掌の上なら、懇願のキス/In die hohle Hand Verlangen

 今はもう眠れるお城の足元に、ラ・キトと呼ばれる古びた通りがある。ラ・キト通りに捨てられた子どもたちは、清らかなのは教会へゆき、淫蕩なのは娼婦になる。子どもたちを運ぶのは、真っ黒いコートに身を包んだコウノトリ。

 

 *


 ラ・キト通りに、いつ桜が植えられたかを住人は知らない。だけど、蝶が物心ついたときにはその淫蕩な花はラ・キト通りの灰色っぽく濡れた石畳を春色に染めていて、風が吹くとラ・キト通りの娼館を春霞の向こうへ隠してしまう。おなかをすかせて泣いている蝶の前に、コウノトリが現れたのはそんな春の夕暮れだった。コウノトリは蝶を犯して、No.99の娼館に連れて行った。蝶が十歳のときのことだ。


 *


「蝶」

 

 No.99の娼婦が蝶を呼ぶ。まだ、開店には少し早い時間で、店に客はいない。胸ポケットに綻んだ白薔薇を挿していた蝶は、現れた黒コートの男を仰いで、切れ長の眸を眇めた。


「コウノトリ」


 呟くと、男はふふ、と笑って、「絵を描きにきたよ」と脇に抱えた古いスケッチブックを掲げてみせる。コウノトリは女中に金貨をしこたま渡して、蝶を、と言った。一晩のお代にしても多すぎる額には、開店前のチップも入っているのだろう。慣れた風に二階の奥の部屋の鍵をポケットに入れるコウノトリを横目に、蝶はまだみずみずしい香りのする白薔薇を屑篭に捨てて、タイを緩めた。コウノトリがやってくると、蝶はいつも喉が塞がって、息を詰まらせてしまいそうになる。桜の白い花びらをまとわせた黒い背中からはきつい腐敗のにおいがした。


「……まだ夕暮れだけど、子どもはいいの? コウノトリ」


 コウノトリがラ・キト通りのコウノトリになってもう三十年になる。ラ・キト通りの娼婦や男娼はすべて今のコウノトリが運んだものだ。蝶もその例に漏れず、八年前、コウノトリに拾われ、犯されて、このNo.99に届けられた。蝶が冷えたシャンパンを注いだグラスをコウノトリに渡すと、コウノトリは丸いガラスのふちに少しだけ口をつけて皺の寄った眦を歪めた。「今晩はもう、つかれたな」と息を吐く。男の倦んだ背中からなるべく目をそらすようにして、蝶は、そう、とうなずいた。窓辺に腰掛け、蜜を溶かした炭酸に口をつける。

 ラ・キト通りのコウノトリはもうずっと仕事をしていない。いつからだったか定かではないのだけど、コウノトリは桜の樹の下には行かなくなってしまって、捨てられた子どもたちはみんな、樹の根元で動かなくなったり、犬の餌になったりしていた。子どもたちの遺骸は朝になると、どこからともなくやってきた掃除夫の手で白い荷車に積まれ、街の外に持って行かれてしまう。子どもたちが届けられなくなった娼館はどこも人手不足に陥ってしまい、何年も前に娼婦をやめた年増女や、病気持ちのあばた娘たちが厚く化粧をして、毎夜娼館にのぼった。


「蝶。そこへ、すわって」


 コウノトリの少しかすれた、けれど在りし日の丸みをまだ微かに残している声が蝶を呼ぶ。コウノトリがぎ、ぎ、ぎ、と床板を軋ませて椅子を引っ張ってくるのを感じながら、蝶は上着を脱いで、シャツの釦を外した。裸になって、寝台に腰掛ける。オイルランプのほのかな灯りが蝶の真っ白く透き通った足指を淫らに照らす。美しい蝶を死んだ蛇のような濁った目で見つめて、コウノトリは黒炭をスケッチブックに走らせた。先のほうを黒く汚した指はやがて蝶の浮き出た背骨をひとつひとつ撫ぜるのだろう。蝶はもうそういうことに何も感じない。ただ微かな息苦しさを感じるだけで、苦痛も、快楽も、感じない。蝶は最近、ずっとそうだ。男に抱かれても、女に抱かれても、なんにも感じない。ただ、そうしてとすがる客の尻を革鞭で叩いてやるときだけ、ほんの少し、淡く、甘い、快楽のようなものを感じてみたりする。暴力と快楽は、きっと近い場所にある。


「夢魔、というのを知っている? 蝶」


 金貨のぶんだけの義務のようなまぐわいを終えると、まただらだらとスケッチブックに黒炭を滑らせながら、コウノトリが言った。夢魔、と蝶は呟く。コウノトリは唇を斜めに歪めた。


「悪魔の一種だよ。ひとの精を奪い取る代わりに、甘い夢を見せる。夢魔にとり憑かれると、ひとはひどく幸福な夢を見るのだと」


 ねぇコウノトリ。なら、僕らはまるで夢魔のようだよね。

 キミはキミの運んだ子どもたちに精気を取られて疲れてしまったの。

 胸のうちに問いかけながら、蝶は床に落ちたシャツを拾った。ぬるくなった炭酸を飲み下してサイドボードに置き、締め切られた窓を開く。視界を真っ白く埋め尽くすかのような満開の桜が風にそよめいていた。今日捨てられた子どももまたおなかをすかせて死んでしまうのだろうか。ぼんやり考えていると、蝶、と低い呼声が寝台のほうからした。蝶はゆっくり眸を一度瞬いて、コウノトリを振り返る。コウノトリはいつの間にかスケッチブックを閉じて、ベッドの上に身を起こしていた。コウノトリの手が、まるで黒い影か何かのようにハンガーにかかったコートへと伸びる。しばらくポケットを探るようにしたあと、引き出された男の手には、黒い、無骨な鉄の塊が握られていた。かちゃり、とコウノトリの親指が撃鉄を押し上げる。


