スタートライン

月ノ瀬 静流

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 中学校生活最後の夏休みに入った。

 去年までは、休みが来るまでの日にちを指折り数えていた。

 半袖から伸びた僕の腕は、やや日焼けしているものの、去年のように真っ黒ではない。

 みんみんと喚きたてる蝉の鳴き声に後押しされて、澱んだ空気の中を縫うように歩く。肩から提げた鞄が重い。テキストにノート、筆記用具。シャツがべっとり、鞄のベルトの形に染みになっていた。

 夏休み前に配られた進路希望調査票。

 第一志望、第二志望、第三志望と、三つ欄があった。

 行きたい高校の名前を書くものであるらしい。何になりたいか、ではなく。

 進路、って何だろう。

 進みたい道って、高校の名前なんだろうか。

 仲のいい友達が塾に行くと言い出した。僕も、期末テストが振るわなかったこともあり夏期講習に申し込んだ。



 夏休みも半分を消化し、塾もお盆休みに入った。

 この時期はいつも母方の実家へ泊まりに行く。これは今年も同じだ。

 祖父母の家は電車を一時間半ばかり乗ったところにあり、それほど田舎というわけでもない。マンション暮らしの僕にとっては一戸建ての家は羨ましいが、特に広い家というわけでもない。祖父母と、両親と僕、それから叔父夫妻と娘の優花ちゃんが集まれば、かなり窮屈になる。

「お、来たか」

 先に着いていた叔父が団扇を片手に出迎えてくれた。母の弟である叔父は、母にそっくりだ。父が初めて叔父にあったとき、一目で弟と分かったという。その父は出張のため、明日遅れて来る。

 家の中に入ると、優花ちゃんが団扇で折り紙の鶴を扇いでいた。

「お父さんも、ぱたぱたして~」

 風で鶴が動くのが面白いらしい。

 はしゃぐ孫娘に目を細めながら、祖父が無邪気な優花ちゃんを写真に収めている。

 優花ちゃんは、秋にお姉ちゃんになる。部屋の隅で壁に寄りかかるようにして座っている叔母に、母が体調を気遣っていた。

 氷のたくさん入った麦茶を祖母が持ってきてくれた。透明なグラスが僕と同じように汗をかいている。それを一気に飲み干すと自然にため息が出た。

 突然、涼しい風を感じた。

 優花ちゃんが僕を扇いでいた。

「お兄ちゃん、涼しいね」

 楽しそうに全身で団扇を上下させるが、なにぶん三歳児のやることだ。労力のわりに効果が少ない。暑い中、更に顔を真っ赤にしている優花ちゃんが可愛くて、僕は近くにあった団扇を借りて優花ちゃんに風を送ってやり、それから折鶴を扇ぎ飛ばした。優花ちゃんはきゃっきゃっと喜び、鶴を捕まえにいった。



 夕食前、僕と叔父は物置から座卓を探してくるように祖母に頼まれた。人数が多いので、いつも祖父母が使っているちゃぶ台では狭いのだ。

 家庭菜園の真っ赤なトマトの向こうにある物置は、物置というより倉庫だ。もとはシャッター付きの立派な車庫だったところを、祖父が高齢を理由に免許証を返したため物置として使っているのだ。

 密封された空間を開くと、もあっとした暑苦しさと埃くささが迫ってくる。

「こりゃ、とっとと撤退しないと蒸し焼きだな」

 叔父が苦笑しながら中に入り、僕も後に続く。祖母が園芸用品を増やすので、何処に座卓が追いやられているかは毎回変わるのだ。

 手前にはシャベルや培養土などが置かれていた。その次に日曜大工の道具。

 きょろきょろしながら探していると、何かに後頭部をぶつけた。「痛い」と叫び振り返ると、そこに身体測定のとき使う座高計のようなものが置かれていた。

「どうした」と言いながら寄ってきた叔父の、息を呑む音が聞こえた。

「まだ、とってあったのか」

 叔父は埃を拭うかのように上から下へと、すっとそれを撫でた。

「それ、何」

「引き伸ばし機だよ。写真を大きく焼くときに使うんだ」

 叔父が学生時代、カメラクラブに入っていたことは母から聞いていた。よく被写体にされていたと。

「すごい。プロみたい」

 思ったままを口にすると、叔父は困ったように笑った。

「俺ね、写真家になりたかったんだよ」 

 僕は叔父がカメラを持っているところをほとんど見たことがない。写真を撮るのは専ら祖父だ。叔父も頼まれればシャッターを押すが、自分から撮ろうとはしない。

 みんみんと蝉の喚き声が響いている。

 引き伸ばし機の後ろに座卓が隠れていたのを発見したのは、その少し後だった。



 なかなか眠れずに何度も寝返りを打った。トイレにでも行こうかと部屋を出ると、居間から明かりが漏れていた。母と祖母がお喋りをしていて、叔父が新聞を読んでいる。祖父はもう寝たらしい。叔母は優花ちゃんに添い寝しているのだろう。

