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県境を越えて運転を続けるうちに、僕は楽観的な気分になっていた。
このまま人目を避けて山へ入り込めば、まず目撃されることはないだろう。スマホを置いてきたのも正解かもしれない。
GPS機能のせいだ。近頃はスマホのGPS機能を切っていたとしても、解析して位置を解析できると聞いたことがある。履歴もまた調べることができるかもしれない。それに普段、僕はGPS機能を有効にしている。突然、オフにするのは不自然だ。もし、警察に疑われた場合でも、家に忘れていた、もしくは家にいたというアリバイに使えないだろうか。
車にドレイブレコーダーは付いているが、カーナビは付いていない。ドレイブレコーダーはGPS機能もない安物なので、いざとなれば壊してどこかに捨ててしまえばいい。それで電子的足跡は消える。
僕自身についても仕事以外で、人との交流はほぼないといっていい。
彩子と付き合いだしてから、友人知人とは疎遠になった。両親とも何年も連絡を取っていない。つまり、突然誰かが僕のマンションを訪ねてきたり、連絡を取ってくることは皆無だ。
彩子にしても似たようなものだろう。いや、僕以上に孤独に違いない。美しく、強い彼女は同性からは嫉妬され、異性からは敬遠された。
僕はけして彼女のような孤高の人ではなかったが、幼いころから忘れ去られ、置き去りにされ、孤立し続けてきた。だからこそ、僕と彩子は惹かれ合ったのかもしれない。彩子が言っていた。
「私とキミは二人でひとつ。バラバラではいられない」
その通りだ。なのに──。
僕は国道沿いの暗がりにぽつんと立つ自動販売機の前で車を止め、缶コーヒーを買った。温かいコーヒーが食道を通って胃袋に流れ込むのが分かるほど、身体が冷えていた。
マンションを出てから、ここまで飲まず食わずだった。コンビニなど人のいる店には入れなかった。防犯カメラや人に出会う可能性を少しでも減らさなければならないからだ。本当は食べ物や飲み物より、地図が欲しかったが。
そろそろ山中へ入ろう。
時間は〇時を回ったところだが、山道でどれぐらい移動するかもわからないし、そもそもどうやって彩子を──彩子の死体を──処分するのかも考えなくてはならない。
死体が発見されない方法。もしくはされにくい方法。せめて死亡時期の推定が難しくなる長期間、見つからない方法はなんだろうか。
埋めるのがいいのだろうか。道具もなく山の地面を掘って埋めることができるのだろうか。山道から離れた人が分け入らない場所まで運ぶのがいいのだろうか。川に捨てるのはどうだろう。服などは別で処分してしまうべきだろうか。髪は科学的捜査に使われるのだろうか? 切り取るべきだろうか? いっそ死体をバラバラにして分散させるのがいいのだろうか? そのための道具は? 調達方法は?
とめどなく疑問が湧き上がり、選択肢は増殖していった。ひとつ確実なのは、なにをするとしても、道具が足らない。
死体を一度どこかへ隠して、道具を準備してからやり直すほうが確実なように思えるが、それは同時にアリバイ工作ないし隠蔽工作を二度やらなくてはならないという、とても大きなリスクを背負う事にもなる。
時間的なリミットもある。
明日の夜明け、僕がマンションの自室に帰るまでの時間に、どの程度のことができるのかも分からない。彩子の死体とは別に、金属バットの処分も考えなくてはならない。できるだけ遠く離れた関連性の薄い場所だ。
それに僕の自室をもう一度確認しなければならない。彩子の血がどこかに残っているかもしれない。残っていなくても、捜査では見つけられる技術があるはずだ。映画やドラマではたしか、「ルミノール反応」とか言っていたはずだ。その検査を妨害する方法も調べなくてはならない。
──いや、まて。
ふと僕は自室から自分の車まで彩子を運んだときのことを思い出した。マンションには防犯カメラがあったはずだ。エントランスに防犯カメラがあるのは覚えている。そこは通っていないから問題はない。だが、エレベーターや駐車場への入り口にはあっただろうか? ──思い出せない。しかし、「ない」とは言い切れない。
もし防犯カメラに写っていたとしたら、誰かがそれ見る可能性はあるのだろうか? セキュリティは警備会社が担当しているだろうが、契約している顧客のすべての防犯カメラを毎日見るわけではないだろう。だとしたら、映像の保管期限はどれくらいの日数なのか?
