さてそのほかはみな、狂気の沙汰/Ubrall sonst die Raserei.

 今はもう眠れるお城の足元に、ラ・キトと呼ばれる古びた通りがある。ラ・キト通りに捨てられた子どもたちは、清らかなのは教会へゆき、淫蕩なのは娼婦になる。子どもたちを運ぶのは、真っ黒いコートに身を包んだコウノトリ。

 

 *


 コウノトリだった男が消息を絶ったのは、翌朝のことだった。ラ・キト通りではすぐに次のコウノトリを決める会議が開かれて、少し時間がかかったけれど、宵の口には新しいコウノトリが生まれた。今度のコウノトリは四十半ばの女性だった。コウノトリは新調した黒コートをまとって桜の樹の下に向かい、捨てられた子どもを拾い上げる。鄙びた古いコートは前のコウノトリが持って行ってしまったので、どこにもない。


「――やっぱりね。あんたはそうすると思ってたわ」


 扉をノックした黒猫を迎え入れるや、マダム・ハイエナはそう言って、呆れた風にこめかみを指で押さえた。顎をしゃくって長椅子を示されたので、黒猫は少し肩を緊張させながらベルベットの固い布地に腰をかける。マダムはシニョン風にまとめた栗毛を耳にかけ、書斎の抽斗から一枚の上質紙を取り出した。


「サインは右にお願いね。金はいいわ。アタシも一銭だってあげないけど」


 マダムに万年筆を握らされ、黒猫は示された箇所に慣れない署名をする。書き終えると、マダムは紙と万年筆とを引き取って、それらを抽斗の奥へしまった。黒猫は自分にあてがわれていた部屋のネームプレートを机に置く。いいわよ、とマダムは気だるげに手を振った。


「そんな使い古したプレートなんざいらない。あんたにやるわよ。売れば、銀貨一枚くらいの金にはなるんじゃない?」

「ハイエナ」

 

 眸を瞬かせ、黒猫はマダムを仰いだ。マダムのアイシャドウを過度に塗りたくった目は閉じられてしまって、本心を語ろうとはしない。もう用は済んだとばかりに腰を上げるマダムに、黒猫は、ありがとう、と呟く。マダムはふんと鼻を鳴らすと、これだから妙ちくりんは嫌なのよ、とシニョンを揺らした。


 ぱんぱんに詰めたせいで風船みたいに膨らんだ鞄を引きずりながら、黒猫は練鉄の階段を下りる。天井から吊り下がった黒のシャンデリアは、今は明かりが落とされて、そのぶん硝子の黄ばんだ色を際立って見せた。使用人や娼婦、男娼たちにひととおり挨拶とお礼とを終えると、黒猫は一階に降り立った。長椅子で眠るカナリヤのおなかにかかったショールをかけ直して、さらにもう一枚、赤子用の産着を置いて、元気でね姉さん、とこっそり耳打ちする。カナリヤは、起きなかった。ブロンドの下の形のいい眉がわずかに寄せられた気がしたが、きっとそれは黒猫の気のせいなのだろう。惑いを息と一緒に吐き出して、黒猫は錆びついたドアノブをぐるりと回す。ふと思いついて、背後を振り返った。いつの日か、コウノトリとふたりで見た夢魔の絵は、未だひっそりと暖炉の上の同じ位置にかかっている。淫蕩なその顔をしばらく眺め、黒猫は大きな鞄を提げ直すと、No.44をあとにした。


 コウノトリがどこに行ったのかを黒猫は知らない。

 だけど、あの晩以来、コウノトリだった男は鄙びたコートと一緒に姿を消してしまっていて、ラ・キト通りの住人はもう前のコウノトリの話をしなくなった。ラ・キト通りにコウノトリは一羽いれば十分なのだ。

