第8話 古いアパートの冒険

 さて、その墓地を抜け出したところは、真っ直ぐな一本道だった。路地を見つけて曲がらない限り、走りとおすしかない。

 僕は迷わず、和泉の手を引いて走り続けた。息が切れそうだったが、少しでも、あの影との距離を稼がなければならない。

 困ったことには、走っても走っても、あるのは家屋の隙間だけだった。路地といえるような道はない。

 そうこうするうちに、また、あの硫黄の臭いがどこからか漂ってきた。

 なんだか、余計に強烈になったような気がする。

 和泉が怯えたようにつぶやいた。

「たぶん、また大きくなったのよ」

 ひたたっ、ひたたっと足音が近づいてくる。

 そこで初めて和泉が転んだ。抱き起こそうとすると、僕にすがりついてくる。

「どうするの?どこへ逃げるの?」

 校庭で僕を救った和泉とは、とても思えなかった。

 僕に手を引かれて走っていても、足がもつれることさえなかったのに……

 抱き起こすと、小さな身体を僕に預けてくる。

 可愛い頬を僕の頬に寄せると、硫黄の臭いの中をジャスミンの甘い香りが一瞬貫いた。

 道の両側を見渡すと、右手前方に2階建ての木造アパートがある。

 僕は苦しい息をこらえながら、努めて平然と言った。

「方向変換させればいいんだろ」

 再び和泉の手を引いて走ると、僕の手をぎゅっと握り締めて、必死でついてくる。

 精一杯力を込めているらしい小さな手の感触が、痛い。

「もう少しの辛抱だ、和泉!」

 そう叫んで、僕はアパートの敷地へ駆け込んだ。

 和泉が言う。

「ダメよ。敷地内じゃ追い詰められるわ」

「そうじゃない」

 軽い身体を両腕で抱き上げると、え、と叫ぶ。

 僕は敷地の入り口で、背後にある階段へと向き直った。

「これで1回」

 階段を駆け上がると、踊り場で逆方向へ向かっていた。そっちへ反対向きに階段を駆け上がる。

「これで2回」

 2階の通路を走ると、建物の端で行き止まりになっている。

 通路脇の手すりから見下ろすと、セントバーナードぐらいの大きさになったあの影が、もたもたと階段に向かって反転している。

 和泉が悲鳴を上げた。

「どうするの、逃げられないじゃない!」

 僕は答えないで、和泉を抱えたまま脚を高々と振り上げた。

 踊り場のあたりでぐるぐるやってる気配がある。硫黄の臭いは、温泉場並だ。

「和泉、しっかり掴まってろ」

 通路脇の手すりに足をかけ、思いっきり身体を持ち上げた。抱えて飛び降りると、和泉が叫んだ。

「吉田さん!」

 そこは手抜かりなし。いたいけな少女を落っことしたりするものか。

 しっかりと抱きしめて着地したのち、死力を尽くして起き上がり、再び手を引いて走る、といっても飛び降りた衝撃で足はジンジン痛む。

 もう、形だけだ。右へふらふら、左へよたり。

 膝がかくんと折れて、路上に地蔵倒れ……。

 もうおしまいか、と思った時、前にのめった僕の身体が抱きとめられた。

 固いような柔らかいような、不思議な感触。

 ドッヂボールの球を抱えるかのように、和泉が僕の頭を両腕で抱え、胸に押し付けていた。

 腕にぎゅっと力を入れて、和泉がたしなめるように言った。

「危ないじゃない」

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