彩子が行方不明になって、まず最初に気づくのはおそらく彼女の勤め先である病院だ。彩子が無断欠勤していれば、雇用主として放置するということはありえない。連絡を取ろうとするだろうが、両親は他界していて、親族もいないと彩子は言っていた。
それを病院が知っているならば、直接彩子の家を訪れるか、警察に届け出をするだろう。それまで一週間ぐらいだろうか? 彩子の家を警察が訪れ、事件と断定して動き出せば、いつか僕のところを訪れるに違いない。たとえ彩子が人付き合いもなく、会社ですら孤立していたとしても、音信不通のまま放置されるなどということはないだろう。
それに僕と彩子の交際を知る共通の知人がいないとしても、近隣の人間や一緒に訪れていたカフェやレストラン、スーパーなどで目撃されているだろう。付き合いだしてからの三年という月日は、人の目に触れ記憶されるのに十分な長さのはずだ。
警察が彩子の足取りを追うなかで僕と彩子の関係を掴めば、当然ながら僕の身辺を捜査する。そのとき間違いなくマンションの防犯カメラも調べられる。カメラを破壊してもそれは防げないだろう。動画のデータはどこに保管されているのか。マンションのどこかなのか、警備会社にオンラインで転送されているのか。それを削除する方法はあるのか……。
もうこのまま、逃亡するべきなのかもしれない。
先程までの楽観的な気分は逆転していた。僕は錯乱状態だったのだろう。いまにも倒れそうな自転車を立て直そうとすると、右に左に大きく揺れるように、僕の精神はめまぐるしく変転し続けていた。そんな心の動揺は外界への注意をも支配していた。
僕は運転を誤った。
目前に迫るカーブに気づかず、曲がりきることもできずに車道の向こう側へ──山の斜面を車は落ちた。
幸い、と言っていいと思う。
斜面は木が生い茂っていて、車は横転することもなく止まった。ライトが斜めに光線を放って、鬱蒼とした山の樹木を照らしている。
全身から汗が吹き出した。僕はハンドルにしがみついたまま荒く呼吸を繰り返しながら、周囲を見た。
車は、ちょうど斜面と直角になるようにして止まっていた。カーブを曲がりきれず、横滑りで落ちたからだろう。車の右側が木に支えられて、それ以上落ちることを防いでいた。左側がさっきまでいた山道のある斜面の上りだろう。
オートマなのに、車はエンストしていた。何か原因があるのだろうか。足がブレーキペダルを踏んだまま、こわばっている。震える手でシフトレバーをニュートラルに戻して、エンジンをかけなおした。
息が整うのを待って、ゆっくりとアクセルを踏む。
タイヤが土を掻く音を立てた。車は少しだけうねるような動きをしたきり、進まなくなった。
──ダメだ。
僕はハンドルに額を当てて目を瞑った。
うまく頭が回らなかった。動きたくない。終わりにしたい。
…………。
……。
…。
このまま、孤独のまま、暗い沼に沈んでいくのだろうか。
誰にも知られず、自分をも見失って消えていくのだろうか。
それが衝動だったとはいえ、彩子を殺すべきではなかった。「二人でひとつ」。ひとつになれないのなら、それは相容れないふたつだ。世界にふたつも僕のような彩子のような人間がいてはならない。彼女と僕が世界で両立しえないなら、どちらかが消えなければならなかった。彩子ではなく、自分を消すべきだった。だが、それももうできない。
二人のうち彩子が削除され、僕が残った。ならば、それを受け入れるしかないのだろう。僕には彩子がいたことの証明として、僕を存続させる義務が課せられたのだ。美しい生け贄の
ゆっくりと僕は顔を上げた。
ドアを開けようとしたが、木の幹にぶつかって身体を出すに十分な間隔は作れなかった。ドアの隙間から覗くと、車の右後部は宙に浮いているように見える。
