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 男はきっと僕を観察してから、あの恰好で来たのだろう。さも心配した近隣住人が様子をうかがいに来たフリをして。

 革袋の中身が釣り竿でなく、山刀であったのなら服装の不自然さも説明がつく。

 釣り人なのに、なぜ玉網たもあみのような釣り道具がないのか。なぜ、合羽かっぱなのか。防寒具だったとしても、もし道もない山の中を歩いてきたなら、冬といえど熱くて脱いでいるのではないか。──彩子を殺し、その死体とともに右往左往している僕にはわかる。

 返り血の後始末をしやすくするためだ。金属バットを使った僕の部屋ですら、血の痕跡はたくさんあるだろう。山刀など使えば、どうなるか……。

 僕は霧が濃くなってくる山道を歩き、男の家を探した。

 あの男が人の血を舐め、人を殺すことも躊躇ためらわない狂人ならば、危険ではあるが、同時に安全でもある。あの男が警察に通報することはないからだ。たとえ毛布の血が僕のものではないこと、そしてトランクに彩子の死体があることを悟ったとしても。

 何をすべきかは、明白だ。

 男は僕がドライブレコーダーでその正体を知ったとは思いもしていないだろう。

 だが、レッカー車が来ないとが分かったなら、襲い掛かってくるかもしれない。男が去ってから、ずいぶんと時間がたっているからだ。


 ──その前に、こちらが先制する。


 数メートル先が見えないほど、霧が濃くなってきた。そのなかを手探りするように進む。十分ほど歩いただろうか、アスファルトの山道から車一台がギリギリ通れるような道が山の斜面に向かって分かれている。ジャリ石を踏みしめながら、その道を上る。

 家が見えた。

 が、しかし光が灯っていない。近づいてみたが、木造の壁は朽ち、屋根も崩れている。どう見ても廃屋だ。


 ──やはり、ウソだったか。


 男がなんらかの罪を犯している者ならば、僕のような予測できない闖入者は厄介だろう。自分の家の場所を正直に告げるはずがない。

 僕は山道に戻ってさらに先に進んだが、十分程度で民家らしきものは見当たらなかった。

 一度、車に戻るしかない。

 今は何時だろう。

 もう残された時間はそれほど多くないはずだ。身体のあちこちがきしむように痛い。寒さと疲労は限界を超えている。それでも今投げ出すわけにはいかない。僕は彩子の存在証明のために生き残らなければならない。

 僕が事故を起こしたカーブに近づいたとき、赤い光が見えた。


 ──パトカーか!?


 いや、セダンではない。荷台がある。軽トラックのようだ。

 僕が屈み込んで様子をうかがう間もなく、ドアを閉める音がして軽トラは走り去っていった。背面の窓から、あの老人らしき男の白髪頭が見えた。


 ──まさか。


 僕は慌てて山の斜面を駈け下り、自分の車へ戻った。

 トランクが口を開いていた。

 その中は、空っぽだった。

 車を何度も乗り降りしたせいで、キーを抜き忘れていた。

 僕は歯ぎしりして、トランクの背を殴った。


 あの野郎! あの野郎!

 あのくそジジイ、よくもよくもよくもよくもよくも彩子を! 僕の彩子! 彩子! 彩子! 彩子! 彩子! 彩子! 彩子! 彩子! 彩子!!!!!!!!

 彩子を消すつもりか! 僕の彩子を存在していなかったことにするのか! 僕の彩子、彩子、彩子を、許さない、あいつは許さない。殺す。許さない。渡さない。返せ。許さない、あいつは殺す、殺す!!!


 僕は霧の中、軽トラが走り去った跡を追ってがむしゃらに走った。下り坂を転び倒れ走った。

 すぐ小道が見えた。

 小道の終わりに軽トラが止まっていた。

 その先に明かりの点いた民家がある。玄関のレトロなガラスの引き戸は空いていた。

 金属バットを両手で握り直し、玄関に入る。

 靴のまま板張りの廊下を歩き、光の漏れる襖に耳を当てた。

 物音がする。

 開いているふすまから半身になって中をうかがう。

 和室の中央に座卓があり、壁ぎわにテレビやタンスなど家具が並んでいて、その上に雑多な日常品が積まれている。和室の向こうは台所になっていて、男が流し台の前に立っていた。

 襖の影に戻り、四つん這いになり、もう一度和室を見渡す。

 座卓の向こう側に、彩子の死体があった。横向きで寝かせられていて、後頭部が見える。


 ──彩子……!


