【掌編】パヴロフの家の最終防衛戦

パヴロフの家の最終防衛戦


 1942年11月25日 ソビエト連邦 スターリングラード市街地



 機関銃の短連射で兵士たちは目を覚ます。


 〈スターリンの町〉と名付けられたその町では、連日ドイツ軍とソ連軍による一進一退の攻防戦が繰り広げられている。町の中心部には4階建てのアパートがそびえ立っており、戦禍をこうむったアパートは現在、有刺鉄線を張り巡らされ、周囲に地雷を撒かれ、塹壕を掘られてソビエトの兵士たちが守っていた。


「またドイツ野郎か!」


 要塞と化したアパートの一室で現在のこの家の実質的な家主――パヴロフ軍曹は悪態をついた。


「軍曹、いったい俺らはいつまでここを守れば良いのでしょうか」


 パヴロフに質問を投げかけるのは、まだ殺し合いに慣れないペトロフ二等兵だ。歳は二十になるかならないかで、アブラの抜け切らないその顔にはにきびが何個かできていた。


「ドイツ野郎が退くか、味方が駆けつけるまでだ」


 パヴロフ軍曹は一週間前にやっとの思いで塹壕を通して味方が運んだ戦闘食料、その最後の一袋を開けながら答える。


「ドイツ軍は退くのですか?」


「ご覧のとおりだ。ご丁寧に目覚まし付きで俺らを見ていてくれてる」


「味方の救援はまだでしょうか?」


「ここはただのアパートだぜ? ドイツ野郎じゃないんだ、こんなところに熱心に救援を送る司令官なら、こっちから願い下げだ」


 軍曹は戦闘食を咀嚼しながら言う。二等兵の精神は限界の手前まで来ていた。連日続くドイツ軍の昼夜を問わない砲火で、眠ることさえできていなかった。


「まあ、焦ることはない。祖国はこの地を放棄したわけじゃない。ここは〈スターリングラード〉だぜ? 攻められっぱなしで同志書記長が黙っているわけ無いだろう? ベルリンまで行くついでに、なんとかしてくれるさ」


