首と腕なら、欲望のキスⅠ/Arm und Nacken die Begierde

 今はもう眠れるお城の足元に、ラ・キトと呼ばれる古びた通りがある。ラ・キト通りに捨てられた子どもたちは、清らかなのは教会へゆき、淫蕩なのは娼婦になる。子どもたちを運ぶのは、真っ黒いコートに身を包んだコウノトリ。


 *


 生まれながらの娼婦であるところのアタシは、ひとりの男に恋をしている。キスはおろか、肌ひとつ重ねたことのない、純愛というやつだ。



「画家!」


 アタシはアタシの恋する男を、画家、と呼ぶ。ラ・キト通りの住人たちはそんな小洒落た名前で彼のことを呼んでなかったけれど、アタシにとって男は画家以外の何者でもなかったので、画家、と呼ぶ。画家はいつものとおり、リ・セト教会の礼拝堂にいた。銀皿に載せられたいくつもの顔料。画家の前には、子どもを抱く聖母の姿があって、だけど、顔だけはためらいのあとを刻み付けるかのように何度も白に塗り潰されて、今はのっぺらぼうになってしまっている。


「どうよ、作業は。ママの顔は見つかった?」


 アタシはレース地の日傘を畳むと、オリエント風のシミューズドレスを翻して礼拝堂の最前列に座った。まだ春も早い時期であるので、ぺらぺらの下着みたいなシミューズドレスで通りを歩くのは寒い。だけどこれが当世の流行でございますので? 美しいカナリヤは王都の女優みたいにブロンドを春風にそよがせて、毛織のショール一枚かけただけの姿でも、胸を張って歩く。鳥肌なんて立てやしない。それがアタシの意地。娼婦の意地。

 見つからないねぇ相変わらず、と画家は感慨のない声で呟き、肩をすくめた。画家は顔料を広げながらも筆を持たず、白い石床の上に茫洋と佇んでいる。その姿がなんだか哲学っぽくて、道に迷う旅人みたいだ、とアタシは思ったりする。――もうかれこれ十数年になる。画家が聖母マリアを探し始めて。アタシが彼に恋を始めて。時間という魔物はアタシたちがぼんやりしている隙にあっという間に十数年という歳月を後方へ押し流してしまった。気付けば、アタシは夢見がちな十代の小娘ではなくなっていたし、男もまた、激情と劣情を持て余して娼婦をあさった十代をとっくに過ぎている。


「カナリヤ」


 アタシが退屈そうに足をぶらぶらさせていると、画家はのっぺらぼうの聖母を見つめるのをやめてアタシの隣に腰かけた。コートのポケットから硝子の小瓶を取り出す。中には色とりどりの飴玉が詰まっていた。ひとつをつまんで、砂糖をまぶしたそれをアタシの口に放り込む。甘い、とアタシが眉をしかめると、画家はふふ、と微笑って、砂糖のいっぱいついた水色の飴玉を口に入れた。礼拝堂の最前列に座って、十字架に架かった死人とのっぺらぼうの聖母を見上げつつ、ふたりで頬をもごもごと動かす。そうしていると、アタシはコウノトリに連れられて娼婦になったばかりの頃のアタシを思い出す。生まれながらの娼婦であったアタシは、毎夜の情事にびっくりするほど早く順応した。それでもその頃のアタシはまだ潔癖な十代も前半であって、気高いアタシの魂と淫蕩なアタシの身体とはそれなりに摩擦や葛藤を繰り広げていたのだった。アタシはリ・セト教会の礼拝堂の最前列にやってきて、よく泣いて、よく十字架の死人を罵倒した。アタシは、憎かった。アタシを捨てたママも、アタシを犯したコウノトリも、アタシを受け入れたマダム・ハイエナも、アタシに情事を教え込んだ客人たちも、そしてアタシ自身も、みんな憎かった。アタシはこんなに不幸でかわいそうなのに、どうしてリ・セトの神様はアタシに手を差し伸べてくれないのだろう。アタシが淫蕩だから? 淫蕩な娼婦だから、こんなみじめな思いばかりしなくちゃいけないの。そう思うと、誰も彼もに見捨てられた気がして、アタシは悲しかった。それで、わぁわぁ泣いて、だんだん石床を叩いて、十字架の死人に唾を吐きかけてみちゃったりしていると、少し離れた場所で苦笑する気配を感じたのだ。泣き腫れた目を上げれば、最前列のいちばん端っこでアタシとあまり年の変わらない少年が足を組んで本を読んでいる。若く、美しい少年だった。彼が、別の娼館で男娼をやっていることをアタシは知っていた。彼の美貌がアタシのそれを上回っていたこともあってだろう、アタシは無駄に対抗心を燃やしてみたりなどして、腕を組んで少年を睥睨する。