 まっすぐにラ・キト通りを北へ進むと、桜の青葉の影になってリ・セト教会が見えてくる。黒猫は練鉄の門をくぐり、礼拝堂の重い扉を開いた。正面に、色とりどりの薔薇窓があり、磔刑に架かった男の像と、赤子を抱く女の姿を描いた絵画とが飾ってある。しずやかに降り注ぐ清廉なる光のもとに、男は、いた。黒い鄙びたコート。革靴。黒猫は鞄を足元に下ろすと、男をなんて呼ぼうかしばらく悩んでから、結局「コウノトリ」と言った。コウノトリであった男が顔を上げ、切れ長の眦を和らげる。彼の口元に穏やかな微笑が浮かんだ。


「黒猫。よく見つけたね」

「あちこち聞いて回ったの。黒猫は鼻がきくんだよ」

 

 黒猫は言って、コウノトリの後ろのベンチに腰かける。

 もしかしたらこの場所で死んでいるのではないかとすら思ったコウノトリは存外けろりとした顔で、ベンチで足を伸ばしていた。


「聞いたよ。ちょうちょとうさぎはここを出て行ったんだってね」

「うん。こないだ白兎が手紙をくれたよ。蝶が旅の途中でおなかを壊して、白兎が看病してるって言ってた。蝶って本当、弱いね」

「ふふ」


 コウノトリは幸福そうに微笑い、目を伏せる。そうすると、男の目元に淡い睫毛の影が落ちて、男のまとう空気を幾分儚くする。コウノトリ、と黒猫はベンチから少し腰を浮かせて、言った。目が合う。なぁに、と訊く男に、嘘つかないって約束してくれる?と問う。男は目元を和ませ、約束しない、と薄情なことを言った。嘘はつくよ。たくさんつくよ、黒猫。でもキミはもうぜんぶ、見抜けるでしょ? やさしい顔でそんなことを言ってのける男が、黒猫は少し憎らしい。

 

「コウノトリ」

「うん」

「どうして、あんなことをしたの」

「あんなことって?」

「蝶に、銃を渡した。撃てって言った」


 黒猫がおそるおそる口にした言葉に、コウノトリはふふんと笑い。ポケットからおもむろに黒い拳銃を取り出した。弾倉を開く。中には三つ、銃弾が詰まっていた。眉をひそめた黒猫に、コウノトリは言う。


「前のコウノトリに銃を差し出されたとき、僕はこの引き金を引いた」

「コウノトリ?」

「僕はね、黒猫。淫蕩で、誘惑に弱い、ラ・キト通りの子どもで。引き金を引いてしまった。それ以外のことを思いつけなかった。黒猫。わかるだろうか。僕は知りたかったんだ。僕が、ラ・キト通りの子どもたちが、引き金を引かない結末はあったのかって。僕は前のコウノトリがすごく嫌いだったから、前のコウノトリが知らない未来を見たかった」


 コウノトリはふと切れ長の眦を和らげた。大きな白い手のひらが黒猫の頬をいとしげに包み込む。くろねこ、と男がやさしい声で言った。僕の運んだ子ども。僕の届けたラ・キト通りの子どもたち。


「あいしているよ」


 放っておくとコウノトリが淡雪みたいに溶け去ってしまう気がして、黒猫は「コウノトリ」と呼んだ。それはもう僕の名前じゃないよ、とコウノトリが苦笑する。黒猫はコウノトリ、と言った。コウノトリ。コウノトリ。コウノトリ。溢れ出した気持ちのままにコウノトリを呼んで、額にふっと唇を触れさせる。ひややかな、花のにおいを感じた。黒猫はあいする場所を探すように、男の瞼や、頬に口づけて、それから、やわく唇を吸った。眸を細めて、漆黒の眸を見つめる。コウノトリの骨ばった手のひらが頭のほうへ回ったので、それで許されたような気がして、すぅと吸った。やわらかな、あたたかなものと絡み合う。溢れてきた唾液を幼子のように吸った。喉を伝っていくそれは焼けるように熱い。熱く、あまく、あたたかい。


