僕と死体とサイコパス
百里
1
僕は金属バットを握りしめたまま、動けなかった。
僕の部屋のフローリングで、彩子は倒れていた。いや。倒れた、というのが正確な描写だろうか。
彩子の黒い髪の間からこぼれ出た血が恐ろしい早さで広がっていくのを見て、自分がやったことに気付いた。
僕が金属バットで彩子の頭を殴ったのだ。
彼女は棒のように倒れ、床に横たわった。それきり彩子は身動き一つせず、頭からの出血だけが別の生き物のようにフローリングの上を這って行く。その赤い先端が僕の靴下をチロリと舐めた。
僕は息を大きく吸い込んだ。今まで呼吸を忘れていたのだろうか。吸えばいいのか、吐けばいいのか、肺がどちらともしようとしているのか、うまく息ができない。汗が噴き出てくるというのに、全身が凍るように寒い。胸が気持ち悪くて痛くて苦しい。
身体のバランスがうまく取れないせいで、尻餅をついた。目だけが彩子を見続けていて、離すことができない。
彩子は動かない。
僕はただ目を見開き、でたらめな呼吸を続けながら、座り込んでいた。どれぐらいの時間だったのか、後で思い返してもわからない。時間は止まっているようでもあったし、すごい速度で過ぎていったようにも思える。
僕は逃げ出した。ドアを押し開け、廊下を転げるように走り、エレベーターの昇降ボタンを滅茶苦茶に押した。
エレベーターのランプが一階から二階へ。二階から三階へ。三階から四階へと点灯する。僕の部屋は八階だ。
五階のランプが点灯したとき、僕は自分が金属バットを握ったままであることに気付いた。思わず投げ出そうとして、左手でそれを抑えた。
バットには、わずかだが血が赤く光っていた。
まだうまく呼吸ができない。まったく空気が足りない。
僕は金属バットを持ったまま、自分の部屋に戻った。玄関から廊下越しに見える部屋の中央で、彩子は倒れていた。血だまりがさらに大きくなっている。
──これは僕がやったのだろうか……?
何者かが侵入してきて、彼女に危害を加えたのではないのか。僕はショックのあまり混乱し、自分がやったのだと勘違いしていないだろうか。警察に通報して救急車を呼ばなくてはならないのではないのか。
僕は金属バットを床に置き、彩子から離れてたまま手を伸ばした。
肩に触れた。服越しでもその柔らかさが伝わってくる。
「あの、さ」
少し肩を押した。
これで彼女が意識を取り戻すのではないか。
「悪かったよ」
髪が血で濡れて乱れている。
僕は怖くてどうすればよいのかわからず、その場に座り込んだ。
彩子が起き上がってこないだろうか。
僕はもう一度手を伸ばした。
「大丈夫か?」
声をかけながら、彩子のうなじを触った。首筋にも手をあててみた。
手が冷えすぎて、温かいのかどうかも、脈があるのかどうかもわからない。
彩子は冬物の温かそうなコートを着たままだ。マフラーも首に巻かれている。
どうすればいいんだ。
今から救急車を呼べば間に合うんじゃないのか。あと何分、猶予は残されているのだろう。
どうすればいい。
どうすれば。
あと少し待っていれば、彼女が意識を取り戻すのではないか。そうすれば大騒ぎせずにタクシーを呼んで、救急病院に行けばいい。ではあと何分待つべきなのか。
どうすればいいんだ。
どうすれば。
どうしよう。
頼む。死なないでくれ。僕が間違っていた。僕のほうが間違っていた。だから、死なないでくれ。彩子、なぜ死んでしまったんだ……。
──もう、どうしようもない。
僕は立ち上がると窓際のカーテンをすべて引きちぎり、彩子の身体にかけた。そのまま彼女の身体を転がしてくるんだ。血が
足側から毛布を引っ張って玄関まで運ぶ。頭から流れた血が廊下に線を引いていた。このまま外に出てたら、血があちこちに付いてしまう。上半身を持たなくてはだめだ。
