閉じた瞼の上なら、憧憬のキス/Aufs geschlosne Aug' die Sehnsucht

 今はもう眠れるお城の足元に、ラ・キトと呼ばれる古びた通りがある。ラ・キト通りに捨てられた子どもたちは、清らかなのは教会へゆき、淫蕩なのは娼婦になる。子どもたちを運ぶのは、真っ黒いコートに身を包んだコウノトリ。


 *


 蝶(スワロウ・テイル)が声を失ってしまった。

 失ってしまった、正しくは出せなくなってしまった。お医者さんにみてもらったら、少年の喉が大人の男のひとの喉に変わるときに起こる声変わりというやつなのだという。以来、蝶は客を取ることをやめ、一日中長椅子に横たわって、外を眺めている。雨で濡れた窓に張り付いた白い花びらをすぅっと目を細めて眺めている蝶の背中はなんだかひどく頼りなくって、黒猫は心配して手縫いのショールと、喉に効くという生姜と糖蜜を煮詰めた飲み物を持っていってあげたのだけど、蝶は倦んだ眸を黒猫にやり、「黒猫に心配されたんじゃ僕もおしまいだよね」と呟いた。黒猫がむぅと眉根を寄せると、蝶は煩わしそうにショールとマグカップとを受け取って、あっちいけとでも言いたげにひらひらと手を振った。


 そんな大きな事件と前後して、小さな事件も起こった。

 コウノトリが久しぶりにラ・キト通り44番にやってきたのである。

 ラ・キト通りの娼館は、看板というものを掲げない。客人たちの秘めやかな欲望を満たす閉じられた館メゾン・ド・クローズに華々しい看板はいらないからだ。夜の足音が東から西へ駆け足でやってくると、ラ・キト通りのガス灯にぽつぽつとあかりがともり、贔屓の客人たちは銀のプレートに刻まれた「No.44」を探してドアを叩く。外と中とを隔てる分厚い扉を開けた客人を最初に迎えるのは黒猫だ。十五才になった黒猫は相変わらず娼婦ではなく、客人を娼婦たちのいる広間まで案内する女中のひとりであった。その日も「いらっしゃいませ、だんな様」と頭を下げた先に、見覚えのある鄙びた革靴を見つけて、黒猫は大きな琥珀の眸をぱちくりとさせた。


「コウノトリ」


 かれこれ半年ぶりぐらいになるだろうか。コウノトリは半年前にやってきたときとまるで変わらない鄙びたコートを身にまとい、背中には散りそめの白い花びらをたくさんつけて、黒猫、と眦を和らげた。変わらない、散り去る間際の花みたいな微笑い方。コウノトリの手が黒猫の頭を子どもにそうするみたいにくしゃっとするので、黒猫はくすぐったそうに片目を細めた。もうひとりの女中に目配せを送って、黒猫はコウノトリを店の奥へと案内する。


「今日はどうしたの? 珍しいね、コウノトリがここに来るの」

「ふふ。キミの顔が見たくなったんだよ」


 ぴたりと足を止めて黒猫はコウノトリのほうを仰ぐ。コウノトリが目元を優しく和らげるので、黒猫は唇を尖らせて、「なんだ、また子どもを拾ったんだ」と呟いた。さっきは気付かなかったけれど、コウノトリの腕には白い産着に包まれた小さなものが抱かれている。捨て子だろう。それもある、と素直に顎を引き、コウノトリは黒猫に、広間ではなくて三階のマダムの部屋に案内するよう言った。

 この館の主人であるマダム・ハイエナは他のマダムたちとは少し毛色が違っている。本人曰く十代後半で『第三の性』に目覚めてしまったらしいマダムは、明るい栗毛をくるくるの縦ロールに巻いて、近頃では若干時代遅れの風であるペチコートを風船みたいに膨らませたクリノリン・ドレスに身を包んでいる。マダムは身長が六フィートはあろう巨体なので、いくら男と女の別がつかないくらいの美人であっても、天井に頭がつきそうな『第三の性』がレースとリボンをたっぷり使ったモスリン製のクリノリン・ドレスで出迎えると、たいていの男は顔を引き攣らせて三歩後退するのが常であった。


「ようこそ、ラ・キト通りの魅惑の館へ。久しぶりねーえ? コウノトリ」


 マダムはルージュを塗りたくった口元を歪め、ペチコートの両端をつまんで貴婦人みたいな挨拶をしてみたりする。コウノトリはマダムの巨体に気圧されない数少ない人間のひとりでもあるので、「ご無沙汰だね、ハイエナ。キミの顔が見られなくて、僕も寂しかったよ」と平然と言ってのけた。ベルベットのソファに座ったマダムは、コウノトリの腕に抱えられたものに目ざとく気付いて頬を歪める。


