしているように見える。


 僕は今日仕事を早く切り上げ、六本木ヒルズのチョコレート専門店に向かっている。

 妹が母の誕生日に連名でプレゼントしようと提案してきて、お遣いを頼まれたわけだ。

 ブルーと白のLEDライトがけやき坂通りを寒々しく演出している中を歩いていると、僕のお目当てのチョコレート専門店から彼女が出てきた。


「あ、三神君……」

「お疲れさまです」

 僕はぺこりと頭を下げる。

 あれ以来、彼女とは仕事上口をきくことはあるけれど、プライベートな話はしていない。


「珍しいね。この時間にこんなところで会うの」

「僕も、ちょっと妹に頼まれてこの店に用があって」

「そうなんだ。せっかく会ったし、都合良ければこの辺でお茶でもどう?」

「……あ、はい」


 少しためらったけど、断る理由もない。

 店の外で少し待ってもらい、小さいけれどなかなかのお値段のするギフトボックスを買って外に出た。


「お茶っていう時間でもないんで、飲みに行きませんか?」

「そうだね」

「けやき坂通り抜けた方に知ってる店あるんで、そこでいいですか?」

「うん」


 彼女と並んで歩いていると、さっきまで寒々しいと思っていたイルミネーションが妙にロマンチックに見えてくる。

 行き交う恋人たちに混じり、僕たちも二人で並んで歩く。

 通り過ぎる人達から見たら、僕たちも恋人同士に見えているんだろうか?

 彼女との間に空いたパーソナルスペースを少しだけ詰めて歩いてみる。


 商業ビルの2階にあるその店は、ガラス張りの窓からけやき坂通りのイルミネーションが見える。

「ここから見えるイルミネーションも綺麗だね」

 彼女が頬杖をついて窓の外に見とれている。

 僕は、その右手の薬指に指輪がないことに気づいた。


「指輪……外したんですか」

 僕が尋ねると、彼女は頬杖をやめて恥ずかしそうに手をテーブルの下に引っ込めた。

「うん。こないだね……。

 ちゃんとお別れしたの」


 彼女は少し悲し気に微笑んだ。けれども、細めた瞳には涙の代わりに清々しさがあった。

「そうなんすか」

「踏ん切りつけるのに1か月以上もかかっちゃったけど……。

 三神君の言う通りだなって思ってふっ切れたんだ」


 注文したマリブパインとヴェネツィアンモヒートがテーブルに置かれる。


「じゃあ、今日は小長谷さんの新しいスタートに乾杯」

「ありがとう。乾杯」


 マリブパインを一口飲んで、彼女はもう一度僕に「ありがとう」と言った。

「三神君があの時言ってくれなかったら、私今でもうじうじ悩んでいたかもしれない」

「いや、なんか生意気言ってすみませんでした」

「ううん。ああやってはっきり言ってくれる人あんまりいないから嬉しかったよ」


 お酒の入ったところでなら聞いてもいいかな。


「会田さんとは……どうなったんすか」


「……」


 彼女は少しうつむいて言いにくそうにしていた。

「会田さんにも申し訳ないことして……。

 相談するだけのつもりだったのに、彼への当てつけとか、どうしようもないこと考えてた。

 お酒入ったせいでなんて……言い訳だよね」


「お酒入ったせいって言い訳ができるなら、今夜、僕が誘ってもいいですか?」


「えっ」

 彼女が顔を上げる。

 頬が赤くなったのは、まだお酒のせいじゃないはずだ。


「片想いの彼女は……?どうなったの?」


 僕は彼女をまっすぐ見つめる。

「片想いから抜け出そうと、その彼女にアプローチしてるんです」


 彼女の顔がますます赤くなって俯く。

 年上だけど可愛いな。


「もし、そうなら……。

 お酒のせいにしない方がいいよ。多分」

 俯いたまま彼女が言う。

「ちゃんと、恋人っていう形にした方が、いいと思う」


「……恋人になってくれますかね?彼女」


「少しずつ距離を縮めていけるなら、きっと」


 顔を上げると上目遣いに僕を見て、はにかみながら彼女は言った。


 窓の外にはたくさんのネオンと行き交う人々。

 そして青白いイルミネーション。


 いつもは好きではない六本木の夜が、今日はなんだか温かく見えた。


 明日からまた10分早起きして、アマンドの交差点を渡ろう―――。




 💍 fin

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