 軍曹と二等兵が問答をしていると、アパートの壁面を砲弾が叩いた。


「来たぞ」


 パヴロフが外を見やると、ジャーマングレーに染められたドイツ軍の戦車二両がアパート前の広場に集結していた。


「戦車だ! 二輌! 三号だ!」


 軍曹は床に空いた穴に向かって叫ぶ。アパート内は、連絡の便を良くするため、各所、各階に穴があけられ、他フロアの兵士との連絡が取りやすくなっていた。


 二輌の戦車はアパートの前に停車したまま、アパートの窓に向かって砲撃を開始した。数秒おきに弱い衝撃がアパートを襲う。


「全員、窓から離れて伏せてろ! レベジェフ! 迫撃砲の準備をしておけ!」


 軍曹が下にいる仲間に呼びかけている傍らで、二等兵は怯えていた。歯の根が合わない。自分の命が今、終わるかもしれない状況に二等兵は不慣れだった。


 ドイツ軍の戦車が砲撃を続けるなか、パヴロフ軍曹は階下へ行き、数カ月前に掘られた塹壕に降りていった。


「準備はできたか?!」


「できました! いつでも撃てます!」


 塹壕からはロシアの乾いた空が見えていた。軍曹はその光景に別れを告げ、頭を塹壕から出すと、二両のドイツ戦車があいも変わらず、アパートを砲撃していた。


「距離200 包囲057 撃て!」


 軍曹が命令を出すと、迫撃砲を置いたレベジェフ伍長は砲口から砲弾を入れた。


 撃針が砲弾を叩くと砲弾は火薬の力を借りて飛び上がった。おおきく弧を描いた砲弾は、砲撃をしていた戦車の一両の上面装甲を突き破り、爆発する。


 砲撃をしていた二輌のうち一両は砲撃を受けて射撃をしなくなった。車内でなにが起こったかは想像に難くない。


 軍曹が次の砲撃を指示しようとすると、もう一両の戦車は後進、建物の影に隠れた。



 軍曹が元いた階に戻ると、ペトロフ二等兵がうなだれていた。


「……軍曹……もう俺はダメです……」


「タマにあたったわけじゃないだろ?」


「もう……限界です……我々は負けます……」


 軍曹はやれやれといった様子で二等兵の近くへ行った。


「なあ? 同志、俺たちはなんでここにいる?」


「……領土を守るためです……」


「そうだな。じゃあ俺たちがここでくたばったらどうなる?」


「……町が獲られます」


「町が獲られたらどうなる。また同志が取り返しに来るだろ、するとどうなるか?」


「ドイツ軍との戦いになります」


「そのとおりだ、同志。つまり、お前がくたばれば後に続く同胞もくたばるわけだ」


「はい……」


「俺が言いたいのはな、同志よ、お前の命はお前一人の采配で取捨選択しちゃいけねえってことだ」


 軍曹は子を諭す父親のように愛情に溢れ、強い意思を持って説明した。


「お前の命は俺たちと繋がっているんだよ。忘れるな」


 軍曹はこう締めくくった。



「ドイツ軍です! 多い! 戦車が十両以上!」


 昼下がり、部下の叫びが軍曹の耳に届いた。


「応戦しろ!」


 軍曹が命令を下すと、塹壕内の迫撃砲、窓に据えられた対戦車ライフルが一斉に火を噴いた。迫撃砲とライフルの弾がドイツ軍戦車の装甲を叩くが、数輌の動きが止まるのみで、あとの戦車は皆、アパートに砲火を浴びせてきた。


「やれることをしろ!」


 パヴロフは檄を飛ばすと、隣の部屋の窓でライフルを構えているペトロフ二等兵の元へ行った。


「ペトロフ! あの機銃を撃ってる野郎をやれ!」


 軍曹が指をさした先には戦車のキューポラから半身を出してアパートに向けて機銃掃射をしている戦車兵がいた。


「了解しました」


 ペトロフは狙いを付けると一発、戦車兵に撃ちこんだ。弾丸は戦車兵を貫き、兵はその場に崩れ落ちる。


「よし!」


 パヴロフたちは奮闘するも、戦況はドイツ軍の圧倒的優勢だった。


(ここまでか……)


 パヴロフは諦めかかったが、数時間前ペトロフに言った言葉を思い出す。死ねば後に続く兵士も死ぬ。同胞が多く死ぬ。


 同胞たちへのパヴロフの想いが、彼を奮い立たせた。


 軍曹は窓際まで行くと据えられた対戦車ライフルを構える。狙いは戦車の操縦席。射撃。狙い違わず操縦手用の視察孔に命中。内部の搭乗員を殺傷したと見え、戦車は動きを止める。


(これが最後の狙撃か……)


 軍曹は死を覚悟した。狙撃した戦車の砲塔がこちらに指向していた。操縦手の仇と言わんばかりに砲塔の駆動音が咆哮した。戦車の砲手が引き金に指をかけ――


 次の瞬間、戦車が突然爆発した。


「!?」


 軍曹は驚嘆する。戦車の弾庫が誘爆したのか、戦車は砲塔が宙に跳ね上がり、火を噴いていた。さらに誘爆した機銃弾が砲弾ほどではないものの、爆発し、ぱちぱちと音を立てる。


「なにがあった!?」


 軍曹の問に答えられる兵士はアパート内にはいなかった。変わりに、


「Ураааааааа!!」


 久方ぶりに聞く、勇敢な戦士達の掛け声が響いた。


 広場の反対側から旗を持った者、ライフルを持ったもの、短機関銃を持った者、そしてTー34戦車。ソ連の主力兵器・兵士が広場に殺到した。


 ドイツ兵は驚き、応戦するが、それは応戦としての意味を成さなかった。


 Tー34の76ミリ砲は着実にドイツ戦車を木っ端微塵にしていった。


「すごいな……」


 パヴロフはただその壮観を、じっと見つめていた。


 Tー34が広場を蹂躙、制圧、砲火が止むと、味方の兵士がアパートに入ってきた。


「パヴロフ軍曹! 自分たちは第X打撃軍です! ドイツ軍はこの一帯を放棄しました!」


「そうか!」


 知らせを聞くとアパートを守備していた二十数名の兵士は飛び上がって喜んだ。脅えていたペトロフ二等兵をちらりと見ると、祖国の魂にあてられたのか、恍惚としていた。





 この数カ月後、スターリングラードを攻撃していた、主力であるドイツ第6軍の全軍がソ連に降伏。ソ連赤軍は勝利宣言を行い、ここにスターリングラード攻防戦は終結する。



 パヴロフは戦争終了後、ソビエト連邦共産党に入党し代議員となり、ソ連邦英雄に叙せられた。


 ペトロフ二等兵はスターリングラードの戦い終結後、ウクライナ戦線、ベルリンの戦い等で活躍、多くの同胞を救った英雄として、勲章を授与された。


 後に彼らが守ったアパートは、指揮官だった軍曹の名前から『パヴロフの家』と呼ばれるようになった。

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