第9話 最後の追跡

 影は追ってこなかった。

 人が一人通れるくらいの狭い路地を見つけて入り込む。壁にもたれて、ふたりで一息つく。

 和泉が冷静さを取り戻したように言った。

「たぶん、方向変換に手間取ってるのよ。大きくなったから。」

 その割には、力いっぱいしがみついてくる。その背中を抱きながら答えた。

「じゃあ、このままじっとしてれば大丈夫かな」

 和泉が身体を引き剥がして言った。

「無理」

 硫黄の強烈な臭いで、僕たちはむせ返った。路地の入り口で、両の目が黄色く光っている。

 あとじさりすると、路地に身体を押し込んで迫ってくる。

 僕は和泉に尋ねた。

「どうする?」

 答えは分かりきっていた。

「走るのよ!」

 和泉を先に走らせ、僕が後を追った。硫黄の息が熱い。背中がじりじり焼ける。

 それでも距離は開いていった。僕は考える。

 ……つまり、大きくなればなるほど、路地には入りにくくなるってことか。

 和泉も同じことを考えたらしく、路地とはとても言えない、家と家との隙間に身体を押し込んだ。僕もそれに倣った。

 人間が横這いしてやっと通れるくらいの幅しかなかった。しかし、高さは3m近くあるから、手足を突っ張って家の敷地内に逃げるのはかなり難しい。

 もう、2つのことを祈るしかなかった。

 1つは夜が明けるまで、あの影を凌ぎきれること。

 もう1つは、この隙間が、どこかの道に続いていること。

「吉田さあん!」

 和泉が悲鳴を上げた。

 見上げる狭い塀の隙間から、黄色い光が2つ、こちらを見つめていた。硫黄の息が僕の髪をちりちりと焼いた。

 1つ目の祈りは絶望的だ。

 あいつは、塀に昇って追ってきたのだ。ただし、幸運なことには、顎が届かない。食われる心配はないということだ。

「和泉! とにかく先へ行け!」

 2つ目の祈りが叶うのに賭けるしかない。

 和泉は必死の形相で横へ横へと這う。僕もそれを追う。

 和泉の身体は細いからまだいいが、僕の身体はこの隙間で押しつぶされそうだ。呼吸はかなり苦しい。

 その上、塀の上の影が、そろそろとついてくる。

 目をそらし、和泉に注意を払いながら、どれほど横這いを続けたろうか。

 突然、小さな体が視界から消えた。

 通りへ抜けたのだ!

 僕も続く。身体を圧迫する壁の間を骨と内臓を揺さぶりながら抜けたとき、月が西に傾いているのが見えた。

 大きな通りだった。見覚えがある。

なんのことはない。下宿のある西大路に出てきたのだ。

……ならば、勝算はある!

 和泉がすぐ目の前で倒れ伏していた。僕はその身体を背負って北へ走る。

 背後でどさりという音がした。遠ざかっていくのはあいつだ。歩道へ下りたのだ。

 ……夜中ならここでゲームセットだが。

 誰もいない西大路を西へ横切るが、これは時間稼ぎにすぎない。相当の図体になっているはずのあいつが、そう簡単に向きを変えられるはずがないのだ。

 向かい側の歩道を北へと歩き、いくつもの見慣れた建物の前を通り過ぎる。

 交差点ごとに建つパチンコ屋。

 24時間営業の喫茶店。もちろん、人は誰もいないが……。

 走ってはいけない。走れば力尽きる。そうすれば、あの硫黄の息に焼かれ、あの牙の餌食となる。

 大きく西に傾いた月に照らされた、マンションやビル。

 その間に立ち並ぶ、紅殻格子に瓦屋根の民家。

 そういった数々の建物の影が長く伸びて、大通りに映っている。

 もうすぐだ。もうすぐ、あそこへ出る。

 毎日、何の気なしに通り過ぎていた、何の変哲もない交差点に。

 僕は和泉を背負って、北へ北へと歩き続けた。

 あいつの影は次第に大きくなっていく。西大路の向かい側に立ち並ぶビルやマンションが2つ3つ覆い隠されるほどに。

 彼女がどんどん重くなっていく。あの細く華奢な身体を支えられないほど、僕の体力も限界に来ているのだ。

 やがて、最初の神社の前に出た。ここで僕はがっくりと膝をついた。

 横断歩道の向こうには、最初の路地が見える。

 全ては、ここから始まったのだ……。

 吉田さん、という声が聞こえた。和泉が、僕の背中で我に返ったのである。

 僕の耳元で力なく囁いた。

「ここでいいわ」

 最後の力を振り絞って答える。

「まださ」

 和泉を背負ったまま横断歩道を渡ると、最初の路地への入り口に立つ。

 振り向くと、大通り一杯に膨れあがった黒犬が僕に向き直った。

 その姿が、僕の背中から来る光で眩しく照らされる。

 日が昇ったのだ。

 僕たちの影が伸びる。それは交差点を越えて、西へ西へと白い月に向かって伸びていく。

 次第に濃くなり、巨大な黒犬を覆うまで。

 そして、いつもの朝が来る……。

 目の前を始発の市バスが通った、と思ったその時だ。

 黒犬は消えていた。

 和泉の声がかすかに聞こえる。

「ありがとう」

 かねよしさん……。

 冗談めいた響きと共に、背中の重さがなくなった。

 振り向くと、そこには朝日に照らされた少女が、笑顔で手を振っていた。

 僕もおどけて言ってみた。

「どういたしまして、こちらこそ」

 和泉が、ぷっと吹き出した。

 僕も久しぶりに笑った。

 正面から昇る朝日が眩しかった。

「じゃあね」

 そう言いながら、和泉は太陽に向かって振り向いた。

 彼女の背中に、僕は思った。

 夏の少女の笑顔には、朝の光が良く似合う……。

「じゃあね」

 僕も同じ言葉を繰り返して、光の中に消える少女に背を向ける。

 そして下宿に向かって歩きながら、僕はいつものように考えた。

 今日も暑くなるだろうな、と。

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