「眠れないのか」

 叔父が尋ねる。僕が頷くと叔父は「麦茶、要るか」と台所に向かった。

 僕は叔父に聞きたいことがあった。

「どうして写真を撮らないの」

 冷蔵庫から麦茶を出す叔父の背中に訊いた。こちらを向いた叔父は昼間と同じ顔で笑っていた。

 受け取った麦茶を飲み干したところで、「外に出るか」と叔父が誘ってきた。

 夏の大三角形が天頂で輝いていた。

 この時間になれば、さすがに涼しい。

 叔父が蚊取り線香を縁側に置いて座ると、僕も並んで座った。

 ちらりと、叔父は僕の目を見た。そして何を思ったのか、軽く頷いた。

「学生時代の俺はさ、いつもカメラを持ち歩いていた。プロ仕様のがっちりした重たい奴でさ、姉には『よく持ち歩けるわねぇ』と呆れられていたな」

 遠い星を見ながら、おもむろに叔父は話し始めた。

「日の出を撮りたいと思い立ったら一人でふらっと富士山に登ったり、新しいレンズが欲しくなったら勉強そっちのけでバイトに明け暮れたり。いろいろ好き勝手やっていたな」

 叔父は目を細めて口を綻ばせる。風がすっと通り抜け、白髪が混じり始めた叔父の髪を揺らしていった。

「俺は写真家に憧れていた。けれど、本当にプロでやっていけるわけがないってことも、ちゃんと分かっていた。それでも、真似事でも、写真家でありたいと思っていたんだよ」

 庭のあちこちから虫たちの合奏が聞こえていた。それを伴奏に、叔父の声が静かに響いていく。

「大学を卒業して会社員になって。カメラを持ち歩かない自分を認識したとき、俺は写真を裏切ったような気がして、写真を撮れなくなった」

 僕は息を呑んだ。じっと叔父の顔を見る。

 その途端、叔父は弾かれたように笑い出した。

 虫たちが驚いたように、演奏を止めた。

 叔父は声の調子をがらっと変えて「なんてな」と言った。僕はむくれて「酷いよ」と抗議した。

「そう言えたら格好いいよな。本当は、就職したら思った以上に忙しかったんだ。丁度その頃、デジカメが台頭してきて銀塩カメラが廃れ始めた頃だったから、銀塩派の俺としてはデジカメに対する反発もあったのかもしれないな」

「銀塩って?」

「フィルムを使う『普通の』カメラだよ。見たことあるか」

 僕はしばし考え、首をふった。DPE店でフィルムが売っているのを見たことはあるけれど、カメラはない。

 叔父は少し拗ねるように「だろうねぇ」とため息をついた。

「俺も年寄りになったな」

「叔父さん、まだ三十代でしょ」

「そう三十七。人生の折り返し地点まで来ちゃったよ。今じゃもう、駅の階段で女子高生のパンツが見えそうになっても、ピクリともこなくなったね。悲しいねぇ。ま、とりあえず、しゃがんで靴紐を結び直すけど」

 突然そんなことを言い出した叔父に、僕は狼狽して咳き込んだ。

「おいおい、何赤くなってんだよ。男にとっちゃ重要なことだろうが」

 叔父は、ふっと真面目な声になる。

「カミさんの腹の子が生まれたら、俺とカミさんの二人で子供を二人作ったわけだろ。もう俺は生物としての務めを果たしたから用済みなのかね、と思ったりするんだぜ」

 叔父は「あーあ」とわざとらしく、大きな声で言った。

「やっぱ、若いってのはいいよ」

 体をほぐすかのように叔父は大きく伸びをして、笑いを含んだ目でちらりと僕を見る。

 僕は見透かされているようで、居心地悪く尻をもぞもぞさせた。

「あの頃と今じゃ、背負っているものが全然違うんだよなぁ。子供たちのお父さんで、カミさんの旦那で、一応は責任ある会社員で。俺は、何者なんだろう。俺は、何者であろうとしているんだろう。なんてな」

 僕は何となく分かった。

 叔父は今でも写真が好きなのだ。

「写真を撮るくらい、いいんじゃないの」

「お父さんが家庭も仕事もそっちのけで、写真にのめりこんじゃったらまずいでしょ」

「僕は、叔父さんが写真家であってもいいと思う」

 言ってしまってから、僕は自分の言ったことがひどく子供じみて思え、後悔した。

 叔父は、ただ口元を緩めただけだった。

 僕は叔父の視界から逃れるように、天の川を見た。星たちの隙間から星が一つ流れていった。

「それでさ。お前は何になりたいんだよ」

 ごく自然に叔父が尋ねた。

「僕は」と言いかけて少し口ごもった。まだ誰にも言ったことのない夢だ。

「僕は、小説家になりたい」

「そうか」

 叔父は僕の背中を叩き、「そろそろ寝るか」と家の中へ入っていった。



 翌日の午後、予定通り父が遅れて到着した。

 遅れてきたお詫びなのか、父は優花ちゃんの大好きないちごのショートケーキを手土産に持ってきた。顔中をクリームだらけにしてご機嫌な優花ちゃんの姿を、祖父が嬉々として写真に収める。「そんな写真ばかり撮って、将来、優花ちゃんに怒られるわよ」と、たしなめる祖母もまた、やっぱり笑っていた。

 ふと、叔父が祖父に声をかけた。

 祖父は叔父にカメラを渡し、叔父は祖父からカメラを受け取った。

 叔父は僕にカメラを向け、僕はカメラを持った叔父を見た。



 夏休みが終わる頃、一通の手紙が届いた。

 中には一枚の写真が入っていた。

 生クリームが今にも垂れそうなケーキをフォークに刺して、僕が最高の笑顔でこちらに向かって笑ってた。

 それはあのとき、僕がファインダーを覗いている叔父に向けた顔だった。

 デジカメプリントのロゴが入った裏側にはメッセージがあった。


《十五年ぶりに、いい写真が撮れた。ありがとう》


 それから、叔父の特徴ある汚い文字で、大きく。


《小説家であれよ》

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