第2話 黒い小犬と夏服の少女
路地はまっすぐ続いていた。歩き続けると、千本通りかどこかに出るはずだ。だが、僕は西日を背中に浴び続けてまでそうする気はなかった。
振り向くと、夏の太陽は遠い山の向こうに沈みかかっていた。道を歩く者はだれもない。
ただ、とことこと歩いてくる黒い小犬だけが見えた。飼い主の姿はない。
野良犬だろうか。
田舎ではよく、小学校の校庭などに迷い込んできたのが悪ガキたちに捕まって、マジックで眉毛を描かれていたものだ。
最近は珍しいと思ったが、小犬とはいえ野良犬がそこいらをうろついているというのは大変なことだ。
だけど、そういう感覚は、そのときはなかった。多分僕は、それほど疲れていたのだ。
「やってられるか」
つぶやきながら歩く路地沿いにある神社の白壁には、桜の葉陰が、長く、斜めに広がって伸びている。
それが尽きると十字路があった。
左に曲がると神社の白壁が続いて、鳥居がある。通り過ぎると、突き当たりにお好み焼き屋なんかがあって、まだ続く道には西日が低く熱く降り注いでいる。
右に曲がるとすぐ橋がある。下には川が流れている。川というより深い溝だ。コンクリートで固められた川床を少しばかりの水が流れているにすぎない。じんわりと湿った空気が吹き上がってくるが、暑いのよりはマシだ。
……こっちにしよう。
橋を渡って歩き出すと、さっきのよりは幾分古い白壁が川沿いに続いていた。
天神様の細道だった。
といっても、川向こうにはマンションだの古いビルだのがごたごた建て込んでいる。逆光になってはいるがコンクリートの壁は薄汚れていて、風情などあったものではない。その間に西日がきらりきらりと眩しく見え隠れするが、川沿いに植えられた木々が(名前なんか知らないが)遮ってくれていた。
しばらく歩くと、そうした葉陰やごたごたした建物の影やなんかに混じって、自分の影が白壁にぼんやり映るようになった。やっと日が陰りはじめたのだ。
さて、この天神様の白壁には不思議な噂がある。
夕暮れ時に独りで歩いていると、2人分の影が映るのだという。誰かを追い越したり、誰かに追いついたりしたわけでもないのに、である。
この道をしばらく行くと、川にかかる小さな橋がある、ここを渡ってはいけない。どれだけ恐ろしくても無視して、壁が尽きるまで歩き続けなければならないのだという。
橋を渡ってしまうと、もう一つの影の主が一生つきまとうというのだ。
いわゆる都市伝説というヤツである。「僕の知り合いの知り合いが聞いたんだけど……」というタイプの、いかにも真実らしいが根拠の全くない噂話のことだ。
僕も説話文学なんかかじっていると、どうしてもこういうものに触れなければならなくなる。「ハナシ」というものがどういう風に生まれて、どういう風に伝わっていくものか知らないと、神話伝承の起源や伝播について考えられなくなるからだ、というふうにゼミで習った。
だけど、この噂そのものに、僕は全く興味を持っていなかった。京都に3年住んで、この細道も何度か通ったが、それはこの時間帯ではなかった。言い換えれば、滅多に通るところではなかったのだ。だから、この噂の出所や科学的な解明なんか意識の端っこにも上らなかった。
むしろ、このときの僕にとっては、いつ日が沈んで、部屋の気温がどの程度下がるかということのほうが問題だったのである。
「つまんねえよな」
またつぶやいた。この暑さを今日凌いでも、明日はまたやってくる。夏休みが終わっても、暑い夏はしばらく続く。その暑さが収まれば、とりあえず凌ぎやすい気候にはなるが、やがて底冷えのする冬がやってくる。その頃には、もう就職の心配を始めなければならないだろう。
就職したOBにアポ取って、リクルートスーツを着て、コートの襟を立てて、冷たい風の中を歩かなければならないのだ。
……と、コートのことなんか考えたら余計に暑くなってきた。
面白くなかった。ああ、なんかこう、ピリッとしたことないかなあ、と月並みなことを考えた。
とにかく、スカッとするような、退屈な毎日を少しでも忘れられるような刺激が何か欲しかったのである。
そんな気持ちに応えるように、背後から微かな声が聞こえたのはその時だった。
(つまらんか)
振り向いてみたが、誰もいなかった。さっきの小犬がとことこ歩いている。
この辺が縄張りなのだろうか、と思った。
常識で考えれば、こんな小さな犬が縄張りなんてものを維持できるわけがない。だけど、その時は、そんなことを考えるゆとりもなかったのだった。
僕はいい加減疲れていた。木立と僕の影も白壁に溶けて消えた。日が暮れたのだ。
こんなじめっとした狭い路地を通る者は他にはないだろう、と思うと、なんだか独りで歩いているのが憂鬱にもなった。
……帰ろう。
僕はそう決めて、もと来た道を戻ろうと振り向いた。
そのとき、再びさっきの声がした。
(それなら気晴らしにつきあってやろう)
だけど、振り向いたところには誰もいなかった。さっきの小犬がとことこ歩いているばかりである。一回り大きくなった気がするのは、近いから目が錯覚したんだろう。
僕はきょろきょろと辺りを見渡したが、それらしい人影はない。
そこで、ふと白壁を見てみた。
影はもう映っていない。「白壁の二人目の影」というコワイ話を信じていたわけではなかったが、それでも僕はほっとした。
……やっぱり帰ろう。
僕はくるりと回って、もと来た道を帰ろうとした。
そのときである。
「もう振り向いちゃダメ」
さっきのとは違う、女の子の声が聞こえた。
壁のある方向だった。
そちらを見ると、いつの間にそこにいたのか、ひとりの女の子が白壁にもたれて立っていた。
長い黒髪。白いシャツの袖と短いジーンズから伸びた白く細い手足。小学校高学年くらいか。
今の君か、と尋ねようとすると、すたすたと僕の前を歩き始めた。
さっきのは気のせいか、ただの独り言か、と考えながらその少女を何ということもなく目で追っていると、道沿いに流れる川に掛かった小さな橋を渡っていく。
その橋は例の都市伝説、「渡ると影の主がとりつく小さな橋」だった。
背中がぞくりとしたが、僕は橋に向かって歩き出した。
この橋を渡って狭い路地を歩き続けると、西大路に出られる。北に上れば(実際に坂である)下宿の近くへ戻れる。
このまま引き返せないこともないが、それではまるで都市伝説などを信じてしまっているようで癪に障った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます