第7話  墓場の逃走

 だから、ひたすら路地を歩くしかなかった。

 路地といっても、壁ばかりが連なっているわけではない。

 ペンキの臭いの残る板壁沿いに小さな地蔵堂が造ってあって、花が生けてあることもある。

 角を曲がると薄汚れたガラス戸がふいと目の前に現れて、その奥には懐かしい駄菓子が並んでいることもある。

 ぼんやりとした街灯の明かりを頼りにそれらを眺めて歩くと、和泉がクギを差してきた。

「入っちゃダメよ。袋のネズミになるわ」

 その黒髪を見下ろしながら、からかう。

「アメ買ってあげようか?」

 脇腹に肘鉄が入った。結構、痛かった。

 空を仰ぐともう、夜の色だ。風もない路地は、昼の熱気をはらんでじっとり暑いが。

 曲がり角もないのでまっすぐに歩き続ける。

 夜の空には時折、墨を流したような雲が流れる。そしてまた、ひたひたという足音が近づいて来る。

 漂ってくる硫黄の臭い……。

 ぎゅっと身体を寄せてきた和泉が囁く。

「近づいてきた。結構……。」

 見上げもしないのは、胸を触ったからでもお子様扱いしてからかったからでもない。

 目を離せないことが他にあるからだ。

 道は、まっすぐ袋小路に向かっていたが、全くの行き止まりではない。

 進む方向に曲がり角はなかった。

 あるのは、大きく開かれていても僕らには何の救いにもならない、寺の門であった。

 和泉がつぶやいた。

「どうしよう……」

 しがみつく腕に力がこもる。黒髪を再び見つめながら、小声で尋ねる。

「君の足なら逃げ切れるんじゃないか?」

 暗がりの中でも分かるつぶらな瞳が見つめ返してきた。

「そんなんだったら、最初からあなたと歩いたりしない」

 ひたひたという足音のリズムが、心なしか早くなってきたような気がした。

「走らなくていいのか?」

 そう言いながら僕は足を速める。

「走ったら終わりよ。すぐに追いつかれるわ」

 そういう和泉の歩くテンポも速い。

 背後からハアハアという喘ぎが、微かに聞こえてきた。

 和泉が悔しそうにつぶやく。

「ちょっとでも横道に入れたら……」

 古寺に向かって、街灯もない暗く細い路地は真っ直ぐに続いていた。

 灯明もなしに、その寺は、僕たちを迎えるかのように門を開けて待っている。

 お寺が僕達の最後の場所というわけか。縁起でもない。

 だが、最期の時を思った瞬間、脳裏にある考えが閃いた。

「和泉……。」

「何よ、呼び捨て?」

 声は厳しかったが、睨んでいる余裕はないようだ。

 逆に僕は、余裕たっぷりで和泉に尋ねた。

「さっき僕を抱えて跳んだよね」

「跳んだけど……それがどうしたのよ」

 背後の犬が喘ぐ声は、さっきよりもはっきりと聞こえるようになった。

 焦り気味に尋ねる。

「壁、走れる?」

「壁え!」

 息を一拍止めて、和泉は答えた。

「ちょっとくらいなら」

 僕はなおも尋ねる。

「あのお寺の門までは?」

 門までは約10メートル。

 硫黄の臭いが、すぐ背後まで迫っていた。

 不意に、身体が宙に浮いた。

「たぶんね」

 和泉が僕を抱えたまま、路地の地面を蹴る。砂利がざっと蹴り上げられるや、板壁がバンと鳴る。

 僕の身体は壁に沿って飛んでいた。視界の隅に、壁に向かって足を踏み換える黒い大柄な犬がちらっと見えた。

 しばらく中に浮いてから再び地面を踏みしめると、そこはもう古寺の門前だった。

 僕の足元で、和泉がぜえぜえ息をついている。

「大丈夫か?」

「いいアイデアじゃない」

 見当外れの答が返ってきた。

 和泉はさらに、苦しい息の下で付け加える。

「あいつ、壁なんか走れないから、ちょっと駆け上がってみては落ち、駆け上がってみては落ちの繰り返しね、たぶん」

 ……面白そうだ。

 振り向こうとすると、和泉が僕の手を掴んで止めた。

「ダメって言ったでしょ!」

「そうだったね」

 寺の門の奥を眺めると、それほど広くはない。狭い庭にいくつか石塔があって、一番奥のお堂と手前の庫裏は渡り廊下でつながっている。

 和泉の手を引いて寺の門をくぐると、囁きが返ってくる。

「ちょっと! 敷地に逃げ込むと……」

「要領が分かってきたんだ」

 和泉の言葉を遮った僕は、共に寺の敷地に駆け込んだ。

 手を引いたまま真っ直ぐ走って、渡り廊下の下をくぐる。

 きゃっ、と叫んで、和泉が首をすくめる気配がした。

 石塔や庭石を覆うスギゴケの匂いに、なんだかほっとする。陰気臭くて必ずしも好きではないけれど、あの硫黄の臭いよりはマシだ。

 和泉がハアハア言いながら尋ねてきた。

「どこへ行く気?」

 答えている間もなかった。あの犬がもたついている間に、少しでも距離を稼ぎたい。

 敷地の奥へ向けて再び曲がると、特有の湿っぽい土の臭いが漂ってくる。

 狙い通りだ。

 この臭いが、どこへ行けばいいかを教えてくれる。だが、のんびり導かれている余裕はない。

 追いつかれないうちに走って引き離しておきたかったのだが、甘かった。

 硫黄の臭いが背後から漂ってくる。

 僕はとにかくお堂や庫裏の角を曲がって走り続ける。

「来た……あいつ……」

 和泉が苦しそうに喘いでいた。

 走らせて悪いとは思ったが、それでも転びもしないで僕のペースについてきているのは流石だ。

 やがて、狙い通りの場所が見えてきた。

 墓地だ。

「え~!」

 和泉が悲鳴を上げたが、そんなことは構っていられない。

 墓地の石畳の道を走ると、あの影の足音が迫る。そこを直角に曲ると、足音はぴたりと止まる。

 左右の両側には墓石が並んでいる。バチ当たり承知で、その間に踏み込んだ。

 和泉がいやだいやと愚図りながらも、僕についてくる。

 僕は墓石の間を、片っ端から可能な限りのフットワークで右へ左へと駆け抜ける。供えられた花や線香が、ときどきひっくり返されて地面に散らかった。

 和泉は僕に片手を掴まれたまま、ごめんなさいごめんなさいと繰り返している。振り向いている余裕などなかったが、あの影がどうするかは予想がついていた。

 ひとつひとつの墓石の間を、走っては曲がり、走っては曲がり、まるでそれぞれ回向でもするかのように、ぐるぐると回り続けなければならないはずだ。

 和泉が言った。

「これでかなり時間が稼げたね。やるじゃない」

 だけど、そういう声は震えていた。

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