「つれていってよう……」


 気付けば、黒猫は泣いていた。唾液と涙で顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。あいしている、なんて言わないで。だって、なんだかさよならするみたいだよ。さよならしてしまうみたいだよ。そんなおしまいの言葉は言わないで、コウノトリ。わぁんわぁんと黒猫が泣き出すと、コウノトリは、なかないでよ、と言って、なかないでよ黒猫、と弱く苦笑して、涙と唾液で濡れた黒猫の頬や唇を手の甲で拭いた。白い手の甲がぬらりと汚れていく。黒猫はもっともっと汚したくなって、男の手のひらに頬をこすりつけた。これだけ汚れてしまったら、コウノトリはもうキレイにさよならできない。くろねこ、とふぅっと男の声が苦笑に満ちて、あたたかくなった。


「キミは、ほんとうに、僕が運んだ中でもとびきり頭の悪い、淫蕩な娼婦みたい」


 呆れた風に言う。

 黒猫は涙に濡れた目で男を見上げ。不意に取られた右手からするすると黒手袋が抜き取られていくのを見つめた。ずっと覆っていたものがあらわになり、あらわになった醜いものに黒猫はしゃくり上げる。黒猫の醜い、赤く変形した指先に男のきれいな唇が落ちた。指の背をひやりとなぞられる。柔らかな花色のそれ。目を細めた黒猫は、男の背後に架かった、清廉なる光をまとった聖母を見た。ふと気付いた。美しい聖母は、娼婦と同じ顔をしている。清らかであり、淫蕩であり、美しくも、醜くもある。だけど、必死な。あいすることに必死な。女。ラ・キト通りの子どもたちはきっとみんなこんな顔をしている。


「ほらね。僕は、届け間違えたりしなかった」


 黒猫の目を見つめて、コウノトリはふふっと微笑った。


「キミは僕だけの、醜くて美しい、淫蕩な娼婦だ」


 それはたぶん、愛という言葉に似ている。


 *


 だけど、ラ・キト通りに夜はやってくる。

 繰り返し。規則正しく。始まることもなく、終わることもなく。

 小さな可愛い黒猫と、彼女を連れて行った若く美しいコウノトリは、今は彼女と彼女の愛しい娘だけが知っているお伽話。


「マダム・カナリヤ」


 外で鳴った呼び鈴に、カナリヤは椅子から腰をあげた。ああ、またやってきたのだ。そう思って、扉の前まで歩いていき、ノブをかちゃりと回す。春の桜の花びらが舞う中、黒い鄙びたコートを着た若い男が立っていた。そのコートにしがみつくようにして、小さな少女がこちらを見つめている。


「はじめまして、僕はコウノトリ。紹介するよ。彼女は――」


 ――今はもう眠れるお城の足元に、ラ・キトと呼ばれる古びた通りがある。ラ・キト通りに捨てられた子どもたちは、清らかなのは教会へゆき、淫蕩なのは娼婦になる。子どもたちを運ぶのは、真っ黒いコートに身を包んだコウノトリ。



Der Dichter redet wie es.

詩人はかく語れり


Auf die Hande kust die Achtung,

“手の甲なら、尊敬のキス

Freundschaft auf die offne Stirn,

額の上なら、友情のキス

Auf die Wange Wohlgefallen,

頬の上なら、厚情のキス

Sel'ge Liebe auf den Mund,

唇の上なら、愛情のキス

Aufs geschlosne Aug' die Sehnsucht,

閉じた瞼の上なら、憧憬のキス

In die hohle Hand Verlangen,

掌の上なら、懇願のキス

Arm und Nacken die Begierde,

首と腕なら、欲望のキス

Ubrall sonst die Raserei.

さてそのほかはみな、狂気の沙汰”


……Nr.

Alle von allen sind Kusse durch Liebe.

いいえ、どれも愛でしかない。



Ende.

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ラ・キト通りの子どもたち @itomaki

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