「蝶。ゲームをしよう」

 

 パン。蝶の細い喉を、押し潰された悲鳴が震わせる前に、コウノトリは引き金を引いた。鉛の弾が蝶のすぐそばの壁を射抜く。しゅう、と硝煙のにおいが立ち上った。コウノトリ、と蝶は切れ長の眸を眇めて呟く。


「何やってるの、コウノトリ」

「だから、ゲームだよ。夢魔は、頭を射抜かれても死なないらしい。じゃあ、お前と俺と、どっちが夢魔で、どっちが人間なのか、決めようじゃないか。俺はずぅっと暇を持て余していたんだ」


 拳銃のごつごつした表面を優しく指でなぞって、コウノトリが嗤う。その、死んだ蛇のような濁った目。蝶、蝶、蝶、蝶、とコウノトリは、歌うような、いとおしむような、愛するような、甘い、腐った声音で蝶を呼ぶ。蝶、蝶、蝶、蝶、俺のいとしい蝶!


「お前はずっと俺を、倦んでいたんだろ蝶?」


 きれいな放物線を描いて投げられた銃を半ば反射で受け止める。弾はあとひとつだけ入っている、とコウノトリは言った。残り五つの装填にたったひとつだけ。お前と俺とで銃を引き合う。どちらが当たるかはわからない。二分の一だ。お前と俺と、お互い引き当てる確率は二分の一。楽しいだろう、蝶。すべてを説明し終えると、コウノトリは芝居がかった仕草で両腕を開いて、寝台に腰掛けた。


「さぁ、どうぞ。まずはお前からだ」


 蝶はコウノトリの穏やかな顔を眺め、手の中の銃へと目を落とす。ずっしりとした鉄の重み。贋物じゃあない、本物の銃であるようだった。片手で持ち上げようとしたけれど、あまりの重さに手が震えたので両手で抱え込むようにして構える。死んだ蛇みたいな暗い眸でコウノトリはそれを見ていた。


「……コウノトリ。一個、聞いていい」

「なんだ」

「僕を、娼館に連れて行ったのは、何故」


 ずっと知りたかった。ずっと聞いてみたかった。リ・セトではなく、ラ・キトに届けられた理由。胸のうちを気取られぬよう、押し潰した低い声を作ったはずなのに、喉奥が震えて、まるで子どもが親にすがるみたいな弱々しい声音になってしまった。コウノトリは目を細めて、「決まっているだろう」と痩せた喉をくつりと鳴らす。


「お前が、美しく、淫蕩だったからだよ、蝶」


 ――ああ、やっぱり僕はあんたが嫌い。

 そう思い、蝶は引き金を引いた。春の夜に、ぱぁんと銃声が轟く。鉛の塊はだけど、男の眉間ではなく、なだらかな肩のほうを射抜いた。はじめてだから、失敗してしまったのだ。ぐうう、と醜く呻いて、コウノトリはベッドに仰向けに倒れた。蝶の心臓がはじめて男に抱かれたときみたいに早鐘を打つ。どくどくどくどくと激しく打ち鳴る心臓のせいで、こめかみまで痛い。蝶は、歩いていって、コウノトリのかたわらにかがみこんだ。コウノトリが青黒くなった顔を上げる。蝶がなんとなく差し出した手のひらをつかんで、コウノトリはふふ、と微笑い、その上に唇をすり寄せるようにして口付けた。腐敗のにおいが濃くかおる。蝶、とコウノトリの罅割れた唇が弱く動く。うれしい。コウノトリは言った。うれしい、蝶。あいしてる。蝶は男の手を握ると、今度こそその眉間に狙いを定めて引き金を引いた。ぱぁん。弾ける。灰色の脳髄を盛大に撒き散らかして男がベッドに倒れる。硝煙のきついにおいと、銃声の残響とが蝶を貫いたとき、急に、耐え切れないくらいの快楽を感じた。もうずっと感じたことのないものだった。ああ。急に気付いた。快楽の近くにあるのは暴力じゃあない。錯覚をしていただけ。死、だ。甘く、かぐわしい、花とおんなじにおいのする。死。だから、こんなにもいとおしい。ずるずると欲を吐き出しながら、蝶は思った。



 コウノトリは死んだ。自殺だった、といわれている。

 真実だ。コウノトリのあれは自殺だった。あるいは腐敗だった。

 明くる朝、コウノトリの死骸を掃除夫がまたどこかへと運んでいくのを見届けずに、ラ・キトではすぐさま次のコウノトリを決める会議が始まった。ラ・キトの住人はだらだらと実りのない会議をするのが好きなだけで、結論は最初からもうほとんど出ていた。洗い流した身体に糊の張ったシャツとスーツを重ね、黒のタイを締めると、ハンガーにかかったままの鄙びた黒のコートを下ろして、袖を通す。古いコートからは微かな腐臭がした。自室の扉から取り去った銀のネームプレートをポケットに突っ込もうとして、ふと思いつき、銃を開いて弾倉を確認する。あのときひとつしか入っていなかったはずの銃弾は、三発の穴を残してすべてが埋められていた。弾は最初からすべてに詰められていたのだ。ウソツキ、とたぶんもうどこか遠くに捨てられたのであろう男の遺骸に向かって呟き、『コウノトリ』は空を仰ぐ。銃をコートのポケットに突っ込み直すと、あとはもう迷うことなく春霞のラ・キト通りを歩き始めた。

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