「ちょっと。あんた、まさかまた捨て子じゃないでしょうね?」

「幸いにもそのまさかだよ。№44で引き取って欲しい」

「残念ながら、の間違いでしょ。あんたの届ける子は妙ちくりんが多くて嫌よ」


 マダムの、歯にペチコートはおろか下穿きドロワーズ一枚着せない物言いに、妙ちくりん代表の黒猫はむくれて唇をへの字にする。それから、マダムの視線を感じてそっぽを向いた。コウノトリが苦笑をする。


「キミが妙ちくりんなんだからいいじゃないの。蝶はウケたでしょ」

「最初はね。でも、もうだめよ。あの餓鬼に男娼なんて最初から無理だったのよ」


 不穏な言葉をなんでもないことのように言って、マダムは紙巻煙草に火をつける。緩やかに立ち上った紫煙をコウノトリはしばらく眺めていたが、やがて長い睫毛を伏せた。


「心配ない、蝶はまた客を取るよ。だって、僕の運んだ子どもだもの」

「たいした自信だわね。あんたさぁ、最近前のコウノトリに似てきたわよ。喋り方とか、嗤い方とかさ」

「ふふ」

「笑い事じゃあ、ないわよ」


 マダムはほぅと白い煙を吐き出して、煙草を銀の灰皿に押し付ける。黒猫、ペン、と手を振られたので、慌ててマダムの書斎から万年筆と印章とを持ってくると、マダムはコウノトリから差し出された一枚の上質紙にペン先を走らせた。マダム・ハイエナの署名とアカンサスの印。それをコウノトリに渡して、代わりに赤子を引き受ける。毎度ぶつくさと文句を言いながら、マダムが赤子を受け取らなかったことはない。


「……あんた、前のコウノトリを心底嫌っていたじゃない」


 ぽつりとマダムが呟いた言葉に弱く苦笑すると、コウノトリは赤子の小さな手の甲を取って、しもべが主人にするような口付けを落とす。変わらない、コウノトリの儀式。娼婦にも、教会の子どもにも、コウノトリは同じ風にキスをする。離れ際、わすれちゃったよ、と男の口が声もなく動くのを黒猫は見逃さなかった。


 *


「コウノトリ。誰か買ってく?」


 マダムの部屋から出たコウノトリを仰いで、黒猫は尋ねる。コウノトリが黒猫を拾ってもう十年の月日が流れたけれど、黒猫とコウノトリの背丈はあんまり縮まらず、黒猫はいつまでたってもコウノトリの横顔を仰がなくてはならなかった。コウノトリは、うーんと生返事をしてしばらく黒練鉄の手すり越しに階下の甘い喧騒を眺めていた。それから、ふと何かに気付いた風に目元を和ませて「あの絵、ずっとかかってんだね」と視線を広間の暖炉のほうへとやる。ああ、とコウノトリの視線を追って、黒猫はうなずく。男の示した先には、寝台にしどけなく横たわった女の腹に一匹の怪物が腰を掛ける――気味の悪い絵があった。


「変な絵だよね。わたしがここに来たときからずっとかかってんの」

「あの絵はねぇ、夢魔って名前なんだよ」

「むま?」

「そう。彼にとり憑かれた人間はたいそう幸せな夢を見るらしい。あの絵は、前のコウノトリが描いたんだ」


 まったく脈絡のないことを繋げて言って、コウノトリは手すりから身体を離した。ポケットから取り出した数枚の銀貨を黒猫の手の中に落とす。


「今晩はキミを買うよ、黒猫。部屋は、No.44でいちばん高いやつを」


 コウノトリが鄙びたコートを翻すと、背中に数枚残った花びらがまたひとひら羽根みたいに散った。黒猫はそれを名残惜しげに眺め、銀貨をポケットに入れる。



 コウノトリが黒猫を買うのは珍しいことではない。

 ずっと昔――黒猫がNo.44に連れて来られたばっかりの頃から、コウノトリはときどきふらりとやってきては戯れに黒猫を買った。娼婦ではない黒猫には値がつかないので、コウノトリが払うのは部屋代とチップになる。銀貨五枚。コウノトリが所望するのはいつも№44でいちばん高い寝室、と決まっていた。


「桜ももう散りそめだねぇ」


 黒猫がコウノトリの好きな蜂蜜を溶かしたホットミルクを持って戻ってくると、コウノトリは窓枠に浅く腰掛けてすぐそばまで枝を伸ばしている桜の樹を見ていた。うん、とうなずいて、黒猫はコウノトリにマグカップを渡す。黒猫は酒がうまく飲めなかったし、コウノトリは酒が好きではなかった。なので、コウノトリがやってきたとき、黒猫はいつも甘くて温かい飲み物を作って持ってゆく。乳白色の湯気を顔に当てると、コウノトリは幼子みたいなあどけない表情をして、ふぅ、と息をふきかけた。男がひどい猫舌であるのを黒猫は知っている。


