首と腕なら、欲望のキスⅡ/Arm und Nacken die Begierde

 今はもう眠れるお城の足元に、ラ・キトと呼ばれる古びた通りがある。ラ・キト通りに捨てられた子どもたちは、清らかなのは教会へゆき、淫蕩なのは娼婦になる。子どもたちを運ぶのは、真っ黒いコートに身を包んだコウノトリ。


 *


 花が散っている。音もなく、散り急いでいる。

 馬鹿ね、馬鹿ね、とラ・キト通りの子どもたちを嘲笑うように。

 蝶スワロウ・テイルが口端に咥えた紙巻煙草からアカンサスの描かれた天井に緩くのぼっていく煙を目で追っていると、「ちょっとあんた聞いてんの」と対面で足を組むマダム・ハイエナが苛立たしげに机の端を叩いた。蝶は長く吸っていたせいで、今にも先が崩れそうな煙草をようやく離すと、銀皿の上に灰を落として、「聞いてるよ」と答える。蝶は近頃ずっと喉がうまく使えていないので、それは声のない囁きであったが、マダムはきちんと皆まで聞き取ったらしい。「じゃあ、わかってんでしょ」と煙草の箱と饐えた臭いのする銀皿をよけた。


「アタシの言いたいことはただひとつ。客を取りなさい、蝶。あんたもう何日引きこもってると思ってんの。うちはね、客に股ぐら開けない娼婦なんざいらないのよ。もちろん男娼もね。やりたくないならさっさと荷物まとめて出てきなさい」


 マダムの声は低くて、男らしい落ち着きを持ち合わせているのに、どこか耳障りだ。蝶は視線をよそに逃がして、煙草の先を銀皿に押しつけた。でかける、と短く告げる。


「ちょっと。話はまだ終わってないわよ、蝶! あんたどこ行く気よッ!」

「どこだっていいでしょ。夕方までには戻ってくる。客は取る。これでオッケー?」

「ふん。イイ歳してあんたまた白兎に泣きつきに行くの。全然変わってないわ。とんだ泣き虫坊やねーぇ、ちょうちょちゃん」


 マダムがアイシャドウを塗りたくった目を小馬鹿にするように眇めて、蝶を見る。かっと激しい苛立ちが湧き上がった。その、縦ロールをくるくる巻いているふざけた脳天を銀皿でかち割ってやりたい気分に駆られながら、蝶は円卓の足を蹴りつけるにとどめて、きびすを返す。扉を閉めると、カマ野郎、死んじまえ、と毒づいて、練鉄の階段を駆け下りる。一階の広間では、カナリヤがけだるげな顔で長椅子に横たわり、その隣で黒猫が柱を磨いている最中だった。どこに行くの蝶、と尋ねてくる黒猫を無視して、カナリヤの腹にかかっている下手っぴな花なんかくっつけている趣味の悪いショールを取り去って自分に巻き、蝶はNo.44を出て行った。ちょっとぉ返しなさいよ馬鹿ぁ!というカナリヤのがなり声を分厚い扉が閉ざす。


 通りに出ると、肌に触れる外気がぐんと冷たくなった。春とはいえ、外はときどきこんな風に気まぐれに冬の顔に戻ったりする。蝶は弱く咳をすると、ショールをきつく巻きなおしてラ・キト通りを北のほうへ歩き始めた。灰色っぽい古い石畳は、舞い散る桜の花びらに真っ白く埋め尽くされてしまっている。風が吹けば、細かな花びらが雪みたいに舞い上がって、蝶の頬をかすめた。きれいな白色を見つけると、蝶は白兎の陽の下できらきらと煌く雪の粒みたいな髪の色を思い出す。ささくれ立った胸のうちが微かに鎮まる心地がして、蝶は少しだけ歩く速度を緩めた。昼下がりのラ・キト通りは人気が少ないせいで、夜に比べてどこか間延びした空気が漂っている。No.31、No.99など街の役人が許可した店番号だけが書かれた娼館の前をいくつも通り過ぎて、蝶は道の端っこに見えてきた尖塔を仰いだ。

 ――あんたまた白兎に泣きつきに行くの。

 頭によぎった面影と一緒にマダムの言葉を思い出して、蝶はひとり苦い顔つきになる。それをごまかすように胸ポケットから引き抜いた煙草に火をつけて、蝶は教会の門をくぐった。今の時間だとちょうと昼のお祈りとやらでもしている頃だろう。考え、礼拝堂へ顔を出したが、目当ての白銀の人影はいない。孤児院の中に入る気にはなれず、中庭のほうをぶらりと歩いて、楡の樹の下で地面に絵を書いているちびを見つけ、うさぎいないの、と訊いた。蝶の声が変だったせいだろう、不思議そうな顔をしたちびに、「う、さ、ぎ」ともう一度言う。

 

「白兎なら、いないよ」

「……いない?」

「ふた月前にひとりで都に行ったの。大学に通うんだって。そのための試験を受けるんだって、ゆってた。白兎はとっても頭がいいんだよ」


 あまりに唐突過ぎるその言葉に、蝶は眸をぱちぱちと瞬かせる。うさぎが、大学? うさぎが、都? あのおとなしくて、ぼんやりしていて、蝶が庇ってやらないと、子兎みたいに寒さに打ち震えていたうさぎが。どこへ行ったっていうの。


「白兎は、ここを出て行くんだよ」


 ちびがまるで自分のことみたいに誇らしげに胸を張るので。蝶は、ふぅん、そう、と呟くと、ちびがずっと砂に書いていた絵を靴の踵でぐちゃぐちゃに踏み消してやった。驚いてわぁわぁ泣き出したちびへは一瞥もくれず、リ・セト教会を出て行く。うさぎ。うさぎ。うさぎ。うさぎ。腹の底にずっとためこんできた男や女の体液が苦い味を伴ってぜんぶこみ上げてくる。蝶は、往来の道脇でそれを吐いた。白い花びらの上に撒き散らされた吐瀉物は、酸っぱい臭いを帯びていて、目を背けたくなるくらい汚らしい。ぐずぐずしたそれを指でつかむと、ねとりとしていて、本当に自分が飲み下してきた体液が腐敗したみたいだった。こんな汚いものが自分のような美しい顔をした人間からの腹から出てくんのか、と思うと、少し嗤える。うさぎ。キミの真っ白い身体からはきっとこんなものは出てこないんだろうねぇ、うさぎ。キミは男を知らない。ゆえに、ゆえに、蝶はうさぎの身体にこういう腐敗したものたちをすべて注ぎ込んでやりたいとも思う。ねぇ、だからキミ逃げちゃったのうさぎ。


 *


 だけど、日は落ちて、ラ・キト通りにいつもと同じ夜がやってくる。


「久しぶりだねぇ、蝶」


 豪奢な黒のシャンデリアの下では、白薔薇に赤薔薇、とりどりの娼婦や男娼たちが客人の相手をしている。まだ宵の口である今はサロンと呼ばれる広間で冷えたシャンパンを片手に談笑しているけれど、夜も更けゆけば、娼館は淫靡な夜の顔をむき出しにする。蝶がむすりとした表情で暖炉の近くの長椅子に足を組んで座っていると、ふと断りも入れず隣に鄙びた黒コートの男が腰掛けた。相変わらず背にいっぱいの花びらをまとわせた、コウノトリだった。なんだコウノトリか、と呟き、蝶は煙草に火をつける。


「喉の調子はどう? 声はもう出るの?」

「まぁね。ときどきヘンにかすれてるけど、今はヘーキ」

「ふぅん。今回は長い反抗期だったようだけど、もうおしまいにしたんだ」


 わざとらしい皮肉を織り交ぜた言葉に、蝶はむっと眉根を寄せる。コウノトリの言うことは当たっていて、蝶は声が出せなかったのではなく、声を出していないだけだった。美しい自分の声がハイエナみたいな低くてかすれた大人のオトコのものに変わり始めるのが恐ろしかった。自分がどんどんうさぎとかけ離れたイキモノになってしまう気がして。蝶はそればかりが恐ろしくて。子どもっぽい反抗をしていたけれど、もう終わり。胸に沸いた感傷を銀皿に灰を落とすことで紛らわせ、「子どもはどうしたの、コウノトリ」と蝶は別のことを訊く。宵の口はコウノトリが捨てられた子どもを拾いに行っている時間のはずだ。蝶がコウノトリを知ってもう五年近くになるが、この時間にコウノトリが店に顔を出したことはほとんどなかった。コウノトリは、ふふ、と花がひっそり咲くような不思議な微笑を浮かべて、長い睫毛を伏せる。


「やめた」

「は?」

「コウノトリはもう、やめた。今日はキミを買いに来たんだ、蝶」

「……何の冗談?」


 娼婦はともかくコウノトリが男娼を、ましてや蝶を買ったことなど一度もない。蝶が眉をひそめてしまうと、コウノトリは「冗談じゃあないよ」と言って、テーブルに銀貨を置いた。ぜんぶで十枚。それはNo.44で最高値である蝶の夜代だ。


「キミを買いに来たんだ蝶スワロウ・テイル。蝶でありながら、蝶とはまた違う、蝶の名を持つキミを。男娼なら、僕を愉しませてよ」


 すっと手のひらが銀色の手すりにつかれる。焦点がぼやけてしまうくらいそば近くに男の顔があった。普段は虚偽のごとく優しげな色を湛えてみたりする眸は、こんな風に近くでのぞきこむと、透徹した色合いをしていて、蝶は眸を眇めた。「いいけど。後悔するんじゃないよ」と嗤い、銀貨十枚をつかみ取る。



 コウノトリはいちばん高い部屋を買った。黒猫が柱の影のほうから不安そうな顔をして自分たちを見ていたが、蝶は肩をすくめるにとどめて扉を閉め、鍵を灰皿の中に入れた。暗がりにランプをともし、窓を開ける。白い花びらが風に乗って、ふうわり手元に舞い込んで来た。タイを緩めて、窓辺に浅く腰掛ける。コウノトリは扉の前に佇んで、どこか遠い目で寝台を見ていた。まるで何かを追憶するかのように眸を眇める。その仕草の意味がわからず、蝶は少し首を傾げた。


「夢魔、というのを知ってる、蝶」


 どこか甘い、深淵を思わせる声が問うた。

 むま、と男の言葉をなぞり、蝶はああ、と顎を引く。


「知ってる。暖炉んところにかかっている絵でしょ」

「そう。悪魔の一種で、ひとの精を奪う代わりに、甘い夢を見せる。夢魔にとり憑かれると、ひとはひどく幸福な夢を見るんだって。まるでラ・キトの娼婦たちと客のようだと、前のコウノトリはよく言っていた。淫蕩で、快楽に弱い、悪魔がごときラ・キトの子どもたち」

「……いったい何が言いたいの」

「だけど、僕は別のものを信じてる」


 コウノトリは薄く嗤うと、鄙びた外套のポケットから無骨な鉄の塊を取り出した。かちゃり、とコウノトリの指が撃鉄を押し上げる。


「蝶。ゲームをしよう」

 

 パン。蝶の喉を押し潰された悲鳴が震わせる前に、コウノトリは引き金を引いた。吐き出された鉛の弾が蝶のすぐそばの壁を射抜く。しゅう、と硝煙のにおいが立ち上った。コウノトリ、と蝶は眸を眇めて呟く。


「何やってんのさ、コウノトリ」

「だから、ゲームだよ。夢魔は、頭を射抜かれても死なないらしい。じゃあ、キミと僕と、どっちが夢魔で、どっちが人間なのか、決めようじゃない、蝶」


 むちゃくちゃだ。コウノトリの声にはどこか憑かれたような響きがあり、なんだか普段のコウノトリじゃないみたいだった。蝶の困惑を読み取ったのか、コウノトリは切れ長の眦を、やさしく、やさしく、細めた。


