3
僕は動けずにいた。
懐中電灯だろう、光が僕の背後を這いまわる。毛布には気づいただろうか。毛布の血に。
「怪我してる?」
「あー、いや。大丈夫です」
「レッカーは頼んだかい? 無理に上がるのは危ないよ」
「……ええ。もうすぐ着くそうですから、大丈夫ですよ」
僕は振り返らないまま、小さな声で返した。顔を見られたくないし、声も聞かれたくない。
声からして年配だろう、その男の近づく気配がした。
懐中電灯が毛布を照らし、何度もその上を行き来する。僕はそれを横目で追った。毛布に染み込んだ血が、闇のなかで浮かび上がった。
「あんた、それ」
殺すしかない。
僕は金属バットを握りなおした。
振り向きざまに脚を叩く。倒れるまで叩く。立てないようになるまで叩く。それから頭を打つ。いや、それでは逃げられてしまうだろうか。すぐ立ち上がって顔を打つべきか。
「頭からだいぶ出血してるんじゃないかい」
「……え?」
どういうことだ?
「頭のは大げさに見えるけどさぁ。……ちょっとじっとしといて」
僕のこめかみあたりに男の手が伸びてきた。
いまさら僕は自分が怪我をしていて、血が首筋から右肩までぐっしょりと濡らしていることを自覚した。
とすると、男は毛布の血を僕のものだと誤解したのだろうか。
「耳が切れてるんじゃないかい。消毒ぐらいしておいたほうがいいよ。救急車呼ぼうかい?」
「ああ、大したことなさそうなら、レッカーしてもらったあと、自分で病院行きますから」
「でもあんた、立てないじゃない」
「徹夜で運転してきたので、少し疲れたんですかね。でも休憩すれば大丈夫だと思います。警察沙汰になると会社にちょっと……」
「ああ……。まあ、しっかり受け答えしてるし、レッカー呼んだってんなら」
男は再び僕の切れている耳を触った。
「血は止まってそうだけど。……そこの道、北に少し行けばうちの家あるから。なんかあったら来なさいよ」
「ありがとうございます」
男は僕の横を抜け、道を上がっていった。
顔を
声の通り、白髪で小太りの老人だ。ゴム長を履いて、
夜釣りでもしていたのだろうか?
男はこちらを一度も振り向かず、去っていった。
僕は緊張が解けて、その場に座り込んだ。
急場を
早くここを抜け出さなければ。
僕は立ち上がり、金属バットを右の後輪に差し込む。
また助手席から運転席へ移り、慎重にアクセルを踏んだ。
タイヤが噛む手ごたえを少し感じたが、右、そしてすぐ左も空転した。降りて確認すると、毛布は後ろに掻き出され、金属バットも抜けていた。くそ……!
毛布の下の落ち葉を払いのけ、グリップを出すために小石や木切れを置いてから、毛布を敷きなおした。金属バットも膝で力いっぱい押し込み、隙間に木片を差し込む。片方だけが機能するのでは、車体がずれて木の支えを失うかもしれない。両方がうまく進まないといけない。
急がないと。
三度目の失敗で僕の焦りは抑えがたくなった。
あの男が警察に通報するのではないか。また来るのではないか。不安が頭をもたげてくる。
四度目も失敗した。僕は計画の変更を決意した。
──あの男を殺す。
道具だけを借りるか、盗むことも考えたが、顔を見られることや、通報される危険が増す。男を拘束するか、監禁するにしても、僕は力があるわけでもない。体重だけで考えても、僕が負ける可能性もある。
ならば、もう選択肢はない。
男を殺して家から道具を探し、車を道に戻す。彩子とあの男の死体を車に載せ、人目のつきにくい場所に停めて自宅に帰る。
後日、道具をそろえて処分する。
深夜四時を過ぎようとしている。時間が足りないのだ。
男に家族がいた場合、どうするべきだろう。
男だけを殺す方法はあるだろうか。それとも全員を……。
男の家の周辺は集落なのだろうか。目撃されるリスクはあるだろうか。こんな山奥の集落ならば、年寄だらけだろう。家を間違わないか。人違いをしてしまわないか。僕とあの男は、互いに顔を見ていない。まして夜だ。
エンジンを切り、助手席に移ろうとして、コードに足を取られた。
舌打ちしながらそのコードを手にして、ふと気づいた。コードはシガーソケットから伸びて二つに分かれ、一つはダッシュボードの上、もう一つはリアガラスの下のドライブレコーダーに繋がっている。後部にまで取り付けたのは、彩子が「ストーキングされている」と悩んでいたからだ。
その後部のドライブレコーダーに、あの男が映っているのではないか。後部タイヤの前で座る僕──その後ろに立っていたのだから、角度的に可能性は高い。
僕は
ドライブレコーダーの電源が入ると、再生モードにして映像を巻き戻す。悪戦苦闘して往復する僕の姿が映り、やがて男の姿が映った。よし。
立ち去る場面から男がやってくるまで、多少見切れながらも顔はしっかり映っていた。凡庸な、老いた男の顔……。
男が出現するシーンを過ぎて、僕は慌てて一時停止ボタンを押した。
変だ。
再生する。
暗闇の向こうで懐中電灯を下にした男が歩いてくる。なぜ、下にしている? 足元を確認するためか、それとも僕に気付かれないためか?
見切れているが、男は手に何かを持っている。暗くても時折白く光るのがわかる。刃物だ。かなり長い、山刀のようなものだ。
男は懐中電灯を上げ、僕を照らした。口が動いている。
つまり、男が僕に話しかけてきたとき、その手には山刀を持っていたのだ。
心臓の鼓動が早くなった。
いや、しかし深夜に自分の家の近くで不審者が事故を起こしていたならば、警戒するのもおかしくはない。山刀は人間には大げさすぎるが、こんな山中なら獣だっているだろう。
男は会話して、すぐに刀を長い革袋に収めた。問題ないと判断したのか。
そのあとは画面端で懐中電灯を照らし続ける男の姿が続いた。
男が中腰になって手を伸ばした。
僕の耳の怪我を見たときだろう。
そして口が動く。
さらに男が手を伸ばした。
そうだ、男はもう一度僕の耳を触り、「血は止まっている」と言ったのだ。
男は僕の耳に触れた。口が動いている。
「血は止まってそうだけど」
男はその指先を口に持っていき、
なんだこいつ。なんだこいつ。なんだこいつ。なんだこいつ。なんだこいつ。なんだこいつ。なんだこいつ。なんだこいつ。なんだこいつ。なんだこいつ。なんだこいつ。なんだこいつ。なんだこいつ。なんだこいつ。なんだこいつ。なんだこいつ。なんだこいつ。なんだこいつ。なんだこいつ。なんだこいつ。なんだこいつ。なんだこいつ。なんだこいつ。なんだこいつ。
なんなんだ、こいつは!
僕は自分の目が信じられなくて、映像を巻き戻して何度も見たが、間違いなく男は口の中に指を入れてしゃぶっている。指先の汚れを取るためなどではけしてない。僕の血を味わうために、素早くだが執拗に舐めたのだ。
僕は震える指先で、巻き戻しボタンを押す。最初のシーンから見直した。
男が山刀を収めるところの会話は、なんだったか。
──そうだ、たしか。
「レッカーは頼んだかい? 無理に上がるのは危ないよ」
「……ええ。もうすぐ着くそうですから、大丈夫ですよ」
そうか。
もうすぐ着くから、僕を殺すことをやめたのだ。
僕はドライブレコーダーを助手席に置いてエンジンを切り、車から降りた。
山に霧が出始めていた。
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