「コウノトリ。前のコウノトリってどんなだったの」

「どんなって?」

「年齢とか、顔とか。前はもっと年がいってたってカナリヤが言ってたよ」

「だろうね。彼は三十年間ラ・キトのコウノトリだったから」

「三十年も?」

「うん。僕もカナリヤも前のコウノトリに運ばれた子どもだよ」


 コウノトリは目を細めて言って、空になったマグカップを窓の桟に置いた。窓を外向きに開け放つと、白い花びらがひらひらと中に舞い込んで来る。道沿いに等間隔に植えられた桜の花はすべてが咲き綻んで、風が吹くたびさわさわと静かに揺れた。種で増えることができない桜は、枝を継ぎ足し継ぎ足し増えていって、いつの間にかラ・キト通りを覆ってしまったらしい。そういうことを舌ったらずにぽつぽつと話してみたら、コウノトリはどこか深淵を思わせるあの声で、似ているね、と呟いた。何が?と聞いたら、桜と娼婦が、という。コウノトリは銀色の桟に腕をつくと、窓辺に架かった桜の花びらの裏側をつーぅ、と撫ぜた。いとおしむように。そういうとき、黒猫はどうしてか母親に置き去りにされた日と同じような気持ちになって、声を上げて泣きたくなる。


「コウノトリ」


 シミューズドレスの端っこをぎゅっと握り締め、黒猫は別のことを言った。


「……黒猫、このまま娼婦になれなかったら、どうしよう」


 コウノトリが目を瞬かせる。黒猫はわざとらしく眉間を寄せてしかめ面を作り、足元に視線を落とした。だって、黒猫は、まちがえた子ども、と言われている。コウノトリが唯一まちがえて運んでしまった子どもだって。黒猫の容姿は年を重ねても地味なままでぱっとせず、喋りやお世辞も下手で、楽器を弾かせてもまったくうまくならない。十五になるのに、ちっとも魅惑的なラインを描かない胸や尻にしてもそうだった。黒猫は娼婦に向かない、とみんなが言う。黒猫だけがコウノトリの選択を信じて、毎日身体を磨いて、お辞儀の練習や、歌やピアノの練習をしているのだけど、マダムは黒猫に雑用以外の仕事を任せてはくれない。コウノトリにしても、そうだ。コウノトリは気まぐれに黒猫を買うことはあるけれど、黒猫を抱いたことはただの一度だってない。コウノトリは。この優しい男は。ときどき、娼婦と鞭を所望するのに。黒猫だけは望まない。

 黒猫が唇を引き結んで精一杯難しそうな顔をしていると、コウノトリは不意にふふっと微笑って、黒猫の長く伸ばした髪に触れた。ほの白い指先がこめかみのあたりにすぅっと差し入り、そこに絡んでいた淡い薄紅の花びらを一枚つまむ。春めいてんね、と呟いて、コウノトリは花びらを黒猫のマグカップの上にひとひら落とした。


「心配いらない。キミはいつかきっと娼婦になる。なれるよ。だって、キミはこんなに淫蕩だもの」


 きれいな指先に顎をなぞって言われると、ほんとうに、どうしようもなく淫蕩な気持ちになってしまって、ああ、この手に、この指に、からだを触れられたらどんなにいいだろうと、黒猫は苦しくなってしまう。こんなに淫蕩なのに、娼婦になれないわたしはどうしたらいいの。ずっと、必死に眉を寄せていたのに、ほんの少し気が緩んだはずみに涙がひとつぽろんとこぼれ落ちて、結局黒猫は泣き出してしまった。


 *


 温かなまどろみから目を覚ますと、あたりは夜明け前の蒼い闇に包まれていた。瞼が腫れぼったい。手袋をしていないほうの手で目元を少しこすってから、黒猫はかたわらで目を閉じている男のほうを見た。睫毛の影が目元に落ちた男は彫像のように美しい。コウノトリ。呼んでみる。コウノトリ。答えはない。淫蕩なうずみ火はまだ残っていた。黒猫は二の腕までを覆い隠した手袋をするりと抜きやると、生まれながらに醜い右手を男の髪に伸ばした。触れる。こまやかな感触が指の間をすり抜け、黒猫は小さな花が風に震えるようにそっと、男の閉じられた瞼に唇を落とした。わたしを淫蕩にさせるこの男を、わたしはどうしたらいいんだろう。尋ねると、桜は微笑って、可憐な少女のふりをする。

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