 僕は跳び込んだ。

 二歩目で座卓の上に乗り彩子の死体を飛び越え、三歩目で台所の板の間を蹴った。

 そのときにはもう、男は振り向いていた。

 台所の流しの黒い窓に、金属バットを振り上げる僕の姿が映っていた。勘付かれていたのだ。

 男は叫びながら僕の金属バットを掴んだ。

 僕も言葉にならない怒声を男に浴びせかけながら、金属バットを引き剥がそうとする。

 男は老人とは思えない力で暴れた。体重も僕より重いだろう。

 互いに肩や背をあちこちにぶつけながら、揉み合いになる。調理器具が落ち、食器棚のガラスが割れた。

 男は真っ赤な顔で金属バットを引っ張ってきた。太い腕の筋肉に血管が浮いている。僕は男に掴みかかるようにして、その腕に噛み付いた。口の中に血の味が広がる。

 耳を男の悲鳴が打った。

 ざまあみろ、ざまあみろ!

 そのまま男の腕の肉を食いちぎろうと顎に力を入れたが、頭を酷く殴られた。目の前が一瞬白くなる。男が頭突きをしてきた。一度ではない。男は勢いをつけて何度も、何度も頭をぶつけてきた。


 ごっ。

 ごっ。

 ごっ。


 頭が低く鈍い音を立てるたびに、痺れにも似た目眩めまいが襲う。

 僕はこらえ切れず、口を離した。

 また揉みあいになるかと思ったが、男の目が僕の背後を見た。

 まずい、なにかある。

 間髪入れず、男は渾身の力で僕を突き飛ばす。

 僕の背中が何かにぶつかった。

 それが台所と和室を仕切るガラスの引き戸と気づいた時には、僕の身体は引き戸もろとも吹っ飛んでいた。

 もつれ合うようにして、僕は割れたガラスの上に倒れた。破片が服を貫通して、背中や腰を切りつけ、激痛が走った。

 男は僕に馬乗りになり、金属バットを僕の首へ押し付ける。

 僕は男を蹴ろうと無茶苦茶に足をばたつかせ、身をよじり、男の目に爪を立てようと暴れたが、男は顔を振ってそれを払いながら、金属バットに体重を載せた。

 僕の喉から、ゴリ、ゴリと嫌な音がした。力みながら息をしようとするたび、口のはたから泡が飛ぶ。

 金属バットの冷たい曲面が気道を押しつぶそうとしている。

 息ができない。

 眼圧が上がっているのが自分でもわかった。

 僕は左手で男の顎を押し上げ、右手で男の耳を掴んだ。思い切り爪を立てて耳に食い込ませ、引き下ろす。

 みち、みち、と皮の切れる音とともに、男の耳から血が垂れる。僕の掌を伝い、血が肘からしたたった。

 男は苦痛に顔を歪めながらも、怯むことなく金属バットに力を込めてくる。

 指が痺れ、力が入らない。目の前が暗く霞む。ここでも霧が湧いているのか。

 僕は歯を食いしばりながら男の顔を睨む。


 彩子を渡すものか。

 僕の彩子だ。

 僕のものだ。

 僕たちは二人きりでいなければならない。僕は彩子だけが必要で、彩子も僕しか必要ではない。二人で世界は完結する。死ですらそれを分かつことはできない。

 そうだ、彩子の死体を埋めるなんてやめよう。この男をぶっ殺して、僕と彩子は新しい世界を作る。二人だけの平穏な世界を。二人だけの幸福な世界を。

 僕には彩子がいればいい。

 彩子も僕がいればいい。

 ただひとつの美しい世界……。


 暗いのなかで、男の口から血があふれだすのが見えた。男は目を見開いたまま、棒のように横倒しに崩れた。

 僕は消えそうになる意識の中で、全力を出して首の上の金属バットを振り払った。

 血と唾の混じった口の中の粘液をくぐって、空気が肺に流れ込む。


 何度も、何度も、男に包丁を振り下ろしていた。黒い髪を振り乱して。

 男は最期にため息のようなうめき声を上げたあと、動かなくなった。