「キミはずっと僕を。キミと白兎とをよりわけたコウノトリを、恨んでいたんでしょ蝶?」


 緩やかな放物線を描いて投げられた銃を半ば反射で受け止める。

 弾はあとひとつだけ入ってる、とコウノトリは言った。


「残り五つの装填にあとひとつだけ。キミと僕とで二回ずつ銃を引き合う。どちらが当たるかはわからない。二分の一だよ。キミと僕と、お互いが引き当てる確率は二分の一。ただし、いちばん最後に弾が入っていた場合は、僕とキミは仲良く生き残る。蝶。そういうゲームをしようじゃない」


 すべてを説明し終えると、コウノトリは寝台の端に腰掛けた。端正な横顔に蒼い月光が射して、まるで洗礼を受ける前の子どもみたいに神々しく見えた。


「さぁ、どうぞ。まずはキミからだ」


 蝶は瞬きをしてコウノトリの穏やかな顔を眺め、手の中の銃へ目を落とす。ずっしりとした鉄の重み。贋物じゃあない、本物の銃であるようだった。片手で持ち上げようとしたけれど、あまりの重さに手が震えたので両手で抱え込むようにして構える。コウノトリはそれを静かな眸で見つめていた。


「……コウノトリ。一個、聞いていい」

「なぁに?」

「僕はなんで娼館だったの」


 いつかと同じ台詞だった。押し潰した低い声を作ったはずなのに、喉奥が震えて、まるで子どもが親にすがるような弱い声音になってしまう。ただ、蝶は知りたかった。どうして蝶は白兎と一緒に教会に届けてもらえなかったのか。知りたかった。年を重ねるごとにどうして自分は白兎と離れていくのか。すがるように見上げた先でコウノトリは眦を和らげ、「決まってるでしょ」とあのときと同じ風にやさしい顔をした。


「理由なんてなぁんにもない。ただキミが、淫蕩だったからだよ、蝶(スワロウ・テイル)」


 親指がかちゃんと撃鉄を起こす。蝶は、まるで何かに呼ばれたみたいに撃鉄を起こして、コウノトリの眉間へ銃口を向けた。不思議な確信があった。弾はきっと一発目にこめられている。蝶はこの男を殺す。この男は蝶に殺される。そこに、深い感慨はなかった。ないはずだった。自分がこの男を殺すことにも、この男が自分に殺されることにも、蝶は投げやりで。淫蕩。淫蕩ならどうだっていいじゃない、そう思って、引き金を引こうとする。でも、それなのに、なんだか胸が潰れてしまいそうだった。だって、コウノトリ。どうしてあんたそんなやさしい顔してんの。どうして僕はそれがわかっちゃうんだろう。

 そのとき、どぉん、と激しい破壊音が外から響いて、蝶は背筋を強張らせた。蝶の視界いっぱいに、蹴倒された扉と白い影とが飛び込んでくる。


「ちょうちょ!!」


 名前を、呼ばれた。

 ずぅっと誰にも呼ばれていなかった、久しぶりの名前を。その、やさしくて、やわらかくて、子どもみたいな響きに、身体中の力が抜けていく。やめて。やめてようさぎ。こんなところで、そんな馬鹿みたいな名前で呼ばないでよ。白兎の柔らかな身体がちょうちょを抱き締める。そうすると、それまで指に張り付いて離れなかった鉄の塊がたやすくほどけて、床に落ちていった。がたん、と大きな音が鳴る。白兎の肩越しに寝台のほうへ目をやると、シーツに浅く腰をかけたままコウノトリは弱い苦笑をしていて、目が合うと不意にすべての糸がほどけるみたいに相好を崩す。やさしい、かお。コウノトリは慈愛に満ちた微笑を浮かべて、目を伏せた。僕の勝ちだよコウノトリ、目を伏せたコウノトリがそんな風に呟く。


 *


「ちょうちょの馬鹿! キライ! 大キライ! どうしてあんなことするの!」


 白兎の憤慨はものすごかった。このラ・キト通りに単身乗り込んできた教会の兎は、目を丸くする客人たちを睨み付けると、ハイエナに銀貨十一枚を払ってちょうちょを買った。いったいどこから出てきたのそんなお金、と呟けば、大学にゆくための路銀だよ!馬鹿!とまた憤慨される。こんな風に怒る白兎を見るのは初めてで、どうしたらいいんだろうとちょうちょは途方に暮れてしまう。とりあえず温めたミルクに蜂蜜を垂らしたものを渡そうとすると、白兎は隣に置いてあったシャンパンのほうを取り去って、呆気に取られるちょうちょの前でぜんぶを飲み干した。サイドボードにグラスを置いて、「ちょうちょ」とこちらのほうへ赤い目を向けてくる。