サイドミラーを見たが、後方はテールランプでわずかに周囲が見えるだけで、あまりにも夜の山は暗い。
僕は助手席へ移り、左側のドアを開けた。そちらも斜面の土砂にあたって完全に開かない。僕は身体をひねって車から降りた。
何度も落ち葉で滑り、転びそうになりながら、暗闇のなか車を調べた。懐中電灯もなく、スマホの明かりもないせいで、酷く時間がかかった。目が慣れてくるまで待つしかなかった。
右の後部タイヤはほぼ浮いていて、左のタイヤは落ち葉のせいで空回りしていた。車体は右側の木に支えられているおかげで滑り落ちなかったが、中途半端に前進すると支えを失ってまた斜面を落ちていきそうだ。
斜面を上ってみたが、山道はすぐ近くだった。直線距離でいえば五メートルもない。車の足場を作って坂を斜めに上がるように突っ切れば、滑り落ちずに戻れるのではないだろうか。
なにか足場になるようなものはないか。車内にめぼしい物はない。
──いや、ある。あった。
トランクに金属バットと、彩子を包んでいるカーテン、毛布がある。宙に浮いている右の後部タイヤの下に金属バットを差し込み、滑る左の後部タイヤの下にカーテンなり毛布を敷けば……。
しかし、そのためにはトランクを開け、金属バット、そして毛布とカーテンと取り出さなくてはならない。それはつまり、彩子の死体を見なくてはいけないということだ。僕にはその勇気がすぐには振り絞れなかった。
だから。僕は車の進む道を作り始めた。
車が発進して、山道までたどり着くのが容易になるよう、邪魔な落ち葉を取り除き、少しでも滑り落ちにくくするための溝を掘った。金属バットを使えばいいのだろうが、トランクを二度も開けたくなかった。
両手で掘った。爪に土が入り込み、湿った腐葉土の匂いがした。石を溝の
耐えきれなくなって僕は車のヘッドライトに指先を押しあてた。ライトの発する熱が指の痛みを和らげてくれる。その往復を繰り返した。
手の表、裏と返すたびにライトの光が揺れ、山の中に不気味な影絵を作った。僕は自分の影におびえた。誰かがライトを照らしているような錯覚に陥ったからだ。今は何より光が怖い。誰かに見られることが。
──いや。それはウソだ。
僕は車の後部に回り、トランクを見つめた。素手で作業をするのは限界だ。爪が割れ、砂利で指先が切れた。金属バットを使うほうがはるかにマシだろう。第一、二度もトランクを開ける必要もないのだ。一度で金属バットとカーテン、毛布を出せばいいのだ。
キーを差し込むと、
トランクの中は小さいランプが点灯していて、ぼんやりと毛布を照らしていた。僕は金属バットを手に取った。そういえば、彩子のハンドバッグも入れたことを思い出した。あとでこの処分も考えないといけない。
巻いた毛布の右端が血で濡れていた。ほとんど乾いてしまっている。言うまでもなく、そちら側に彩子の頭がある。僕は恐る恐る毛布をつかみ、引っ張った。
重い。
金属バットを脚で挟み、両手で引いた。
ごろり、と彩子の身体がトランクのなかで転がった。
毛布を手繰るように引くたび、ごろり、ごろり、とその肉塊は転がる。
毛布が長くなっていくに従い、血はより広く、より生々しく、下のカーテンに貼りついている生乾きの部分が剥がれ、毛羽立つ嫌な音を立てた。
毛布と取りきると、半分まで血に染まったカーテンの端から、長い黒髪がこぼれ出していた。血で汚れ、まとまりなく乱れたまま広がっている。
僕は吐いた。
何度も
カーテンまで剥がすのは無理だ。僕にはできない。毛布だけで事足りるだろう。
僕はトランクを閉め、毛布を車輪の下に敷いた。それから金属バットを拾って立ち上がろうとした──
「あんた、大丈夫かい」
唐突に背後から声がした。
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