第6話 袋小路を越える
逃げ込む路地を間違えた。
ちょっと曲がったら行き止まりである。
誰が何を考えてこんな路地を作ったのか知らないが、無計画にも程がある。
突き当たりの石壁を見つめながら、僕はすぐ隣で立ち尽くしている和泉に聞いてみた。
「こういう場合は?」
返ってきた一言は、全く論理的な、一分の隙もない回答だった。
「戻るしかないわ」
僕らが踵を返すと、さっきの空き地の方角からひたひたと歩み寄る音がある。
やがて、ドーベルマンくらいの犬がやってきて、つきあたりの壁に頭をぶつけるのが見えた。
それがゆっくり方向転換しようと、不器用にじたばたする。
そろそろとあとじさると、背中にひんやりとした石壁の感触があった。
暑い夏の夜にはありがたい……って違う!
幸い、目の前のドーベルマンもどきはパニックに陥っている。これは神様(この時ばかりは信じようと思っていた)が僕たちにくれたチャンスだ。
混乱の中で考える。
行き止まり。塞がれた退路。狭い路地に二人。背中の壁。僕たち以外、誰もいない世界……。
僕の頭に、全く論理的な、一分の隙もない解答が閃いた。
「カベ越えよう」
きょとんとする和泉の背後に回り、細い両足を引っつかんで大きく開く。
「え?」
開いた脚の間に頭を突っ込み、肩車をする。
「ちょっとヤダ! やめて!」
足首が細いので掴みやすい。身体も小さいので、軽くていい。
問題は、羞恥にじたばたする和泉だ。暑いのに首を締め付けてくる太腿が熱い。こっちが汗ばんでくる。
くるっと回れ右をして、和泉をけしかける。
「ほら、塀に手かけて!」
僕の言わんとしていたことがようやく呑みこめたのか、和泉の姿は塀の向こうに消えた。
どさりという音と共に叫ぶ声がする。
「痛ったあい!」
女の子にこう言われると、僕も弱い。
「大丈夫?」
和泉の叱責が飛ぶ。
「ちょっと転んだだけよ!急いで!」
そう言われても、石壁には手がかりも何もない。てっぺんに手をかけようとしても、微妙に高すぎて手に力が入らない。
壁に突っ張った脚が滑り、僕はもんどり打って路地に転がった。
逆さまになった世界に、ぎらりと光る二つの目。唸り声。硫黄の臭い。
もがきながら立ち上がって、再びあとじさる。背中にぴったり張り付く冷たい壁があったが。目の前へじりじりと迫ってくるドーベルマンもどきは、心なしかさっきより一回り大きくなったような気がする。
助けて、と叫ぼうと思ったが声が出ない。誰に叫んでいいのかもわからない。
泣き出したくなったとき。
目の前に家庭用ビニールホースが降ってきた。庭の水撒きなんかに使うヤツである。
慌てて掴んで引っ張ると、手応えがある。
塀の向こうから和泉の呻き声が聞こえた。
「早くう」
ばたばたと、慌てて壁を這い上がる。
塀の上に上がってホースを離す。ホースはずるずると、塀の向こうの庭へと消える。
その庭には、和泉がぜーはー言いながら芝生の上にぐったりと横たわっていた。
苦しい息の下から叫ぶ。
「早く、来て!」
慌てて飛び降りて、和泉を抱き起こした。
僕の腕に身体を預けながら、なおも和泉は急かす。
「急いで、飛び越えてくる!」
言ってる傍から何かが塀を飛び越えてきた。
着地!
和泉を抱きしめ、影を転がってよける。芝生に横たわる僕たちの体の真横で、影はもたもたと直角に方向変換する。
僕は和泉を抱えたまま急いで立ち上がった。全力でダッシュする。
走れば影も同様に走り出すことは分かっていた。
だけど、方向変換した影は、僕たちが転がっていたところにまず一歩踏み出してから、再び方向変換しなければならない。
その隙を衝けば、この家のそんなに広くない敷地からは充分に逃げられる。
案の定、この家の建物の角を二つ曲がったとき、影は最初の角でもたもたと足を踏み替えていた。
僕は難なく、この家の面した表通りに出ることができたのだった。
再び別の路地に逃げ込み、片手で和泉の身体を抱えながら歩く。
やがて、和泉は「もういいわよ」といいながら僕の手を引き剥がした。
次の瞬間、至近距離から見上げる角度で強烈な平手打ち。
「どこ触ってんのよ」
そういえば、大きいとはいえないけど確かにあると分かる柔らかい感触が、掌の中に残っている。
ずかずかと前を歩く和泉に素直に謝っても、振り向きもしない。
「知らない。のしかかられて重かったんだから」
僕たちはそのまま、黙って歩いた。
路地はやはり、入り組んでいた。僕は再び、和泉について歩いた。
しばらくして月が昇ると、ぼそりと声が聞こえた。
「ありがと」
振り向いた和泉の長い黒髪が揺れた。白い肌が月の光に輝いていた。
細い腕がすっと伸びて、僕の手を取る。
「隣、歩いて」
無言で並んで、路地を塞ぐようにして歩き続ける。
和泉は囁くように言った。
「家の敷地に逃げると、追い込まれるだけなのよ」
ひたひたと、あの足音が迫ってくる。硫黄の臭いがした。
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