僕は部屋に戻ってティッシュでそれを拭いて、トイレに流した。彩子の
ドアの隙間から通用廊下を見た。外灯が点いているだけで、人の気配はない。後ろ向きのまま尻でドアを押し開け、彩子の身体を引く。
そのまま力任せに通用廊下からエレベーターまで運び、ボタンを押そうとして手が止まった。
──エレベーターのランプが一階で止まっている。
誰かが使ったのか。
それとも一定時間で一階に戻るような機能が付いているのか。
まだ夜といってもそれほど遅くはない。一階に降りて駐車場へ運ぶまでに人と出くわす可能性はある。
部屋に戻るべきか。いや、ここで迷っている間に誰かが来るかもしれない。
僕は震える手でエレベーターの下降ボタンを押した。
一階からこの八階へ、いまちょうど誰かが上がろうとエレベーターに乗ったかもしれない。だから一階で止まっていたのかもしれない。すぐ動かなかったのは、その人物が到着したエレベーターを待たせて、ポストの投函物を確認したあと、乗り込んだせいかもしれない。
僕はゆっくりと点灯するランプを急かすように待ちながらも、迫り来る破滅を恐れた。
たまらなくなって僕は彩子を置いたまま、エレベーターから離れた。階段の防火扉の横でエレベーターのドアが開くのを見た。人が降りてきたら逃げるつもりだった。
明るいエレベーターの中は無人だった。
閉じようとするドアを押さえ、エレベーターの箱に彩子を運び込む。斜めにしても収まりきらず、頭を壁にもたれさせるように立てた。
ドアは閉じ、箱は下降を始めた。
もし途中で誰かが乗ってきたら、逃げることも言い逃れもできない。
覚悟を決めるしかない。
もしそうなれば威嚇してエレベーターに乗せず、一階で降りていち早く逃げるしかない。
興奮でめまいがした。
エレベーターは一階に着き、ドアを開いた。誰もいない。
エントランスを出て、駐車場に向かう。なんとか自分のセダンのトランクまで彩子の身体を運び終えて気が付いた。車のキーを持っていない。部屋だ。
僕は気が狂いそうになりながら小走りでエレベーターに飛び乗った。
そこで自分が靴下のままだったことにも気づいた。音を立てないよう廊下を走り、靴を履いてから部屋に上がり、車のキーをひったくった。金属バットも忘れていた。彩子のバッグも。
それらを拾って部屋を見渡した。カーテンを取ったせいで部屋が外から丸見えだ。明かりをつけたままにしておくのはまずい。明かりを消し、鍵をかけて、再びエレベーターに乗った。
どこへ行けばいいだろう。
死体を見つからないよう隠す場所は、どこが適しているのか。
駐車場に戻り、車のトランクを開けた。
彩子は大柄でもない、むしろ身長にしては痩せていたが、ひどく重かった。車体に押し付けながら持ち上げ、トランクに詰め込んだ。金属バットとバッグも一緒に入れた。
運転席に座ってから、行き先を考えようとスマホを探して、また部屋に置いてきたことに気付いた。戻ろうか迷っていると、エントランスホールに誰かがやってきているのが見えた。オートロックの暗証番号を打ち込んで入ってきたということは、マンションの住人だろう。ポストで郵便物を見ているようだ。
数分、もしくは数十秒のタイミングの差で遭遇する可能性があったのだ。これ以上、リスクを冒すことはできない。
僕はエンジンをかけ、目立たないようゆっくりと駐車場を出た。
このまま北へ向かう。県境を過ぎれば、山地に入る。
人の目が多い高速道路は使わず、下道を走る。昨日給油したところなので、ガソリンは満タンだ。
車の時計は一〇時一八分になっていた。彩子が僕の部屋に来たのは、十時近かったように思う。それほど時間がたっていないことに、僕は驚いた。同時に、とても長い夜になることを確信した。
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