「一緒に都に行こう。わたしはちょうちょを迎えに来たんだよ」

「……は?」


 突拍子のない言葉に、ちょうちょはぽかんとしてしまう。白兎は寝台の端に腰掛けたちょうちょの手を握り締めて、「わたしと都に行こうよ、ちょうちょ」と同じことを繰り返した。


「何の冗談。何で僕がキミと都へ行くことになっちゃうの」


 言ってみてから、ふと昼下がりのことを思い出して、ちょうちょは片頬を皮肉っぽく歪ませる。


「そういえば、キミんとこのちびに聞いたよ。大学に行くのが決まったらしいじゃない。オメデト、うさぎ。僕にちっとも話してくれなかったあたり、よっぽど大事なことだったんだろうね」

「……すねてるの、ちょうちょ」

「誰がすねるもんか。あのちびが言ってた。うさぎはとっても頭がいいんだって? 知らなかった。キミってぼんやりしたお馬鹿さんなのかと思ってたのに、ぜぇーんぶ嘘だったんだ」

「ちょうちょ」

 

 嫌らしい言葉ばかりを選んで重ねると、白兎はなんだか切なそうな表情をして唇を噛んだ。舌打ちして、ちょうちょはしぶしぶ口を閉じる。白兎の真っ白な指先がちょうちょの頬に触れた。


「どうしてそんなことばかり言うの。知ってるでしょ、わたしがどれだけお馬鹿さんでぼんやりした子どもなのか。ちょうちょは知っているでしょ。あれから勉強を、いっぱいしたの。ちょうちょとここを出るために」


 ちょうちょの頬を両手で挟んで引き寄せ、白兎はまるい額をちょうちょのそれにあてた。額に振りかかった前髪越しに温かな体温が伝わってくる。


「一緒にゆこう、ちょうちょ。今度はわたしが、ちょうちょを外へ連れて行ってあげる。わたしは学校で勉強をする。ちょうちょは、都で仕事をしたらいい。ちょうちょなら、何だってできるよ。ふたり一緒なら、怖いことなんてなんにもないよ」


 ――どうして。うさぎは、どうしてそんなことを言えるのだろう。

 ちょうちょは、怖くて、たまらないのに。うさぎと一緒にいることが、こうして額を重ねあわせることが、ちょうちょは怖くてたまらないのに。うさぎは、非力な、小さなうさぎでしかないくせに、どうしてそんな顔するの。考えるともう、歯がゆいような、くるおしいような、たまらない気分になってきて、ちょうちょは弱く喘いで、うさぎの首筋のあたりに甘える風に額を押し付けた。エプロンドレスのまあるい襟ぐりからのぞく首筋は白い。唇を押し当てて、吸った。うさぎの中をぐずぐずした自分の中のもので満たしたいような、うさぎの中のきっと透明な体液で満たして欲しいような、劣情に駆られる。ずぅっと吸っていると、くすぐったい、とうさぎが身じろぎした。所在なく下ろしていた腕にうさぎの花色の唇が押し当てられる。すぅっと吸われる。不意に、ほんとうに、怖いことなんてなんにもない気がした。うさぎの背後には、白い散りかけの花と銀色の月があって、ちょうちょは、うさぎ、あいしているよ、とはじめて本当のことを言って、腐敗した澱があふれ出した淡くて透明な水に包まれてゆくのを感じながら、うさぎの首筋に額を押し当てた。


 *


 その夜、ラ・キト通りの蝶(スワロウ・テイル)は死に。

 翌朝、ちょうちょとうさぎは手を繋いでラ・キトを出て行った。

 桜の樹の下でコウノトリはそれを見守る。聖母マリアみたいな表情で。

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