第3話 夏休みの校庭に日は暮れて
橋を渡りきると、少女の姿はなかった。
そこは川沿いの道で、家々の屋根の向こうに、琥珀色に光る西の空が見えるばかりだった。
僕は西大路へ出る路地を探した。家と家との間にはいくつか細い道の入り口が見えたが、どれがいちばん通りやすいかは量りかねた。
そのうちに、僕はこの道沿いに小学校の建物があるのに気がついた。
当然、学校には塀があるが、それを目で追っていくと、校庭への裏門と思われる柵が開いているのが目に付いた。
……夕暮れ時に小学校の校庭を通って帰る。
頭をよぎる思い付きに従って、柵のほうへ歩き出す。
普通に考えたら「不法侵入」などと言われそうだが、夏休みの学校で夕方まで詰めている教員はそんなにいないだろう。
校庭を通りぬけるのに大した時間はかからない。裏門から表門へ一直線に、表門が開いていなければ、目立たないように校庭の端をぐるっと回って戻ればいい。
柵の間を通り抜けると、セピア色に染まった懐かしい光景があった。
ゆっくりと、校庭の中央へと歩いていくと、東からの夜闇に夏の残照が溶けていく中で、小さい頃の記憶が甦る。
天まで届けと思い切り揺すり上げたぶらんこ。
なかなか逆上がりができないで、放課後こっそりと練習した鉄棒。
雲梯。遊動円木。
そういったものを懐かしく眺め渡していると、黒い犬がとことこと校庭に入ってきたのが見えた。
……昔、こっそりランドセルの中に入れてた給食のパンをやったっけ。
そんなことを考えているうちに、黒犬は僕のほうへと向かってきた。
犬は別に嫌いではないが、この黒犬は可愛がるには少し大きめだった。そもそも、そんなタイプの顔つきでもない。
校庭に青い影が降りて、薄暗くなった。僕は正門のほうを見た。
開いている。
急いでここを出ようと歩き出すと、熱い風がざっと吹いて砂塵が舞い上がった。
青い影の向こうに見える正門から、さっきの女の子が歩いてきた。
夕闇の中にも、白いシャツの袖と短いジーンズから伸びた白く細い手足が眩しい。
前髪をさっとかき上げると、幼い顔立ちの可愛らしい少女である。
だが、その口元には不敵な笑みが浮かんでいる。
小さな唇が微かにつぶやいた。
「振り向くなって言ったじゃない」
そう言ったように聞こえたその時。
少女は地面を蹴って突進してきた。
……速い!
あっという間に眼前に迫ると、しなやかな腕で僕の身体を抱きしめる。
柔らかい(当然といえば当然だがない)胸の感触。
身体がくるっと回ったかと思うと、宙を舞った。
……え、え、ええ! 何だア?
残照の消えた藍色の空が僕の視界でくるりと回った。
ずいぶん長い時間、滞空していたような気がして、少女に抱かれたままふわりと舞い降りる。
気がつくと、僕と黒犬の位置が入れ替わっていた。黒犬がもたもたと向きを変えるのが見える。
少女が、僕の手をぐいと引いて横へ走った。
え、とつぶやくと少女は一言だけ答える。
「そのまま走って」
言われるまま手を引かれて、迫る夜闇から逃げるように走った。
しばらく走ると、背後に何者かの気配がある。
少女が叫んだ。
「こっち!」
凄まじい勢いで砂塵を巻き上げ、彼女は直角に向きを変えて疾走した。僕の手がすっぽ抜ける。可愛らしい声に叱り飛ばされた。
「自力で走って! 追いつかれる!」
振り向こうとすると、またドヤされた。
「ダメ! 大きくなる!」
そうはしなかったが、何かがまた追いついてくるのが感じられた。
校門が開いているのが斜め向こうに見えた。もうすぐだ。
だが、少女は見当違いの方向へと直進する。
……どうする気だ、いったい?
軽いステップで足を踏み替え、校門へと走る。
「あなたも!」
真似して急角度で曲がり、大急ぎで校門を抜けた。
こっちへ、の声を残して、少女は学校前を走る道を薄闇の中へと駆け込んでいく。
何がなんだか分からなかったが、とにかく後を追った。
背後で、ふう、という吐息の音が聞こえた。
硫黄の臭いがする。
少女が手近な路地に飛び込んだので、僕も後に続いた。
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