『何よ。何がおかしいのよ』

『おかしくなんてないよ。キミはカナリヤ?』

『そうよ。カナリヤよ。マダム・ハイエナんところの娼館一美しいカナリヤ様よ。何か文句あんの?』


 まるっきり喧嘩ごしのこちらの口ぶりにも、少年が動じる気色はない。アタシがむっとなって閉口してしまうと、彼は持っていた本を閉じて、アタシのほうへやってきた。あげる。そう言って砂糖をいっぱいにまぶした飴玉をアタシの口に放り込む。涙でしょっぱくなっていた舌先に痺れるような甘さが広がった。甘い、と眉をしかめると、ふふ、と微笑って、少年はアタシの隣に腰掛ける。そしてまた本を開いた。黒い装丁のなされた小さな本。


『何読んでんの』

『マルコによる福音書』

『それ、面白い?』

『まぁね』


 少年は淡白に答えた。果たしてどういう意味で面白いのか、アタシにはわからなかったけれど、聖書を読みふける男娼はたいへん珍しいように思えた。面白いわね、と少年について言って、アタシは飴玉を口の中で転がした。

 それからアタシたちはときどき教会の最前列でお菓子を食べた。ミート・パイ。まあるいビスケット。タフィー。レモン・キャンディ。ハンカチに包んで持ってきたそれらをアタシたちは分け合って、もぐもぐと食べる。それらはアタシにとって、清廉な光に満ちた、砂糖菓子みたいな優しい幸福であった。アタシも彼も、そんなものと比べものにならないくらいの、身体の芯が蕩け落ちるような快楽の絶頂を知っていたが、アタシたちはやっぱりときどき教会に行って、無垢な子どもみたいなふりをしてお菓子を食べた。それは儀式であったように思う。アタシがアタシであるための。儀式。少しして彼は男娼をやめた。最後の日、アタシのもとへやってきた彼は、教会の真っ白の壁を見上げて、お菓子はもう持ってこれないけれど、カナリヤ、とアタシに言った。代わりにキミのママを探してあげる。約束する。キミのママを探してあげるね、カナリヤ。もう泣くことがないように。

 アタシと彼は友人である。あるいはアタシの一方的な片想いである。キスはしないし、肌を触れ合わすことだってしない。アタシたちにそういうものは似合わない。そう思ったので、アタシは目元を綻ばせると、そうよアタシのママでありあんたのママよ、とブロンドを押さえて笑う。彼のママがどんなであったかをアタシは知らないけれど、彼は、うんそうだね、と春の空気に溶け入りそうな顔で微笑ってくれた。


「画家」


 アタシはあれから十年の歳月を重ねた男の背中を見つめる。

 

「祝福してね。アタシ、ママになったの」


 男は微かに瞑目して、アタシのほうを見た。アタシはふふんとしてやったりな笑い方をして、おなかをそっと押さえてみせる。


「ママになったのよ。画家。アタシ、ママになった。でも残念ね、あんたにこの子はやらない。アタシはとびきりのママになるの。祝福してくれる?」


 娼婦の真似事のつもりで愛らしく小首を傾げてみせると、画家は目元をやさしく、やさしく和らげて、微笑んだ。おめでとうカナリヤ。画家が心からの祝福をくれる。おめでとう。おめでとう。カナリヤ。素直に降り注ぐ祝福がなんだかくすぐったい。アタシが首をすくめてしまうと、画家はアタシにもう一個飴をくれた。しあわせそうな黄色いキャンディだった。


「しあわせに、なってよ。カナリヤ」

「馬鹿にしないで。なるに決まってるわよ」


 アタシは飴を舐めながら、ふと思いついて、男の黒コートからのぞいた真っ白い首筋や、腕や、あとは額や手の甲や、唇といったものを見た。アタシは顔を近づける。吐息がかかるほどそばちかくなった距離。限りなく近くにありながら、アタシが触れられる場所はどこにもなかったし、触れたい場所もどこにもないように思えた。アタシはだから、男を抱擁し、冷たい頬に頬をこすりつけた。目を閉じて、息を喘がせる。アタシは、泣かない。娼婦であるアタシは、恋愛ごときで泣いたりはしない。であるので、アタシは目を固く瞑って、ずっと見守ってくれてありがとうコウノトリ、と男を抱き締めた。


 *


 翌朝、リ・セト教会に聖母がひとりいた。

 淫蕩な。どこまでも淫蕩な顔をした、アタシたちのママ。

 コウノトリ。あんた、あんなところにアタシの顔を描くんじゃないわよ。わかってんでしょ、アタシはもっと美しいのよ。アタシはきつく唇を噛んで、涙をこらえる。

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