 長く綺麗だった髪は、血で絡まってボサボサだ。

 白い肌には、泥と古い血や新しい血がのようにこびりついている。

 切れ長で長いまつげの揃った目は、赤く血走っている。


 あぁ、彩子!


 間違いなく、彩子だ。

 彩子が僕を助けてくれたのだ。

 彼女は生きていたのだ。

 青白い顔だったが、彩子はいつものような仄かな笑みを口元に浮かべながら、僕を見下ろしていた。

 僕も苦しく呼吸をしながら、笑みを返した。

 彩子は男が運んできたらしい自分のバッグを探る。彼女のほっそりとした手が取り出したのは、二組の手錠だった。


 ──どうして、そんなものを。


 問いたかったが、僕の口はうまく喋れなかった。

 彩子は僕の両手、そして両足を手錠で繋いだ。わずかに身を反らして逃げようとするのが精一杯で、僕にはもはや余力がなかった。

 いくら彩子が僕を独占したいという性分にしても、やりすぎじゃないか。


 ──私とキミは二人でひとつ。バラバラではいられない。


 確かにそうだが、僕だけが一方的に束縛されるのは正しくない。

 彩子と付き合いだしてからの三年間で、僕の少なかった知人はゼロになった。 同僚と交流するような仕事は許されず、転職した。彼女が許さなかったからだ。

 仕事帰りや休日に一人で寄り道してはいけない。

 買物をするときは異性の店員のレジに行ってはいけない。

 テレビでアイドルや女優が出る番組はおろか、CMも見てはいけない。

 女性が表紙の雑誌を買ってはいけない。

 女性が画面に映るサイトを見てはいけない。

 街で女性を見つめてはいけない。

 女性の容姿について意見を言ってはいけない。

 彼女の知らない相手の連絡先はスマホに登録してはいけない。

 会社に行く間も一時間おきに連絡を入れなければならない。

 彼女以外に笑顔を向けてはいけない。

 彼女以外と親しげに三分以上会話はしてはいけない。

 彼女を疑ってはいけない。

 彼女のバッグを覗いてはいけない。

 彼女の予定を聞いてはいけない。

 彼女に反論してはいけない。

 彼女の言うことに従わなければならない。


 僕は趣味といえば、バッティングセンターに行くぐらいだった。

 あの時も面倒な仕事を終え、バッティングセンターへ気晴らしに行こうとしていた。

 だが、彼女は許さなかった。

 僕は耐え切れなかった。

 彩子に耐え切れなくなっていた。


 彩子はバッグからメガネケースを取り出した。

 メガネケースの中から、彼女は注射器を取り出した。そして、小さな点眼薬めぐすりのような容器。

 彩子は注射器の針を差し込んで容器の液体を吸い上げると、爪で注射器の腹を弾く。


 やめてくれ。

 お願いだ。

 僕が間違っていた。

 僕が悪かったから、お願いだ。

 そんなことはやめてくれ。


 注射針が僕の腕に潜り込んだ。

 脳細胞が分解されるような快感が走り、波紋のように一瞬で全身に広がっていく。

 眼の焦点が合わなくなり、口は閉まらなくなり、身体は弛緩した。

 僕の顔を見つめながら、彩子が身を寄せて横たわる。まるで添い寝するように。

 その部屋で僕と、死体と、彩子は並んで横になった。

 まるで川の字だな、と僕は思ったが、それが面白いのか、面白くないのか、それすら判別がつかず、すぐにその思考を続けることも難しくなり、僕は考える事を断念した。

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僕と死体とサイコパス 百里 @sawya

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