ブラック・ドッグ

兵藤晴佳

第1話 夏の古都は煉獄

 京都の夏は暑い。

 なにぶん、ぐるりを山に囲まれた盆地である。カンカン照りの太陽の下、逃げ場がない地面の熱は、まるで中華鍋の底に溜まった油である。

 僕と同姓同名で読みだけが違う吉田兼好が、『徒然草』で「家屋は夏を過ごしやすいものにせよ、冬はどうにでもなる」と言ったのは、この暑さのせいだろう。

 (僕の名前は『よしだかねよし』。吉田兼好も、本名は『卜部兼好』つまり『うらべかねよし』というらしいけど)

 僕は大学の3回生だから、そんな暑い夏を迎えるのも、これで3度目だった。

 1回生の頃はまだまだ故郷が恋しく、連休や長期休暇の度に帰省していたものである。

 だけど、2回生になって衣笠山の上からもくもくと伸びる入道雲の輝きにも見慣れると、夏休みだからといっても帰るのが面倒臭くなった。それよりもコンビニのアルバイトに精を出していたほうが良かった。だいたいその頃の京都は物価も家賃も高かったのだ。親の仕送りにも限度があったし、旅費も惜しかった。

 大学は歩いて10分としないところにあったので、日中はたいていそこで過ごせた。冷房の利いた図書館で、朝から夕方まで、時間一杯過ごしたものである。

 主に読み漁ったのは、東西の神話伝承だ。僕の専攻は説話文学で、特にマイナーな異伝、異本、異説に触れるのが好きだった。

 僕は「誰もが知っている」ものには興味がなかった。どんな細かいことであってもいいから、人と違うことを知っていたいと思い上がっていたのだ。

 さて、3回生になった僕も夏を図書館で過ごせばよさそうなものだが、その年ばかりは事情が違った。老朽化した空調設備の入れ替え工事で、冷房は扇風機だけに限定されてしまった。同じもので涼を取るなら、狭い下宿にいるほうがまだ効率的だ。

 そんなわけで僕はやっぱり、暑い夏休みになっても京都の安い下宿でくすぶっていた。

 溜まったレポートをせっせせっせとこなし、時には就職のことなどもぼんやりと考えながら……。

 教職課程も学芸員課程も履修してはいなかった。割とマジメにやってはいたが、アルバイトの時間を考えると、そこまでの余力はなかったのである。コンビニのアルバイトも、都合のいい時間に入るシフトばかりではなかった。

 要するにそのとき、僕は頭でっかちの宙ぶらりん状態で先の展望はなく、金もそんなになかった。あるのは山のようなレポート課題だけだった。

 しかしそれも、完成は水平線の遥か彼方だというのに限界の日を迎えた。

 それほど豊かでない学生には京都の暑い夏を凌ぐ唯一の頼みの綱だった、扇風機が壊れたのである。 

 僕は全てを投げ出して、下宿の外へ飛び出した。うろうろとコンビニを渡り歩いて時間を潰すしかなかった。

 といってもアルバイト先にいくのは気が引けた。シフトは午前中に終わっていたからである。仕事を終えて店内を徘徊する姿は想像してもみっともない。でも、歩いて回れる近所のコンビニも、数が知れていた。何も買わずに雑誌を立ち読みして潰せる時間にも限度がある。

 それでも4~5軒回ってなんとか、日中の暑い時間を夕方まで凌ぎきることができた。あとは下宿に戻るばかりである。

 しかし、足取りは重かった。

 部屋は2階建てアパートの上の階で、しかも、いちばん西の部屋だった。夕方になっても、数時間はサウナのように暑いのである。戻りたくなかった。

 そこで僕は居場所もなく、夕暮れの街中をうろつくことになったのである。

 街中といっても、下宿の周辺で丈の高い建物といえば、せいぜい10階建てもないマンションくらいである。あとは民家が狭い路地を挟んで立ち並んでいるだけだ。

 一般に京都の町は碁盤の目と言われるが、それはおおざっばな話である。「~通り」と「~条大路」で仕切られた枠の中には、様々な家と、小さな店と、ぽつねんとした空き地と、忘れられた小さな寺や祠が複雑に入り組んだ路地の中に点在していた。

 そして僕はそんな路地の入り口に立っていた。背後には、さっき横断歩道を渡りきったばかりの西大路がある。じりじりと背中を焼く西日を、一瞬だけ市バスが横切った。その影が歩道を通り過ぎた後には、向かいにあるマンションの影が長く伸びて、西大路を跨いできていた。

 なぜ僕がそんな路地の前に立っているか。

 桜の名所として名高い神社の脇にあったからだ。路地の上には塀の外まで伸びた枝が、ちょっとした木陰を作っていた。その下を歩こうと思ったわけである。

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